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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

103 東武伊勢崎線・曳舟駅線路跡

2009-06-30 20:24:17 | 鉄道遺跡
 墨田区の曳舟界隈は、今大変化の最中です。京成線と東武伊勢崎線・亀戸線に囲まれた三角地帯が、大型高層マンションとショッピング・モールの建設ラッシュ。
 京成でも、東武でも、電車のつり広告に「ヒキフネに乗りませんか」(はっきりとは覚えていませんが)このような宣伝写真が踊っています。そのマンションが写真左手奥に見えます。
 この辺りは、二つの鉄道会社の路線が重なり合って、複雑な線路配置になっています。写真の中央には、かつて引き込み線がありました。東武の曳舟駅で折り返すためだったのか?
 それもすでに役割を終えたのでしょうか、すっかり線路が取り払われて、その線路跡が、ちょっと高い橋状に残っているだけです。曳舟川通りをはさんで東側にある、京成電車も高架の工事が始まって、京成曳舟駅の仮駅舎も完成間近。仮線もだんだんと敷設され、駅舎の完成予想図も掲示されています。
 「開かずの踏切」「危険な踏切」解消という、地元住民の長年の願いがいよいよ実現に向かっています。大きく様変わりする曳舟駅周辺です。
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97 貨物線・越中島線複線跡

2009-06-24 21:09:04 | 鉄道遺跡
 越中島線。「小名木川駅」が廃止されても、まだまだ健在の貨物線。「越中島貨物駅」まで伸びています。けれど、もう単線です。
 かつては、小名木川駅を出て南下、そこには、機関車などを製作していた「汽車会社」南砂工場という大きな工場がありました。そこへのルートだったのでしょうう、そこまで複線でした。今はその工場もなくなり、広大な敷地は高層の集合住宅や公立の学校に変わっています。都電の跡も緑道公園となりました。
 写真は、仙台堀親水公園と貨物線が交差するところ。
 複線だったころの橋桁が、そのまま残されています。橋桁は低く、自転車通行の場合は、頭を下げて通らなければならない鉄橋(跡)です。
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88 城東電気軌道

2009-06-15 20:44:50 | 鉄道遺跡
 亀戸浅間神社の境内に、「旧城東電気軌道(城東電車)」の線路で使われていたレールの一部が保存・展示されている。それが、この写真。神社には、もう一本残されていて、そこには、簡単な説明板が立っている。(レールは、イギリス製。)
 大正から昭和の初め、江東区・江戸川区には城東電気軌道という会社があった。路面電車(後の市電、都電)。錦糸町-水神森-洲崎、錦糸町-西荒川、荒川を挟み、東荒川-今井の3路線を運行。錦糸町駅前には、錦糸堀車庫があった(現在の丸井のところ)。
 東荒川-今井間は、1952(昭和27)年に廃止され、トロリーバス(今井-上野公園)となったが、1968(昭和43)年に廃止。

〔年表〕
1917年(大正6年)12月30日 - 城東電気軌道株式会社の手により、錦糸町 - 小松川間開業。
1921年(大正10年)1月1日 - 水神森 - 大島間開業。
1924年(大正13年)7月11日 - 大島 - 仙気稲荷間開業。
1925年(大正14年)12月31日 - 東荒川 - 今井間開業。
1926年(大正15年)3月1日 - 小松川 - 西荒川間開業。
1929年(昭和4年)5月7日 - 仙気稲荷 - 洲崎間開業(西荒川 - 東荒川間を残し、一応全通)。
1937年(昭和12年)3月25日 - 東京乗合自動車に合併。同社城東軌道線となる。
1938年(昭和13年)4月25日 - 東京地下鉄道が城東軌道線を継承。
1942年(昭和17年)2月1日 - 東京市電気局に買収され、市電路線に編入される。
1972年(昭和47年)までに順次廃止となる。

 錦糸町-小松川間(小松川線)は、京葉道路から水神森の先を右折して東南の方向へ進んでいく軌道であった。その終点「西荒川停留所」は、現在の首都高速道路下り線の真下付近。現在は、路面電車が走っていた頃の面影は全くなく、すっかり広い舗装道路となり、周囲の建物も大きな会社ビルや高層マンション、区の大規模な施設となっている。(「83旧文書庫」「85富士塚」もこの線沿線にある。)
 レールが保存されているこの神社の近く、旧中川に架かる「亀小橋」は、かつての路面電車専用の橋。この橋の上には、都電が昔走っていたというレリーフが、二つ埋められている。
 洲崎(現東陽町)線の専用軌道跡は、現在「亀戸緑道公園」「大島緑道公園」「南砂緑道公園」となっている(そのうち、二箇所は既に掲載済み。なお、「南砂緑道公園」は、かつての「汽車会社・南砂工場」跡地の一部)。
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76 越中島線跡

2009-06-03 20:49:03 | 鉄道遺跡
 1929(昭和4)年に貨物線として、新小岩-小名木川間が建設された(常磐線・金町からの延長線)。水上交通盛んだった当時、小名木川駅は隣接する運河・小名木川の水運も利用する「水陸両用駅」であった。
 戦後、越中島まで延伸、さらに、現・越中島貨物駅より先、東京都港湾局所有の専用線が、豊洲・晴海埠頭方面へ伸びていった。
 しかし、貨物の扱い高は徐々に減少し、1989(平成元)年には東京都晴海線が、2000(平成12)年には小名木川駅が廃止された。
 現在、「越中島貨物」駅を発着するのは、構内にあるJR東日本東京レールセンターから発送されるレールを輸送するため、JR東日本が運行する工事列車のみである。かつて設定されていたJR貨物による貨物列車は1997(平成9)年に廃止になっている。
 したがって、貨物駅としては既に機能していないが、現在でもJR貨物は、新小岩操車場から越中島貨物駅までの第二種鉄道事業者のままである。
 取り扱い貨物の減少等により縮小された敷地の一部は、ジェイアールバス関東東京支店として利用されている。
 1990(平成2)年までは「越中島駅」と称していたが、京葉線に新しく「越中島駅」ができたことで「越中島貨物駅」に改称された。位置的には、江東区越中島ではなく、もう少し東側の塩浜に位置する(京葉線「塩浜駅」に近い)。
 この駅付近で、京葉線が新東京トンネルから地上に出る。京葉線が地上に出た地点で、京葉下り線から保守用車両専用の乗越分岐器が設置されている。
 駅周辺には、東京地下鉄深川車両基地があり、かつて当駅から新製車両の搬入が行われたが、その跡は残っていない。
〔歴史〕(w.pediaによる)
1958年(昭和33年)11月10日 - 越中島駅として開業。貨物駅。
1968年(昭和43年)5月 - 東京液体化成品センター東京営業所が構内に完成。
1987年(昭和62年)3月31日 - 旅客営業を開始。一般駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR東日本・JR貨物の駅となる。
1989年(平成元年)2月10日 - 東京都港湾局専用線が全廃。
1990年(平成2年)3月10日 - 京葉線越中島駅開業に伴い、越中島貨物駅に改称。
1997年(平成9年)10月22日 - 東京液体化成品センター東京営業所が川崎市へ移転。工場で生産され貨車で送られてきた化学薬品を一旦タンクにて貯蔵、タンクローリーに詰め替える、という中継地として機能してきたが、コンテナ化に対応するため移転した。
 これにより、当駅発着の定期貨物列車が廃止される。一部軌道跡や鉄橋などが残っているが近年では豊洲の一部地区の再開発などに伴い次第に消えつつある。
 写真は、その線路の跡地で、豊洲方面を望んだもの。鉄道を建設・運営していた東京都が、この土地の所有者となっている。線路こそないものの、画面左側には、雑草の中に当時の鉄柵がそのまま赤茶けて見えている。
 この辺りから豊洲にかけては、廃線マニアにはたまらないポイントが、まだまだ残っている。
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62 東武亀戸線・廃駅

2009-05-20 23:20:10 | 鉄道遺跡
 東武亀戸線は、亀戸駅から曳舟駅までの3.4KMのミニ路線。この線は、一時期東武伊勢崎線の都心へのアプローチ路線として、幹線扱いだった時があります。
今のJR総武本線が総武鉄道だった時代、亀戸駅から当時ターミナルだった両国橋駅(現・両国駅)まで乗り入れていました。
〔主な年表〕(wpediaによる)
1904年(明治37年)4月5日 亀戸 - 曳舟間 (3.4km) 開業。
1907年(明治40年)9月1日 乗り入れ先の総武鉄道が国有化され総武本線となる も、乗り入れは継続。
1910年(明治43年)3月27日 総武本線への直通運転を廃止。
1918年(大正7年)3月27日 全線を軽便鉄道法による軽便鉄道に変更。
1925年(大正14年)9月4日 天神駅再開業。
1928年(昭和3年)4月15日 亀戸線全線電化。同時に中間駅として、亀戸水神駅、 北十間駅、平井街道駅(現・東あずま駅)、小村井駅、十間橋通駅、虎橋通駅が開業。
1945年(昭和20年)3月10日 東京大空襲により、虎橋通駅廃止。
1945年(昭和20年)5月20日 平井街道駅廃止、北十間駅・十間橋通駅休止。
1946年(昭和21年)12月5日 北十間駅と亀戸水神駅を移転統合、亀戸水神駅とす る。北十間駅は廃止。
1956年(昭和31年)5月20日 旧・平井街道駅の位置に東あずま駅を開業(事実上の再開)。
2004年(平成16年)10月19日 ワンマン運転開始。

 東武亀戸線は、曳舟からの延長線として越中島方面へと計画されましたが、越中島付近の敷設工事に着工する事が出来ませんでした。そこで、当時は亀戸から総武鉄道(現JR総武線)へと乗り入れ、両国までの直通列車が運転されました。
 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅的な状況になり、亀戸線の駅舎も焼き尽くされ、亀戸線の中間の駅はほとんどが休止か廃止になりました。
 
東武亀戸線が亀戸駅を出て総武本線と別れてカーブを描き始める辺りに、旧亀戸水神駅はありました。線路脇の道をたどっていくと、踏切と踏切に挟まれた線路脇にかつてプラットーホームを支えた、古レールが埋め込まれたコンクリートの台座が並んでいます。写真は、旧亀戸水神駅跡。曳舟行きの2両編成のワンマン電車が通過中です。線路脇に見えるのが、台座。
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50 東武線・隅田公園駅跡

2009-05-08 23:25:23 | 鉄道遺跡
 「隅田公園」駅。東武鉄道伊勢崎線が、都内のターミナル駅としていた浅草駅(現:業平橋駅)から浅草雷門駅(現在の浅草駅)までの延伸を果たした、1931(昭和6)年、中間駅(隅田公園への最寄り駅でもあった)として開設された。
 戦時体制が濃くなった1943(昭和18)年)に、不要不急駅整理の対象となって休止となり、そのまま営業を再開する事もなく、1958(昭和33)年に廃止された。なお、1945(昭和20)年3月10日の「東京大空襲」によりホームが焼失したこともあった。
 今も存続していれば、「墨田区役所」への、墨田区内で最短の最寄り駅になっていたはず(墨田区役所が出来たとき、この駅を復活させるという話も出ていたと思うが)。
 浅草駅を発車した列車が、隅田川橋梁を渡ってすぐの所に設けられていて、ホーム上屋を持つ高架駅で、ホームの長さも長く取られていた。急行列車は停車せず、普通列車のみが停車していた。
 廃止されてからしばらくは、プラットホームは撤去されず、そのまま放置されていた。昭和38年の航空写真には、まだそのホームがはっきりと写っている。
 東武電車で「浅草」に行くとき、このあたりでいつも電車のスピードが落ちるので、なおさら、どうしてここにホームがあるの?と鮮明に記憶している。
 かつては、高架線下には駅舎(を転用した)建物側面に、階段の跡がくっきりと残っていたが、数年前に高架下の建物がすっかり撤去されたため、駅舎の痕跡はまったくなくなってしまった。
 ただ、この写真でもわかるように、その駅舎に続いてあったと思われる、業平橋寄りの高架下の建物の一部は現存していて、窓枠にかつての駅舎の面影が残っている?(写真の左手。なお、写真は、北十間川をはさんで対岸から撮ったもの。)
 また、高架の真下にアーチ状の建物跡が残ってもいる。高架線の向こう側が、隅田公園。新緑の木々を川面に映して時を刻んでいる。
1970年代(↓)。 2010年代(↓)。
                         線路上には現在も停止用の施設があります。
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46 京成電車・白髭線、そして忌野清志郎の死

2009-05-04 19:26:14 | 鉄道遺跡
 いつだったか墨田区立緑図書館の展示コーナーの資料で、大正から昭和のはじめにかけての墨田区(戦後、本所区と向島区が合併し現在の墨田区が誕生した。したがって、当時は、まだ「向島区」)の地図を貰ったことがあった。その時に、向島から白髭橋までの京成線があったことを知った。
 その後、何回か周辺地域を自転車や徒歩で歩き回ったが、その痕跡を見つけることはまったく出来なかった。
 さらに今、八広駅から押上駅までの高架線工事が始まっていて(これは、曳舟駅付近の明治通りの踏切で大きな死傷事故が発生、それを機縁として念願だった、高架工事が本格化したものである。)、そのために沿線の家屋などが移転され、すでに線路の敷設までが行われている状況では、なおさら困難である。
 まして、街中においては、戦争でほとんど消失するような大きな被害を受け、敗戦後の復興のため、線路の痕跡は消失してしまっている。それでも、唯一、京成線の線路際に、何とかその痕跡はないだろうか。
 昭和22年の航空写真(goo)では、曳舟駅(現在地よりも、当時はもうちょっと押上寄りだった)と八広駅(当時は荒川駅)との間の線路脇には、少し空間が残っていて、京成の土地のようになっている。その後、昭和38年の航空写真では、その少し北側に車両基地のような建物が出来ている。これは、開業したばかりの都営地下鉄1号線(現都営浅草線)の「向島検修場」の姿である。現在の八広5丁目都営住宅が線路と接する辺りである。
 写真は、曳舟と八広の間の踏切から北側を撮ったもの。すでに高架工事のための仮設線路が敷かれている。このあたりに「向島駅」があったと思われる。この踏切の通りが、駅の入り口につながっていたかもしれない。
 一方、永井荷風の「濹東奇譚」(昭和11年11月)には、その年の1月に廃止された「京成玉の井」駅のようすが描かれている。当時、玉の井(現在の「玉の井いろは通り」北西側一帯)は、私娼たちの町として大いに繁盛していた。

「線路(注:東武線・玉の井駅付近の線路のこと)に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかかった土手際に達している。去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取り払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城跡のような趣をなしている。わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。眼の下には遮るものもなく、今歩いて来た道と空き地と新開の町とが低く見渡されるが……」

とあって、京成電車は、東武線を鉄橋で越えていて、駅舎は土手の上にあったようだ。荷風の登った土手や鉄橋が、戦前までは残っていたとか。今は、まったく痕跡もない。
 また、終点の「白髭」駅は、今の「白髭橋病院」(墨堤通りと明治通りの交差点付近)あたりだったらしい。
 「長浦」駅は、曳舟川(現在は埋め立てられ、「曳舟川通り」となっているが、当時はまだ用水が流れ、両側は道となっていた)を渡った所にあったらしい。現在の長浦神社の北西? これも痕跡はない、(と思う)。
 京成電車(当時の社名:京成電気軌道株式会社)は、1928(昭和3)年に白鬚線(向島 - 白鬚間1.4㌔)を開業。駅は向島・長浦・京成玉の井・白鬚の4駅。白鬚橋を渡って三ノ輪橋で王子電気軌道と結ぶ計画もあったが、1936(昭和11)年2月末に廃止された。その後、「向島」駅も、1947(昭和22)年に廃止となった。
 白髭線開通当時、向島駅周辺には、南竜館という映画館や商店街(南竜館商栄会)があり、現在、線路沿いにある大きな団地(八広5丁目都営住宅)の所には、ミツワ石鹸の工場があり大い賑わっていたとのこと(緑図書館の資料にもあった)。
 現在、映画館はなく、西側はほとんど商店もなくなり、京成の線路を越えた東側にある商店街も当時の面影はなく、普通の民家も増えて、寂しい街並みになっている。
 なお、駅廃止後の跡地は、京成電鉄の所有地であるため、直接・子会社を含め、たびたび利用されている。
1959(昭和34)年頃、改軌工事に伴う車両の台車交換基地として。
1960(昭和35)年~1968(昭和43)年  向島信号場を設置(都営浅草線向島検修場への信号場)
1991(平成3)年~2001(平成13)年 押上線荒川橋梁架け替えに伴う作業基地として。
現在は、八広~押上の高架線工事区間。おそらくこれで、向島駅の痕跡もまったくなくなる。

※忌野清志郎が、亡くなった。
 僕は、ロック系の音楽にはあまりなじみがない。
 しかし、いつだったか、野田秀樹の芝居(たしか『パンドラの鐘』)を観たとき、開演前にこの人の「君が代」が、延々と流れていた。かすれた声で(これは、そうとう声帯に負担がかかっているだろうな、ポリープでもできなければいいが、などと、聞いた瞬間に余計な心配をしてしまったが・・・)歌ったあの歌には、どっきとするような迫力があった。
 野田がこの曲を流した意図や忌野の意図がどこにあったかは定かではないが、ああいう歌い方の中で、天皇ヒロヒトとその息子に対して、「ホントウに、君(たち)が(の)代(時代)なのか」という強烈なメッセージが含まれているように思った。
 これを書きながらも、今でも、あの歌い方での「君が代」が耳に残っている。
 学校で「強制的」に「立たせ」て「歌わせる」(もちろん、「国歌斉唱」だし、「強制ではない」し、「立って」だし、「歌う」のだ、と反論するむきもあるだろうが)「君が代」よりもはるかにインパクトがあった。惜しい男を亡くした!
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45 東武貨物引き込み線跡と船着き場

2009-05-03 20:12:03 | 鉄道遺跡
 かつて、北千住駅を出た東武線が牛田駅に近づく手前に、隅田川に向かう引き込み線がありました。線路は、墨堤通りを横切っていました。隅田川から水路が入り込んでいて、鉄道輸送と船輸送とが一体となった、下町の中でも、大きな工業地域を形成していたようです。
 今は大型民間マンションの一角にある公園に、1942(昭和17)年に建立された「区画整理」の記念碑があります。それによれば、関東大震災以後に区画整理をしたことが記されています(せっかくの記念碑。表面はかなり薄れ、一面にいたずら書きがされていて、判読するのが困難な状態)。小学校(現千寿第八)が出来、その東側と西側に碁盤の目のように区画された「工業団地」(今風に言えば)が造られたとのこと。
 東武線から分かれた引き込み線が二本。一つは工場の中に進み、もう一つはそのまま隅田川に進み、その先は、またいくつかに分岐します。戦後も、けっこう活発な工業地域だったようで、昭和30年代後半までは、存在していました。
 その後、次々と大きな工場が移転され、辺り一帯は、都営の団地と民間の大きなマンション(これは比較的新しい)に変わりました。それでも、未だに手つかずのままの広大な土地が残されていますが。
 隅田川の入り江も埋め立てられ、その面影はありません。正面の舗装された道路が、まっすぐに隅田川に向かって、坂のように上がって伸びています。船着き場は、少し下流になりますが、水上バスの乗り場になっています。
 二本の鉄道線路も撤去されて、一本は、団地の中に消えています。マンションの南側にアーチ状に造られた遊歩道が、その線路跡の一部を生かしたように見えます。
 もう少し牛田駅寄りには一本の引き込み線がありましたが、これは、今でもその痕跡が残っています。「岡田商事千住工場」への引き込み線の跡です。写真がその部分。歩道の所に残っています。左手に見える道路が、墨田区役所付近から隅田川の土手沿いに北上する、墨堤通り。
 線路は、そのまま工場の中に入っていきます。その先は、立ち入り禁止となり、中がどうなっているか、分かりません。勿論、現在は、使われていません。
 公害問題などで、下町の工場が次々と郊外へ移転しました。この地域も、大きなマンション・団地か、フットサルのコートなどになっています(かつては、アミューズセンターでしたが)。
 けれども、東武の牛田駅と京成の関屋駅は昔のままの位置にあります。すぐ近くにあって、駅名がまるで違う!ちょっとめずらしい感じがします。
 二つの駅の間にある、「立ち食いそば」屋さんも健在でした(前は、その隣に普通のそば屋さんがありましたが、なくなっていました)。
 
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44 「亀有日立」引き込み線跡

2009-05-02 20:23:29 | 鉄道遺跡
 JR亀有駅の北東に日立製作所の亀有工場がありました。「亀有日立」と地元の人は呼んでいました。地名では、足立区大谷田から中川一帯になります。その大きな工場が土浦に移転し、跡地が大谷田団地と大きな公園になりました。西新井に向かう環七が、大きく西にカーブするあたりになります。
 この「中川公園」は、下水道局中川処理場の上に設けられた広大な、緑の多い公園です。隣には、建設残土改良プラントの「土作りの里」があります。これらの諸施設は、みな、日立製作所亀有工場跡地に建てられたわけです。現在でも、近隣には日立関連企業がいくつも操業しています。
 1938年(昭和13)年、日立製作所亀有工場が足立区大谷田町、現在の大谷田団地および中川下水処理場一帯にできました。最盛期には2万人以上の従業員が働いていたという巨大な工場だったといいいます。戦時中は、この工場で戦車など兵器が作られ、ここから戦地へと運ばれて行った、とも。引き込み線の日立亀有工場線ができたのも戦時中のこと。
 戦後も、重機などの製造工場として存続していましたが、高度経済成長期に入ると、公害防止などを理由に、都内にある大規模工場の地方移転が相次ぎました。日立亀有工場もその例外ではなく、1974(昭和49)年に土浦工場と統合し、操業を停止しました。
 その引き込み線の跡が、まだ残っています。それが、この写真。現在高架線となったJRが、亀有駅を出発して金町に向かうすぐのところです。
 目の前の住宅が、周りの住宅(特に右のマンションの向き)と違っていることにお気づきでしょうか。この住宅の向こうにも、北西方向に住宅が並んで建てられているのです。その数、10棟ほど。それもカーブ状に並んでいます。航空写真で見ると、もっとはっきりします。まるで貨車が連結されているかのようです。右のマンションと左側にある住宅との間に、引き込み線があったわけです。(実は、ここは、廃線探求マニアには、超有名な場所。)
 なお、この引き込み線の廃止を惜しんで、「JR大谷田線」応援団などもあるそうですが。もちろん、架空の鉄道路線です。


1970年代のようす。線路は撤去されましたが、整地中。常磐線はすでに高架になっています。


2010年代のようす。その跡に家が建ち並んでいます。まるで貨車のように連なっています。
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20 鉄橋除去工事

2009-04-08 22:38:48 | 鉄道遺跡
 現在の水元公園(小合溜)からの農業用水の流れ。1947(昭和22)年9月、キャサリン台風の時にこの用水の源であった小合溜(桜堤)付近が決壊して高砂、小岩、さらに南へと大きな被害をもたらしましたことがあります。
 この用水は、西南に流れていき、現在の「大堰枠」という信号付近で小岩への水路を分岐し、中川の左岸沿いに流れていき、現在の中川と荒川との合流点辺りまで通じていました。かつてこの地域に広がっていた田畑を潤す、重要な水資源としての役割を果たしていたわけです。田んぼの中の水路は、行く先々で分岐し、南下していきました。
 その基幹水路(?)だったものが、現在、大きな立派な道路に変貌しています。途中、金町から新小岩へ向かう貨物線(新金貨物線・現在も使われています。)を越えます。
 もうすっかり川は埋め立てられていて、そこにかかる鉄橋の除去工事が行われています。ここからしばらくの区間(数百㍍ほど)がでこぼこ道。川もまだ埋め立てられたままで、雑草が生え、道にはなっていない状態。たまたま自転車で通りかかった近所の二人連れ、「なんでここだけこうなのかしら」とつぶやきながら、通り過ぎていきます。
 写真は、そのようす。除去した後は、踏切にするのでしょうか。陸橋にでもするのでしょうか。けっこう期間が長く続いている工事のようです。めったに目にするシーンではないので、パチリ!(携帯電話でですが)。
 もともとこの路線。単線ですが、複線化する構想があったのでしょう、鉄橋なども線路こそないものの、複線対応。そのために、この工事現場でも、コンクリートの土台を壊したりなにやらで、思いの外、時間がかかっているのかもしれません。
 車道になった道はさらに南下し、二手に分かれます。新しい舗装道路は、西に向かって中川橋を越え、環七へ通じる走りやすい道(旧水戸街道と重なるかたち)と合流します。もう一つは、水戸街道(国道6号線)に通じています。水戸街道の先も舗装された広い道路となって、用水路としての姿・形はすっかりなくなっています(これは、旧佐倉街道と一部が重なっていきます。)こうしてその先、以前の水路は、新中川ができた時、その流れに吸収されてしまったようです。
 葛飾区内では、今、道路となっているものの中には、もともと下町の近郊農業を支えた、農業用水路であったものが多いのです。碁盤の目のように区画された流水地域には、すっかり田んぼも畑もなくなって、住宅地になってしまっています。まさに歴史に埋もれるものたちと言ってもよいでしょう。
 
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