おやじのつぶやき

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横川~熊ノ平。アプトの道。その4。(旧中山道をゆく。第9日目。番外編)

2016-03-28 21:09:54 | 鉄道遺跡
 「10号トンネル」を抜けると、「熊ノ平」。「熊ノ平」は信越本線が当初単線で会った期間、横川~軽井沢間で唯一の平坦地でした。「熊ノ平」駅で上下線の列車が待ち合わせてすれ違いをしていました。その頃の熊ノ平駅は、行楽の季節には乗降客で賑わっていましたが、信越本線が複線化すると、熊ノ平駅は変電所の機能を残して、駅の期の王は必要とされなくなりました。現在は、「アプトの道」の折返し地点となっています。

手前、左手広場に「熊ノ平殉難碑」があります。

 この殉難碑は昭和25年6月9日早朝、突如として山くずれが起こり、一瞬にして埋め去られた職員と家族の50のみたまを末長くまつるため、全国の国鉄職員から寄せられた浄財で設立されたものであります。
 設立当時は線路の反対側にありましたので、参拝するためには線路を横断しなければならず、危険かつ不便なので、昭和43年12月現在地に移設しました。
 しかしながら現在のみたまには雨雪にさらされ誠に忍びない状態にありますので、今回ささやかながら霊堂を建立して、みたまをおなぐさめ申し上げることにした次第であります。

 昭和44年11月 高崎鉄道管理局

ここで「新線」(複線)と単線が合流します。

レールも架線もそのまま残り、西(軽井沢方向)へ向かっています。

                        「熊ノ平」駅の遺構。
    

信号機。

               

熊ノ平駅
 熊ノ平駅は、碓氷線が単線であったため、上り列車と下り列車のすれ違いと、蒸気機関車への給水、給炭の目的で設置されました。
 碓氷線は幹線鉄道でありながら、その急勾配ゆえアプト式よいう特殊運転方式をとらざるを得ず、動脈に出来た血栓のように隘路になってしまう宿命を負っていました。このため碓氷線には常に輸送力の増大が求められ、新技術の投入によって解決が図られ、熊ノ平駅も待避線の設置や突っ込み隧道の設置などの改良が加えられました。
 碓氷線は急勾配のため、隧道が煙突の役割を果たし、煤煙によって乗客や乗務員が大変な苦痛を強いられました。この煤煙問題の解決と輸送力増大のため、明治45年、我が国の幹線鉄道として初めて電気機関車が導入されました。
 その後、昭和38年アプト式の旧碓氷線の廃止と同41年の碓氷新線の複線化により、熊ノ平駅は信号場に降格となり、平成9年の碓氷線の廃線とともにその使命を終えました。
 熊ノ平駅周辺は、モミジの名所としても知られ、文部省唱歌「紅葉」は作者の高野辰之がこの周辺の紅葉を詠ったと云われています。

 安中市

 ここに出てくる「紅葉(もみじ)」は今でも歌いつがれている名曲です。

「もみじ」(高野辰之 作詞、岡野貞一作曲) 

1.秋の夕日に 照る山紅葉
 濃いも薄いも 数ある中に
 松をいろどる 楓や蔦は
 山のふもとの 裾模様

2.渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
 波に揺られて 離れて寄って
 赤や黄色の 色さまざまに
 水の上にも 織る錦



 高野辰之作詞の唱歌は「故郷」、「朧月夜」、「春がきた」、「春の小川」など今も口ずさまれています。。

「アプト式開通の碑」。

    
   軽井沢方向を望む。                        横川方向を望む。

 かつて賑わっていた「熊ノ平」駅付近の写真が掲示されいます。

    

突っ込み隧道?  

横川駅前にある「動輪」

    
 全国JR路線のなかで、最大の難所と言われた信越本線 横川~軽井沢間のシェルパとして平成9年9月30日まで活躍した「EF63―3号」機関車の動輪です。

横川駅構内にある「アプト式レール」。

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