おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その2。(「佐倉街道」をゆく。第3日目。)

2019-04-15 19:38:34 | 佐倉街道
                             満開のサクラ。

「馬出し空濠」。
 城門前に築いて人馬の出入りを敵に知られぬようにした土手が馬出しであります。
 この空濠は、明治初期より連隊造営のため埋めたてられていたもので、昭和46年から2回にわたる発掘調査により、長辺121m・短辺40mのコの字型、深さ5.6mの規模と確認されました。
 復元にあたっては長辺、短辺はそのままとし深さは約3mとしてあります。
          

      



サクラが咲き誇っています。その下で記念撮影のようすも。

  

(10:43)さて小休止して、成田に向け、出発です。

                      

けっこうな上り坂。「海隣寺坂」。
                         坂上にある「海隣寺」に因んだ坂。

格子がすてきなおうち。

坂上から振り返る。 

(10:50)「ヤマニ味噌」。我が家ではなじみ深いお味噌。

ヤマニ味噌のこだわり
■素材選び
お味噌の原料は米・大豆・塩・水と、大変シンプルです。
そのシンプルさゆえ、原料選びに妥協すると即味に反映されてしまいます。
「出来上がる味噌を想像し素材を見極める」経験に裏打ちされた職人にのみ出来る匠の技です。
菜の花みそ、胚芽米入りみそ、ちばの恵は、厳選された国産大豆・国産米・国産塩を100%使用しています。
仕込み水には、創業当時より使用している地下30メートルから汲み上げる清冽な地下水を利用しています。

■代々受継がれる伝統的製法
ヤマニ味噌の味噌造りに妥協はありません。
雑味のもととなる大豆の皮を研磨して使用し、最高の状態で熟成させるため、“蒸し”と“煮”の両工程を、職人の経験と勘を頼りに絶妙のタイミングで行います。
お味噌の大豆は蒸すか、煮るかのどちらか一方のみを行うのが一般的ですが、それぞれの良さを引き出すために両工程をあえて行います。
これがヤマニ味噌に代々伝わる仕込方法「半煮半蒸し製法」です。
仕込み桶には古いもので百年以上使用している四トンの杉大桶を使用し、熟成発酵を促進させるため、熟成途中で天地返し(別の木桶への味噌の移しかえ)を行います。
どれも手間のかかる作業ですが、手間を惜しんで美味しいお味噌は出来ません。
代々受継がれる伝統的製法と味噌造りに対するプライド。
全ては「昔ながらの美味しいお味噌」を造るためのこだわりです。

■ヤマニ味噌だけの味
近年のお味噌は人工的に培養した酵母を添加することが一般的になりつつあります。
そうすることで味噌の香りは際立ち、洗練された味のお味噌が出来上がります。
しかしその反面、どのお味噌も似通った風味になり、味噌蔵独自の個性(蔵ぐせ)が失われてしまうと我々は考えています。
ヤマニ味噌は洗練された味のお味噌は造りません。
人工的に培養した酵母は一切添加せず種味噌の力のみで発酵熟成させています。
他では味わえないヤマニ味噌だけの味、昔ながらの味造りを我々は目指しています。
 (「」HPより)

「吉田書店」。赤い円形ポストが懐かしい(市内ではけっこう見かけます)。

宿場特有の間口が狭く、奥行きがある敷地。

通りには歴代の城主の名前が記された幟が。

「新町」交差点を左折します。右手は「旧平井家住宅」。

角に「佐倉町道路元標」の石柱。

この付近から東が宿場の中心街。

       
旧城下町(新町)の概要

旧城下町の明治時代の様子
 佐倉市は首都圏50㎞の千葉県北部に位置し、市街は印旛沼につながる低地と、下総台地、および両者をつなぐ傾斜地からなっている。台地の高さは約30mあり、低地の中央を西流する高崎川が鹿島川に合流して印旛沼に注いでいる。
 元和3年(1617)、時の佐倉藩主であった土井利勝が城郭を完成させ、以来、江戸幕府の要職に就いた徳川氏譜代の大名が佐倉藩に封ぜられた。
 明治4年の廃藩置県に至るまでの約250年余、十家20名の藩主が城主になり、房総の雄藩として城付の所領6万石を基本に、入封する大名によっては他国に多くの飛地を持ったので、それらを合わせると大体10万石前後の中藩であった。
 佐倉城下町は、それまでの「鏑木村」の中の馬の背のような台地(鹿島山とか鹿島台地と呼んでいた)に全く新しくつくられたもので、築城後に城下町が形成されたという特徴がある。鏑木村の集落は、台地を挟んで南北に分断されることになり、鏑木という地名が商家町のある台地両側に存在する事になった。
 城下の町としては、田町、佐倉新町、弥勒町、本町、本佐倉、酒々井町を佐倉六町として町奉行支配下に置いた。これらは全て一本の街道でつながる町で、距離的にかなり離れた町まで入っている事になる。
 佐倉新町は横町、上町、二番町、仲町、肴町、間の町で構成され、その敷地割の特徴は、間口2間3尺、最大で14間3尺、多くは5間程度、奥行きは20間~30間程度の、矩形型の敷地が街道に沿って並んでいた。
 この新町のみが商工業者を住まわせるため意図的に造った町で、城下町としての中枢部分であった。「佐倉新町江戸まさり」という言葉が伝えられているが、江戸時代後期には、江戸に勝るとも劣らないほどの町屋が立ち並んでいた様子を表したものだと言われている。
 田町は元々「椎の木」という地域に住んでいた住民が、築城によって強制的に移転させられたという伝えがある通り、新町に対して本来の町はここであったとも言われている。特に職人たちの多くはこの田町に住居を構えていたようである。
 商店の種別としては、武家の需要を満たしていた衣類、文房具、小間物などは田町、海隣寺門前町、横町、上町、二番町、仲町に多く、魚商は肴町に集まっていたようである。ただ佐倉においては高級呉服などの店は少なかったようで、江戸に近いという地理的な要素もあって高級品の多くは江戸に依存していた。
(この項、「」HPより)

「上町」。

(11:03)「蔵六餅本舗木村屋」。
佐倉銘菓 蔵六餅本舗 木村屋
 明治15年、銀座木村屋の2号店として、千葉県佐倉市でパン屋として創業した佐倉木村屋。現在は、和菓子店として、今も老舗の伝統と味を守り続けています。佐倉銘菓「蔵六餅」の他、四季折々の和菓子は、地元佐倉の皆様はもちろん、全国のお客様からご好評頂いております。

蔵六餅 
 佐倉藩主堀田家には、三百年の昔から、上面に亀の甲を曝した様な五彩混ざった地肌の一奇石が、「蔵六石」と称され、伝えられています。「蔵六餅」は、この家宝にちなみ、昭和29年佐倉が六町村合併して市制開始した折に、佐倉市が亀のように末永く発展しますようにと願い込めて発売した餅入り最中です。以来、佐倉銘菓として、同じ味を守り一つ一つ手作りでお作りさせて頂いております。当店独自の粒あん、こしあん、白あんの三色三種類がございます。
              (「蔵六餅本舗木村屋」HPより)

通りをはさんでこちらにも商家。

「三谷屋呉服店」。創業:寛政年代(1789年から1801年)。

「市立美術館」。正面は、大正時代に建築された「旧川崎銀行佐倉支店」。

 川崎銀行は、江戸時代水戸藩勘定方を務めた<川崎八右衛門>が、明治13 年に設立した銀行で、明治中期頃には有力銀行の一つに数えられた。東京日本橋にあった川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調とした当時の銀行建築の代表的建物で、現在明治村に正面玄関部分の一部が復元されている。
(この項、「」HPより)

「高札場」。内容は明治初期のものか。太政官布告 「阿片煙草ハ人ノ精気を耗し命数を縮め・・・
 また、現代の掲示板的な内容も。
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京成本線「佐倉」駅~「成田」駅。その1。(「佐倉街道」をゆく。第3日目。)

2019-04-12 19:57:50 | 佐倉街道

 4月9日(火)。このところ連続して土・日に出かけることが続き、平日に。
 快晴。佐倉街道(成田街道)歩き。3日目。この先、佐原まで歩く予定。今回は、成田まで。  

 今回。佐倉城址にある「歴博」を見学して、ということで、開館時間(9:30)に合わせてやってきました。
街道はお濠脇から左手に進み、「新町」交差点(○)を左折します。

                         

その前に、「歴博」へ。 

歴博」。正式名称「国立歴史民俗博物館」は、日本の歴史、民俗学、考古学について総合的に研究・展示する歴史博物館。佐倉城趾の一角にあり、周囲は広い公園になっています。



                  田町門跡・愛宕坂」解説板。
 成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は、椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町門から歴博に上がる坂は、愛宕坂神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入りできるよう変更されたものです。

右手に「臼杵磨崖仏」のレプリカ。

 「田町門跡」解説板にあるように、戦前、「佐倉連隊」がありました。
 明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清、日露戦争にこの地から出征されました。明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第57連隊が移転し、昭和19年のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅しました。

 佐倉には徳川幕府時代、約250年間江戸の守りとして佐倉城があり、明治・大正・昭和の約70年間、首都東京防衛の要としての歩兵佐倉連隊の兵営が置かれていました。
 佐倉城は幕末、佐倉藩堀田氏11万石の居城でした。明治維新の廃藩置県の後、佐倉城は、明治政府の方針により陸軍の兵営に転用されることになります。
 佐倉城は解体され、城内に住んでいた士族たちは移転させられました。階段状の武家屋敷は平坦地として造成され、連隊本部や兵舎、兵器庫、弾薬庫、厩舎、酒保、病院、練兵場などの兵営が設置されました。
 日本最初の軍隊である歩兵第2連隊第1大隊が、佐倉に入ったのが、明治7年(1874年)5月19日でした。歩兵第2連隊は、西南戦争、日清戦争、日露戦争へと出征します。
 明治42年(1909年)歩兵第2連隊が佐倉から水戸へ転営となり、変わって、歩兵第57連隊が習志野の仮営所から佐倉へと兵営を移します。歩兵第57連隊は、第1次世界大戦に出征、関東大震災及び2.26事件に出動、満州及び支那事変に出征、第2次世界大戦へ出征します。
 戦争の進展にともない、佐倉の兵営からは臨時的な部隊が次々と編成され、中国や南方へと出征し、本土防衛に派遣されました。
 昭和20年(1945年)8月15日に終戦を向かえ、戦争の時代はやっと終わりを告げました。
 歩兵佐倉連隊は、歩兵第2連隊や歩兵第57連隊、歩兵第157連隊、歩兵第212連隊、歩兵第270連隊の他に、臨時編成された歩兵連隊など、12連隊に及びます。連隊の中核となった千葉県出身の戦死者は、この間実に57000余名に達したと言われています。連隊の通常編成は3000人でしたから、この戦死者の数は、想像を絶するものがあります。満州出征から終戦までの佐倉の兵営は、兵士を戦場へ送り出す為の、徴兵から訓練、演習、派遣まで一貫して行う、兵士製造工場ともいえる状況でした。現在、佐倉連隊の兵営跡地には、国立歴史民俗博物館が建ち、佐倉城址公園として、佐倉市民の憩いの場所となっています。

歩兵第2連隊の佐倉での歴史
1.明治6年(1873年)1月、太政官布告で、東京鎮台に東京(歩兵第1連隊)、佐倉(歩兵第2連隊)、新潟(歩兵第3連隊)の3営所の設置が決定する。佐倉の兵営建設は1年余りで完了する。
2.明治7年(1874年)5月、日本最初の陸軍歩兵第2連隊第1大隊が、東京から2日がかりで行軍し、佐倉の兵営に入る。
3.明治10年(1877年)2月〜10月、西南戦争へ出征する。
4.明治17年(1884年)6月、第2大隊が宇都宮から佐倉に転営し、第1大隊と合流する。
5.明治27年(1894年)9月〜明治28年(1895年)6月、日清戦争へ出征する。
6.明治37年(1904年)3月〜明治39年(1906年)2月、日露戦争に出征する。
7.明治42年(1909年)3月、歩兵第2連隊が佐倉から水戸の新兵営へ移る。

歩兵第57連隊の佐倉での歴史
1.明治42年(1909年)3月、歩兵第57連隊が習志野の仮営所より佐倉へ転営する。
2.明治42年(1909年)〜大正5年(1916年)、朝鮮守備に派遣する。
3.大正3年(1914年)8月〜大正4年(1915年)4月、第1次世界大戦に派遣する。
4.大正5年(1916年)8月〜大正11年(1922年)5月、青島守備に派遣する。
5.大正12年(1923年)9月、関東大震災に警備出動する。
6.昭和11年(1936年)2月、2.26事件に警備出動する。
7.昭和11年(1936年)4月〜昭和19年(1944年)8月、満州へ出征する。昭和16年(1941年)の連隊の兵力は、約4500名です。
8.昭和19年(1944年)2月〜8月、歩兵第57連隊第3大隊をグアムへ派遣、628名が玉砕する。
9.昭和19年(1944年)8月、歩兵第57連隊の主力部隊がレイテ島へ転戦する。40日間の持久戦の末、12月に全滅状態に。レイテ島へ転戦した兵力は、約2500名で、この戦いの生存者は91名であった。
10.昭和20年(1945年)1月、セブ島へ168名が転戦する。
11.昭和20年(1945年)8月、敗戦。歩兵第57連隊の生存者の帰還は、僅か118名であった。

(以上、「YAMAJIさん」HPより)

                        



                        

                           



1880(明治13)年代のようす。連隊の施設がある。
                    上のお濠沿いの道が「成田(佐倉)街道」。左は印旛沼に続く湿地帯。



2010年代のようす。中央の建物が「歴博」。南に「佐倉東高」など。
                   印旛沼南方の湿地帯は干拓され、田畑や宅地に。

椎木曲輪(侍屋敷)」。
 歴博があるのは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区で、連隊時代は兵舎がありました。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社がありました。

「歴博」館内に入ります。入館料600円。
 人類の登場から近現代まで館内を巡ることで歴史、民俗を知ることができます。縄文時代の石器、鉄器、土器などたくさん展示され、説明なども丁寧。
 古代人の生活、一生。環濠集落などのようす、埋葬による古代人の死生観など、具体的な発掘資料の展示(複製)やをもとに、視覚・聴覚に訴えた解説が豊かです。さらに時代を下っての政治、文化、生活などを詳細な資料展示がすばらしい。外国との関係も詳しい。半日いても回りきれない。先を急ぐので、近・現代を見学せずに、1時間20分ほどで切り上げ。次回はここだけに絞って来館するつもりです。写真撮影OK(但しフラッシュはダメ)



   
                       館内から公園の桜並木を。

                   「城址公園」を歩くことに。
      
   
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新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その5。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-04-02 18:50:10 | 佐倉街道
                               左手の高台に「江原刑場」跡。
 しばらく進むと、「八丁坂」のゆるやかな上りになります。しだいに右手が大きく開けてきます。
広大な宅地造成中。かつては鬱蒼とした雑木林だったようです。西南を望む。

「江原刑場跡」解説板。かすれて読みづらい。
 大きな「題目供養塔」を中心に広場になっています。

 国道296号線を臼井から佐倉方面へ向かうと八丁坂に至ります。
 坂をのぼっていくと、左手に「南無妙法蓮華経」の髭題目を棹石に大きく深く刻み込み、台石に「法界」「講中」と刻んだ供養塔があります。
 これは寛政8年(1796)9月に法華宗の題目講中により造立されたものです。 成田道の道筋に面したここは佐倉城の西端にあたり、八町森と呼ばれ、佐倉藩が罪人の処刑を行った刑場跡です。
 また、この地で、天保14年(1843)に佐倉藩医で蘭方医であった鏑木仙庵らによって、刑死者の腑分け(解剖)が行われました。 このような解剖が行われたのは佐倉藩では初めてのことであり、全国的に見ても早い時期のものと考えられます。
(この項、「」HPより)

 ここは、心霊スポットとして有名らしい。

ここから佐倉の入口「鹿島川」までけっこう歩きます。振り返る。



                  


古民家を利用したカフェ「せん」。

「鹿島川」に向かってゆるやかに下っていきます。

屋根が重厚なおうち。

 ただし、現在は黒線の通り、直線になっていますが、旧道は赤線のように屈折していました。また、鹿島川は大きな湿地帯の中を「印旛沼」に流れていました。

1880年代のようす。佐倉城下の旧道も現在と異なって屈折しています。


2010年代のようす。橋の位置はほとんど変わっていません。

「鹿島川」を渡ると、「佐倉城」下町へ。

                     



京成電車が通過中。
鹿島川
 千葉市緑区の千葉市昭和の森公園を水源とし北流し、西印旛沼へ注ぐ。佐倉市の中心河川で、戦国時代から江戸時代にかけては高崎川とともに佐倉城の天然の外堀として利用されていました。河川名は築城主であった鹿島幹胤の名にちなんだもの。

橋のたもとに「祠」。

右手高台の森は「佐倉城」(現「佐倉城址公園」)。

 佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。
 戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤[1]に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
 1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。
 城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。
 明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。
 1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
 本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。

 今回はここまで。佐倉城(城址公園)の見学は後日にして京成佐倉駅に向かいます。


駅前の観光案内。
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新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その4。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-04-01 20:44:54 | 佐倉街道
                              「雷電為右衛門」の手形。

「手繰橋」を渡ってすぐ左の坂道を上ります。

                                  

「臼井台」の住宅地をくねくねと上っていきます。

坂を上りきったT字路に道標があります(↓)。
 


 
「(正面)右 成田ミち (右面)左 江戸みち (左面)西 さくば道」
「(裏)文化丙寅歳正月二十八日 願主 新吉原仲之町 伊勢屋半重郎  宿 太田屋」

文化丙寅(3年)= 1806年 

右折した先に「雷電為右衛門顕彰碑」の案内板があります。
 江戸時代の寛政から文化年間にかけて無敵を謳われた名大関雷電為右衛門(1767~1825)の等身大(1㍍96)画像に佐久間象山(1811~64)府での11文字を配した巨大な顕彰碑が妙覚寺(この奥に入る)境内にあります。
雷電没後153年の命日に因んで建立されたものです。

 案内に従って坂道を下って行くと、
 
雷電為右衛門 相撲史上不滅の足跡を残した古今の最強力士
 生誕 明和4年(1767)1月、信州小県郡大石村(現長野県東部町大石)
・・・28歳以来、16年間2場所大関を張る。21年間34場所254勝10敗 引き分け・預かり・無勝負など、勝率96.2㌫。 
 最盛期の身長6尺5寸(1㍍97㌢)体重45貫(168.7㌔)
 妻おはん(八重)はここ臼井の旧浄行寺(現妙覚寺と合併)の檀家飯田家の甘酒茶屋「天狗」の看板娘であった。結婚後、2人の間に女児1人をもうけるが幼くして亡くす。
 引退後、妻の郷里ここ臼井で静かに過ごした。・・・

 街道に戻って、今度はけっこう急な坂を下り(先が見えないほど)、「国道296号線」に合流し、左折します。
 

来た道を振り返る。

       「臼井台」。

国道といってもそれほど交通量の多くない道を進みます。

途中には、「雷電夫人おはんの甘酒茶屋あと」説明板。

「臼井宿」となります。

道がT字路にぶつかる左角に「明治天皇臼井行在所」碑。

「臼井町の道路元標」。 
臼井町道路元標
 明治6年に新政府は諸街道の正確な延長を調査するため、道路里程調査を行なった。東京は日本橋、京都は三条橋をもって、国内諸街道元標とし、各府県へ里程を示す木標を立てるように命じた。
 やがて、大正11年には内務省令で、道路元標の設置場所、規格材料まで細かく規定し、各市町村の枢要な場所に元標が設置されるに至った。尚、この元標は道路新設のため、向かって右側約7㍍の地点より現在地に移設されたものである。

こちらの解説板は赤茶けて判読不能。

「中宿」付近を振り返る。

京成電鉄の踏切を越えます。

京成線に沿って進みます。


1880年代のようす。北側は広大な印旛沼の湿地帯。南の台地の縁を進む。


2010年代のようす。現在もほぼ旧道に重なる。○が道標の設置場所

竹林。街道沿いには竹藪がめだつ。

                      
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新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その3。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-03-29 19:34:36 | 佐倉街道
                            (10:55)「国道16号線」をくぐります。
 「国道16号線」は関東エリアの街道歩きではたびたびお目に掛かります。

■横浜を起点に町から町へ。関東圏をリング状に結ぶ幹線道路。
 現在の国道16号は、全長約331km。横浜市を起点に、八王子市、大宮市、千葉市、木更津市、横須賀市を経て、再び横浜市に至る環状道路になっています。この経路は1962年に、路線指定されました。
 都心より半径30km圏を走るこの幹線道路沿いには、国際貿易港やコンビナート、流通センターなどが多く、コンテナ等を積んだ大型車が頻繁に行き交います。その光景からも、国道16号は、わが国の産業の発展を支える象徴的な道路のひとつと言えます。
HPより)

 木更津、相模原、横田、横須賀と米軍基地(あるいは自衛隊基地)を結ぶ「軍用道路」というイメージが強いのですが。幹線道路だけあって、交通量は半端じゃありません。

 なお、東京湾口に海上区間があり、観音崎(神奈川県横須賀市) - 富津岬(千葉県富津市)間は、海上を代替のフェリーで結ばれることにより、環状道路を形成しています。

 起点と終点が同じ国道は、全国で二本しかないようです(この場合、横浜)。
 もう一本は、「国道302号」=名古屋環状2号線と呼ばれる外環道路で、起点と終点が名古屋市中区。


(10:57)すぐ左手にりっぱな長屋門のあるおうち。

その先にもしゃれた門構えのおうちが。


京成「勝田台」駅・東葉高速鉄道の終点「東葉勝田台」駅が右手に。
                                   雨も激しくなってきて、雨宿りがてら昼食を(11:10)。

あまりなじみのない「東葉高速鉄道」。「路線図」。

都心にも通じているようです。

 再開。(12:00)しばらく進んだ左手に常夜燈や道標が建っています。
解説板。
成田道道標と常夜燈
 これらの石塔群は、成田山新勝寺に参拝する旅人のために建てられたもので、向かって右側の道標は、歌舞伎の名優である七代目市川團十郎が、天保2年(1831)に建立し、ここから北150㍍に所在する加賀清水を「天はちち 地はかかさまの 清水かな」と詠んだ句と成田山への信心が記されています。
 中央の道標は、明治27年に信集講社の岩田長兵衛が建てたもので、成田街道沿いに5基確認されています。
 左側の道標は江戸の豪商・古帳庵夫妻が天保11年(1840)に大和田原の情景を詠んだ自作の句を刻んで建てられました。3基の道標は、当初は現在の場所から西側の道路角にあったものを移設しました。
 中央奥の常夜燈は、文政10年(1827)に加賀清水の水を汲み、茶を振る舞って繁盛していた林屋の前に建てられ、今も当時も同じ場所にあります。林屋は、『三峰山道中図絵』(明治4年)に描かれ、「御贔屓の惠も厚きはやしやと人にたてられ石の燈籠」と詠まれており、当時の賑わいがうかがえます。
                          

《補足》
右側の道標
・正)成田山道 是より北へ半丁清水原中有
 右)天はちち地はかかさまの清水可那 七代目市川団十郎敬白

中央の道標
・正)成田山     信集構社内 岩田長兵衛
 右)大和田□里 いの新田
 左)うす井□里 いの新田

左側の道標
・古帳庵・古帳女の句碑
正面)船橋へ四里 成田山五里半
春駒やここも小金の原つつき    江戸小網町 古帳女
立ちとまりたちとまる野や舞雲雀     古帳庵

(この項、「旧成田街道・・・・沿道にある石造道標一覧」HPより)

 注:現在の「加賀清水」は、この手前の路地を奥に進んだところにあるようです(「加賀清水公園」)。

市川団十郎と成田
・・・
 市川団十郎と成田の関わりは,下総国幡谷村(現成田市)に曽祖父堀越十郎が移り住んだことからと考えられている。十郎は,もと甲斐国武田家の家臣で,のちに相模国小田原城の北条氏康の家臣となった。その後小田原落城(1590(天正18)年)後に幡谷に移り農民となった。その後,十郎の子の重右衛門が継いだが,その長男重蔵は農業を嫌い江戸に出,そこで生まれたのが初代団十郎であるといわれる。
・・・
 初代団十郎は12歳で歌舞伎の道に入って以来,見る間に名声を高めていったが,子宝に恵まれなかった。悩みぬいた初代は,父の故郷に近く,以前より信仰していた成田山新勝寺の本尊不動明王に祈願し,1688(元禄元)年,長子九蔵(二代目団十郎)を授かることができた。『新修成田山史』によると,1695(元禄8)年,初代は仏恩に報謝するため不動明王に扮し,その2年後には九蔵に通力坊の役を勤めさせ,父子共演した。この時以後成田屋の屋号を称したとある。その後も代々,不動明王を演じるなど,成田山との縁を深めた。
・・・
 七代目は,五代目の孫。10歳で団十郎を襲名し,1811(文化8)年の頃には市川宗家を担う役者となり,翌年には不動明王を演じている。文政年間(1818-1830年)には,成田山境内で奉納芝居を2回,額堂の寄進,朱塗りの三つ組み大盃の寄進などを行なった。1832(天保3)年,八代目に名を襲名させて,自分は海老蔵を名乗った。ところが,1842(天保13)年,天保改革の奢侈禁令に触れ,江戸十里四方追放となり,一時成田山内の延命院に蟄居した。その間,成田の人々に芝居や俳句などを教え,近在を巡り歌や句を残した。その中に,幡谷村を訪れての句もある。

(この項、「」HPより)

 先に進みます。
桜並木のある「のびのび公園」。

「上座」という地名が出てきます。「296」は国道の路線番号。

(12:25)「ユーカリが丘」となります。

                          

 高層マンションやショッピングモールなどが立ち並んでいます。また、モノレールが走っています。
 

しばらく雨宿り。

(12:42)駅前を過ぎると、道はゆるやかな上り坂に。

竹藪。

よく整えられた樹木のあるおうち。

(12:57)坂道を上がりきった右手に「上座公園」の深い緑。 

                                 

今度は「手繰川」への急坂を下ります。

前方が開けてきます。高台に住宅地。

                          振り返る。 

眼下に田園地帯が広がります。小雨に煙る田畑。

(13:09)「手繰川」。
                            四街道市中央付近の市街地に源を発し北流して「西印旛沼」に合流。

ところで、「手繰」の読みは?     です。

急坂を振り返る。
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新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その2。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-03-28 20:02:22 | 佐倉街道

                相変わらず小雨。「大和田」付近。
 屋根はかつては茅葺屋根だったようで、街道を歩いていると、たまに見かける屋根の格好をしています。


(10:25)「庚塚」バス停。 

「市役所(八千代市)入口」交差点を過ぎた左手に「さわ田茶家」。

                

 さわ田茶家の建物は、戦後初代首相東久邇稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)殿下が、昭和初期に別邸として市川真間に建立したものを、縁あって当家が譲り受け、一九六四年(昭和三九年)当地に移築し、住居として現在に至りました。
 気品ある重厚な入母屋造りと錦鯉が泳ぐ池を配した庭園づくりは、往時の日本人の心の豊かさを今に伝えます。
 一階は、黒光りの大黒柱と漆喰いの土壁、天井の太い梁、正目の板張りと回廊。
 二階は、書院造りの床の間と粋な欄間、移りゆく季節を伝える掛け軸と潤いの生け花。やわらかい日差しが差し込む障子と青畳。
 いずれも今は私達が忘れかけている日本人の旧き良き伝統文化の生活空間が、そこにあります。
 心和む至福のひとときをどうぞゆっくりとお過ごしください。

(この項、「」HPより)

入口に「無縁法界供養塔」。
無縁法界
① 仏語。法界の一切。無差別平等の一切をこめていった言葉。
② 縁もゆかりもないこと。また、その人。あるいは弔う親族のない亡者。

 その先、左手にある「長妙寺」に八百屋お七の墓があるようですが、門扉が閉まっていて省略。

 

 (10:35)「大和田三叉路」信号の手前左手に、大きな「明治天皇行在之処碑」があります。
                   旧本陣が置かれていたのでしょうか?

街道筋らしいおうち。


宿場特有の間口が狭く、奥行きのあるおうち。

                               整地された土地。

古びた道標? 

下り坂になって、「新川」に向かいます。

「時平神社」のある高台を振り返る。



                (10:51)「新川・大和田排水機場」。

「新川」「花見川」は印旛沼の排水路。「大和田排水機場」から上流を「新川」下流を「花見川」と称しています。地形的に複雑なのは、「新川」(=「印旛沼」)の方が「花見川」(=「東京湾」)よりも低地だということ。そこに「大和田排水機場」の役割があるようです。

 印旛沼
 およそ2万年前、海面が著しく低下していた際に形成された下総台地の侵食谷が起源で、縄文海進時には地盤沈降により溺れ谷となり香取海(古鬼怒湾)と呼ばれた海の一部であった。奈良時代頃には香取海の海退とともに、鬼怒川から洪水によって運搬された土砂が沼へ向って流れ込むなどして(三角州の形成が認められる)、次第に出口がせき止められ沼が形成された。
 江戸時代に入って、江戸の町を利根川の氾濫による水害から守るため行われた利根川東遷事業によって利根川の下流となり、周辺の村々は水害により大きな被害を受けるようになった。このため沼の水を現在の東京湾へ流すという掘割工事と、あわせて当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって干拓事業(新田開発)が行われた。
 享保9年(1724年)、平戸村(現在の八千代市平戸)の染谷源右衛門が着手したが失敗。次に、天明年間(1781年 - 1789年)老中田沼意次の時に計画され、工程の3分の2まで進捗したが天明6年(1786年)7月の大洪水と、田沼の失脚により中断された。
 江戸後期には老中水野忠邦による天保の改革の一環として開削事業が企図され、幕府財政基盤の再建を目標とした改革後半の天保14年(1843年)には勘定奉行の鳥居耀蔵を責任者として沼津藩、庄内藩、鳥取藩、秋月藩、上総貝淵藩の5藩に御手伝普請が命じられ、印旛沼から江戸湾に水路を開削する印旛沼堀割工事が行われた。
 この工事の背景には水害対策や新田開発や水運航路の開発など経済的な事情のほか、外国の軍船に江戸湾口を封鎖された場合に、江戸へどのように物資を供給するかという、対外危機への意識の高まりもあった。つまり、那珂湊-利根川-印旛沼-検見川-江戸という新しい水路の建設である。印旛沼の開発は各藩の多大な財政負担により進捗せず、天保の改革も上知令の頓挫による水野の罷免により中止され、印旛沼開発も弘化元年(1844年)6月に中止となり、江戸期における工事はいずれも成功しなかった。
 明治以降も織田完之による印旛沼干拓計画や、昭和放水路計画など、印旛沼の開発計画は次々と立てられたが、当初の治水・干拓を目的とした開発は、京葉工業地帯の造成と人口の増加に伴って利水を目的としたものへと変貌していく。印旛放水路(新川・花見川)が完成するのは1960年代末である。
 1969年(昭和44年)、水資源公団の開発により、沼中央部に面積 13.9 km2 の中央干拓地が造成され、約26 km2 あった沼の面積は2分の1以下に縮小している。
(以上、「Wikipedia」参照)

 

                 

(この図は「」HPより)
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新京成線「薬園台」駅~京成本線「佐倉」駅。その1。(「佐倉街道」をゆく。第2日目。)

2019-03-27 19:54:38 | 佐倉街道
                    「佐倉街道」第2日目。3/23(土)。冷たい雨。8:44

 今回は、歩いている間、雨が降っています。予定の佐倉まで行けるかどうか、雨宿りしながらの歩き。ほとんどが国道歩きで、行き交う車もたくさんの中で。ただ歩道がしっかりあるので安心。

街道沿いらしい、しゃれたお店。パン工房。


県立高校は、薬「園」台。市立小学校は薬「円」台。

路傍には「庚申塔」、石仏等。

(9:02)「船橋市立郷土資料館」脇に「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之処」碑。

注:「駐蹕(ちゅうひつ)」=〔蹕(さきばらい)を駐(とどめ)る意〕
 天子の行幸の途中、一時のりものを止めること。また、その地に滞在すること。駐駕(ちゆうが)。駐輦(ちゆうれん)。

解説板。
習志野地名発祥の地 附明治天皇駐蹕之処の碑
 現在の船橋市習志野台・習志野付近一帯は、かつて大和田原あるいは正伯原ともいわれ、江戸時代には幕府の牧(馬の放牧場)の一部でした。その後、明治7年(1874)から昭和20年(1945)までは陸軍の演習場でした。
 明治6年(1873)4月29日、明治天皇は徳大寺宮内卿・西郷隆盛・篠原国幹ほか多くの供奉者を従え、薩摩・長州・土佐の兵からなる四個大隊2800人の近衛隊を率いて、県下に初めて行幸されました。午後には船橋宿九日村に到着し、櫻屋で昼食をとられました。その夜は荒天にもかかわらず、演習地の幕営に野営されました。
 翌30日は近衛兵の演習をご覧になり、5月1日皇居へ還御されました。同13日天皇より勅諭をもって、この原に「習志野ノ原」の名を賜り、その後、陸軍の演習場として定められました。これが現在の「習志野」の地名の由来です。
 この碑は仙台石製で、大正6年(1917)に明治天皇が演習を統監された場所(船橋市習志野台4丁目431の3)に建てられましたが、平成6年6月に現在の場所に移転しました。碑文には地名を賜った由来が記されています。

「D51蒸気機関車」が展示されていたので、ついでにパチリ。

さらに「道標」が建っていたので。 
            「南 従是 千葉郡津田沼町。北 従是 千葉郡二宮村」と。昭和3年建立。元はJR「津田沼」駅前にあったようです。 

 明治6年4月末、今の習志野市、八千代市、船橋市などの一部も含まれていた「下総国大和田原」という広大な原野で陸軍の大演習が行われました。この際、演習を総監した明治天皇が後日大和田原を「習志野原」と命名しました。現在の自衛隊習志野駐屯地には、明治天皇の命名書が残されています。
 命名の由来の一説として、この大演習の時に、豪雨の中全体指揮をとった篠原国幹(くにもと)少将の指揮が見事だったので、明治天皇が「篠原を見習え」から「習え篠原」、「習志野原」になったという説があります。
 当時の陸軍大将はかの西郷隆盛でした。篠原国幹は薩摩藩の出身で、西郷の片腕となって薩英戦争、戊辰戦争を戦い、明治維新後は陸軍少将となって近代陸軍、近衛隊の創設に尽力した人です。
 この時の陸軍大演習は暴風雨の中で行われ、天皇自らも全身ずぶぬれになる中、篠原が指揮を執り、見事な奮戦ぶりを示しました。その後、天皇は篠原を召し、篠原に習えという意味から「今日よりこの地を習志野原と名付け、操練場と定む」と褒めたのが習志野の地名の由来といわれています。
 このように、“習志野”という名は、今の習志野市、八千代市、船橋市にまたがる広い地域を指す地名として名づけられたものです。お隣の船橋市に習志野台、西習志野という町名や新京成「習志野駅」、「北習志野駅」があったり、陸上自衛隊習志野駐屯地が習志野市域には所在せず、船橋市と八千代市の行政区域にまたがっていたりするのは、この“習志野”という地名を巡る歴史的経緯が影響しています。

  

(この項、「」HPより)

 1945年(昭和20)まで陸軍演習場として使用され、その後、陸上自衛隊、航空自衛隊に受け継がれ、現在に至っています。
「陸上・航空自衛隊習志野駐屯地」「習志野演習場」。

街道の右側に続いています。

                              

習志野台の今昔

1880年代のようす。現在の自衛隊駐屯地よりも西北に大きく広がっている。
                          斜めの道が「佐倉街道」。


2010年代のようす。右下が現在の自衛隊駐屯地。
                左下に「郷土資料館」。「佐倉街道」は同じ道筋。


左手にはなかなか趣のある「コーヒー店」。「星乃珈琲店」。

(9:39)「新木戸」交差点の角に「血流(ちながれ)地蔵道」という道標。

                              「解説板」。

 これは、貞福寺の本尊とされた「血流地蔵」を案内する道標です。江戸深川の人たちによって、享和3年(1803)にここ新木戸三叉路に建てられました。
 次のような銘文が刻まれています。
 (正面)血流地蔵道
 (左面)貞福寺
 (右面)右江 成田
     左江 江戸道
 (背面)江戸深川大工 □者中
      ・・・
 貞福寺は、ここから左に入り木下街道を4キロメートルほど進んだ吉橋にあります。
 吉橋には「吉橋城主高木伊勢守胤貞が後北条氏に滅ぼされたあと、主君の守り本尊を遺臣が血流地蔵として貞福寺にまつった」という伝承があります。
 この道標は、今まで上部だけがここに置いてあり、下半分は道路工事のために側溝の下に埋まっていました。
 八千代市郷土歴史研究会では、江戸時代の貞福寺参詣の貴重な資料であることに注目し、八千代市の平成12年度市民企画提案事業としてこの道標の下部を発掘し、形を整えて設置しました。向かい側の「成田山」道標とともに、交通史の重要な文化財として、後世に伝えていきたいと願っています。
 

 東葉高速鉄道「八千代緑が丘」駅への道を過ぎてしばらく進むと、馬頭観音などがまとまって設置されています。


(10:04)その先にも道標があります。「おたきさん道」。
                     船橋市金杉にある「御瀧不動尊(おたきふどうそん)」への道標。  

 昔懐かしいたたずまいのラーメン屋さん「ヨシベ-」。たしか錦糸町駅前にもあるはず。


ジャズが流れる静けさのある空間。気軽に立ち寄れて落ち着ける店内。
                                                (「ヨシベー」HPより)
冷たい雨が降る中、ひたすら歩き続けます。
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その7。「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-25 20:12:50 | 佐倉街道
                           「船橋大神宮(「意富比おおい神社」)」の北側の坂を上っていきます。
(13:19)「宮坂」。


街道筋らしいおうち。

この道は、「東金(御成)街道」となっています。

                          
東金御成街道
 九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した道路。船橋~東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。
          

菜の花が満開。

(13:42)「中野木」交差点を直進。

                        

 (13:52)しばらく進むと、「成田街道(佐倉街道)」との分岐点に。左手の角に「左 成田山道」と刻まれた大きな道標。
解説板。
御成街道(東金街道)について
 ・・・将軍や大御所がお通りになる=お成りになるというので、御成街道と呼ばれたと言います。

 (前原西1丁目)は 成田街道と東金街道との分岐点です。明治12年(1879)に成田山の信徒と地元前原の有志が建てた道標があり、前面には「左成田山道」と刻まれています。また、右側面は「成田山 従是房総街道」(東金街道を房総街道としています。)左側面には「成田山道」と刻まれています。・・・   

分岐点付近の今昔

1880年代のようす。当時は、「成田街道」の方が賑やかだった。


2010年代のようす。

左折してJR「総武線」を越えます。

 「成田街道(「国道296号線」)」を東、さらに北東に向かって進みます。

                             

(14:11)新京成線踏切を過ぎます。

手押しの井戸。この付近は地下水が豊富? 

木造の蔵造りがところどころに。

古びた「道標」? 

(14:34)右手にりっぱな長屋門のおうちが。

                         

「薬円(園)台」に入ります。

振り返る。

(14:45)今回はここまで。新京成線の「薬園台」駅に向かいます。

 ところで。表示は「薬台」なのか「薬台」なのか。

  

駅名は「薬園台」です。

                       

《まとめ》地名の由来
 薬園台の地名は、江戸時代に小石川(養生所)の薬草園がこの地に作られたことに由来している。薬草園では主に朝鮮人参などの漢方薬の栽培が行われていた。この薬草園は幕府の命を受けた幕府御医師並の丹羽正伯と同行した日本橋の薬種商桐山太右衛門によって設立されたことから、地元ではこの地域一体を別名正伯新田(しょうはくしんでん)と呼ぶ時もあり、戦前の地図にもその名称を見ることができる。また、薬円台公民館の近くにはこれを記念する「正伯公園」という名称の公園もある。
 1889年(明治22年)の町村制施行時には千葉郡二宮町大字薬園台となった。二宮町は1953年(昭和28年)、船橋市に編入され、当地は船橋市大字薬園台となる。1955年、船橋市の郊外地区の「大字」はすべて「町」に変更され、当地は薬園台町1・2丁目となった。
 1973年(昭和48年)の住居表示実施時に地名表記が「薬円台」に変更され、薬円台1〜5丁目となった。1988年には薬円台6丁目が成立し、現在に至る。現在では新京成線薬園台駅や千葉県立薬園台高等学校の名称などに旧地名の名残がある。
(この項、「Wikipedia」より)

 この説明では、どうして「園」が「円」になったのかは明らかではありません。そこで、「」より。
 
 1973年(昭和48年)新住居表示が施行され、実施時に地名表記が「薬円台」に変更されます。当時の建設省では、「町名は一般的に使われているできるだけ簡単な文字を」という方針から園→円に変わったのです。
 ただこの新住所表示以前から円の略表記はかなり広範囲で行われていたようで、「この付近一円が薬園台だったという意味を含めた」との説明もあるそうです。そのような背景もあり、町名の変更はほとんど異論なく行われたと思われます。
 これにより「市の管轄の施設」は全て「円」を表記することになりました。

 つまりまとめると以下のようになります。

 ◎1973年以前からあり、市の管轄でない施設は「園」
 ◎1973年以前からあり、市の管轄である施設は「円」
 ◎1973年以降にできた施設は「円」

道路沿いに見られる二種類の表記も何となく納得?
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その6。「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-22 18:50:01 | 佐倉街道

                                                
船橋宿
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、漁民の船を並べて橋渡ししたとの言い伝えからその名が付いたとされる船橋宿は九日市・五日市・海神村の三村によって構成された宿場町。徳川家の東金・佐倉方面の狩猟の際には、船橋御殿で宿泊した。
慶応4年(1868)船橋戦争により宿場の大半が焼失し、宿場についての資料が殆ど残っていない。九日市村の旅籠屋は株組織になっており、寛政11年(1799)には22軒、文化15年(1818)には25軒と増やした。大半は飯盛女を抱え、南側に並走する千葉街道と合間って、宿場の繁栄を裏で支えていた。

 今回、2年ぶりの訪問。中心街を東に進みます。

 一昨年に船橋に出掛けたときのブログです。再掲します。(2017/09/13)

 船橋は京成からJRに乗り換える時くらいしか降りたことがありません。街を歩くことは今まで、皆無。
 ちょっと用事ができて、そこまでの道すがら、「船橋発祥」の「海老川」付近を。


                  

その昔、市内を流れる「海老川」は、現在より川幅が広く、水量も多かったため、橋を渡すのが困難だったそうです。そこで、川に小さな舟を数珠つなぎに並べて上に板を渡し、橋の代わりにしたことから「船橋」という名がつきました。伝説では日本武尊が東征の折、海老川に船を並べ、その上に板を渡し橋を造ったといいます。
 現在は陸地ですが、「夏見干潟」と呼ばれる大きな入り江があり、湊として栄えていました。船橋の海は江戸時代、将軍家に新鮮な魚を献上する「御菜ケ浦(おさいがうら)」と呼ばれ、漁師町は大きな力をもって発展してきました。現・本町2~3丁目一帯の旧漁師町には、舟溜りの「舟町(ふなまち)」、寺が多い「寺町」、納屋が置かれていた「納谷(なや)」等の地名がありました。 江戸時代には、海老川を挟んで東側では5の日、西側では9の日に市が開かれたことから、それぞれ、五日市村(現宮本)、九日市村(現本町・湊町)と呼ばれていました。この二つに海神村(わたつみむら・現在はかいじんと読む)を加えたところを総称して、船橋村とか、船橋宿と言われていました。
 「海神」という地名の起こりは、日本武尊がこの地に上陸して入日(いりび)神社に神鏡を祀り、海の神として崇めたことにちなんでいます。
 「船橋大神宮」の北側の坂「宮坂」は東金街道の起点ですが、明治元年の戊辰戦争では激戦地となりました。

 江戸時代には房総往還東金御成街道佐倉街道などの主要街道沿いの地域は宿場町として栄えました。今でもそうした関連の古い商家や史跡が残っています。

房総往還
 船橋大神宮下で成田街道と分かれ、江戸湾東岸(内房総)に沿って房総半島の南端館山に至る房総半島の主要街道で、房総諸藩の参勤交代路であり、また近世では外国船に対する江戸内湾の警護のために重要な役割を果たしてきた。「上総道」とも呼ばれた。


東金御成街道
 九十九里方面での鷹狩のために徳川家康が土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した道路。船橋~東金間約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいた。


佐倉街道
 江戸時代の脇街道の一つで、佐倉城を終点とするもの。大別して2つのものが存在するが、ここでは、水戸街道・新宿の追分~佐倉を結ぶ「水戸佐倉道」をさす。この街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い、文化年間頃より「成田道」「成田街道」という愛称で呼ばれるようになった。


千葉県内の古街道一覧。この「佐倉(街)道」は千葉から。

 
 
               (「歴史的農業環境閲覧システム」より)
→が海老川に架かる「船橋」。船橋湊(港)方面の発展のようすが分かります。右の駅は京成線「大神宮下」駅。下は「京葉道路」



「明治天皇行在所跡」碑。
 明治天皇の最初のご来県は、明治6年(1873)4月29日から5月1日までで、近衛兵の演習をご覧になるために大和田原へお出ましのときです。
 この第1日目に昼食をとられたのが、当時船橋町九日市の旅館業桜屋、山口丈吉宅(現在の千葉銀行船橋支店の位置)です。この後も山口宅をしばしばご利用になり、通算して宿泊10回、昼食5回、小休憩2回におよび、千葉県では最も多く立ち寄られた場所でした。

 道路の左右に古い商家が二軒。
「廣瀬直船堂」。和菓子屋さん。
 大正7年に建造された木造二階建切妻造瓦葺で、軒を張り出した出桁造の建物。耐火中高層建築物化が進んでいる中で、宿場町であった船橋の面影を今もなお残している建造物。「今回指定されたことによって、お店を守って頂ける、また宣伝効果にもなりお客様の層が増えうれしい」と廣瀬太一さん。「戦争で車や食料等を軍に全て持っていかれ、原材料がない状態で再スタートしたため、お金がなく建替えができませんでした。しかし、このままのほうが廣瀬直船堂を見て懐かしいと思っていただけたり、前に船橋に住んでいた方が来店した時に昔話をしていただいたりしてうれしい」とも。
 本町通り沿いの家屋は、昭和30年代後半から耐火中高層建築物化が進んだが、廣瀬直船堂は建て替えをせずに建築当時の姿を今に伝えている。

                           

向かい側にある「森田呉服店」。
 創業140年。太宰治が暮らした街、船橋の和装専門店です。リニューアルしてモダンな雰囲気を増した店内には、着物・生地・手拭・和装小物まで豊富に取り揃えております。特に梨園染の江戸手拭は300柄以上の品揃え。
                           

《補足》太宰治と船橋
 昭和の日本を代表する小説家、太宰治。青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市)に生まれ、『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』『斜陽』『人間失格』など数々の名作を残すも、昭和23年に北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)の玉川上水に入水し、39歳で早世しました。
・・・
 大地主の家に生まれながら、故郷の津軽を離れ、東京近辺で住まいを転々とし、短い一生を駆け抜けた太宰。
そんな彼が、自身の回想記『十五年間(昭和21年)』の中で、「最も愛着が深かった」と述べているまちが、船橋です。
 盲腸炎をこじらせ腹膜炎を起こし、鎮痛剤パビナールによる中毒にもなってしまった太宰が、療養のために東京杉並から船橋へ転居したのは、昭和10年7月1日、26歳のときでした。太宰はここで内縁の妻であった“初代(はつよ)”とともに、1年3カ月の時を過ごしました。
 短い滞在期間でしたが、太宰はここで濃密な時間を過ごし、ゆかりの場所が現在に伝えられています。
太宰ファン必見の場所の数々をご紹介します。

 太宰の旧居は千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番地にあった新築の借家でした。現在の住所では「船橋市宮本1丁目」。船橋駅から歩いて10分もかからない位置です。
 現在、旧居跡には別の住宅が建っています。船橋駅前の喧騒を知る人からは意外に映るほど閑静な、細い路地の入り組んだ住宅街。車通りはほとんどありません。
近くには、海老川が今も静かに流れています。

 太宰は船橋の家に住み始めてほどなく、近所に住む人から“夾竹桃”をもらい、庭に植えたそうです。故郷の津軽では珍しかった夾竹桃。後日、自宅を引き払うときも、この夾竹桃への愛着を口にし、涙したといいます。
『めくら草紙』(昭和11年)より
《私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思つた。私は家人に言ひつけて、どれでもいいから一本、ゆづつて下さるよう、お隣へたのみに行かせた。》
 太宰がお隣から譲り受けて自宅の庭に植えたとされる夾竹桃は、昭和58年に中央公民館前の広場に移植され、現在でもその姿を見ることができます。また、近くには文学碑が建立されています。

 太宰は船橋で、『ダス・ゲマイネ』『地球図』『めくら草紙』『虚構の春』『狂言の神』などの作品を執筆したほか、最初の短編集『晩年』を発表しています。
これらの実績だけ見ると、さぞかし充実した創作活動をしていたのでは……と受け取れますが、実際には苦難の連続でした。
 太宰が船橋に住み始めた翌月の昭和10年8月、第1回芥川賞の発表がありました。太宰は候補に残ったものの、落選(受賞作は石川達三「蒼氓」)。文壇に認められたいという思い、借金だらけの生活を好転させなければという焦り……太宰は強く受賞を望んでいただけに、その落胆は大きかったことでしょう。選考委員だった川端康成に対し、怒りを露わにした文章を発表したことは有名です。また、同じく選考委員であった佐藤春夫に対しては、第2回の受賞を懇願する書簡を送っています。
 そんな願いもむなしく、第2回芥川賞の選考結果は「受賞者なし」。今でこそ抜群の知名度を誇る人気作家の太宰ですが、最後まで、芥川賞を受賞する夢が叶うことはありませんでした。

 船橋に滞在して約1年が経過した昭和11年6月、太宰は最初の短編集『晩年』を砂子屋書房から刊行します。太宰にとって初めての単行本でありながら、『晩年』というタイトル。若くして、死を強く意識していた太宰ならではといえます。鎮痛剤中毒からの療養のため船橋に引っ越してきたはずが、症状は改善せず、健康状態は不良でした。
 鎮痛剤パビナールによる中毒が深まる太宰を救おうと、家族や知人は入院を勧めます。昭和11年10月13日、井伏鱒二の説得により、太宰は東京板橋の武蔵野病院に入院し、船橋の家を引き払いました。病に打ち克つことができず、流行作家にもなれなかった船橋時代。それでも太宰は、のちの作品でこのように述べています。

『十五年間』(昭和21年)より
《私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった》
《どうしてもその家から引き上げなければならなくなつた日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れてゐない》

 太宰がなぜ、船橋のことを「最も愛着が深かった」と述べたのか、今となっては知る由もありません。太宰が船橋を去ってから、約80年もの月日が経っています。
 ただ、今も船橋には太宰ゆかりの場所や、太宰が暮らした昭和初期の雰囲気を感じられる場所が多く残っています。
 長い時間の隔たりはあるけれど、同じ場所に立って、歩いてみると……太宰が暮らした1年3カ月が、おぼろげながら見えてくるかもしれません。

 (以上HPより)

これも立派な「島村写真館」。

 特に付け加える写真はありませんが、サクラと船橋を。

                  


1880年代のようす。浅瀬が広がっています。

 
2010年代のようす。下方が現在の船橋港。高架は「京葉道路」。
       
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その5。「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-20 19:34:33 | 佐倉街道
                            表札「伊兵衛」さん、「善兵衛」さん・・・。沿道の旧家風のおうちに目立ちます。

 貸し駐車場のところにもありました。

さてしばらく進むと、旧道は国道から離れて左の道に進みます(12:14)。

総武線の陸橋を越えて、右手の道に入るとお堂があり、そこに「道標」が建っています。
 
元禄七年銘 道標
 元禄7年(1694)年10月26日の銘がある、市内最古の道標です。もとは70mほど北東寄り、現在は陸橋下となっている三叉路に建てられていました。
 道標正面の「右 いち川みち」は、この三叉路のある船橋市海神から、市川市八幡を経て同市市川へ至る道(佐倉道の一部)を示し、「左 行とくみち」は、船橋市山野町、市川市原木を経て同市本行徳へ至る道(行徳道)を示します。
 佐倉道は、江戸から佐倉城下に達する道でした。その先が成田へと続いており、江戸中期頃から、成田参詣の隆盛と共に、成田道とも呼ばれるようになりました。
 行徳は、日本橋と行徳を川で結ぶ「行徳船」の発着場でした。行徳と海神を結ぶ行徳道は、楽で早い船旅を好む成田参詣者で賑わいをみせた道でした。

○が現国道との分岐点。↓が旧道。道標がもともとあった位置。

船橋宿に向かいます。

                       

「船橋本町」交差点の手前で枡形の名残か、少しカーブしています。

                    ↓が街道。

(12:35)「西向き地蔵」の祠。
 旧船橋宿の入り口で、かつては罪人の仕置場(処刑場)と言われている。

繁華街に入っていきます。
左手に「いなりや(稲荷屋)」さん。創業慶応元年(1865)150年前から続く老舗の割烹料理店。

 船橋が、成田街道の宿場町であった頃より、地元三番瀬・江戸前の魚と、房総の海山の幸のお料理を皆様に愛されて、今日に至っております。
誇りを受け継ぐ10名の調理人達と、お客様を大事にする仲居達のお料理と御接待を、お楽しみ下さい。
 (「」HPより)

 おそば屋さんでお昼。  

(13:00)高層ビルが建ち並ぶ繁華街。

ここにも「三番瀬」という看板が。

 「三番瀬」とは、古くから漁業関係者が使用していた漁場の通称名で、現在の市川市・船橋市の沖合いの浅瀬の一部を示していたものと思われます。 現在では、市川市と船橋市の沖に広がる浅海域(浅瀬や干潟)を総称して「三番瀬(さんばんぜ)」と呼ぶのが一般的になってきています。
              
 この海域は、東京湾の最奥部の埋立地によって囲まれた位置にあり、水深5メートル以下の浅瀬が岸から沖合い3~4キロメートルの範囲に広がっていて、その先は急に水深が深くなっています。この浅瀬は、市川航路を境に大きく市川市側と船橋市側とに分かれ、その面積は、水深1メートル以浅の範囲で約1,200ヘクタール、水深5メートル以浅の範囲で約1,600ヘクタールあります。
 三番瀬というと、船橋市側の船橋海浜公園地先に広がる干潟の風景がテレビや新聞でよく取り上げられることから、一面に広がる干潟を連想されることがありますが、市川市側の三番瀬には、主な干潟として、塩浜1丁目地先の人工干潟と浦安市の日の出地区に近い自然の干潟が合計で約30ヘクタールほどあるだけで、そのほどんどは水深5メートル以下の浅瀬となっています。
 干潟や浅瀬は、水質の浄化機能のほか、魚貝や水鳥の生息場所、海苔養殖漁業やアサリ漁などの漁場、海浜レクリエーションの場となるなど様々な機能を備えており、近年、その価値が特に注目されています。
 しかし、これまでの埋め立てや都市化の影響などにより、昔と比べて海の様子は大きく変化しているほか、現在の海の環境も一様ではなく、周辺の埋め立てに伴う潮流の変化や青潮の発生などにより、環境が悪化しているところもあるのが現状です。
 都市に接している三番瀬の環境は、都市化の影響を受けるとともに、漁業活動など人の暮らしと深い関わりを持ちながら維持されてきたものであり、今後、自然環境の保全・再生と、漁業やレクリエーションなどの人の利用との調和を、どのように図っていくかが課題といえるでしょう。

(この項、「」HPより)

 以下の写真・絵図は「」HPより。

 

 

 なかなか魅力的なところのようです。

『三番瀬』ってどんなところ?
 正しくは「さんばんぜ」と読みます。
 三番瀬は東京湾の最奥部に位置し、船橋市をはじめ、習志野市、市川市、浦安市、各市の東京湾沿いに広がる約1,800haの干潟・浅海域です。深いところでも干潮時の水深が5mほどの浅瀬で、日々繰り返される干満により、土の中に酸素が供給され、多くの生きものを育てています。
江戸時代初期には、「御菜浦(おさいのうら)」として、新鮮な魚介を将軍家に納める重要な役割を果たしていました。
戦後の高度経済成長の中で埋め立てられたところもありますが、現在でも漁業は盛んにおこなわれ、栄養豊かな浅瀬ではスズキやカレイなどの稚魚が育ち、成長した魚たちは、巻き網漁や底引き網漁で数多く水揚げされています。その他貝漁やノリの養殖も船橋の漁業の特色のひとつになっています。
 干潟にはハゼ、アサリ、カニ、ゴカイなどの底生生物が多く生息し、それらをねらって、多くの水鳥たちも集まってきます。
 ふなばし三番瀬海浜公園の前面に広がる干潟は人工的に作られたものですが、様々な生きものが生息し、東京湾の豊かな恵みを見ることができる貴重な場所になっています。
(この項、「」HPより)

 潮干狩りやバーベキューなどなどが楽しめる、とのこと。
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その4。(「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-19 20:41:25 | 佐倉街道
                             「坪井玄道生誕の地」解説板。
坪井玄道
 下総国葛飾郡鬼越(現・千葉県市川市)の出身で農家の次男として生まれた。幼名は仁助。
 慶応2年(1866年)に江戸幕府の開成所に入学して英語を学ぶ。明治4年(1871年)に卒業して初めは少得業生として大学南校、同年7月より東京師範学校(現在の筑波大学)の教員となった。明治7年(1874年)にアメリカから迎えた体育担当教師ジョージ・アダムス・リーランドの通訳を担当しているうちに体操の重要性を認識して体育学を学ぶ。
 明治11年(1878年)、リーランドと共に同年に創設された体操伝習所教師となった。なお、体操伝習所が東京師範に吸収された明治19年(1886年)より高等師範学校の助教授となった。
 明治18年(1885年)『戸外遊戯法』を出版し、日本語で書かれた初めての端艇(ボート)競技の教科書となった。また、同書は「フートボール」(サッカー)を初めて日本に紹介した書籍でもあった。明治20年(1887年)に『普通体操法』を出版した。坪井は合理主義的軽体操 (普通体操) と自然主義的遊戯を併せた体育論を唱え、学校の必修科目に体操を加えることの必要性を論じた。明治23年(1890年)より高等師範学校および東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の教授に就任する。明治29年(1896年)、この年に創設された東京高師のフートボール部(現:筑波大学蹴球部)の部長に就任した。
 明治33年(1900年)、黒田清輝や瀧廉太郎らと共にイギリスなどへ留学し、翌年に帰国した。明治36年(1903年)、教え子の中村覚之助らが出版した「アッソシエーション・フットボール」の序文を記した。また、明治42年(1909年)には可児徳とともにドッジボール競技を「円形デッドボール」という名で日本に初めて紹介したとされる[6]。同年に東京高師、東京女子高師の教授を退任した。大正11年(1922年)4月に東京女子体操音楽学校(現:東京女子体育大学)の名誉校長に就任したが、11月に死去した。なお、墓所は東京都文京区の真浄寺にある。
平成18年(2006年)、日本サッカー殿堂(委員会特別掲額者)入り。現在、千葉県市川市立歴史博物館に、関連物が展示されている。

(以上、「Wkipedia」参照)

「木下街道」との分岐点。角にある旧家。

                           

                 

中山方面に進みます。りっぱなおうち。

街道筋らしいおうち。 

船橋市に入ります。

財団法人吉澤野球博物館」。
 吉澤善吉が個人コレクションを元に私財を投じて1979年(昭和54年)に「吉澤野球資料保存館」として開設。当初資料保存のみを目的としていたが、2001(平成13)年に博物館法により登録博物館となり、2003(平成15)年には2階を増築して美術展示室を併設した。特に東京六大学野球を始めとする戦前のアマチュア野球史料の充実は特筆するものがある。
 2001(平成13)年に「財団法人吉澤野球博物館」と改称、その後さらに「一般財団法人吉澤野球博物館」に再改称した。
 吉澤理事長が2011年(平成23年)体調を崩したのを機に船橋市に収蔵品等を寄附する方針を固め、2014年(平成26年)3月30日をもって博物館は休館。コレクションは船橋市に寄贈された。2017年、「船橋市スポーツ資料展示室」内に「吉澤野球博物館資料展示室」が設けられた。


吉澤野球博物館資料展示室企画展「野球に魅了された男たち~天狗倶楽部からプロ野球発足まで~
はじめに
 平成29年4月22日船橋市総合体育館(船橋アリーナ)内に、船橋市スポーツ資料展示室「吉澤野球博物館資料展示室」がオープンしました。吉澤野球博物館の貴重な野球資料を広く市民の皆様に紹介するとともに地域の野球文化に触れていただけるよう様々な企画展を開催します。
内容
 「天狗倶楽部」とは、明治時代末頃、SF小説家押川春浪が中心となって結成したスポーツ社交団体です。私的な団体でありながら野球や相撲をはじめ数々のスポーツ振興に貢献しました。平成31年NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』にも登場し、その破天荒さが話題となっています。
 天狗倶楽部には、のちの日本初プロ野球チーム創設に携わるメンバーや、殿堂入りを果たすメンバーも参加しており、野球のために人生をかけた男たちがいました。本展示では、そんな野球に魅了された男たちを写真や人物ゆかりの資料で紹介いたします。
会期
 平成31年2月15日金曜日から3月24日日曜日まで
 吉澤野球博物館資料展示室(船橋アリーナ)
 開館時間 午前9時から午後9時
 ※期間中の休館日:2月18日月曜日、3月11日月曜日
場所
 船橋市総合体育館(船橋アリーナ)内スポーツ資料展示室
 (サブアリーナ側1階ロビー奥)
(この項、「」HPより)

ちょっと右手に入ったところに、「グリルはせ川」。
                          純和風のつくりで洋食屋さんのようです。お味の方は、はたして・・・

ここもりっぱなおうち。大きな家が目立つ。

(11:35)右手に大きな案内板「二子浦の池」。

                    

市内に存在が確認されている湧水は、都市化の進行に伴い荒廃が進んでいますが、平成9年度に実施した「湧水保全・再生計画調査」によって、まちづくりの視点から再生価値の高いものも存在することが確認されました。
 湧水は、台地部の樹林や農地等に降った雨が地下に浸透し、低地部からしみ出す水循環について学ぶ最適な素材であると同時に、動植物の棲息環境としても大切な水源であることから、平成9年度より地元の方々と協働して整備を進めてまいりました。
 その中でも葛飾地区については、地元の皆さんの湧水に対する保全・再生への意識が高く、地形的にみても湧水や松林、由緒ある寺社が連なるなどの特色があることから、「葛飾湧水群」として整備に着手し、平成9・10年度は「二子藤(ふたごふじ)の池」の復元、平成11年度には「葛飾神社の池」及び「ゲエロの池」と、3箇所の湧水池の整備を行ってきました。
 平成12年度からは、市の中央部に位置する「倶梨迦羅不動尊(くりからふどうそん)の池」の整備に着手し、平成13年度に完成しました。また、平成14年度に葛飾地区で「葛羅(かづら)の井」の整備を、平成17年度には「二子浦(ふたごうら)の池」の整備を行いました。

 かつては海に面していた場所なので二子浦と呼ばれていたそうで、鎌倉時代にはここから船で鎌倉との間を往来していた、とか。しかし、当時、東京湾を南西から北東へ縦断する航路があったとは思えません(三浦半島から上総に渡るのが最短で安全)。海岸沿いの地名(入り江)であることは間違いないと思いますが。

右手は台地への上り坂。黒い板塀のおうち。

街道沿いのおうち。

(11:47)「武蔵野線」ガード手前、中央分離帯に見事なクロマツの大木が3本。

その先、「勝間田公園」の花壇の中央にブロンズ像。久保浩作《まなざし》

 船橋市内にはこうした多くのブロンズ像の作品が各所に置かれているようです。

 「勝間田公園」は、かつては溜池だったそうです。その左隣にある「葛飾神社」にも見事なクロマツがあるそうです。

 東京湾に沿った市川から船橋、幕張、千葉にかけては、かつて松林が続いていました。今、その風景は大きく変わってしまいましたが、僅かながら残るものもあります。JR西船橋駅から国道14号線を市川方面に行くと、右手に勝間田公園が、その先に葛飾神社があり、石段の下から、お堂を覆いつくすような松が見えてきます。それが、今も残る「葛飾神社のクロマツ」です。「葛飾神社のクロマツ」は、1836(天保7)年に刊行された『江戸名所図会』の挿絵『勝間田池』にも、その姿が描かれています。『勝間田池』は本郷にあった溜池でしたが、和歌の名所であった奈良の勝間田池になぞらえて、そのように呼ばれていました。池の左手にある小山の上には、松で囲まれた熊野宮が描かれています。
 熊野宮は、後に葛飾神社と合祀されましたが、この熊野宮を取り囲む松の一樹が、「葛飾神社のクロマツ」ではないかと推測されています。現在では、勝間田池も埋め立てられ公園になってしまいましたが、かつての情景を想い描くことができるのもこのクロマツが現存していればこそ。拝殿の屋根の上に広がる枝ぶりは絵になりますし、木肌の亀甲模様も極めて美しいものです。このクロマツは、平成24(2012)年3月に二宮神社のイチョウとともに船橋市の天然記念物に指定されました。天然記念物であった妙見神社のクロマツが虫害で枯死し、指定解除されてから35年後のことです。船橋市内に天然記念物を、と願う市民の声が届いたようです。帰路はJR西船橋駅方向に戻り、駅入口の交差点の先を左手に入ると春日神社が、その脇には西船4丁目緑地があり、そこにも東京湾から続く松林の一部が残っています。葛飾神社と西船4丁目緑地に設置された案内板には、解説とともに『江戸名所図会』の挿画が添えられており、かつての情景に想いを馳せることができます。

(この項、「」HPより)

歌碑があります。

 しげやまの尾根をはひゆく
 雲見れば晴れたるかたに
 移りつつあり 松平


 作者の(松平)公平さんは、県立船橋高校の教諭とか。


「勝間田公園」の今昔
         
                  
         
1880年代のようす。溜池がある。下方は行徳からの道。     2010年代のようす。公園に。中央がJR「西船橋」駅。

              

(11:54)「武蔵野線」のガードをくぐります。

船橋市のマンホールの絵柄。さすが港町です。
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その3。(「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-18 18:56:51 | 佐倉街道
                                    「料亭 栃木屋」。

しばらく進んだ先にもりっぱな料亭が。


 
明治17年の創業以来「料亭 栃木家」は約130年の歴史の苦難を乗り越え現在のスタイルに至っている
政界・財界・文化人・海外の要人など各界の著名人を迎え続け千葉県屈指の料亭
また、「栃木家」では調度品や器などもふんだんに使いもてなしを行っている。
独創的でありながら昔ながらの味を大切に作られる和食の数々はまさに本物と呼ぶに相応しい逸品
日本文化の粋を集めた、価値ある空間だ

(この項、「」HPより)

(10:19)「市川市男女共同参画センター」先の角に「道標」。

                            

 右側に「東 八わた十六丁、中川一里 市川新田」、左側に「西 市川八丁、江戸両国三り十丁」と刻まれています。

この付近の様子。 

その先、左手に「諏訪神社」の境内は見事なクロマツの杜。                     

「京成菅野」駅入口交差点は「外環」の工事中、拡張整備され、中央分離帯にマツが植えられています。 
            

来た道を振り返る(「千葉街道」)。
  
八幡に向けて進みます。


「元八幡」駅前通り。高層ビルが建ち並んで、様変わり。

                  ↓が「千葉街道(佐倉街道)」。

 「八幡」の地名は、平安時代の初期に建立された「葛飾八幡宮」の名からついたといわれています。道中奉行の管轄化に置かれたのはこの八幡宿までで、以降佐倉藩の管轄となっていました。

 「葛飾八幡宮」は、京成線を渡ったところにあります。

 (10:59)参道の先、右手にあるのが「藪不知森(やぶしらずのもり)」。

 「千葉街道」の歩道整備事業に伴い、整備・縮小されました。中は、禁足地とされていて、立ち入ることや、木の伐採は忌まれています。藪の広さは奥行き・幅ともに18mほど。古くは細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などが生い茂っており 昭和の末頃までは樹齢を経た木々の鬱蒼としたさまを見ることができたようですが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみです。

由来
 八幡の藪知らずの伝承は江戸時代に記された書籍にすでに見ることができるが、江戸時代以前から伝承が存在したか否かは定かではない。また、なぜこの地が禁足地になったかの理由についても、唯一の明確な根拠があるわけではない。しかし諸説いずれにせよ、近隣の人たちはこの地に対して畏敬の念を抱いており、現在も立ち入る事はタブーである。
 以下、伝承の由来に関する有名な説を挙げる。
日本武尊の陣屋説
平良将の墓所説
平将門の墓所説
平将門の家臣の墓所説 - 当地で平将門の首を守りつづけ、そのまま泥人形になったといわれている。寛延二年(1749)に書かれた『葛飾記』には、討たれた将門が当地を通った際に慕って付いてきた部下6名が土人形として顕れ、風雪により土と化した、とある。
これらの偉人に関する説は、いずれも該当する人物の祟りなどのために立入禁止になったといわれている。ただし、墓所・陣屋跡の比定地には異説も多い。
将門征伐のために布かれた八陣の法の跡 - 陣を布いた平貞盛と藤原秀郷が乱平定後帰京に際し、地元民に「この場所は八門遁甲の死門(天地の鬼神が各方隅を循環して生殺するとの信仰に基づく8つの門のうちのひとつ)であるゆえ今後足を踏み入れてはならない、踏み入れた者には必ず害がある」と告げて言った、とする説。
その他、昔の豪族・貴族の墓所とする説
水戸黄門が迷って出てこられなかった説
水戸黄門こと徳川光圀が当地に立ち入って迷い、ようやく出たのちに禁足地とした説。後に錦絵に描かれ広まった。しかし、それ以前からここは禁足地であった可能性は高い。
藪の中央部の窪地から毒ガスが出でいるという説
中央部が窪んでいることにも関連しているが、科学的な根拠に乏しい。事実であるなら、藪の周辺すら人が通ることは危険なはずである。
藪に底なし沼があるという説
これも、中央部が窪地になっていることに由来する。
葛飾八幡宮の跡地説
至近にある葛飾八幡宮の旧地とする説 - 文化七年(1810)刊行の『葛飾誌略』には、地元の古老の話では仮遷宮(本殿落成の間や社殿改築工事の間、神体を移しておく仮の社殿)だった、とある[2]。また、この地には死んだ動物を供養するための八幡宮の池があり、周囲の人々から「むやみに池に入ってはいけない」と言われていたものが、この行事が廃れたために「入ってはならない」という話だけ今に残ったのではないか、という仮説がある。
近隣の行徳村の飛び地(入会地)説
地元である八幡の住民は当地に入れないため、このような伝説ができたという説。

慣用句
伝承が有名になったため、「八幡の藪知らず」は「入ったら出られない藪や迷路」の総称となった。それが更に転じて「道に迷うこと」「出口のわからないこと」を「八幡の藪知らず」「やわたしらず」と言うようになった。
また、江戸時代にはこの森を真似て迷宮式の藪を作り、入場料を取って中に入らせ、無事に出てこられた者に賞品を出すという興行場が現れたことがあった。これが明治10年頃に復活し、大流行となった。こうした迷路は八幡不知(やわたしらず)のほか、八陣、かくれ杉などと呼ばれた。

(以上は「Wkipedia」より。以下は「解説板」より)

「解説板」。
不知八幡森(通称八幡の藪知らず)

 江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず、高からず、然れどもとしてその中」とか、「」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に」と言われて全国的に知られていました。
 入ってはいけない理由については、・最初に八幡宮を勧請した旧地である。・日本武尊が陣所とされた跡である。・貴人の古墳の跡である。・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。……
 と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(1658~61)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
 「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
 またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられます。
 古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
 市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。
 「不知八幡森」の碑は安政4年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。

 

この付近の今昔
    
1880年代のようす。○が「藪知らず」。        2010年代のようす。         
 

(11:10)「境橋」。 

                             

下に流れる川は「真間川」。『万葉集』にも詠われた真間の手児奈伝説に登場する「真間の入り江」の跡とされている。

桜の季節がいいようです。

 ところで、「真間の手児奈伝説」とは?

市川のむかし話『真間の手児奈』
 むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、しょうぶやアシがいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
 そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、のみ水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、きれいな水がこんこんとわきだしていました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。
 この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青いえりのついた、麻のそまつな着物をきて、かみもとかさなければ、はき物もはかないのに、上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しくみえました。
 井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔やすがたを写してみますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
   「手児奈が通る道のアシはね、手児奈のはだしや、白い手にきずがつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
   「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
 手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、
  「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、かみにかざる玉も思いのままじゃ。」
  「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
  「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
   「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。そのようすは、夏の虫があかりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
 手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
 「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
といいながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈のなみだも小川に落ちて流れていきました。
 手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
 「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
 「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
 翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
 真間の「手児奈霊堂」は、この手児奈をまつったもので、いまでは、安産の神さまとして、人びとがおまいりにいきます。
 また、手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。

(この項、「」HPより)

万葉集』には、

山部宿禰赤人の反歌(短歌)

吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処(おくつきどころ 注:墓所のこと)
 
葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児奈し思はゆ

高橋連虫麻呂の反歌

葛飾の 真間の井を見れば 立ち平らし 水汲ましけむ 手児名し思ほゆ

東歌には4首

葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を

葛飾の 真間の手児奈が ありしかば 真間のおすひに 波もとどろに

にほ鳥の 葛飾早稲を にへすとも そのかなしきを 外に立てめやも 

足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継ぎ橋 やまず通はむ
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その2。(「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-15 20:53:03 | 佐倉街道
                             (9:33)小岩側の江戸川堤付近から振り返る。


1880年代のようす。渡船場が標示されている。



2010年代のようす。→が旧道か?
         江戸川・川上から「京成線」、「市川橋」、「JR線」。

3月9日(土)。快晴。京成線「江戸川」駅下車。まず江戸川の土手に向かいます。

江戸川区側に新しい解説板が設置されています。
小岩市川の渡し跡・小岩市川関所跡
 江戸時代の初め、両国から竪川の北岸を東にすすみ、逆井(さかさい)の渡しで中川(旧中川)をわたり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へ向かう道がひらかれました。「元佐倉道」とよばれ、明治8年(1875)に千葉街道と改称されています。江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間延絵図』には「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。
 江戸から佐倉へ向かう道筋には、千住から新宿(葛飾区)に至って水戸街道から分かれ、小岩に至る佐倉道があり、江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。
 江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関所がおかれていました。『新編武蔵風土記稿』の伊与田村の項に「対岸は下総国葛飾郡市川村なれば、小岩市川御番所という」とあります。これは幕府の設けた関所のひとつで、常時4人の番士が配属されていました。上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治2年に廃止されました。

                   江戸川区


そこから市川側を望む。河川敷は野球場が何面も。

「市川橋」を渡ります。

                       川面にたくさんの水鳥の姿。

「千葉県・市川市」に入ります。

(9:44)江戸川土手、市川側には関所の門のモニュメント。

りっぱな「市川関所跡」碑。



                         
市川関所跡

 江戸時代以前の江戸川は太日川と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅屋(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文、「東路の都登」のなかで、市川に渡しがあったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡し場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。
 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けれれていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
 「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では2~3艘の船を用意し、川場に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方」とも呼ばれた。
 慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治2年(1869)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。

                  平成16年7月 市川市  

対岸(小岩側)を望む。

「千葉街道」として進みます。左手から来る道が旧道の一部?

賑やかな街並みになります。「いちかわ文学の散歩道」案内板。


老舗の乾物屋さん「湯淺四郎樹商店」。ビルに囲まれた中で存在感あり。

 創業は昭和12年という老舗のお店です。
 店内には普通のスーパーでは見かけないような干物や佃煮、乾物などがいっぱい並んでいます。
             
      (この項、「」HPより) 
(10:13)中央分離帯のところに「旧三本松跡」、「名所 三本松」碑。
 市川市北部の台地上は、縄文時代に遠浅の入江となっていて絶好の漁場であったため、台地上には1893(明治26)年に発見された「姥山貝塚」をはじめ、「曽谷貝塚」、「堀之内貝塚」の“三大貝塚”を含む貝塚が55ヶ所発見されるなど全国有数の貝塚密集地域となっている。また、「千葉街道」沿い南北約0.5~1km、東西約4kmの範囲に「市川砂州」と呼ばれる地形が広がる。砂州上にはかつて防砂林などに利用された黒松が群生しており、独特の景観をつくりあげてきた。写真はかつて「千葉街道」沿いにあり「三本松」と呼ばれた老樹。明治天皇から行幸の際に賛辞を賜ったという。
【大正期】

現在も「市川砂州」上の市街地では黒松を見ることができる。

「三本松」は道路の拡幅に伴い1958(昭和33)年に伐採された。
かつてのようす。

(この項、「」HPより)

 上記の通り、その場所には松の木はありません。しかし、市川市に入ると黒松が目立ちます。かつては南西側は水田でその先は海でした。防砂林の面影が残っています。

マンホールの図柄もマツ。


1880年代のようす。水田(かつては海)が広がる。
 街道は、台地(江戸期の埋め立て地)の南端を進んでいた。


2010年代のようす。すっかり都市化しています。
           上から京成線(古代の海岸線にほぼ沿う)、千葉街道(佐倉街道)、JR総武線。下方はびっしり住宅が建ち並ぶ。
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京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その1。(「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-14 18:47:00 | 佐倉街道
                              「小岩市川関所跡」解説板。   
                                     
 今回から水戸街道「新宿」から分岐して、市川、船橋、習志野、佐倉、そして成田。さらに佐原まで(「佐原街道」)のコースをたどろうと思います。

(「旧街道ウォーキング - 人力」www.jinriki.info/kaidolist/naritakaid.HPより引用)

 「新宿」から江戸川堤までは前に歩いているのでそれを紹介。
 その続きということになります。

 ここまでの道筋を再掲。

(2012/9/14「佐倉街道」その1。)
 水戸街道と葛飾・新宿(にいじゅく)で分岐した「佐倉道(佐倉街道)」は現国道6号線(水戸街道)を越えて南下します。途中、高砂で直角に折れ、東南に向かいます。高砂駅近くを過ぎ、北総線・新柴又駅近くのガードをくぐり、そのまま行くと江戸川の土手に突き当たります。旧道は、江戸川河川敷に消えてしばらくなくなります。再び直線の道となった「佐倉道」はほぼ南下して京成線・江戸川駅のガードをくぐり、そこで、「元佐倉道(旧千葉街道)」と合流して東に向かい江戸川にある小岩・市川の渡し・関所を越えて市川に向かいます。かつての道筋は区画整理、道路拡張、さらに用水路の埋め立てなどかなり変化していますが、所々道標などで往時を偲ぶことが出来ます。
新宿・「一里塚」バス停の近く。ここから水戸街道と分かれます。この橋は、小合溜からの水路(「東用水」から分岐した小さな流れ)に架かっていた「金阿弥橋」、親柱が残されています。
 この付近(追分・水戸街道と佐倉街道)にあった道標は、現在、水戸街道拡張整備工事等のために撤去され、「葛飾郷土と天文の博物館」に一時保管されている、とか。そこで直接問い合わせところ、毛布にくるんであってお見せできない、と。周辺が整備されたら、元の位置に戻すということでした(かつての場所には設置できないと思いますが)。
「道標」(「区民がつくる葛飾百科」より拝借。)安永6(1777)年建立。正面に「左 水戸街道 右 なりたちば寺道」右側面に「さくらミち」と彫られている、らしい。ただし、現在、このあたり、旧水戸街道の道は消滅しています。
水戸街道を越えて旧道に入ります。一方通行の狭い道で、あまり車は通りません。「追分」を振り返って見たところ。このあたりも、あと何年かすると、大きく変貌した街並みになるでしょう。
正面の十字路を左折します。
来た道を望む。
明治13年当時の古地図。中央部分。北からの道がカギのように折れて南東に向かっていました。真ん中の細い用水路は小合溜(現水元公園)からの流れ。
区内最古の道標。正面には「是より右ハ下川原村 さくら海道」右面には「これより左ハ下の割への道」左面には年号が彫られている、とのこと。「下川原」は、新宿の小字名。「下の割」は葛西の南の地域、現在の江戸川区をさしています。
左折してすぐ右折して広い通り。貨物線(金町~新小岩)の踏切を越えます。小合溜からの用水路が埋め立てられ、広い舗装道路になっています。大がかりな水道工事中のところも。踏切脇には鉄橋が残っています。
踏切を渡った南側から望む。
高砂駅前の通り(柴又帝釈天への道)との交差点。向かい右の角の建物が街道筋風の店構え。
京成線「高砂」駅の北側の道を進み、商店街を越えしばらく行くと、桜の並木に覆われた散策道になります。遠くに歩く生徒の姿は佐倉街道沿いにある「区立桜道中」の生徒、らしい。
京成ドライビングスクール前には、「葛飾区立桜道中学校」があります。「佐倉」に「桜」をかけたのでしょう、「さくらみち」と呼ばれています。

「親水さくらかいどう」の碑。
道の脇には小さな流れ。
しばらくのんびり進むと江戸川の堤防にぶつかり、旧道はここでいったん途切れます。
「善兵衛樋」。
 かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治11(1878)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
 大正13(1924)年、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったものが、左手の「水神」碑。高さ約3メートル幅約1メートルとかなりりっぱなものです。人々には、まさに「水神」様に思えたのでしょう。
 「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
 この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続きます。
道標。正徳3(1713)年建立。江戸川区内最古のものだそうです。
 「右面 是より右岩附慈恩寺道 岩附迄七里 これより左 千手道 新宿迄壱里千手迄弐里半」とある。注:「岩附」=「岩槻」、「千手」=「千住」 

古地図(明治13年)。左上(北西)あたりに「道標」がありました。現在の「岩槻街道」は、江戸川・一里塚から南東は「篠崎街道」。

(2012/9/15 「佐倉街道」その2。)
 再び細い直線道路として南下する「佐倉道」は、京成電車「江戸川」駅の西側のガードをくぐると、正面(南)から来た元佐倉道(旧千葉街道)と合流し、江戸川堤へ向かう。このあたりに「小岩・市川の渡し(関所)」があった。渡河した旅人は南東に進んでいく。
江戸川の河川敷に消えた「佐倉道」はこのあたりで再び道の姿を現す。
一直線で南下する。周囲には神社仏閣が並んでいる。

江戸川駅近くの商店街。お蕎麦屋さんの店先にある「道標」。安永4(1775)年建立。

「伊与田の道標」。伊豫(与)田村はこの地域の旧名。この地を開拓した藤原伊豫にちなんでいる。

京成線のガードをくぐる。

正面が元佐倉道(旧千葉街道)。ここで合流して、左(東)に折れると、関所・渡し場。

元佐倉道から佐倉道との合流点を望む。

角にある案内板(御番所町跡)。

この付近が交通の要所であったことを示す道標等の文化財が多く残っている。

道沿いに家が建ち並ぶのが佐倉街道。

左(西)にある(土手)道は、「現岩槻街道」となる古道と思われる。右(東)の土手道は江戸川河川敷内となり、消滅。

突き当たりが江戸川の堤。

佐倉道と元佐倉道の合流点に残る「御番所町の慈恩寺道石造道標」。
角柱。案内板がないと見落としそう。

案内板。
 それによると、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えた道標だった、とのこと。 
「・・・銘文は安永4年(1775年)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の3方向を示しています。
銘文 正面 右せんじゅ岩附志おんじ道 左リ江戸本所ミち 右面 左リ いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 左面 右 いち川ミち
安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 江戸川区教育委員会」
小岩市川渡しの目印だった「常燈明」。
 もともと、小岩市川の渡し場に建てられていた。昭和9(1934)年江戸川改修工事の際に寳林寺(宝林寺)境内に移された。この渡しは江戸時代には成田山新勝寺や千葉寺詣での人たちで賑わっていた。そのため、「佐倉街道」は「成田街道」とも呼ばれた。
 この「常燈明」は、天保10(1839)年、千住総講中によって献灯されたもの。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mある。
台石下部。

  
  
1870年代のようす。                 2010年代のようす。

(2012/9/16 「佐倉街道」その3。)
 北小岩は佐倉街道(成田街道)、元佐倉街道(千葉街道)、岩槻街道(篠崎街道)が交差・合流する交通の要所でした。参勤交代のみならず、江戸の後半には、さいたま市岩槻の慈恩寺、成田市の新勝寺、千葉市の千葉寺などへの参詣で大勢の旅人が行き来していました。必ず通過しなければならない関所もありました。そのため、文化財・旧跡が多い場所でもあります。じっくり歩けばまだまだ興味深い発見があるところのようでした。
江戸川の土手から御番所町跡(西方)を望む。
対岸の市川市側にある「関所跡」のモニュメント。
立派な説明板。
 それには、「・・・関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では2~3艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。・・・明治2年(1869年)に『関所廃止令』が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。平成16年7月 市川市」とある。
関所跡から対岸の小岩を望む。護岸工事で江戸時代よりも大きな川幅にはなっている。右に見えるのが京成線の鉄橋。河川敷あたりがかつての渡船場なのか。
市川橋。「千葉街道」。市川橋の西詰付近で南西に折れる「千葉街道」と分かれて西に向かう広い道路は「蔵前橋通り」。歩いて渡るとけっこうな長さ。橋の正面奥に見えるのはスカイツリー(右の方)。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
江戸川を渡ると道は南東へ折れる。(「同」より)
正面が千葉街道。右(西)から来た道路は「蔵前橋通り」。ここから「千葉街道」となって市川に向かう。「江戸川」交差点。
旧千葉街道沿いの「一里塚」跡。バス停名と篠崎街道(岩槻街道)との交差点名に残っている。
「千葉街道」と交差する通りは、「岩槻街道(篠崎街道)」。この道は、岩槻方面へ行徳の塩などを運ぶ道でもあった。「岩槻街道」はそのまま北上し、「善兵衛樋」(「道標」)付近で「佐倉道」と交差して江戸川右岸沿いに北に向かった。古地図で見ると、田んぼの中の広いあぜ道という感じだが。

(「同」より)。北小岩付近。中央の道は、「岩槻街道」、右が「佐倉道」。

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