おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成線「江戸川」駅~新京成線「薬園台」駅。その3。(「佐倉街道」をゆく。第1日目。)

2019-03-18 18:56:51 | 佐倉街道
                                    「料亭 栃木屋」。

しばらく進んだ先にもりっぱな料亭が。


 
明治17年の創業以来「料亭 栃木家」は約130年の歴史の苦難を乗り越え現在のスタイルに至っている
政界・財界・文化人・海外の要人など各界の著名人を迎え続け千葉県屈指の料亭
また、「栃木家」では調度品や器などもふんだんに使いもてなしを行っている。
独創的でありながら昔ながらの味を大切に作られる和食の数々はまさに本物と呼ぶに相応しい逸品
日本文化の粋を集めた、価値ある空間だ

(この項、「」HPより)

(10:19)「市川市男女共同参画センター」先の角に「道標」。

                            

 右側に「東 八わた十六丁、中川一里 市川新田」、左側に「西 市川八丁、江戸両国三り十丁」と刻まれています。

この付近の様子。 

その先、左手に「諏訪神社」の境内は見事なクロマツの杜。                     

「京成菅野」駅入口交差点は「外環」の工事中、拡張整備され、中央分離帯にマツが植えられています。 
            

来た道を振り返る(「千葉街道」)。
  
八幡に向けて進みます。


「元八幡」駅前通り。高層ビルが建ち並んで、様変わり。

                  ↓が「千葉街道(佐倉街道)」。

 「八幡」の地名は、平安時代の初期に建立された「葛飾八幡宮」の名からついたといわれています。道中奉行の管轄化に置かれたのはこの八幡宿までで、以降佐倉藩の管轄となっていました。

 「葛飾八幡宮」は、京成線を渡ったところにあります。

 (10:59)参道の先、右手にあるのが「藪不知森(やぶしらずのもり)」。

 「千葉街道」の歩道整備事業に伴い、整備・縮小されました。中は、禁足地とされていて、立ち入ることや、木の伐採は忌まれています。藪の広さは奥行き・幅ともに18mほど。古くは細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などが生い茂っており 昭和の末頃までは樹齢を経た木々の鬱蒼としたさまを見ることができたようですが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみです。

由来
 八幡の藪知らずの伝承は江戸時代に記された書籍にすでに見ることができるが、江戸時代以前から伝承が存在したか否かは定かではない。また、なぜこの地が禁足地になったかの理由についても、唯一の明確な根拠があるわけではない。しかし諸説いずれにせよ、近隣の人たちはこの地に対して畏敬の念を抱いており、現在も立ち入る事はタブーである。
 以下、伝承の由来に関する有名な説を挙げる。
日本武尊の陣屋説
平良将の墓所説
平将門の墓所説
平将門の家臣の墓所説 - 当地で平将門の首を守りつづけ、そのまま泥人形になったといわれている。寛延二年(1749)に書かれた『葛飾記』には、討たれた将門が当地を通った際に慕って付いてきた部下6名が土人形として顕れ、風雪により土と化した、とある。
これらの偉人に関する説は、いずれも該当する人物の祟りなどのために立入禁止になったといわれている。ただし、墓所・陣屋跡の比定地には異説も多い。
将門征伐のために布かれた八陣の法の跡 - 陣を布いた平貞盛と藤原秀郷が乱平定後帰京に際し、地元民に「この場所は八門遁甲の死門(天地の鬼神が各方隅を循環して生殺するとの信仰に基づく8つの門のうちのひとつ)であるゆえ今後足を踏み入れてはならない、踏み入れた者には必ず害がある」と告げて言った、とする説。
その他、昔の豪族・貴族の墓所とする説
水戸黄門が迷って出てこられなかった説
水戸黄門こと徳川光圀が当地に立ち入って迷い、ようやく出たのちに禁足地とした説。後に錦絵に描かれ広まった。しかし、それ以前からここは禁足地であった可能性は高い。
藪の中央部の窪地から毒ガスが出でいるという説
中央部が窪んでいることにも関連しているが、科学的な根拠に乏しい。事実であるなら、藪の周辺すら人が通ることは危険なはずである。
藪に底なし沼があるという説
これも、中央部が窪地になっていることに由来する。
葛飾八幡宮の跡地説
至近にある葛飾八幡宮の旧地とする説 - 文化七年(1810)刊行の『葛飾誌略』には、地元の古老の話では仮遷宮(本殿落成の間や社殿改築工事の間、神体を移しておく仮の社殿)だった、とある[2]。また、この地には死んだ動物を供養するための八幡宮の池があり、周囲の人々から「むやみに池に入ってはいけない」と言われていたものが、この行事が廃れたために「入ってはならない」という話だけ今に残ったのではないか、という仮説がある。
近隣の行徳村の飛び地(入会地)説
地元である八幡の住民は当地に入れないため、このような伝説ができたという説。

慣用句
伝承が有名になったため、「八幡の藪知らず」は「入ったら出られない藪や迷路」の総称となった。それが更に転じて「道に迷うこと」「出口のわからないこと」を「八幡の藪知らず」「やわたしらず」と言うようになった。
また、江戸時代にはこの森を真似て迷宮式の藪を作り、入場料を取って中に入らせ、無事に出てこられた者に賞品を出すという興行場が現れたことがあった。これが明治10年頃に復活し、大流行となった。こうした迷路は八幡不知(やわたしらず)のほか、八陣、かくれ杉などと呼ばれた。

(以上は「Wkipedia」より。以下は「解説板」より)

「解説板」。
不知八幡森(通称八幡の藪知らず)

 江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。そして「この藪余り大きからず、高からず、然れどもとしてその中」とか、「」などと書かれたりしていますが、一様にこの藪知らずは入ってはならない所、一度入ったら出てこられない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に」と言われて全国的に知られていました。
 入ってはいけない理由については、・最初に八幡宮を勧請した旧地である。・日本武尊が陣所とされた跡である。・貴人の古墳の跡である。・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。……
 と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(1658~61)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
 「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
 またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられます。
 古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
 市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。
 「不知八幡森」の碑は安政4年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。

 

この付近の今昔
    
1880年代のようす。○が「藪知らず」。        2010年代のようす。         
 

(11:10)「境橋」。 

                             

下に流れる川は「真間川」。『万葉集』にも詠われた真間の手児奈伝説に登場する「真間の入り江」の跡とされている。

桜の季節がいいようです。

 ところで、「真間の手児奈伝説」とは?

市川のむかし話『真間の手児奈』
 むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、しょうぶやアシがいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
 そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、のみ水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、きれいな水がこんこんとわきだしていました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。
 この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青いえりのついた、麻のそまつな着物をきて、かみもとかさなければ、はき物もはかないのに、上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しくみえました。
 井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔やすがたを写してみますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
   「手児奈が通る道のアシはね、手児奈のはだしや、白い手にきずがつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
   「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
 手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、
  「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、かみにかざる玉も思いのままじゃ。」
  「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
  「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
   「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。そのようすは、夏の虫があかりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
 手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
 「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
といいながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈のなみだも小川に落ちて流れていきました。
 手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
 「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
 「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
 翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
 真間の「手児奈霊堂」は、この手児奈をまつったもので、いまでは、安産の神さまとして、人びとがおまいりにいきます。
 また、手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。

(この項、「」HPより)

万葉集』には、

山部宿禰赤人の反歌(短歌)

吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処(おくつきどころ 注:墓所のこと)
 
葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児奈し思はゆ

高橋連虫麻呂の反歌

葛飾の 真間の井を見れば 立ち平らし 水汲ましけむ 手児名し思ほゆ

東歌には4首

葛飾の 真間の手児奈を まことかも われに寄すとふ 真間の手児奈を

葛飾の 真間の手児奈が ありしかば 真間のおすひに 波もとどろに

にほ鳥の 葛飾早稲を にへすとも そのかなしきを 外に立てめやも 

足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の 真間の継ぎ橋 やまず通はむ

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