goo blog サービス終了のお知らせ 

おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鶴瀬宿~勝沼宿~栗原宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第8日目)

2017-07-31 20:06:41 | 甲州街道
 (10:44)いよいよ勝沼の町に入ります。

「大善寺」。

 このお寺は別名ぶどう寺と言って、甲州ブドウ発祥の地です。奈良時代、当地で修行中のお坊さんの夢の中に、ブドウを持った薬師如来が現れたため、ブドウの作り方を村人に教え、この地方にブドウ作りが盛んになったとの言い伝えがあるようです。

「東京から118㎞」ポスト。

柏尾の交差点。旧道は「国道」から右に入っていきます。

さっそく沿道にはぶどう園が軒を連ねています。

(10:57)「国見坂」の標示。 
                   元和7年(1621)甲州街道の往還筋の地名として定められた。
行く先を望む。

収穫前ですが、見事なぶどう棚。

黒塀の続く建物が左手に。「ワイン民宿鈴木園」。

 19世紀建築の古民家にアンティーク家具をしつらえた和洋折衷の宿です。
 ご朝食は薪ストーブのある食堂で。長年をかけて園主が収集したアンティークギャラリーと地下ワインセラーもお楽しみ下さい。

                                         (「じゃらんネット」より)



(11:02)「上行寺前」交差点。

                          



勝沼宿は元々甲斐武田氏の一族の勝沼氏により開かれた町で1618年(元和4年)に宿場に指定されました、1686年(貞亭3年)には上町、仲町、下町、横町、上新町、下新町に町割りがなされています。
 1843年(天保14年)には、家屋192軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋23軒、問屋場1軒と比較的規模の大きい宿場で、この辺りの経済の中心地でした。

右手に「勝沼宿脇本陣跡」標柱。



(11:08)「上町」の交差点を過ぎて右側には「勝沼本陣」跡。「槍掛けの松」碑。


                   
 本陣に大名、公家などが泊まると槍を立て掛けた松。



 ぶどうで栄えたこの宿場町には、旧道らしい立派な商家建物が並んでいます。


                    


勝沼宿仲松屋
 勝沼宿仲町の仲松屋住宅は、江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治時代の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした、板葺、二階建建築で、通り土間を挟み明治後期に一階を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。
 西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵屋敷などから構成されている。
 東西両屋敷群は江戸時代後期から、明治時代の勝沼宿の建築を知る上で貴重である。

                                      勝沼町 教育委員会
三階建ての蔵。修復工事中。


旧田中銀行社屋  国登録有形文化財
 明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた洋風の建物。大正9年より昭和7年ごろまで「山梨田中銀行」の社屋として利用されていました。
 外壁は砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに洋風建築の名残があります。建物内はその後の変遷でだいぶ間仕切り等変更されていますが、落ち着いた室内になっています。
 また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。

                                   勝沼町 教育委員会

              

 (11:13)ここまで炎天下の中を歩いてきたので、休ませてもらおうと中に入りました。中から70代後半の方が現れ、この建物の歴史や勝沼宿の変遷などお話を伺いながら、おにぎりを。その方もコンビニ弁当を広げて一緒に食事。飲み物も出してもらいました。

 「今日は暑いから誰も来ないよ」「無理しない方がいいよ」「東京や横浜の人が多くくるね」
 「8月のお盆の頃はけっこうにぎやかだよ」「鉄道が遠いので昔と同じような街並みだよ」
 「戦時中は北白川宮様が疎開してたり、他にもけっこう偉い人も来ていたよ」
 「なんてたってワインはおいしいさ、でも、飲み過ぎると腰に来て立てなくなっちゃう。昔は飲み過ぎて足を取られて道路で寝転んでいる人もいたね」

 などとけっこう長話。入ってくる風が涼しくて何よりです。

 1階は銀行当寺のカウンター風。棚には台帳や計算機などが置かれています。手動でゼンマイを回して音を出す蓄音機なども。残念ながら取っ手がなくなったので回すことはできなくなっていますが。
        

   

 「この辺りでは蚕もやっていたんで、出荷する繭を担保にして金を貸したりしていたんだね、保管するための倉庫もあった」・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴瀬宿~勝沼宿~栗原宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第8日目)

2017-07-28 22:37:56 | 甲州街道
 「中央道」が迫ってきますが、すぐに左手に離れていきます。

 沿道には、クリやカキ畑などが出てきます。


                 

右手の山の上にかっつての国鉄時代の旧トンネル跡。勝沼ではそうしたトンネルを利用してワインの貯蔵庫にしているそうです。

(10:04)「古跡 血洗沢」の標識。「この地は土屋惣蔵が逃亡した跡部大炊介を追尾して斬り、この沢で血を洗い流したと言われています」と書かれてあります。


その先には「古跡 鞍懸」の標識。「この地は、逃亡する長坂長閑が土屋惣蔵に追われ、落ちた鞍が路傍らの桜の木にかかっていた所と言われている。」とあります。


目を転じるといよいよブドウ畑が。

振り返って笹子峠方向を望む。

(10:08)「東京から116㎞」ポスト。


目の前に長柿(おさがき)洞門が現れます。洞門手前の横断歩道を渡って洞門に入るルートが一般的。右手の階段状の道を上っていくと、旧道になるようですが、回避。

 洞門をぬけたところで、左手の小径に入ると、「日川」に架かる、すっかり朽ちてしまった吊り橋があります。


「長垣(ここはこの漢字)橋」。



 
芭蕉句碑。「観音の 甍見やりつ 花の雲」。
 この「観音」は浅草の観音(浅草寺)のこと。「横吹」の地にある「観音堂」(洞門の上の方にあるようですが)つながり?

 桜が咲きそろう春爛漫の空の向こうに浅草寺の甍(大屋根)が見える。深川芭蕉庵での一句。「花の雲鐘は上野か浅草か」も有名。
 
「大和十二景 長垣の吊り橋とぶどう畑」という標識。

 すぐ国道に出ます。。「観音トンネル」の先、左手にある「山崎石材」前の横断歩道を渡って右に行くと、国道をくぐる道になり、「横吹」の集落となり、そこを通る道が旧道になるようです。残念ながら見逃してしまいました。

横断歩道を振り返って見たところ

真新しい「共和洞門」。そこを抜けると甲府盆地が広がります(10:22)。眼下には一面、ぶどう畑が。


                       

(10:30)左側に「大和町」のモニュメント。

笹子峠も遠ざかってしまいます。

 その先、「深沢入口交差点」を右に800㍍ほど進むと「勝沼トンネルワインカーヴ」があります。行くことは省略し、紹介のみ。

 トンネルワインカーヴとは、甲州市勝沼町につくられた、トンネルを利用したワイン貯蔵庫のこと。
このトンネルは明治36年に建造され、そのままの姿をとどめているJR旧深沢トンネルです。
鉄道文化の遺産としても貴重なレンガ積みのトンネル(1100メートル)として保存され、ワインの長期熟成と付加価値を高める施設として整備されています。
温度は年間を通じて6~14℃、湿度は45~65%とワインの熟成には最適な条件がそろっており、約100万本のワインを貯蔵できるそうです。ワインメーカー用(蔵置場)と個人用のユニットが用意されていて、レストランや個人用の1ユニットはワイン300本が収容可能で保管料は1か月2500円。
ユニットごとに施錠ができ、保管には万全を期しています。ワインカーブ内は入口付近の見学もでき、管理事務所では観光案内とワインの販売も行っています。


HPより)

分岐点に「柏尾橋」解説板。

柏尾橋
 明治13年6月明治天皇の山梨御巡幸に際し、甲州街道の拡幅整備が進められた。
 この時柏尾橋は、幅3間長さ19間の欄干付き木造橋として掛け替えられた。橋は深沢の両岸の岩盤中程から、二段の石垣を積み上げ橋台とし、下段の石垣からトラス構造の橋脚を両岸から突き出し連結したもので、明治26年の版画や大正初期の銅版画が残されている。
 この明治橋の北側には、大正から昭和初期に掛け替えられた橋台、さらに江戸時代の橋台が
残っており、南には、現在の鉄骨橋、平成8年、さらに下流の甲州街道以前の大善寺東参道の橋があった位置に祗園橋が掛けられた。  

         勝沼町   教育委員会

「大日影トンネル」に寄ってみたかったのですが、残念! 

「柏尾坂の馬頭観音」。

「柏尾戦争」を伝える錦絵

「柏尾の戦い」。

(10:34)小公園風のところに「近藤勇」像。

                     

柏尾の古戦場
明治元年(1868)3月6日、近藤勇率いるかつての新撰組、会津藩兵甲陽鎮撫隊と因幡、土佐、高遠藩兵からなる官軍がこの地で戦った。
 甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、勝沼宿に2ヵ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道岩崎方面、菱山越の三手に別れ、攻撃を加えた官軍の前に敗れ敢え無く敗走した。
 この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。町内にはこの戦いで戦死した3人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が3個伝えられている。

 《補足》
 戦闘は官軍(明治新政府軍)の勝利で僅か1日で決着、近藤らは八王子方面を指して敗走しました。

ベンチがあるので、小休止。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶴瀬宿~勝沼宿~栗原宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第8日目)

2017-07-25 20:43:12 | 甲州街道

 7月22日(土)。快晴。

 猛暑の中を歩いて、失敗! あまりの暑さで「下栗原」交差点で挫折。
 「甲斐大和」駅を9時半過ぎに出発して、半日の歩きでした。ずっと下り道ですが、想像した以上にアスファルトの照り返しがきつい! 舗装道路歩きは心身にこたえます。まったく日陰がなく、風がほとんどない。沿道の左右にはブドウ棚やブドウ畑が広がり、道沿いに樹木はほとんどありません。日照時間が大事なのでしょう、ブドウの生育には豊かな太陽光が大切なのですが。
 まだ収穫期を迎えない、高いブドウ棚の下は日陰がありますが、ほとんどお店が閉まっていて立ち寄れず。さらに、沿道にコンビニも見当たらず、商店もわずか。人気のお店にはけっこう人がいましたが、道路を歩いているのは、地元を含め、皆無。
 ということで、勝沼のはずれ、「白百合醸造」でワインをあれこれ試飲し、ついでにワインを2瓶を購入リュックに入れて・・・、実は、そのせいもあります。ほろ酔い気分で炎天下を歩くことは、・・・。
 あらかじめ電話番号を控えていたタクシーを呼んで「山梨市駅」へ向かいました。

 そういう意味で、実に中途半端な第8日目です。

 中央線・高尾から甲府行きに乗り換えて、前回の「甲斐大和」駅に着いたのが9時半過ぎ。そこから旧甲州街道まで戻っての再開です。
 (9:34)駅からの途中、「諏訪神社」境内には、

初鹿野の大杉跡
 ここにあった大杉(樹齢371年)は笹子峠の矢立の杉、一宮の大杉と共に甲州街道の三本杉といわれた巨木でしたが、明治36年に鉄道が開通し、その震動と蒸気機関車によるばい煙のためか、樹勢が衰え枯れてしまったそうです。

巨大な切り株。

「本殿」の彫刻。
   江戸時代初期の建立。竹林の七賢人をはじめ、上り竜下り竜など見事な彫刻が施されている。


                  球形の道祖神。この先もこの型のものが目につきます。


 「日川」に架かる「立合橋」人道橋を渡り、左に進みます。

 (9:50)「金岡自画地蔵尊碑」という石碑。
 この地は絵画の巨匠巨勢金岡遍歴の際、岩面に地蔵尊を描いた所です。
 今は水害にあい、岩角崩れ当碑のみなり。




「鶴瀬関所跡」。


史跡 鶴瀬関所跡
 甲州道中鶴瀬宿東のこの地は、北は山々に閉ざされ、南は日川に阻まれた天然の要害となっており、郡内領より笹子峠を越えて国中に通ずる要所にあたり、ここを通らずして江戸への出入りが難しいこの地に関所が設けられました。
 この関は甲州道中の小仏関につぐ口留番所として、上り男手形不要、女上下とも改めて、江戸への鉄砲の入りと、大名妻女の江戸からの脱出「入り鉄砲に出女」を特に警戒したと云われています。
・・・関は明け六つ(午前6時)に開門、暮れ六つ(午後6時)に閉門した。享保年間の検地に8間半の間口3間半口留番所1畝歩と言い伝えられています。
 また、参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩でした。
 特に鶴瀬の関は甲州一二関の一つとも云われ重要視され、江戸時代を通じて機能を果たしてきたせきしょであったが、明治2年(1869)に廃関され建物は取り壊されました。
 現在は、道路の拡幅等により往時の面影は失われてしまいましたが、「木戸下」の小字名は残り、後世に残す遺跡として市の史跡に指定されています。

                   平成26年3月   大和まちづくり推進会

国道を渡ると、「鶴瀬宿」。
                   江戸より第三十一宿、江戸へ三十里二十七丁、甲府へ五里一丁 


甲州道中 鶴瀬宿
 鶴瀬宿は山梨郡栗原筋に属し、江戸より30里27丁余りで、旧村名の鶴瀬村は鶴(都留)郡の背にあたることによると云う。
 江戸時代の天保14年(1843)「宿村大概帳」によると、宿高は189石6斗余、人別242人、家数58軒、うち建坪60坪の本陣が宿平に、50坪、32坪の2軒の脇本陣が宿の中程に、また旅籠は4軒あり。
 本陣に隣接した問屋場には問屋1人、年寄3人のうち1人と馬指1人が毎日詰めていた。人馬の継ぎ立ては駒飼宿と合宿であり、1ヶ月のうち1日から20日までの間を務めた。同宿に属する加宿には山梨郡栗原筋の小佐手・初鹿野両村があった。
 高札場は宿の西方にあり宿の両側は家並みであるが、裏は畑や山で日川が南流している。問屋は大名武家等の荷物を伝馬輸送する事務を執り、村人の多くは農林業の傍ら輸送に従事していた。ほかに旅籠や茶屋を営む小商人があり、土産品として「ひる石」が売られていたと云う。
 近世、道路網の発展により宿場は様変わりしたが、宿中程の常夜燈と当時からの家々の屋号(呼び名)に往時の面影を今に伝えています。

                   平成26年3月   大和まちづくり推進会



                    

すぐに「国道20号線」に合流します。道路、鉄道、中央道等の拡幅・建設によって、かつての宿場の家並みは一部に残っているだけです。
宿内を振り返って望む。 
      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笹子峠~駒飼宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第7日目。)

2017-07-15 21:13:30 | 甲州街道
 県道から左に折れ、緩やかに下って行きます。古風で大きなおうちがチラホラ。かつては藁葺き屋根だったのしょうか?


(12:38)左手に

           大黒屋サンガム(ゲストハウス) 300 years ago Guest house &cafe  
                    古民家宿(甲州街道)
                    素泊¥4100  2食付¥6250


                             (HPより)

「甲州街道 駒飼宿」碑。

見事なマツ。

「旧甲州街道」碑。

山里風景。のんびりと下っていきます。

(12:41)「古道橋」。

眼下は「笹子沢川」。竹が生い茂っています。

「中央道」の橋脚下を過ぎます。

(12:48)石仏群。右にあるのは「首なし地蔵」。昔、強盗に襲われて亡くなった行脚僧を埋葬したといいます。


「笹子トンネル」に向かう「中央道」。

山崩れの爪痕。九州地方での惨状を類推させます。

県道、バス停にある案内板。

(12:50)しばらくして県道に合流します。すぐに「国道20号線」へ。


降りてきた旧道を振り返る。

今回はここまで。「大和橋」を渡って「甲斐大和」駅に向かいます。
笹子峠方向を望む。

(12:53)「東京から114.4㎞」表示。

「甲斐大和駅」13:02到着。

 難所を越え、次回からは甲府盆地歩きとなります。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笹子峠~駒飼宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第7日目。)

2017-07-14 18:53:15 | 甲州街道

 県道歩きが続きます。本来の旧道は「笹子川」の右岸を進んでいたようですが、現在は歩行不能のようです。「駒飼宿」入口付近でその道が出てきますが実は・・・。

(11:42)道路端に「桃ノ木茶屋跡」碑。

日陰を選んで歩きます。車には出会わず。

前方が開けてきます。山深い印象。


振り返って「笹子峠」方向? を望む。

北方向を望む。

(12:13)「駒飼宿」を木立の向こうに望む。そこにベンチがあるので、パンを食べながら休憩。


さて宿場まで一息。「天狗橋」。

(12:30)橋を超えたたもとに旧道らしきものがあります。

 しかし、厳重な柵があります。降りてきたときに抜けられるのか? 
 よく見ると、鉄条網に電流が流されているようです。集落に近づくにつれて県道脇にはこうした仕組みが目についていました。農作物への獣害防止のためのもの。


その先に、芭蕉句碑。
 
            秣(まぐさ)負ふ 人を栞(しおり)の 夏野哉 芭蕉

 この句は、この付近ではなく、栃木・那須野で詠まれたようです。
 秣(まぐさ)は馬草で馬のえさ。栞(しおり)は枝折で、山路を歩くとき、枝を折って自分が通った道筋を記しておく。

 この広い那須野の原は道が分からなくなりそうだが、あの秣を背負って歩いている男を栞(道しるべ)にしてこうして歩いていきましたよ。

 「笹子沢川」は富士川水系。この先で「日川」と合流し、笛吹川となって、さらに「富士川」として駿河湾に注ぎます。旧東海道歩きで越えました。


「駒飼宿」内のようす。

(12:33)左手の空き地に「脇本陣跡」碑。
 

その先には「本陣跡」碑。


「明治天皇御小休所趾」碑。

駒飼宿
 江戸より第30宿、江戸へ30里9丁、甲府へ5里19丁 本陣1、脇本陣1、旅籠6、問屋場1、宿内家数64戸、宿高135石5斗6升3合


「萬靈塔」。甲州街道で見かけたのは二つ目。

「駒飼宿」案内板。かつての屋号が記されています。

駒飼宿
 笹子峠の西麓にあった駒飼宿は、江戸時代には幕府の公用を継ぎ立てする役目を果たし、旅行者の休泊のため、本陣・脇本陣・旅籠などが設けられた甲州街道の要所として知られていました。
 笹子への道の往還を、人が休み、その名の通り馬が餌と水を与えられた宿場は、今でも家が建ち並び、往時の雰囲気を残しています。

宿内の家並み。



                    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笹子峠~駒飼宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第7日目。)

2017-07-11 23:25:08 | 甲州街道

 鹿児島では震度5強の地震。被害も出たようです。川内原発は平常運転とのこと。もっと大きければどうだったのか? 気になるところです。
 さて、昨日の続き。
  
(10:25)前方に「笹子隧道」がようやく見えてきます。


案内板。

笹子隧道について
 四方を山々に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠です。
 この難所に開削された笹子隧道は、昭和十一年から十三年まで国庫補助を入れて二八万六千七百円の工費を投入し昭和十三年三月に完成しました。抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的であります。
 昭和三三年、新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨、遠くは長野辺りから東京までの幹線道路として甲州街道の交通を支えていました。南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離十数キロメートル、幅員が狭くつづら折りカーブも大変多いためまさしく難所で、遥か東の東京はまだまだ遠い都だったでしょう。
 昭和前期の大役を終え静寂の中にあるこの隧道は、平成十一年、登録有形文化財に指定されました。

                                  大月土木事務所 

トンネルの向こうは「甲斐大和」方面。

峠には右の山道を登っていきます。案内図の下に「この附近にクマ出没注意」の看板! 小休止して登ります。


                         

 トンネルを抜ければ苦労せずに向こう側へ。ただし、トンネルの真ん中付近では光が届かず、真っ暗。車が通ったら危険きわまりない、らしい。
 山道を登って峠をめざした方が、実は、無難のようです。



     振り返って望む。

(10:47)一汗かいて峠に到着。

標高1,096㍍。峠入口から約300㍍の登りでした。この峠は江戸と下諏訪のほぼ中間に当たります。

 右へ登ると「笹子雁ヶ腹摺山」へ約1時間10分、左を行くと「カヤノキビラノ頭」へ約1時間30分。まっすぐ下ると大和村日影・かいやまと駅まで約2時間30分。やってきた道を下ると笹子駅までは約2時間、とあります。

下りにかかります。

天神社を過ぎ、歩きやすい山道を下ると、すぐに県道に出ます(10:57)。


降りてきた山道を振り返る。

左手にトンネルの大和側入口が見えます。

そのまま県道を横切ってガードレールの間から山道を下っていきます。
(11:05)しばらく進むと「甘酒茶屋」跡。

峠道は標識の裏手の山道を進みます。

歩きやすい山道をどんどん下っていきます。

(11:09)「甲州街道峠道」。

崩れた道筋にはロープが。

壊れかけた木橋。

沢筋を越えて行きます。

 途中、道筋が怪しい箇所もありますが、丸木橋を越え(11:23)、しばらく進むと県道・「清水橋」のたもとに出ます。


      しっかりした道。

(11:28)「峠道」と「自害沢天明水」との分岐の標識。振り返って望む。


幅の広い緩やかな階段状の道を進みます。

               

県道から来た道を振り返って望む(11:36)。  

そこに「笹子峠」の解説板があります。  

笹子峠
 徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)
を開通させました。
 笹子峠はほぼその中間で江戸から約二十七里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱千五十六米、上下三里の難所でした。
 峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて広場には常時、馬が二十頭程繋がれていました。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等がありました。また、この峠を往来した当時の旅人を偲んで昭和六十一年二月十二日、次のような唄が作られ発表されました。

       甲州峠唄                        
             作詞 金田一春彦    
             作曲 西岡 文朗

    あれに白いは コブシの花か
    峠三里は  春がすみ
    うしろ見返りゃ  今来た道は 
    林の中を  見え隠れ
    高くさえずる   妻恋雲雀
    おれも歌おうか あの歌を
    ここは何処だと  馬子衆に問えば
    ここは甲州  笹子道

 この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり昭和六十二年五月、清水橋から
峠まで地域推進の一環として、日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して歩行の出来る状態にしました。
                                              佐藤 達明 文



 この先は県道を歩くことになります。         
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笹子峠~駒飼宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第7日目。)

2017-07-10 21:57:02 | 甲州街道

 7月8日(土)。快晴。
 九州北部では大変な豪雨に見舞われて多くの死傷者、行方不明者が出ている(7/10現在、大勢の犠牲者を生む、大きな自然災害となってしまった! お見舞い申し上げます。)というのに、関東地方はカンカン照り(7/10も引き続き)。
 
 そんな中、甲州街道・笹子峠越えにチャレンジ。
 峠を降りた後も、もう少し西へ向かって歩くつもりでした。が、炎天下の国道歩きでは、熱中症になるかもしれない、と予定を変更し、「甲斐大和」駅までにしました。

 09:10から13:05までの約4時間。歩行数は約16,000歩、約10㌔。実に短い距離。でも、峠越えの山道があったので、ほどほどの疲れ。

 前回、笹子峠の山道入口まで進んでいたので、「笹子駅前バス停」09:02発の「新田」行き路線バスに乗車、「新田下」まで。そこまで前回歩いた分、炎天下の「国道20号線」の歩きは、なし。小一時間助かりました。
 前回、事前に確認しておいたので、すぐ山道に入れましたが、この入口は分かりにくい標識になっていますので、要注意!

 今回は、何人かの同行者に出会いました。特に途中からは、60代後半のご夫婦と一緒の歩きになりました。
 この付近は、「クマ出没注意」の看板もあるところ、クマ除けの鈴をお持ちのようで、さらに3人であえてがやがやおしゃべりをしていけば、ちょっと安心という算段。このご夫婦、あまり峠道(旧道)をご存じないらしく、そこは事前準備万端の小生、お手伝いをさせていただきました。
 峠道も終え、県道に出てからお別れしましたが、まだまだ先まで歩き、途中で泊まるとのことでした。


人家がなくなると、いよいよ山道です。

(9:15)しばらく進むと「砂防ダム」の堰堤。杉林の道を進みます。


                   

(9:24)木立の中を登っていくと、先ほど分かれた県道に合流します。「矢立の杉」の幟。


 その先を進むと、前を行く二人連れを見つけました。ご夫婦のようです。大きく道を曲がって、左手にある「笹子峠自然遊歩道」という大きな案内板付近で追いつきます。案内板には矢立の杉まで800mと。そのところで迷っているようす。「この先、矢立の杉入口」という看板も道端にあるのが紛らわしい感じ。この道を行くのだと思いますよと「自然遊歩道」の道を案内。このあたりから3人旅となります。

遊歩道から県道方向を望む(9:32)。

落ち葉が敷き詰められた歩きやすく広い山道を登っていきます。右手に開けた場所が。


(9:42)「三軒茶屋」跡で、「明治天皇御野立所跡」碑があります。



顕彰の記
 過ぐる明治十三年六月十九日大帝本縣御巡幸に際し、畏れ多くも此の地天野治兵衛家に御野立あらせられ、聖蹟を永久に残させ給へりと雖も、時代の変遷と文化の発達による中央線の開通は、此の地を過ぐる者をして絶無ならしめ、為めに聖蹟も又口碑に傅ふるに過ぎざりき

聖蹟の主  天野治兵衛氏
之を慨嘆する事多年其の効空しからず、陸軍大将菱刈閣下の御揮毫を得て記念碑を建立し以て之を永久に傅へんとす。 

 昭和十二年十一月七日

※明治天皇御野立所跡記念碑除幕式における笹子村長天野五六様祝辞より抜粋

                        

街道当時の石垣などが残っています。

(9:48)まもなく杉木立の先にとてつもなく大きな杉が見えて来ます。「矢立のスギ」。


              



県指定天然記念物
      笹子峠の矢立のスギ
所在地  山梨県大月市笹子町大字黒野田字笹子1924の1
種類   スギ
指定   昭和35年11月7日
所有   山梨県
 このスギは昔から有名なもので、昔の武者が出陣にあたって、矢をこのスギにうちたたて、武運を祈ったところから「矢立のスギ」と呼ばれてきたものである。
 そのような名木であるうえに巨樹であるために、県指定天然記念物にされているものである。

 その規模は次のようである。
    根廻り幹囲  14.80メートル
    目通り幹囲   9.00メートル
    樹   高 約26.50メートル
    幹は地上約21.50メートルで折れ樹幹中は空洞になっている。

                   昭和50年10月   山梨県教育委員会

 携帯写真ではおさまりきれない巨木。人が側に立つとよけいその大きさが目立つ。中は空洞になっていて、かつては人が入れたようですが、現在は保護のため、立ち入り禁止となっています。


   

なかなか全貌が取れないので、HPより拝借。
          

右手に杉良太郎「矢立の杉」碑。

矢立の杉
 作詞・作曲 大地  良
 唄     杉 良太郎  

絹雨が降り 足が止まる
虹が出て まるで夢の中
目の前に そびえる 千年の杉
旅人よ 少し休んでいかないかと
語りかけてくる
ここは甲州笹子峠の 黒野田村
矢立の杉の物語

・・・ほこらの中から
見上げる空に輝く星が 強く生きろ
矢立の杉が抱きしめる

旅人よ 生きることに疲れた時は
ここへ来るといい
ここは甲州笹子峠の 黒野田村
矢立の杉のあるところ

 右手にはハンドルを回すとこの曲が流れてくる装置がありますが、遠慮しました。「杉」つながり? 2008年頃の歌らしい。

 少し高台にテラスがあってベンチもあり、休憩しながら矢立の杉を眺めるのは、最高。  

さて、笹子峠に向かって出発。ここで道が二手になります。県道へ向かう道はしっかりした道ですが、旧道は山道を進みます。
細い尾根伝い。(10:10)

夏の暑い太陽を浴びて輝く緑。 

ひたすら登ります。

(10:13)一汗かき、ヒョイッと県道に出ます。 

山道を振り返って望む。

 このあとは県道を「笹子峠トンネル」まで上っていきます。
 後ろから自転車が喘ぎ喘ぎ上って行きます。峠を越えれば、後は下り坂が待っています。「お疲れ様、頑張って! 」つい声援を。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その8。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-26 21:12:52 | 甲州街道
 「笹子峠」へ少しでも近づいて、次回の歩きを楽にしようともっと進んでみます。
「笹子峠」方向。

道路沿いに石仏群。

 途中、右手に朽ちた建物。「笹子鉱泉」の看板もなくなっています。廃業したようです。向かい側の食堂「しらかば」は健在。


                 

峠に向かって上り坂が続きます。振り返る。


国道沿いには旧道らしい「黒野田」追分の家並みが続きます。
沿道の酒屋さん。

 峠越えのためか、途中「追分」に食堂が2軒ありますが、コンビニは見かけません。

(14:54)「東京から108㎞」ポスト。

右手にはかつてあったコンビニの大きな敷地がそのままあります。この先、国道左手が笹子峠への入口になります。


「国道」から左手に入る。

 「国道20号線」はこの先、長いトンネルで笹子峠を一気に抜けて、「甲斐大和」に向かいますが、旧道は山道や県道をたどっての峠越え。ただ、峠直下には短いトンネルができています。

(15:00)「矢立の杉」の看板。

 国道に平行する橋を越えると、旧道が左手にあったようですが、そのまま舗装された県道を進み、道なりに左手をゆるやかに上って行きます。


                 

(15:10)「新田下」バス停の先、右手の角から「笹子峠」に向かいます。峠への案内表示。


 今回はここまで。「笹子駅」方面に向かう路線バスを待ちます。その間出会ったのは、、幼子と散歩する若い母親のみ。挨拶がてら「この辺りの人はどういう生活をしているのですか、畑仕事ですか」とたずねると、「いえ、畑は趣味みたいなものです。石和へ勤めに出ています。車で40分くらいですから。」と。
 笹子峠を抜けるトンネルがあることで、ずいぶんと仕事先や勤めも変わってきたようです。
 のんびりと山村の自然の風景を楽しみながら待つこと、40分ほど。15:48発の「大月駅」行きに乗り、「笹子駅」で降車、16:21発の中央線で帰京。次回は、ここまでバスで来て、峠越えをする予定ですが、クマが心配です。

「笹子駅」スイッチバック跡(右手、「大月」寄り)。
                     
「JR東日本笹子トレーニングセンター」-2009年に開設された保線、電気、通信などの訓練施設―となっています。

(16:03)「笹子峠」方向を望む。

東京方面に戻る山ガール、山ジジババが次第にホームに増えて来ました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その7。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-22 20:58:00 | 甲州街道

旧道はJR線の土手によって寸断されたようです。

「東京から105㎞」ポスト。

(13:43)しばらく進むと、右側から道が。旧道? 

「笹子川橋」(「国道20号線」)。

国道は左へカーブしながら「笹子川橋」を渡りますが、旧道はこの橋を渡らずに手前をまっすぐ進んでいました。笹子小学校のところで分断されてしまうので、左手にある橋を渡ります。
「旧笹子橋」(車両通行禁止)。

(13:52)その先にある酒蔵が「笹一酒造」。


 ここで休憩。お酒をいくつか試飲し、隣の食堂でお蕎麦を食べ、ネーミングにひかれて、「純米 無濾過生原酒 夢山水 720ml」 1本買う。
             

(14:19)そのまま道なりに進むと、「笹子駅」。この付近が「阿弥陀海道宿」だったらしい。


 阿弥陀街道宿は、江戸から24番目の宿場で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠4軒の宿。前の白野宿と先の黒野田宿と3宿で合宿となってい宿場の継ぎ立てを行っていました。「此地一名を葦(よし)が窪といへり。駅の南に阿弥陀堂あり」ということから名前がついたらしい。

              「観光案内板」。

 まだ時間が早いので、路線バスの時刻を確かめ、笹子峠入口付近まで歩くことにします。
 中央線のガード右手にある人道用のトンネルをくぐると、旧道が少し残っています。


               

すぐに国道に復帰。

(14:32)「黒野田」バス停。

火の見櫓の下にあるのが「笠懸け地蔵」。

その先、立派な屋敷門のあるおうちが「本陣跡」。


              

「笹子川」に架かる「黒野田橋」。

(14:37)その先右手の「普明禅院」門前には、
「江戸より25里」。
 但し、「Wikipedia」の資料だと「26里」目。

「黒野田一里塚」跡碑。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その6。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-21 22:07:47 | 甲州街道

 この付近には旧道も断続的にあるようですが、現甲州街道の「国道20号線」を進みます。
(12:53)「立河原」バス停。右奥は「中央道」。

                 

かなり高いところに中央線の鉄橋があります。右に旧橋脚跡らしき建造物。


 おそらく旧道(甲州古道)は先ほどのバス停付近から右に入って天神峠を登り、「白野宿」へ向かっていました。その途中に「白野一里塚」がありました。ただし、明治になって旧甲州街道が国道として整備された時にはすでにその古道は失われていて、現国道と同じルートになっています(「今昔マップ」参照)。

 (13:05)国道を回り込んだところで右の道に入ると、「白野宿」となります。


白野宿
 白野宿は、江戸から23番目の宿場。次の阿弥陀海道宿とその次の黒野田宿の3宿で継ぎ立てを分担するという小さな宿場でした。本陣1、脇本陣1、旅籠4。

行き交う車も人通りもなく、静かで落ち着いた町並み。


               

「庚申塚」。

土曜の昼下がり。暑い日差しです。

宿内を振り返る。

(13:11)「白野宿」表示。

「宝林寺」。この付近に今泉本陣跡などがあったようですが。

このおたくかな? 

「白野下宿」バス停。

そこから来た道を振り返って望む。


(13:18)宿場の出口付近にある「子神社」。

「ヤマザキYショップ」のところで、国道に復帰。

ちなみにこの先、コンビニ・食料品店は笹子峠を越えて「甲斐大和」駅付近に出るまで、まったくないようです。
「原入口」から右に入り、JRのガードをくぐったら左に進みます。
 
案内図。

(13:21)「伝説立石坂の立石」案内杭。

この立石は現存しているようで、先達のレポートがありますので紹介します。なお、読みは「たていし」ではなくて、「たちいし」のようです。

(以下、「鬼の石杖 http://www.ymnco2.sakura.ne.jp/me/onitue/onitue.htm 」HPより)

 郡内には石杖の伝説がある。このことについて書いてある本がいくつかあるのだが内容がすこしづつずれている。・・・たいていのものは「大月市の伝説と民話:石井深編.大月市教育委員会.昭和55年」を元にしている。”大月市の伝説と民話”は地元のお年寄りのお話や、”北都留郡史”を基にしているという。
 石杖がどのようなものか現地調査してみた。 
立石坂の立石
 笹子駅を出て国道20号を大月方面へ進む。”武田ニ十四将”で有名な、笹一酒造の前を過ぎ、笹子川を渡る。左側に田んぼが出てきて中央線が平走するようになると吉久保バス停が現れるのでここを左に入り、中央線をくぐってT字路を右に進む。稲荷神社で左に曲がると滝子山であるが、石杖を見るには真っ直ぐ進む。旧甲州街道を10分ほどして右に中央線が手に触れるほど近づくあたりで、右へカーブしながら坂道を下り、中央線をくぐって再び国道20号に出る。さらに進めば白野に至る。
 20号にぶつかるところは工場の敷地の一角で、中央線をくぐるところに「立石坂の立石」の標があるので、これにしたがって工場の敷地の中を進むと線路沿いの林の中に引きこまれ、説明板とともに、石杖(立石坂の立石)が現れる。中央線のすぐ横に ザクッ と刺さっている。
 高さは2mほどある。岩盤から突き出しているのだろうが、仮に地下に同じだけ刺さっているとすると、全長4m。厚さは20cmほどある。巾は1mほどある。全部で800000cm3ということになる。石の種類にもよるが、2t以上にはなりそうだ。この石が山姥の杖だとすると山姥の身長は少なくとも4mくらいありそうである。巨大だ。この石が岩殿山の鬼のものだとすると、2tの石を9.5kmほど投げ飛ばしたことになる。これまたすさまじい。
   

注:記事は笹子駅から大月方向に進む行程になっています。

しばらくは線路沿い。振り返って望む。

南側を望む。

「原」の集落。「大月宿」付近からは「笹子峠」まで、ほぼ上りが続きます。

                   
                    

(13:26)「萬霊塔」。

「古久屋」という表示。

落ち着いた家並み。

「親鸞聖人念仏塚」。

(13:33)稲村神社角は「滝子山」の登山道入口となっています。


旧道をそのまままっすぐ進むと、JRの線路にぶつかってしまうので、左に折れてガードをくぐります。


                    

その分岐点にある白壁のおうち。

(13:36)JRのトンネルをくぐる手前左手の高台に「蘆が池由来」碑と解説板があります。ただし、解説板は判読不明個所多し。


                


先ほどの「親鸞聖人念仏塚」に解説文がありますので、引用します。

 ・・・去る程にこの前方の低地が昔時、甲斐沼地としられた葦ヶ池なりしと伝へる。其の池の總面積は最大時は三丁歩余り葦ヶ窪郷の四分の一をしめてるとの説も伝へられる。
 鎌倉時代、西暦一二二五年代浄土真宗の開祖親鸞上人が甲州等々力の積舎萬福寺に参詣の帰路、此地の地頭、北面の武士、小俣左衛門尉重澄宅に立ち寄りしところ葦ヶ池にまつはる毒蛇済度の祈願を懇請される。
 葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄には「よし」なる娘有り、たまたま京より来りし半僧修業僧・晋挺奈良興福寺法性宗の高僧行基が造った、阿弥陀海の阿弥陀堂にこもりて断食修業中、その晋挺に心をよせしが僧業の身には女性のその意を深く説得され其の意の通ぜさるを嘆き悲しみこの池に投身若き生涯を果てしときく。
 地頭の懇願に依り上人供養三七二十一日間小石に大字の名号を墨書きし、池中に投入するや、「よし」の霊は成仏済度され池中に異様な轟き有りて「よし」の霊は観世音大士の姿となり、上人の池中に投入れた、小石が白虎を帯びて先達となり郷人の驚き騒ぐ中、東南の空高く消え去りて遠く、伊豆の手石浜に落ちしと伝へる。今も手石浜の阿弥陀「くつ」には、参詣の人の絶え間なしときく。
 池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源と伝へられる。・・・

来た道を振り返って望む。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その5。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-19 22:12:16 | 甲州街道

初狩宿
 下初狩宿と中初狩宿の2宿で1つの宿場の任を担い、月の前半15日を中初狩宿、後半15日を下初雁宿が勤めました。下初狩宿は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠12軒と比較的大きな甲州街道の宿場町でした。建物の敷地と道路とはかなり段差があるものの、旧本陣だった奥脇家の建築年代は不詳ですが木造2階建、切妻、平入、桟瓦葺、間口が広く本陣としての威容は健在でした。宿場の入り際には文化3年(1806)に建立された聖護院道興歌碑「今はとて かすみを分けてかえるさに おぼつかなしやはつかりの里」があり文明19年(1487)に聖護院道興が訪れ「回国雑記」の中に下初狩宿に訪れた様子が記されています。又、山本周五郎誕生之地としても知られ、生家は洪水によって消失しましたが石碑が建立されています。
・・・
 中初狩宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、宮川橋は当時は名勝として知られ、橋の上から富士山が見える事から「宮川橋の一目富士」と言われたそうです。

(以上、「初狩宿(甲州街道・宿場町)- 山梨県:歴史・観光・見所 www.yamareki.com/ootuki/hatu.html」HP参照)

(12:18)初狩駅旧ホーム跡(現側線)。
  
 首都圏路線の軌道のバラスト(砕石)を製造する「砕石工場」(前回紹介)があり、ここから出発する砕石輸送列車のために、スイッチバックの施設が今でも残されているようです。
 かつての中央本線にはこの付近だけでも笹子駅や勝沼ぶどう郷駅(旧勝沼駅)など多数のスイッチバック構造を持つ駅が存在した。
 ただしこのスイッチバック構造は当駅(初狩駅)発着の工事列車および貨物列車が発着するための設備として残されているに過ぎない。当駅の付近に東洋一の規模といわれた砕石工場(甲州砕石)があり当駅から専用線がのびているため、この設備が必要なのである。また、当駅の側線脇に保線基地を有しており、ここへ越中島貨物駅接続のJR東日本東京レールセンターからの工事資材用のレールの到着がある。
 現在でも当駅はJR東日本の砕石(バラスト)輸送列車の発駅およびレール輸送列車の着駅となっているが、JR貨物の貨物列車の発着は既になくなっている。また工事列車自体の編成も短い事から、スイッチバック施設も大部分が遊休化しており、末端部の引き上げ線付近が道路拡張によって一部撤去されている。
 かつては当駅に停まる旅客列車もスイッチバックを行っていたが、1968年(昭和43年)の複線化の際、勾配のある本線上に新しくホームが設けられ、スイッチバックは行われなくなった。

                                          (以上、「Wikipedia」参照)

 ここで、江東区の「越中島貨物駅」が登場するとは思いませんでした。「レール」がここまで運ばれて来るのですね。

「大月市立初狩小学校」。
 小学校の校庭に「芭蕉句碑・山賊乃 頤とつる 葎哉 芭蕉」があるようですが、見逃しました。

やまがつの おとがいとずる むぐらかな

 貞亨2年、43歳。『野ざらし紀行』の帰途、甲州谷村への道筋での句。山梨県内の何処であるかは本当は不明だが、今日では山梨県都留市であると同市では主張している。
 甲州の山は何処も急峻。夏草の茫々と生い茂る山路では、さすがに山人もおとがいを閉じて歩かなくては、口の中に夏草の穂先が入ってしまう。おとがい(頤)とは下顎のこと。
 山道で会った木こりか猟師が無口で通り過ぎたのを、夏草が口を塞いで喋れないためとして興じたものであろう。
 
           (「山梨県立大学」 http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kai.htm HPより)
  
土蔵造り。

(12:28)右手に「明治天皇御小休遺跡」という石碑。立派な門構えのおうち。小林本陣跡。


                       

その先にも旧家らしいたたずまい。

(12:35)「唐沢橋」のたもとに「首塚」案内板(↓)。

これは武田勝頼から離反した、小山田信茂の「首塚」だといわれています。
         

小山田信茂の謀反と武田氏の滅亡(以下、「Wikipedia」参照)
 天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し、また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。木曽義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。・・・
 勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
 なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある。
 勝頼一行が郡内領へ退避するさなか、信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
 信茂離反に関して、武田方の史料『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。
 一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
 一方、織田・徳川方の史料『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
 織田・徳川勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
 『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。・・・『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

左手崖上に古仏が何体も。

前方が次第に開けてきます。

                  

中央線の電車。

田植えを終えたばかりの田んぼ。


                     

「船石橋」。

(12:44)左手に「船石由来」碑。
  

  

 「船石」とは、船の形をした大きな石だったそうで、親鸞上人が船石の上で説法を行い、また、船石の上で布に名号を書き、老婆に与えたといいます。石は明治代に水害で埋没しまったようです。左側には草に埋もれて「御船石所在地ハ従是東三拾間余」と刻まれた碑もあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-17 21:05:05 | 甲州街道
 (11:46)橋を渡ると、正面は「採石工場」構内となり、立入り禁止。左から途中で消滅した旧道? が現れてきます。


         旧道?

線路沿いを進みます。

時々、電車がすぐ脇を通過します。

人っ子一人通りません。



右手前方に街並みが見えてきました。

(11:57)採石工場の構内を通ります。

わが国砕石業のあけぼの
 わが国の砕石業は、道路舗装工事の普及に伴って発達してきました。明治時代までの道路は、敷石または河川砂利を散布しただけでしたが、大正初期になって米国からアスファルト舗装工法が導入され、それに必要な骨材の生産が行われるようになり、こうして大正8年、日本石油(株)道路部の森豊吉技師および東京の石材業者・荻島茂留氏によって、山梨県初狩に安山岩の砕石工場が建設されました。

 これがわが国初の砕石工場です。その後しばらくして関東大震災が起こったことから、道路用砕石の需要は急増し、初狩の砕石事業は順調な経過をたどって成長しました。しかし、荻野氏はやがて根府川に良質の安山岩の山を見つけて移転したため、初狩における本格的な砕石事業は第二次大戦の後まで幕を閉じることになりました。この本邦初の砕石工場は、のちの甲州砕石株式会社初狩鉱業所のすぐ近くでしたが、直接のつながりはありません。
(甲州砕石(株)25年史より抜粋)
 上記資料により、諸先輩方が初狩の豊富で良質な岩石に着目されたことにより、砕石発祥の地が生まれました。

(以上、HPより)

前方に踏切が見えてきます。

(12:00)「第七甲州街道踏切」。

 「駒橋宿」の手前でJRの「第五甲州街道踏切」を渡りましたが、「第六踏切」はどこにあったのでしょうか?


 旧道が明治になって国道になったときには、ここよりもう少し東側にあったのですが、現国道になったときに、旧道と共に廃止されてしまったようですが・・・。

右手に「聖護院道興歌碑」。


 碑面の「今はとてかすみを分けてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里」の歌は、京都の聖護院門跡道興の作である。
 道興は、関白近衛房嗣の子で、仏門に入り大僧正となり、天台宗寺門は修験宗(山伏)の総本山聖護院の座主を務めた。諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ね、その様子を「回国雑記」に記している。
 それによると文明3年(1806)『甲斐国志』の編者、森島基進が自筆し建立したもので、碑高138㌢、周囲76㌢の六角自然石柱である。

                         

今はとて かすみを分けて かえるさに おぼつかなしや はつかりの里

民家の軒先に馬頭観音。

しばらく進むと国道に復帰。

(12:06)「東京より100.1㎞」表示。

街道沿いらしいおうち。「下初狩宿」の家並み。下初狩宿は旧街道が拡張され、国道20号線となっているので、古い町並みは国道の道路面よりも大幅に下がっています。


                         

下初狩宿
本陣2 脇本陣2 旅籠12軒の宿。問屋業務は中初狩宿と半月交代で行った。     




「山本周五郎生誕之地碑」。

山本 周五郎
 1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)、日本の小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。

 作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。周五郎は、純文学の作家を目指していた。ところが、1932年に大衆色の強い講談社の雑誌『キング』に人間の信頼をテーマにした時代小説を書いた]。
山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。
 『婦人倶楽部』連載の「日本婦道記」で第17回直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった。辞退の理由として、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったこと、が挙げられる。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、審査員だった吉川英治の評(「書く物として『名婦伝』のごときは至難の業のほうである」)を許せなかった可能性もある。周五郎は9年掛けて「よじょう」(1952年)でついに恨みを晴らすのである。

・・・

逸話
 山本の本名「三十六」は、明治36年生まれであったことから来ている。
尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない。」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ。」と言ったという。
 若い頃に植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ。」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
 山本は、中原中也や太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
 ワイン好きであった山本が「これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似ない、これぞワインだ」と絶賛した国産のマデイラ・ワインが、生まれ故郷でもある山梨県の中央葡萄酒株式会社から「周五郎のヴァン」として販売されている。

主な作品
・日本婦道記 (1942年)
・柳橋物語 (1946年)
・樅ノ木は残った (1954-58年)
・赤ひげ診療譚 (1958年)
・五瓣の椿 (1959年)
・青べか物語 (1960年)
・季節のない街 (1962年)
・さぶ (1963年)
・虚空遍歴 (1963年)
・ながい坂 (1966年)
(以上、「Wikipsdia」参照)

 以上挙げた作品は読んだことがあるものです。こうみると、けっこう読んでいますね。

「二十三夜塔」と「常夜燈」。

(12:10)「初狩駅前」信号。



     
             今池家(国登録有形文化財)。医院だったそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-16 21:42:02 | 甲州街道

国道沿いですが、落ち着いた街並み。


                   

「大月市酪農組合 花咲集乳所」。

(10:24)「花咲下宿」バス停。

右手を見ると、「オトリ鮎」の看板。ちょっとのぞいてみました。


          オトリの鮎。


「ガスト」の先に見えてきたのが、本陣「星野家」の豪壮な建物。


       
         (10:29)期待して近づきましたが、閉館中です。残念!

「明治天皇花咲御小休止所跡」碑。

隣に「本陣」跡碑。

そこで、本陣・星野家の解説文を拝借。

 星野家は、甲州街道・大月宿の西隣にある花咲宿の名主を務めていた旧家です。
 下花咲宿の本陣であり、幕末には薬の商いも行っていたほか、農地解放前には25町歩ほどの田畑を所有し、養蚕では百貫ほどの収穫があったと伝えられています。
 江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しましたが、天保六年(1835)の火災で焼失し、その後、再建されました。
 再建の年月を示す資料は未発見ですが、嘉永5年(1852)に記された家相図によると、間取りと規模が現在の母屋と一致しており、天保末からこの間にかけて再建されたと考えられています。
 現在の母屋は、焼失以前のものと比べると、規模は小さくなりましたが、間取りと部屋数は変えず、街道により近づけて建てられました。
 明治13年(1880)6月18日には、明治天皇が京都へ御巡幸の際に御小休所にあてられました。
 江戸時代から続く壮厳なたたずまいは、由緒ある歴史を今に伝えています。

 星野家住宅 附家相図一枚
 ●主屋一棟 居室部及び座敷部
 ●籾蔵及び味噌蔵
 ●文庫蔵一棟 土蔵造


富士納豆製造所の商品は、星野家住宅敷地内に星野家に隣接したところで作られています。

(以上、HPより)



             

(10:33)「東京から96㎞」ポスト。

「中央道」大月インター入口。

「笹子川」に架かる「西方寺橋」を渡り、左折して行くのが旧道?


 この道は、かつて地域興しのイベントとして行っていた「JR・甲州古道ウォーキング」シリーズのうち「大月駅→初狩駅」掲載の「古道」です。
 大月JCTの真下を進み、前沢橋から善福寺、真木諏訪神社を経由して、「初月橋」で国道20号線に合流するコース。 ただ、古地図では確認できず。
 結局、現甲州街道「国道20号線」を行くことにします。

 国道を歩くよりは、と「笹子川」の土手を歩いてみました。鮎釣りらしい方の姿も。


               

 国道に戻り、しばらく進んだ右手の坂に「二十三夜塔」、その左手奥には古仏群。現国道改修工事の際に移動したようです。
 

                               


「中央道」大月JCTから分かれて河口湖に向かう高速の下をくぐります。

(10:53)「東京から97㎞」ポスト。

右手奥の高台に「日本電気」の工場。

左手はJR線。右手は田園風景。


           

                    

上下線で電車が通過中。


               

「笹子川」に架かる「真木橋」を渡ります。

「真木」の集落を進み、しばらく行き、左にカーブするところに「いなだや食堂」があります。そこで、昼食休憩。


お店に入ると、総出でおにぎりづくり中。「田植えのイベントで来ている人達のお昼ですよ。この先の田んぼでやっています。東京からも来ていますよ。」

(11:37)さて、再開。

国道をしばらく進むと、左手に「源氏橋」。この橋を渡ると、途中で崩壊してしまった先ほどの旧道にぶつかります。


              

橋の右手下にはさっき「いなだや」さんで話に聞いた「田植え」風景。けっこうな人数です。


 江戸時代の甲州街道は「大月警察署」の先から、JR線の南側、「笹子川」右岸に沿って進んでいて、その道が明治になって旧国道として存在していました(「今昔マップ」で確認できます)が、現国道ができて廃道、いつしか失われてしまったようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-15 21:56:51 | 甲州街道

 (9:32)「デイリーヤマザキ」のところで国道に戻って大月に向かいます。途中にあった街道筋らしい古いおうち。


 本来、旧甲州街道は国道の右側にあったはずですが、消滅しているので、「国道20号線(現甲州街道)」を「高月橋」入口交差点まで進み、そこを右折します。目の前には特異な山容の「岩殿山」が迫ってきます。

交差点角に「大月織物会館」。

JRの線路にぶつかったら左折し、大月駅前に通じる商店街の道を進みます。線路を挟んで「岩殿山」。
              

岩殿山
 東京スカイツリーと同じ高さの634m
 JR大月駅から徒歩1時間ほどで頂上に到達できるお手軽なハイキングが可能です。かつて岩殿山城があったこの山一帯は岩石で構成され、豪快な石の壁と秀麗富嶽12景に選定された富士山が堂々と目に入ってきます。・・・
 岩殿山頂上の南側には、鏡岩(かがみいわ)と呼ばれる礫岩(れきがん)が露出した約150メートルの崖が大迫力で眺められます。山容とは裏腹に山頂までのハイキングルートは丁寧に整備され、誰でも山頂を目指せます。JR大月駅から山頂まで1時間ほどで到着するアクセスの良さも魅力で、山梨県が定めた秀麗富嶽12景に選定された絶景は見ごたえたっぷり!
 岩殿山の標高はさほど高くありませんが、下を流れる桂川から一気に山頂まで階段で登るので思いがけず大変です。ですが、ルートの整備状態は良く途中までは舗装路を行き、登山道に入っても歩きにくい場所はありません。高齢者や家族連れも多く訪れていて、頂上までの往復なら登山初心者には最適です。
 稚児落とし分岐から山頂までは20~30分ほどで到達します。おおむね階段が整備され、危険な個所もありません。さらに山頂からは猿橋方面へ下る東ルート、稚児落とし分岐からの巨石や崖が楽しめる西ルートも見逃せません。
 東ルートは岩殿山の東側へダイレクトに下山し葛野川に沿うように名勝猿橋を経由するもの。西ルートは鎖場を幾度となく越えて天神山を縦走する崖沿いのルートで、稚児落としを経由するスリル満点のルート!西ルートは高所恐怖症の方にはお勧めできませんし、整備状態が良いとはいえすべて自己責任ですからよく考えてルートを選びましょう。
 猿橋駅までの東ルートは約3時間、さらに西ルートは岩殿山山頂経由でJR大月駅までもどる標準時間は約4時間です。その分素晴らしい体験ができるのは間違いありませんが過信は禁物ですから、西ルートは経験者や上級者との同伴をお勧めします。
 岩殿山はその姿に似合わず、だれでも登れる山としてルートが整備されています。さらに駅から徒歩で赴けるハイキングルートとしても注目です。さらにコンビニやお土産屋などの充実も見逃せません。ぜひ観光協会で自分の目的に合ったルートを紹介してもらって、最適なスケジュールを組んで出かけてみてはいかがでしょうか?
HPより)

岩殿山城(いわどのやまじょう)
標高634メートルの岩殿山に築かれた山城。
甲斐国都留郡の国衆小山田氏の居城とされ、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られた。
相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置する。頂上の南側直下は鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150メートルの高さの崖で、狭い平坦地を挟んで、さらに急角度で桂川まで落ち込んでいる。
・・・
甲州街道の通過する大月は武蔵国など関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地と異なる地域的まとまりをもっていた。小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、永正6年(1509年)に武田氏に敗北すると、武田氏の傘下に入った。その後は武田氏が相模の北条氏や駿河の今川氏と争い、相模・武蔵と接する郡内領は軍事的拠点となり、岩殿山城は国境警備の役割を果たしていたと考えられている。
岩殿山城は東西に長い大きな岩山をそのまま城にしている。全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。各種の防御施設が配されたが、天然の地形のせいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなかった。周囲には集落や武家館が点在していたと考えられている。

(以上、「Wikipedia」参照)

まっすぐ行った右側には「大月駅」。


             

(9:48)「大月宿」の表示。

「岩殿山」。右奥から歩いてきました。


 駅前から西に延びる商店街の通りがかつての宿場の街並み。


             

右手には「木村屋菓子舗」。
                                                 昔懐かしい印象の店構え。

(10:00)「大月二丁目」のところで国道に合流。

国道を少し進むと、「明治天皇御召換所址」という石碑があります。


              
 明治大帝は王政維新後民情安定に大御心を注がれ給ひ明治十三年六月十六日宮城御發輦二品伏見宮貞愛親王を始め太政大臣三條實美参議寺島宗則仝伊藤博文仝山田顕義宮内卿徳大寺實則文部卿河野敏謙内務卿松方正義侍從長米田虎雄山口正之陸軍中将三浦梧樓宮内少輔土方又元太政少書記官伊東巳代治等百官有司供奉し峻坂難路の甲州街道を降らせられ小佛の險を越へ鳳輦親しく我縣に臨み一週日間に亘り縣下の民風土情を宸察あらせらる此の砌仝十八日大月町字大月先々代溝口五左ヱ門宅に御駐輦あらせられた由緒深き尊き御遺跡なり


しばらく進むと左手下に「富士急上大月駅」。


 「大月橋」東詰の交差点へ。「富士道」(現国道139号線)との分岐点となりますが、かつて旧道は「桂川」の上流を通っていたようです。そこで、手前で右に折れ、富士急の線路沿いに進み、JR線を越えた後で左折し、「新大月橋」を渡ることにします。「大月得東中学校」の脇を抜けて行きます。



路傍に「鮎供養」碑。

城塞のようにそそり立つ「大月東中」校庭。

「新大月橋」からの「大月橋」とJR鉄橋。

桂川(笹子川)には鮎釣り人が点在。

旧道? 

国道に合流します。正面から来ました。


合流してすぐ国道の左側に「下花咲一里塚」跡の解説板や石仏が集まった緑地があります。



                       

 甲州街道沿いに一里(約4㎞)ごとに設置された塚の一つで、この一里塚は下花咲宿の入口付近にありました。現在、道路工事や鉄道により当時の面影がほとんどありませんが、古い絵図等から、この場所に一里塚があったと分かっているようです。日本橋から24里目。

 庚申塔や題目碑、馬頭観音、芭蕉句碑など多くの石碑が集められています。



 「芭蕉句碑」
     しばらくは花のうへなる月夜かな  はせを 元禄4年 48歳(初蝉)

 ※同じ句を刻んだ句碑が亀戸天神境内にあるようです。

振り返って望む。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

駒橋宿~大月宿~花咲宿~初狩宿~白野宿~阿弥陀海道宿~黒野田宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第6日目)

2017-06-14 23:11:51 | 甲州街道
 6月11日(土)。晴れ。梅雨入りはしましたが、青空が広がりました。今回は、猿橋駅で下車し、笹子駅から乗車するという行程です。猿橋駅に9時前に着き、「猿橋」方向へ少し街道を戻り、コンビニで食料を調達、9時過ぎに出発。そして、県道から「笹子峠」に向かう山道の入口にある「新田下」バス停に15時過ぎに到着。約17㎞の道のり、約28,000歩でした。

 猿橋駅で下車した人は数人。街道歩きの人間はいなさそうです。すれ違う人も稀で、結局、会話したのは、「オトリ鮎」にいたおじさん、途中立ち寄った食堂のおばさん、笹一酒造のお兄さん、そして小一時間待った「新田下」バス停での散歩中の親子連れだけ。
 路線バスでは始発の「新田」から乗ったであろう3人連れの「山おばさん」グループでしたが、話はせず。

 土日にもかかわらず、街道歩きの人たちは、ほとんど見かけません。「東海道」や「中山道」とは大違いです。考えてみたら、もう6日目だというのにこれまでもすれ違う同好の士・旅人も合計でわずか4,5人でした。「山登り」の方々はたくさんいますが。

 「共謀罪」やら「モリ・カケ」問題、次々と指弾されているのもかかわらず、まったく無視して突っ走るアベ自公政権。
 こうして相変わらず「街道歩き」にうつつを抜かすことへの後ろめたさを感じつつ。

(9:07)国道を左にカーブするところに「猿橋一里塚」跡の標柱。大きな石碑に隠れるように立っています。


          

行く先を望む。

右側が急に開けてきます。

旧道は「山梨中央自動車」のところを右折します。雄大な景色の向こうに「岩殿山」が。



                 

土曜日のせいか、静かな道をゆっくり下っていきます。


庚申塚。



 左の道を進むと、右下の「発電所」敷地に大きなタービンが据え付けられています。かつて使用されていたものでしょう。解説板がありますが、ここからでは判読、不能。





 1907(明治40)年に東京電燈が山梨県北都留郡廣里村(当時)の駒橋に建設した「駒橋発電所」は、出力15000kWの、当時としては日本最大の水力発電所でした。東京(早稲田変電所)までの76㎞を55kVの特別高圧線で送電を行い、その後本格化する高電圧長距離送電の草分けとなりました。
 当時の「駒橋発電所」は、有効落差104㍍、最大使用水量25.4立方メートル/秒でした。発電所にはEscher Wyss社(スイス)1904年製の横軸フランシス双輪単流形水車が6台(合計27000馬力、そのうちの1台は予備)稼働し、シーメンス社(ドイツ)製の3900KVA発電機6台(そのうちの1台は予備)で発電を行っていました。これらの竣工当時に設置されたフランシス水車と発電機は老朽化のため昭和20~30年代に撤去され、大容量のフランシス水車と発電機それぞれ1台で稼働しています。
 日本で最初の水力発電所は、京都・蹴上の琵琶湖疎水を利用した「蹴上発電所」(1891(明治24)年11月送電開始)でした。東京では明治30年代になって増加する電力需要をまかなうため東京電燈(1886<明治19>年営業開始)によって火力発電所が増設されていきました。東京の市街地に設置されたこれら5カ所の火力発電所は消費地に隣接した近距離送電によるものでした。やがて日露戦争などの影響による産業政策で石炭が慢性的に不足するようになり火力発電では増加する電力需要に応じきれなくなりました。そのため東京電燈は、水力発電による東京への長距離送電を計画しました。長距離送電技術の研究と水利調査などを経て山梨県大月に「駒橋発電所」をつくり(1906<明治39>年1月着工、1909<明治42>年12月20日竣工)東京(早稲田変電所)へ初めて水力発電による長距離送電(76kmで当時は日本最長)を開始しました。山梨県大月に「駒橋発電所」が設置された理由は、桂川が山中湖を水源としており、豊富な湧水が安定して得られることや消費地に比較的近いこと、送電ルートが確保しやすかったことなどによります。

 昭和30年代からの高度経済成長期には、東京では火力発電が主流となり、駒橋発電所からの長距離送電は廃止されます。現在は山梨県東部地域へ送電しています。
 東京電燈「駒橋発電所」時代の発電所本館(煉瓦造)は取り壊され、発電室(煉瓦造)は改修されたため当時の姿を留めてはいません。
 竣工当時は8本の水圧鉄管がありましたが、現在は2本となっています。
 水圧鉄管3本分のアンカーブロックが残されています。
 
(「産業技術遺産探訪~東京電力 駒橋発電所」www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2002/koma/koma.htm」HPより)

※ 先ほど目にしたものは、旧・桂川電力公司 鹿留発電所フランシス水車(1912年フォイト製)のようです。

また、かつて「蹴上発電所」について掲載したことがあります。「インクライン」の時と東海道歩きの時と。
    
                        煉瓦造りの現役の発電所の建物。

導水管を越えたら、すぐ左の坂道に入ります。


 

「第五甲州街道踏切」。

振り返ると電車が通過中。 

じきに「国道」に合流しますが、すぐ「横尾橋」バス停のところから右の道に入ります。


この辺り、旧道は鉄道建設、国道の開通、発電所建設などで寸断されています。

この旧道沿いが「駒橋宿」となります。


              

   

 駒橋宿は、本陣、脇本陣がなく、旅籠4軒と、とても小さな宿でした。
「厄王大権現」。

振り返って望む。

再び国道に合流します。

その手前に旧家。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする