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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

台ケ原宿~教来石宿~蔦木宿~とちの木。その1。(「甲州街道」をゆく。第12日目)

2017-11-13 21:46:03 | 甲州街道
 このところ、土日に所用があってなかなか遠出できません。今回、久々の「甲州街道」。

 11月11日(土)。富士見町周辺。朝方までかなり強い風雨だったようですが、着く頃にはすっかりおさまって(北海道や東北は大変なようす)、快晴。西南の風が吹き荒れ、歩くのにはいささか苦労。しかし、すっかり吹き払われた風情の下、紅葉もちょうど見頃を迎えています。

 「富士見駅」からタクシーで「台ケ原宿」まで。若い女性の運転手さん。今年の夏も秋も天候不順で観光客もさっぱり。やっと落ち着いてきたかなと思ったら、まもなく冬化粧です、と。

(9:53)「台ケ原宿」。
日本の道百選・甲州街道
台ヶ原宿の歴史と由来
 台ヶ原宿の起源は明らかでありませんが、甲斐国志に「甲州道中の宿場なり、古道は辺見筋の渋沢より此に次ぐ・・・」とあり、台ヶ原は甲州街道の設定以前から交通集落としての機能を果たしていたと考えられます。
 元和4年(1618年)に甲州街道に宿請が申し渡されたので、この頃台ヶ原宿も宿場として整備拡充されていったと考えるのが一般的です。
 台ヶ原宿は江戸への里程四十三里十町余、韮崎宿へ四里、隣の教来石宿へ一里十四町、江戸より数えて四十番目、宿内の町並みは東西九町半の位置になり、天保14年の宿村大概帳によれば、人口670人、家数153(加宿共)とされています。
●本 陣 宿中にあり、建坪97坪余、門構え、玄関付き、1軒
●脇本陣 当時は無く宿役人の家において勤める
●問屋場 宿の中程にあり、問屋、年寄、馬指、各1人が勤める
●旅 籠 宿内14軒、大1、中6軒、小7軒、木賃宿1
●郷 倉 宿内1ヶ所
●一里塚 宿内1ヶ所 木立無之

・・・
                      白州町 台ヶ原宿景観形成推進委員会



国道建設から免れ、宿場らしい古い街並みを残す。

立場跡と共同井戸跡


◎立場跡
 立場は宿駅の出入り口にあり、旅人・籠かき・人足・伝馬などが休憩する掛け茶屋であった。建坪が42坪で、時には旅籠としても利用されていた。
◎共同井戸跡
 昔は、湧き水や川水などが生活用水として利用されていたが、衛生面から井戸を掘って、共同で維持・管理し、数戸から十数戸が利用していた。当初は、つるべ式の揚水施設であったが、後に揚水ポンプが導入され便利になった。・・・しかし、昭和30年から白州町になり全戸に町水道がふきゅうしたので、各所にあった共同井戸は廃止されるようになった。

 

⑭旧本陣跡
 大名が陣を敷いた場所というところから、大名級の者が宿泊した所である。したがって、規模は広大であり、門を建て玄関を設け、上段の間を有することで一般の旅籠と区別され、一般の旅籠には許されない書院造りの建築様式であった。
 天明2年の記録に、敷地は間口18間、奥行き19間の351坪で建坪は92坪であった。

⑬秋葉大権現常夜石灯籠の由来
 往年、台ヶ原宿が火災と水害に見舞われたことに起因して、慶應3年「秋月講」というグループが誕生し、防火を念願して「秋葉大権現」の石灯籠を旧小松家(本陣)屋敷跡に建立して、大火の防火を祈願した。・・・
 

街並みを望む。

日本の道100選は、1986年、道の日制定を記念して旧建設省が日本の特徴ある優れた道104を選定したもので、東海道では瀬田の大橋、中山道は安中の杉並木などありました。甲州街道ではここ台ヶ原の宿場町が選ばれています。


甲州街道の宿場町・台ヶ原宿
 往時の脇本陣、旅籠屋、問屋場の原形を残しており、江戸時代の宿駅としての盛況がうかがわれる。国道二十号バイパスの建設により、現在は生活道路となっている。・・・

 その先、郷倉跡高札場跡の説明板があります。

⑨郷倉跡
 毎年の生産物より一定量を備蓄して、非常の時に対応するために造られた備蓄庫であり、囲い籾(古いもの)は、新しいものに取り換えられた。
 文化3年の記録に「壱ヶ所貯穀有之」と記され、凶作の時に時価をもって極難の者に分売したとある。また、明和4年には郷御蔵壱ヶ所、二間に三間の建物で敷地は除地であった。慶應2年の大凶作、嘉永7年の大地震のときに旧穀を借り受けたという。・・・
⑪高札場跡
 幕府からの命令を板の札に墨で書いて掲示した場所で、幕府の権威を人々に認識させる役割を果たしていた。
 文化3年の記録によると、その大きさは高さ二間余、長さ三間、横七尺であった。

七賢」。

          甲州台ヶ原見て歩きMAP」。

竹林の七賢
 中国,3世紀後半に河南省の竹林に集って遊んだ阮籍(げんせき),王戎(おうじゅう),山濤(さんとう),向秀(しょうしゅう),嵆康(けいこう),劉伶(りゅうれい),阮咸(げんかん)の 7人をさす。彼らは,老荘道家の思想(→老荘思想,道家)の影響を受けて,礼教を軽視し,世俗に背を向けて,竹林で気ままな生活を送ったと伝えられる。虚無厭世家の集団ともいわれ,清談の象徴的人物とみなされている。しかし,そのような見方は,西晋(→晋)の滅亡の原因を道家思想に転嫁しようとしたときに生まれた虚構の伝説である。実際には,七賢の大部分は高級官僚としての定職にあったのであり,竹林に遊んだという史実は見出せず,タケの林は北中国には存在しない。しかし,後世になると,世俗のわずらわしさから逃れて生きた賢者の集団として,中国人の生き方の一つの理想像となった。



                      
 明治13年、明治天皇山梨ご巡幸の際、北原家母屋奥座敷4間がご宿泊所「行在所」に指定され、ご一泊賜る栄誉に浴しております。また、奥座敷には高遠藩内藤駿河守より拝領、立川専四朗富種作の透かし彫りによる「竹林の七賢人」の欄間一対が残されており、酒銘「七賢」の由来にもなっております。

(「七賢」醸造元「山梨銘醸」HPより)

 まだ10時というのに、お客さんが続々と見えています。

問屋場」跡。

「七賢」の向かいには「金精軒」。有名な信玄餅の元祖のお店。ここにも観光客が訪れています。



登記所跡
 この登記所は、明治24年2月甲府区裁判所若神子出張所の管轄のうち、菅原村外十ヶ村を分離し、管轄するために開庁された。
 はじめは、龍福寺の庫裡を借りて庁舎としたが、その後、民間の個人宅を借りて業務を行ってきた。しかし、大正元年12月に庁舎が新築落成し、以来業務を行ってきた。その後の機構改革により、大正10年7月より現在の白州町と武川村をその管轄としたが、昭和50年3月韮崎出張所に統合され廃所になった。




(10:05)甲州街道一里塚跡碑 

                   
 日本橋から43里目。

「つるや旅館」の手前。旧館があります。右から左へ、「津留や諸国旅人御宿鶴屋」とあります。
 

向かう先を望む。

 国道に出る手前、右手にある火の見櫓のところを右に折れます。


(10:13)この先、白須の集落に入ります。
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韮崎宿~台ヶ原宿。その5。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-16 21:55:15 | 甲州街道
                                      「大武川」からの南アルプスの山々。

国道に出たら、歩道橋の下をすぐまた右に入ります。

まっすぐ行くと、「大武川」に突き当たるので、その手前で左に曲がります。

国道に戻って「大武川」を越えます。その手前、左手に石碑。その向こうに南アルプス。


橋を渡ったらすぐ左の道に入ります。
 

(13:54)「下三吹」。

火の見櫓を左に見て、長い白い蔵を通過します。

右手、取り壊し中の古民家の前に句碑? 
                                                 「夕立」「駒岳」は読めるが、あとは?

しばらく進んだ左手に藁葺き屋根の水車小屋。

 右手、丘の上が「萬休院」。ちょっと休憩。
 あぜ道を進み、振り返ると奥秩父の山々。甲武信岳、金峰山・・・。
                     

さらに右手奥には富士山(↓)。

「(14:05)舞鶴松・萬休院」への道が左に。

ちょっと道に迷いましたが、何とか・・・。「庚申塔」他。

「上三吹」。

                        

(14:27)「上三吹」バス停。

静かな家並み。この先、手入れのい行き届いた松が。  

見越しの松。

見事です。 

                      

そこから集落内を望む。

屋号入りの表札。

集落のはずれから振り返って望む。

(14:35)旧甲州街道一里塚跡。甲府から七里塚。

そのそばにベンチのある休憩所。見晴らしがよい。

 さて、そろそろバスの時間が気になります。「尾白川橋」の向こうの坂を越えないと「台ヶ原宿」には着けません。けっこうな坂道。


 
(14:40)橋を渡った左に「古道入口」碑。まだまだかかりそうなので、この先で今回はおしまい。「花水坂」14:55発の路線バスで韮崎駅まで戻りました。
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韮崎宿~台ヶ原宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-13 22:50:43 | 甲州街道
 山里風景をのんびり。しかし、農作業をしている人を遠くから見る他は誰とも会いません。たまに車が通るだけ。どういうわけか、あぜ道にパトカーが一台停まっています。

正面奥遠くには「八ヶ岳」。

(12:41)やがて、桜並木となって国道に向かいます。


                     
 
 国道をトンネルで抜けると、「上円井」の集落となります。集落に入って交差点を左に曲がります。ここで「徳島堰」と分かれます。「徳島堰」はまっすぐ進み、「釜無川」の取水口になります。
(12:46)

                         

左手に「徳島翁のおはかみち」と刻まれた石碑。
  

静かな家並み。

 (12:54)右手になまこ壁の立派なおうち。明治天皇の小休所となった。中をのぞくとその記念碑が建っています。
  

豪壮なおうち。

(12:56)「上円井」交差点で国道に合流。

左手遠くに「甲斐駒」が見えてきます。

「青木鉱泉」の大きな看板。鳳凰小屋からドンドコ沢を下ったとき、通りました。

秀峰「甲斐駒ヶ岳」。北沢峠をはさんで、「仙丈ヶ岳」の2峰を登ったことがあります。

「甲斐駒」の左に見えるのが「仙丈岳」。

路傍に古い石碑? 

(13:03)「東京から158㎞」ポスト。

「小武川橋」からの「甲斐駒・仙丈」。

橋を渡ると「北杜市」へ。
 「北杜」は「ほくと」と読みます。

北杜市(ほくとし)
 平成の大合併により、山梨県北巨摩郡に所属する9町村のうち、小淵沢町を除き、長坂町・高根町・大泉村・白州町・武川村・須玉町・明野村の7町村が合併して生まれた市である。残った小淵沢町も後に同市へ編入されたことにより、北巨摩郡は消滅した。
 北杜市の名称が採用された背景には、旧自治体間での駆け引きがあった。いずれも譲らなかった結果、地理的・歴史的・文化的な由来が全くない完全な造語(瑞祥地名)である、北杜市に決定した。

《市名の候補案》
◆八ヶ岳・・・長坂町・高根町・大泉村が賛同。当地域の重要なシンボルであり、全国的な知名度もある。
◆茅ヶ岳・金峰山・・・須玉町・明野村が賛同。
◆甲斐駒ヶ岳・・・白州町・武川村が賛同。
(以上、「Wikipedia」参照)
清里高原。

               (HPより)

橋を渡ったらすぐ右へ折れます。「宮脇」。行く先々で地名が明示されています。


                           

人通りもない静かな家並み。 

例の「飛び出し注意」標識。 

いろんなバージョンがあるようです。でも、あまり飛び出すような場所ではなさそう。 

そそり立つ「七里岩」。  

左から鳳凰三山、仙丈、甲斐駒と一望。

集落を振り返る。国道20号線に合流します。  

(13:17)合流する手前、右の道ばたに「旧甲州街道一里塚跡」碑。「甲府より六里」なので「六里塚」ともいうそうです。
    

付近のようす。  

                         

「国道20号線」をしばらく行き、旧道は右の道を進みます。正面に「武川村米の郷 武川町農産物直売センター」。
                                

「牧原」。  

桝形風のところに大きな「庚申塔」。 

 よく手入れされた見越しの松がある大きなおうちなどが。
 

                    
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韮崎宿~台ヶ原宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-12 20:20:49 | 甲州街道
                                       里山風景。

けっこう激しい流れ。

(11:49)かなりの豪邸です。

昭和13年に建立した石碑があるのですが、詳細不明。この杉の樹形を愛でたもの?
 

用水路(「徳島堰」)はところどころに落ち口があってけっこう水量も豊富です。


 集落の外れまで来ると、豊富な水量・勢いを利用して2カ所に水力発電設備があります。振り子式下掛水車。15㎾の発電量。
 

この先にも「水力発電所」。

(12:00)この先、「戸沢橋」の手前で左の細道に入っていきます。「円井逆断層」の案内板が目印。そこで、軽く昼食休憩。
 

                          

 砂利道になり、途中「林道」を分け、右に進みます。その先で「戸沢川」を渡ります。石伝いに通過。「徳島堰」は暗渠となって(逆サイホンの原理で)この川の下を流れています。


注:「徳島堰」は途中、いくつかの沢を「伏せ越し」(サイフォンのの原理。川の下を暗渠でくぐる仕組み)で交差しています。何ヶ所かそれが見られます。

(12:15)Uターンして坂道を上っていくと、下円井の集落。

 「円野町下円井」=まるのまちしもつぶらい

彼岸花。

上ったところにはちみつを扱うおうち。

落ち着いた家並みが続く。

「火の見櫓」のところに「秋葉山常夜燈」。旧東海道ではよく見かけました。
  

正面に見えるT字路を右折します。

その先のY字路を左に進みます。

(12:23)右手には「下円井(しもつぶらい)公民館」。

道ばたのコスモス、そのはるか向こうに「八ヶ岳」。

右手眼下に田園風景が広がります。


 周囲の風景を愛でつつのんびり進みます。「八ヶ岳」。赤岳もはっきりと。左手に「か」「か」「し」「の」「里」の看板が遠くに見えます。

「かかしの里」のモニュメント。左に「徳島堰」。

(12:30)そこからの風景。

「かかしの里」広場には解説板。「かかしカーニバル」開催地。

「水土里(みどり)ネット円野町」案内図。

かかしの里」解説板。
 のどかな田園風景が広がる円野町の恒例「円野町かかし祭り」が行われます。毎年、会場には世相を反映しユニークなかかし、応募された皆様の思いが込められたかかしが立ち並びます。

より)

毎日新聞2017年8月20日 地方版
 韮崎市円野町下円井の市道で、「円野町かかし祭り」が開かれている。田園を背にした市道には、100メートル走で日本人初の9秒台に期待のかかる陸上選手や、世間を騒がせている政治家などの世相を反映した手作りかかし70体が並び、訪れた人の目を楽しませている。9月10日まで。
 祭りは1994年に始まり、今年で24回目。今年は、地元の高校生や市役所職員など、市内の22の団体や個人が製作。今年は、芸人の「ブルゾンちえみ」など流行を反映したかかしのほか、安倍晋三首相や米国のトランプ大統領など8カ国のトップが手をつないだ「世界平和友好」など政治の動向を踏まえた作品も多く並んだ。
 親子3世代で訪れたさいたま市の久保安美さん(35)は「今年は政治家のかかしや町の活性化を願う作品が多い。眺めながらもっと平和な世の中になることを願いました」と話していた。【松本光樹】

東方向(韮崎市街地)を望む。

 しばらく進むと「徳島堰」のところに「徳島堰」の解説板があります。           
             

徳島堰由来
 この堰は古くから日本三大堰(柳川堰、箱根堰、徳島堰)中随一と言われています。330年前、江戸の住人徳島兵左ェ門がこの地方の開発を計画し、幕府(甲府藩)の許しを得て、寛文5年(1665)工事を始め、同7年に上円井(韮崎市円野町)より曲輪田の大輪沢(櫛形町)まで約17kmの堰を造りましたが、何故か兵左ェ門は同年秋工事から手を引きました。その後甲府藩では有野村(白根町)の郷士矢崎又右ェ門等に命じて全区間の不良箇所の修復をさせ同10年に完成したので、この堰を徳島堰と名付け兵左ェ門の功をたたえましたが、又右ェ門は工事に私財を使い果たして生活は困窮しました。
 当初約350haの耕地はその後増加し水路は老朽化したので、昭和41年より9年の歳月と 億5千万円の巨費を投じて農林省によって改良工事が行われ、昭和49年に完成しました。現在毎秒7.96㎥の水が自動的に流れ、田1559ha、畑2052haの沃野がこの堰の恩恵を受けています。
 水辺に立って豊かな水の流れを見つめると先人の功績が偲ばれます。(文責歌田)

平成7年8月吉日         平成かかしカーニバル実行委員会建之

(12:38)その先に、「寺沢サイホン」。

伏せ越し
 河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイホンで河川を自然流下で通過させること。

逆サイフォンとは
逆サイフォン(伏せ越し)は、サイフォンを逆さにしたものです。水の流れが目に見える開水路(かいすいろ)がつながっていなくても、ある程度の水位差をもたせることで、入口からは水が吸い込まれるように入っていき、出口からは吹き上がるように水が出てきます。


(「http://www.maff.go.jp/kyusyu/nn/new/17/gijyutu/gijP01.html」より)

 ここは、別の水路と道路が交差し、その下を流しています。
「流水不易」の銘。
                             
               
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韮崎宿~台ヶ原宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-11 20:37:30 | 甲州街道
                                       上・下「祖母石」。
 なまこ壁、土蔵造りなど、また松などの庭木がよく手入れされたの立派な屋敷が続く家並み。


                      



(10:55)「藁葺きの門」。     
                       このおうちはこの地で三十代も続く宮方家。


「祖母石」の集落を振り返って望む。

                   
       車も人も見当たらない静かな佇まい。

「上祖母石」地区に入ってしばらく進むと、再び国道20号線と合流します。この先、旧道は釜無川を渡り対岸の折居へは向かっていましたが、現在はここから渡ることは出来ません。

 (11:04)合流点近くの左側に「九頭竜大神」など石碑が並んでいます。    
九頭龍(九つの頭と龍の尾を持つ鬼)伝承、伝説にちなんだ石碑。全国各地にあるようです。ここでは荒れ川であった「釜無川」の治水に関するものでしょう。

用水路を3つに分ける「分水井」。

「七里岩」はまだまだ続きます。

国道をそのまま進まずにUターンします。

注:今回、先達のコース紹介に基づいて歩きましたが、

 「今昔マップ」を見ると、明治に入ってから「旧甲州街道」は「現国道20号線」と重なる形で進み、「穴山橋」を渡り、「円野郵便局」を過ぎていきます。今回歩いた道はすっかり集落内の細道になっているようにも見えます。
 「分間延絵図」(江戸幕府が五街道などの状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。問屋場、本陣、脇本陣、寺社などや一里塚、道標、橋、高札場などが描かれている。)でも「今昔マップ」と同じく、現国道に沿った道筋になっています。
 したがって、そのまま「国道20号線」を進んでも、あながち間違いとは言えないようです。


(11:12)「桐沢橋」で「釜無川」を越えます。

正面には「鳳凰三山」。

左手遠くには「富士山」の頭が。

右手の向こうには「八ヶ岳」。 
                             縦走したことがある山並み。

 「柳沢橋」は絶好のビューポジションになっています。

橋を渡り終え、右に曲がります。 

今度は「八ヶ岳」が正面奥に。

「清哲町案内図」。

 「清哲町」には、「信濃の国」に次いで日本で二番目に古いと言われる「 郷土歌」があるとか。

「韮崎射撃場」跡。

 ・・・県立射撃場を巡っては1998年11月、韮崎市の当時の県立射撃場からの流れ弾が民家に当たる事故が発生。一度は同市穂坂町への移転が決まったが、費用増などから整備地の選定は難航。09年に県立射撃場は閉鎖され、整備計画は凍結されていた。(【毎日新聞】より)
   

 (映像はYOUTUBEより)

(11:26)「高川南沢川」を渡ります。

その先のY字路を左へ進み、「折居」集落へと入っていきます。



 高台を通るため、眼下には田畑、遠くには「七里岩」さらに奥秩父の山(金峯、甲武信? )を一望。


              正面奥に「八ヶ岳」。

(11:35)「常夜燈」。

 再び先ほど分かれた道に合流し、右手に田園風景が広がる中を進みます。稲刈りが終えたところ。


                     

(11:41)「入戸野」地区へ。

 ほぼ直線の国道あるいは県道を行かずに、点々と存在する集落をたどりながら進むので、思った以上に時間がかかります。これでは「台ヶ原」に着くのは遅くなりそうな予感。

 入戸野で初めて「徳島堰」と出会います。「釜無川」の取水地から激しい流れが続く用水路です。


左の道を進みます。

 しばらくのあいだ、左手に「徳島堰」を横目にしながら。


                          
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韮崎宿~台ヶ原宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第11日目。)

2017-10-10 21:28:59 | 甲州街道
 
甲州街道歩きも、第11日目。
 夏場の炎天下で、思ったように距離がかせげなかった。何とかして年内には、と。性懲りもなく9月30日(土)。
 韮崎駅から歩き始めて台ヶ原宿までたどりついて、韮崎行きの路線バスで韮崎駅まで戻ってくる、という算段。台ヶ原バス停が14:53。最終が17:43。14:53発に乗れれば、と甘い考えで出発。天気は、雲は多めですが、晴れ。

(10:10)左手に「小林一三生家跡」碑。


 小林一三は、1873(明治6)年、現在の山梨県韮崎市に生まれました。「一三」の名は、誕生日1月3日に因みます。19歳の時に慶應義塾を卒業し、三井銀行で本店勤務の後、大阪支店に赴任します。元来、文学青年で小説家志望であった一三ですが、銀行員時代の先輩達との出会いから事業の面白さに目覚めていきました。
 1907(明治40)年、三井銀行を退職し、箕面有馬電気軌道(現、阪急宝塚線・箕面線)を創立します。1910(明治43)年運行を開始した電車事業は、沿線の住宅開発を共に行うという独創的なアイデアによって好調なスタートを切りました。
 1920(大正9)年には神戸線が開通し、社名も阪神急行電鉄と改め「阪急電車」として親しまれます。一方梅田には、1929(昭和4)年、阪急百貨店(現、阪急うめだ本店)を開業し、洋食をメインとした大食堂は大人気となりました。また、宝塚歌劇や阪急ブレーブス、そして東宝を設立するなど、たくさんの人たちが楽しむ事業を次々に成功させていきました。
 一三のユニークな発想から生まれたビジネスモデルは、私鉄経営を始めとする各地の事業者達に影響を与えました。そうした手腕が見込まれて、東京電燈(現、東京電力)の経営を立て直し、1940(昭和15)年には第二次近衛内閣の商工大臣、戦後には戦災復興院総裁に任命されました。
 一三個人としても、幅広い著作を遺した文化人としての素顔を持っています。日常の暮らしの中では、趣味の俳句や茶の湯を通じて多くの人々との交流を楽しみました。
 多方面に足跡をのこした一三は、1957(昭和32)年、享年84歳で没しました。しかし、お客様への新たな生活と楽しみの提案を第一とする一三の精神は、現在も阪急阪神東宝グループの様々の会社によって受け継がれています。そして一三が創始した数々の社会事業・文化事業は、今もなお社会の中で発展を続けています。

(以上、 HPより)

 たしか東京・錦糸町駅前にある「東京楽天地」ー旧「江東楽天地」。現在、「LUMINE(ルミネ)」や映画館、温泉などがある複合ビルーの創立者もこの方です。
                          

高い崖を背後に「ホテル ルートイン」。

ここにも交通安全おばあさんバージョン。JA共済の提供。これから先にも見かけます。旧東海道の時、三重から京都までの道筋のように励まされます。


民家が崖下にへばりつくように。

これは元祖「飛び出し坊や」・「とび太くん」。懐かしい! 

   



HPより)

※ 東海道でもいろいろなバージョンのものに出会いました。

 右へ登って行く「青坂」が見えてきました。この道は中央本線に沿って小淵沢を抜け原村方面へと伸びている県道17号。
 旧甲州街道は、左へ進みます。
(10:22)「青坂」バス停。

 まもなく国道20号と国道141号の交差点「一ツ谷」。国道141号は、ここから清里・野辺山を越え上田市まで伸びています。
その交差点の角に、
「水神宮」碑など。

 しだいに左側が開け、甘利山方面が良く見えます。「甘利山」は山登りを始めたきっかけになった山です。職場の先輩に連れられて、「甘利山」から「千頭星山」。帰りは青木鉱泉へ降りたような記憶が。
 今回は、周囲の山々がよく見えるような空模様。甲州街道歩きでは久々の山々を眺めながらの旅になりますか。



(10:26)右手には「十六石」碑。


                       
 武田信玄公が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信といわれた天文十二・三年頃年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため、今の一ッ谷に治水工事を行った。
 その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり韮崎は宿場町として栄えるようになったといわれている。

国道20号線を進む。

(10:40)「東京から151㎞」ポスト。

その先で、旧道は国道から分かれ、右の道に入っていきます。

庭先のコスモス。

下祖母石の集落。のどかな道筋。

 右手、田畑の向こうには断崖。七里岩。


                           

七里岩
 約20万年前に発生した八ヶ岳の山体崩壊による韮崎岩屑流(または韮崎泥流、韮崎岩屑なだれ)と呼ばれる岩屑なだれが形成した平坦地を、西側の釜無川と東側の塩川によって侵食崖を形成したものが七里岩である。狭義には、釜無川の侵食により形成された、川沿いに連なる高さ10mから40mの断崖のことを指す。この七里岩は韮崎から蔦木付近まで28kmも続いている。広義には、長野県諏訪郡富士見町から、山梨県の北杜市の小淵沢町、長坂町、大泉町、高根町と須玉町の一部を経て、韮崎市の中心地まで達する台地のことを指す。この山体崩壊した土砂の体積は約10 km3と推定されており、七里岩を生み出した岩屑なだれは甲府盆地を横断し、反対側の曽根丘陵まで達している。
 台地の形が舌状であり「韮」の葉に似ているので、その先端部のある地域を「韮崎」として、韮崎市の地名発祥のひとつになったとされる。
 台地の崖下を流れる釜無川と塩川には、それぞれ平行して甲州街道と佐久甲州往還が走っていた。現在では、それぞれ国道20号と国道141号に相当する。

左手には「鳳凰三山」が見えています。

豊かな水路のある集落。
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甲府柳町宿~韮崎宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第10日目。)

2017-10-05 20:26:29 | 甲州街道
                                      「韮崎宿」に入って行きます(「下宿」)。

(14:53)「鰍沢横丁」。
 
 ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を馬の背に積んで、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)、まで通行の道筋である。
 為に沿道には、駄菓子屋・馬方茶屋など軒を並べてにぎわったが、明治36年(1903)国鉄中央線が開通して、荷物輸送経路も一変し、往時の活況は消え失せた。しかし町民には忘れじの横丁である。

宿場の中心地ですが、静かな佇まい。

街道を偲ばせる建物がほとんどない中で、味噌、醤油、こうじのお店「井筒屋」。


                    

本当の味噌と醤油の味を知っていますか?
味噌汁を飲んで、こんなに感動するなんて‥‥醤油ひとつで、こんなに料理が変わるなんて‥‥
良質な原料に熟練した技術と最新設備をもって丹誠込めて甲州伝統の味と香りを造りあげます。
郷愁と味覚と栄養を兼ね備えた醤油と味噌、山紫水明の里より感動の逸品をお届けします。


HPより)

蔵造りのある家。

韮崎宿本陣の跡」碑。
・・・諸大名は日程の関係で宿泊することが少なく、本陣(江戸時代幕府役人に備えた宿舎)は幕府役人が諸荷物を次の宿に送る仕事が主で、問屋場と兼務であった。

韮崎宿
 本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠17軒。
 韮崎とは韮の葉のように細長い七里岩の台地の先端に位置すること、台地上に野生の韮が多かったことや、七里岩の出崎と船山が睨み合うところからとも言われている。

旅館清水屋。弘化2年(1845)創業。

(15:02)「馬つなぎ石」。
 江戸時代に甲州街道と駿信往還・佐久往還の分岐点であった韮崎は宿場町として栄えた。旅人や主任が馬の手綱を繋いでおくための石で宿場町の趣を伝えている。

(15:04)「本町」交差点。今回はここまで。

右に折れて韮崎駅に向かいます。
ホームから駅前広場方向。

             甲府駅方向。

 韮崎駅にはかつてスイッチバック(現駅舎の奥で本線と離れている)があったが、複線化に際して本線上にホームを設置し、スイッチバックは廃止されました。

奥秩父の山々。

 瑞牆山、金峰山、甲武信ヶ岳などかつて登った山々が一望できます。
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甲府柳町宿~韮崎宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第10日目。)

2017-10-04 19:51:53 | 甲州街道
 再開。今のペースだと韮崎駅までか? もう少し先まで行きたいのですが。・・・


(13:49)右手に「三界萬霊塔」。

 その先、左手には豪壮な蔵屋敷が続きます。


                         

なまこ壁の蔵造りの屋敷。

双葉西小学校バス停前。

                  振り返って望む。

船形神社。大木の向こうに小さな造り。

(13:58)「六反川」を渡る手前、右手の奥に芭蕉の句碑があります。「ひる見れば 首すじ赤き 蛍かな」。
  

 この句は、芭蕉の句とされていますが、本当に芭蕉の作かどうか、真贋の判定しがたいものの一つです。 そういえば、旧東海道中・藤川宿の句碑でもありました。「爰も三河むらさき麦のかきつばた」(芭蕉作か真偽不明の句)。

ありました! おじいさんバージョンの交通安全。「飛び出し坊や」甲州街道版。

(14:05)「田畑」の交差点で県道から右の道に入ります。「金剛地」。旧街道らしい落ち着いた家並み。


                           

振り返って望む。

左手が開けてきます。「鳳凰三山」方向。

リンゴ。

(14:10)やがてY字路になり、その真ん中に二基の二十三夜塔。左に曲がっていきます。


 稲刈りを終えたばかり田んぼ。
 

 急な坂を下ると、先ほどの県道に合流。
     

 塩川に架かる「塩川橋」を渡ります。青空が大きく広がります。


                             

(14:21)上流には「中央線」の橋脚。

振り返ると、川の向こうに「富士山」の姿。 

 しばらく橋の欄干にもたれて、電車の来るのを待ちながら、小休止。今回、時間的に韮崎駅まで行くことに。「塩川橋」を渡って右折し、線路沿いを進みます(14:35)。


                      
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甲府柳町宿~韮崎宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第10日目。)

2017-10-03 19:20:34 | 甲州街道
                                        (12:06)まもなく甲斐市に入ります。

 甲府昭和インターと双葉SAとの中間になる「中央道」の高架下をくぐっていきます。
「日蓮聖人三百遠忌」と「五百五十年遠忌」碑。

(12:25)「竜王新町」交差点で右折します。

古跡保存標識」。
1、名称「竜王新町下宿道祖神場」
 ※(1) 道祖神、丸石神体径45cm(銘)衢神、文正文七申極月、氏子中
  (2) 白檀古樹(種別大木)目通130cm 樹齢約200年、主幹奇形
  (3) 古井戸、明治初年掘削、コンクリート巻、枠径96cm近辺共同井戸、現不使用
2、所在地 竜王町竜王新町元免許325-2番地(地積6坪)
3、由来
 ここは江戸時代村人の互助的な集会協議実行の場所として地域発展の基点となった「寄り合い場」である。村の道路に河川、農産、慶弔交際または、盆、正月、祭り、相撲大会 などすべてのことがここで民主的に協議されたものである。
 ここは往時50坪の地積であったが大部分が道路用地となったのでこの由緒ある地積を保存すべく、昭和8年小菅貞三氏等の主唱により大蔵省から払い下げ、十人の共有地となっている。
 以上の理由により、町内にも他に例の無い地域発展の基点であった貴重な古跡であることからこれを将来に保存すべく「保存標識」を設置するものである。
  
        平成2年11月  竜王町竜王新町五区


 (12:30)その先で中央線の踏切を越えます。
「第一信州往還踏切」。
 「甲州街道」がここでは「信州往還」となっています。

右手奥に見えるのが「竜王駅」。

この先、「赤坂」の急坂にかかります。

左手に真新しい句碑。
父といて 心の距離や 夕蛙 大雅」。言い得て妙な句です。

意外と急な坂になっています。

(12:38)坂の中程にある「赤坂供養塔」。

振り返って坂下を望む。

その先には「諏訪神社」。御柱が立っています。

けっこう上ってきました。振り返ると雲の彼方に富士山が見えています。↓ 


                            

(12:46)坂も緩やかになってくると右手に「HAL研究所山梨開発センター」。

 株式会社ハル研究所は、主に任天堂のゲーム機向けのソフトを提供している会社。(代表作は『星のカービィ』シリーズ、『大乱闘スマッシュブラザーズ』シリーズなど)。ファミコン世代ではないので詳しくは知りませんが。
 なお、四代目任天堂社長の故・岩田聡は元社長(1993~99年まで)はハル研の出身、というは聞いたことがあります。

頂上付近からの富士山。

右手の遠くには奥秩父の山々。

(12:57)上りきったところから振り返る。

その先は下り坂。三叉路を左に進みます。

                        「鳳凰三山」方向を望む。

緩やかな下り坂。

柿。いよいよ秋らしい季節。 

水路が流れる家並み。 

上り坂になって「下今井(寺町)」。

両側には蔵のある、落ち着いた家並みが出てきます。なまこ壁のある家々。


           
        
                 (13:11)「自性院」の石畳。
「お願い 明和2年(1765)の石畳保存の為、車輌の乗り入れをご遠慮下さい。」

正面奥には中央道の双葉JCTから分かれる「中部横断道」。



                    
(13:18)「下今井上町」の交差点先で、高架下をくぐります。

その手前にあったお店の看板! 
   光豊胸 針やメスを使わない!→¥90%OFF 大人気 ¥31,500→¥3,200!  

(13:21)中央線のトンネルをくぐります。 

トンネルを抜けるとちょっと複雑な交差点。旧道は右側の道を進みます。
 

甲斐市MAP。

  
(13:27)「泣石」。
 下今井字鳴石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約3.8m、幅約2.7m、奥行き約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。
 天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言い伝えがある。

                甲斐市教育委員会 

 しばらく進んだ先には「塩崎駅」。そこで、小休止。
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甲府柳町宿~韮崎宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第10日目。)

2017-10-02 20:08:15 | 甲州街道
 久々の甲州街道。やっと暑さも峠を越えて、やっと街道歩きも楽になった? そこで。

 比較的甲州街道の宿駅間は短いケースが多いのですが、今回の甲府宿から韮崎宿まではけっこう距離があります。

9月24日(日)晴れ。10時前に「甲府」駅。前回のところまで。甲府城の脇を通りながら向かいます。
(10:10)

NTT甲府支店西の交差点で甲州街道は直角に左折し、甲府柳町に入ってゆきます。問屋街入口で右折し、その先を左折します。特に宿場町らしい史跡などは見当たりませんでした。

「問屋街入口」交差点を振り返って望む。

ここを左折。

(10:26)さらに広い通りに出たら右折します。つごう、4回曲がります。向こうに見える大きなビルは「甲府商工会議所」。


(10:35)「相生橋歩道橋」から甲府駅方向を望む。

路傍には彼岸花(曼珠沙華)。そんな時節になりました。

土蔵造りの立派なおうち。

「国道52号線」。「清水まで94㎞」ポスト。

 しばらく進むと「荒川」に架かる「荒川橋」。視界が広がってきましたが、あいにく雲がかかって鳳凰三山、白根三山などの南アルプスの高峰、富士山などの山々は見えません。以前登ったことのある山なので、楽しみにしているのですが・・・。

 「甲州街道歩き」。周囲の山々の景色を楽しみながらの旅となるはずですが、総じて晴れている割にはどうも周囲の山々の姿を堪能することには恵まれません。


                        

(10:52)続いて「貢川(くがわ)橋」を渡ると、右折していきます。「美術館通り」。


 カーブする右手に「天然記念物 上石田のサイカチ」。

 過去にさかのぼると、この地は貢川の河川近くであったが、河川は整備され今のような市街地になった。サイカチは川岸の湿ったところに生える木で、この場所に本樹があるのは昔の自然の一部を残したものである。また、大小二本そろって生えているところから、地元の方々は夫婦サイカチと呼んで親しんでいるが両樹とも雌木である。樹齢は両樹とも約300年と推定される。
  

ほうとうなど郷土料理の店「信州」。店名が甲州にあって信州というのがいい。「信州」味噌を用いた「ほうとう」がウリなのかな?

このお店のネーミングも抜群。
「えがお食堂 鈴之介」。

(11:10)その先、右手には
「クリスタルミュージアム」。


 「クリスタル・ミュージアム」は、長年、ガラスや水晶アクセサリーの製造にたずさわってきた丹沢良治館長が、水晶・貴石加工などの地場産業の振興になれば、と1996年に設立。受付から館内へ通じる通路には雪江なほみ氏や井上公雄氏ら県内を拠点に活躍する造形作家の作品が並ぶ。
 館内1階は「自然のぬくもりのフロア」と名づけられ、1トンもの紫水晶原石や、透明度の高い茶水晶、井上氏や香港の有名作家の水晶彫刻作品のほか、さまざまな天然石と彫刻品が展示されている。吹き抜けの2階は回廊ギャラリーで、「技術のぬくもりのフロア」。100年の歴史をもつボヘミアン・グラスの世界的メーカー「スワロフスキー」や“王様のガラス”と称賛される「モーゼル」のクリスタルガラスの美術品や、アールヌーボーのガラス工芸品を展示。さらにパネルによって「クリスタルガラスとソーダガラスの違い」などが解説されている。
 おもに2階ギャラリーで山梨県ゆかりの造形作家の特別企画展示も開催していく予定。
 また、アクセサリーやガラス製品を販売するミュージアムショップ(入場無料)を併設。館内はアンティーク家具が並ぶ落ち着いた雰囲気で、喫茶室ベル・エポックも人気がある。
 (HPより)

 (11:16)いよいよ左手には「山梨県芸術の森公園」「県立美術館・文学館」。
 「文学館」では「津島佑子展ーいのちの声をさかのぼるー」が9月23日(昨日)から開催中とのこと。最近。読んだばかりで、今も津島さんのエッセイを読んでいるところ。たまたま今日(9月24日)甲州街道歩きをしていなければ立ち寄ることもなかった、と。さっそく館内に入ってみました。


 広大な敷地の中に、彫刻の置かれた緑の広場、美術館が右手に、左手には「文学館」があります。


 

 美術館は「種をまく人」「落ち穂拾い」といった農民絵画を描きつづけた、ジャン=フランソワ・ミレーの作品を数多く所蔵するので全国でも有名。
 一方、文学館は山梨県ゆかりの文学者に関する資料の収集と保管・公開を行っています。

 今回の特別展は津島佑子さん(1947~2016 東京生まれ 本名・里子)の業績をたどる初の展覧会。
 津島佑子さんは、津島修治(筆名・太宰治)と美知子の次女として生まれ、白百合女子大学在学中より作品を発表、女性の内面世界を見つめた初期作品を経て、戦争孤児や少数民族、差別、原発の問題へと視野を広げていきました。
 長編小説「火の山―山猿記」は、甲州を舞台に、母の生家・石原家をモデルとして、三代にわたる一族の人々と時代を壮大なスケールで描いた代表作です。この作品を端緒に、時代と場所を自在に往き来しつつ、社会から疎外された人々の声を丁寧にすくい上げた重厚な作品群を発表、最期まで執筆への情熱が消えることはありませんでした。「火の山―山猿記」を中心に、津島佑子の豊饒な作品世界を紹介しています。



 最近は、生前(未完)最後の作品「狩りの時代」を読んだばかり(8月3日にブログにて紹介しています)。死の直前まで手を入れていた資料など直筆の原稿などや学生時代の文学遍歴など、作品、写真が展示されています。

文学館から美術館を望む。

 出てから芝生の脇のベンチでのんびり早めの昼食・休憩。気がついたら12時を回っていました。

《補足》『火の山ー山猿記』は、NHKの連続テレビ小説『純情きらり』の原案になっています。
 『純情きらり』の舞台は岡崎。八丁味噌の家並みがロケ地になっています。旧東海道歩きで紹介したことがあります。その部分を再掲。

連続テレビ小説「純情きらり」ロケ地。  「純情きらり手形の道」(宮崎あおいの手形)。

『純情きらり』(じゅんじょうきらり)は、2006年(平成18年)度上半期NHK連続テレビ小説の作品。シリーズ通算第74作目。
 原案は津島佑子の『火の山―山猿記』。脚本は浅野妙子。主要な舞台は愛知県岡崎市。
 昭和初期、7歳になる有森桜子は、4歳のときに母親・マサを病気で亡くしてからというもの、父親・源一郎に男手ひとつで育てられていた。
 10年後、16歳になった桜子は、周囲の反対を押し切り東京音楽学校(現在の東京藝術大学)への進学を希望する。そんな矢先、父・源一郎が事故により命を落としてしまう。姉・笛子は進学に反対するが、父が遺してくれたピアノを極めようと没頭する。
 翌年、桜子は幼なじみの松井達彦とともに、東京音楽学校を受験するが不合格に終わってしまう。その後、桜子は岡崎に帰ろうとするが、東京音楽学校の教授・西園寺公麿に励まされ、来年もう一度受験することを決意する。
 さまざまな紆余曲折を経て、戦地から帰還した達彦と結婚する。その後結核を煩いながらも輝一を出産する。輝一に感染しないようにと決して会おうとはしない桜子に、山長や有森家の人々は輝一の姿を動画に収め、桜子の意識が朦朧とする中、病室の白壁に映して見せたのだった。
 ジャズピアニストを夢見ながら、戦争に揺れる昭和の激動時代を駆け抜けるヒロイン・桜子の波乱万丈の人生を描いていく。
(以上「Wikipedia」より)

(「Amazon.co.jp」より)

 また訪れる機会があったら、美術館も含め、もっとじっくりと、ゆっくりと見学、散策したい、すばらしい公園です。
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下栗原~石和~甲府。その4。(「甲州街道」をゆく。第9日目。)

2017-09-06 19:23:50 | 甲州街道

しばらく進むと右手に「日本武尊御𦾔跡」碑。

「酒折宮(さかおりみや・さかおりのみや)」への参道となっています。
 『古事記』・『日本書紀』に記載される日本武尊の東征の際、行宮として設けられた酒折宮に起源をもつとされ、また、そのときの説話にちなみ、連歌発祥の地とされています。祭神は、タマトタケルノミコト・日本武尊、倭健命
 『古事記』・『日本書紀』(以下「記紀」)には、ヤマトタケルノミコトの東征伝承が記されています。ミコトの東征は『古事記』と『日本書紀』では一部異なりますが、蝦夷からの帰路、甲斐・酒折宮へ立ち寄ったことが記されています。その行宮に因んだ社が現在の「酒折宮」とされています(異説あり)。
 「記紀」に記されるヤマトタケルの東征経路は、古代律令制下の官道においては往路が東海道、帰路が東山道にあたっています。

 連歌発祥の地
 「記紀」には、滞在中のある夜、尊(みこと)が「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」《意味:常陸国(現 茨城県)の新治・筑波を発って、ここまでに幾晩寝ただろうか》と歌いかけたところ、焚き火番の老人が「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」《意味:指折り数えてみると九泊十日かかりました》と歌で答えて、尊がこの老人の機知に感嘆した伝えを載せ、『古事記』には彼を東国造に任命したと記載されています。
 この2人で1首の和歌を詠んだという伝説が後世に連歌の発祥地となりました。

 連歌とは、和歌の上の句・前句(五七五)と下の句・付句(七七)をそれぞれ別人が詠みすすめていくという歌の形式。その後、連歌の前句とそれに対する付句のみを抽出する「付合」のかたちや第一句のみを単独で観賞する「発句」という形式も生まれ、さらに、明治になって、発句(五七五)を独立させることで成立したのが俳句です。
 この酒折宮での歌の掛け合いは、5/7/5に対して、7/7と続けた短歌形式ではなく、4/7/7という「片歌」の問いかけに対して5/7/7という「片歌」でこたえたもので、この形は 連歌(短歌の形)とは異なっていますが、この故事によって 連歌は「筑波の道」と呼ばれ、この地が「連歌の発祥の地」と言われるようになったわけです。

(13:06)その先、左手には、
「山梨学院大」キャンパス。

「信玄堤聖牛(せいぎゅう)」を模した小休止所。

(復元した「聖牛」)

ここにも「日本武尊」碑。

 「酒折駅」は街道からわずかの距離。そこで小休止。今回も炎天下の歩き。休憩が多くなりました。


(13:43)「善光寺」参道。

「身延線」のガードが見えてきます。

 その先が直角に曲がる「桝形」。左に折れ、すぐ右に折れます。


                  

かつての土蔵造りを彷彿とさせます。

(13:48)その先、右手に豪壮な建物。

                   



かなり長い直線道路。突き当たって左に折れます。

(14:01)来た道を振り返る。



今度は右に曲がります。

                       

次第に賑やかな通りになってきます。右の大きなビルが「(株)印傳(伝)屋上原勇七」さん(14:10)。


                

 印傳(いんでん)の名前の由来は、印度伝来によるといわれています。
 鹿の革を松脂でいぶし、漆で紋様を染め出したもので、かつては武士用具のすね当てやよろい兜にも使われていました。
 現在では、独特な手法を用い、財布、バッグ、ベルトなどに使われています。

 鹿革をいぶす「燻(ふ)すべ」。革が褐色になるまで、何度もくり返すんだそう。

 革の模様がムラにならないよう、職人が様子を見ながら、上にあるドラムを回転させます。古くから伝えられる「燻すべ技法」で柄づけされた革。煙と松脂でこんなふうに柄ができるんですね!

・・・ 

HPより)

 見学がてら休憩。
 さて、土産も買わなければならないし、NTT甲府支店の角まで行って、今回は終了します。甲州街道はここを左折し「甲府柳町」に入って行きます。そこから「甲府宿(甲府柳町宿)」となりますが・・・。

その角には、
(14:26) 

                   
2016年11月に新しくオープンしたカフェ「ナオミキャンプ naomicamp」。古民家を改装した雰囲気あるおしゃれなカフェです。

 甲府駅まで向かいます。賑やかな通りです。駅前は大がかりな改修工事が進んでいます。たくさんの人、ひと。
(14:44)駅前広場の「武田信玄」像。
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下栗原~石和~甲府。その3。(「甲州街道」をゆく。第9日目。)

2017-09-04 21:08:26 | 甲州街道
 ほとんど宿場時代の痕跡はありません。また温泉が発掘されて一躍、熱海級の一大温泉遊興地になりましたが、現在はちょっと当時の勢いはなさそうです。
「芸妓置屋 青砥家」。

 旧甲州街道はそうした温泉街からも少し離れているせいか、静かなたたずまいの街並みの中を進みます。
石和宿
本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠18軒。
 石和は武田氏の故地。新羅三郎義光から四代目信義の時、韮崎の地(武田)に移り、以降武田と名乗った。五郎信光は甲斐守として石和に領を構え、18代信虎の時に甲府の躑蠋ヶ崎(つつじがさき)に移るまでここが武田氏の本拠地であった。
 1961(昭和36)年1月、石和の地で突然大量の高温の温泉が湧き出した。
 石和とは大小の多くの川が流れる荒地で藺(い)が一面に生い茂っていたので藺の沢と呼ばれ、その後転化し石和となった。

 街中に入ってすぐ右手にあるお寺が「鵜飼山遠妙寺(うかいざんおんみょうじ)」。

 当山は、往昔文永11年夏の頃、高祖日蓮大上人御弟子、日朗日向両上人と共に当国御巡化の砌り鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し、之を済渡し即ち法華経1部8巻69380余文字を河原の小石一石に一字づつ書写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場である。
 之に従って当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ又、謡曲「鵜飼」はこの縁起によって作られたものである。

 (11:06)その先、高速バス停前に「石和本陣跡」碑。
  

石和本陣跡
 本陣は江戸時代、大名公家幕府の役人高貴な人の宿泊する所である。 
 石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城10万石を初め全国の諸大名が宿泊し、大名宿とも言われ明治維新まで続いた。
 建物は書院造りで門、玄関、上段の間を備えて広大な構えであった。
 明治13年6月16日明治天皇御巡幸のみぎり御休憩所御予定のところ、同月6日、大火により焼失、現在土蔵1棟のみ現存している。

土蔵。

解説板。
 宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことがはじめといわれる。
以来子孫が継承して明治に至った。明治以降も旅籠として利用したが、明治13年(1880)6月7日の石和の大火により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と諸大名通行の書状および、古記録文書が残っている。

 一画に古い建物。

そこから通りを望む。

 広い道路の反対側に「足湯」がありました。そこで、素足を温めながら、小休止(11:11~11:23))。他には誰もいません。通りかかる人もほとんどなし。

 足湯の裏手には緑も濃い「石和小林公園」が広がっています。


                     

 この公園は、元々、郷土の偉人、小林中氏の家の跡で、その功績が説明板にあります。
 大正11年早稲田大学を中退し、家業の石和銀行取締役支配人に就任。その後、30歳のとき富国徴兵保険相互会社(現富国生命)の第一部長、44歳で社長となり、52歳の時に日本開発銀行初代総裁となった。その後東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉日本政府代表、アラビア石油社長、海外技術協力事業団初代会長、財政制度審議会会長、外資審議会会長を歴任し、勲一等旭日大綬章を賜った、とのこと。

消防署。

 「石和温泉駅入口交差点」を過ぎたところで、DoCoMoのお店。炎天下、人通りもない中で、着ぐるみで頑張っています。DoCoMoつながりでパチリ。
     お疲れさん!

(11:32)右にカーブし、甲運橋東詰交差点を経て、「甲府市」入り。

右手の大きな古木の脇に道標、石像。

    
 萬延元年(1860)建立の道標。3面にそれぞれ「左甲府 甲運橋 身延」、「右富士山 大山」、「左三峯山 大嶽山」と書かれています。が、「富士山 大山」の下に「東京」と刻まれています。江戸時代に東京などあるはずがなく、明治以降、元々「江戸」とあったものをその上から「東京」と刻み直したようです。余計なお節介なのか、はたまた?
 また、このところが「一里塚」跡のような印象ですが。

「平等川」上流。かつての笛吹川。

 (11:50)さてそろそろ昼食時。さらに炎天下、少し早めですが、涼しいところに入ろうか、と。
 「アリア入口」交差点のところに「台湾料理 昇龍」さん。このお店へ。ビール(中ジョッキ)と二品選んで980円(税抜き)とあるので、さっそく注文。二品ともまるで大盛り、一人では食べききれないほどで、美味しい。お腹いっぱいになりました。もう炎天下歩きはやめようか、というくらい。たっぷり食事休憩。

(12:30)「県立青少年センター」。

 しばらく進み、「甲運小学校入口」バス停のところに「和戸町」の解説碑と古仏などが。
 

              
和戸町(由来)
 和戸町は平安期この附近を中心として栄えた表門郷(うわどのごう)の遺称である。郷とは奈良時代に50戸をもって編成された行政村落のことであり、地名の由来から、古くから集落が存在したことが知られる。地内には在原塚、琵琶塚、太神さん塚などの古墳が点在する。

崩れてしまった、丸石を積み重ねた道祖神。

「甲運松原」バス停。この付近はかつて松並木が。

(12:53)この先、「松原交差点」で道は右に大きく曲がります。
                

(12:58)その先の三叉路が「甲州街道」と「青梅街道」の合流地点。


   振り返る。右が「甲州街道」左が「青梅街道」。

 新宿3丁目の「追分」で分かれた「青梅街道」とここで再会。
「青梅街道」。


「新宿3丁目」付近の現在のようす。「新宿3丁目」交差点から西南に延びるのが「甲州街道」。西北に延びるのが「青梅街道」。(「歴史的農業環境閲覧システム」より。)

新宿3丁目交差点。「青梅街道」方向。

 また、この付近は、かつては大きな刑場になっていたようで、「南無妙法蓮華経」の大きな供養塔が立っています。



                  
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下栗原~石和~甲府。その2。(「甲州街道」をゆく。第9日目。)

2017-09-01 19:36:26 | 甲州街道
 橋を渡って行くと、左手に松並木が見えてきます。あの松並木は旧甲州街道当時の? 橋詰めから左に折れて、松並木の下の道を進みます。本来の旧道はもう少し川沿いだったようです。松並木も笛吹川改修時に植えられたもののようです。


                  (10:36)松並木は300㍍ほど。木陰もあり、ホッとひと息。


 しばらく進むと、道は、笛吹川から離れて右に進みます。旧道はもっと土手沿いの道だと思いますが・・・。
笛吹川上流を望む。

 国道と分岐する小広場に「笛吹権三郎之像」や道祖神などの石碑がいくつかまとまってあります。比較的新しい石像なので、笛吹川改修時にちなんでつくられたものと思われます。




                        
笛吹権三郎の事
 今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいた。彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に逃れたと聞く父を母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。
 彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。
 ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのために近くを流れる子西川が氾濫し権三郎母子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。若い権三郎は必死で流木につかまり九死に一生を得たが、母親の姿を見つけることはついにできなかった。悲しみにうちひしがれながらも権三郎は日夜母を探し求めてさまよい歩いた。彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそった。しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、自らも川の深みにはまってしまったのである。
 変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸で発見され同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られた。
 権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎として尊崇している。
 これが先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。
     昭和六十年五月吉日
             山梨県山梨市七日市場四九三番地  長沢房子(旧姓広瀬)


 笛吹川
 最上川、球磨川とともに日本三大急流のひとつである富士川水系の一級河川。
 山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、鰍沢町で釜無川と合流し富士川となり、静岡県で駿河湾に注いでいる。流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園は、ブドウなどの果実栽培が盛んである。
 笛吹川の名の由来は、「笛吹権三郎」(もしくは「笛吹川」)と呼ばれる民話に語られている。 江戸時代には甲斐国の鮎が名産として知られ、宝暦2年(1752年)の『裏見寒話』や嘉永3年(1850年)の『甲斐廼手振』には荒川・釜無川とともに笛吹川の鮎が名産として記されている。笛吹市石和町では石和鵜飼も行われている。
 笛吹川は、奥秩父山塊の南側を太平洋に向かって下る斜面にある急峻な暴れ川で、広瀬ダムや発電所などで雨量にあわせて流量を調整する努力が払われている。
 中でも1907年(明治40年)8月22日からの大雨で発生した明治40年の大水害は笛吹川流域を中心に洪水による被害を引き起こし、笛吹川本流の流路が約7kmに渡って変化した。それまでの笛吹川は甲州街道(現国道411号)、笛吹橋の少し上流付近より西方向に流れ、温泉旅館、観光ホテルなどが立ち並ぶ現在の石和温泉街を西に流れた後、石和町と甲府市の境界を流れる(現在の)平等川を経由し、旧中道町の北東部にある白井河原橋付近で現在の笛吹川本流につながっていたが、この洪水による土手決壊及び旧河川敷の土砂堆積により南西方向へ流路を変えた。その結果、多数の農民や住民が新河川流路整備の土地収用のため、農地・住居等の移転を余儀なくされた。現在の笛吹市役所庁舎前や国道20号付近を流れる部分の笛吹川は、100年ほど前までは存在していなかった。
(以上、「Wikipedia」参照)

 この付近の地名は「川中島」。笛吹川の氾濫原だったのでしょう。
 

静かで落ち着いた住宅街。道ばたには水路。


        振り返って望む。

秋葉山の常夜燈。

Y字路を左へ進みます。

ここでも球形道祖神をいくつか見かけます。

よく手入れされた庭木のあるお屋敷。

 (10:55)その先、左手に「テアトル石和」という映画館があります。まさかこんなところに!


              

 人の出入りもなさそうだし、開業しているのかどうか、ちょっと不安になりそうな映画館。でも、HPを開くとバリバリの現役。


HPより)

 上映する作品もそれぞれなかなか凝ったものが多いようです。

新しいそうな球形道祖神。けっこうあちこちにあります。

しばらく進むと先ほどの国道411号線に合流。

その手前にすてきな板塀のおうち。

来た道を振り返って望む。

 (11:01)道路もぐっと広くなり、ここから石和温泉(「石和宿」)の中心部に入って行きます。

石和温泉

 アルカリ性単純泉の無色無臭であり、pHは8.5~9.5程度とされている。 また、源泉は主に山梨県企業局が管理しており、パイプを使って各温泉宿に供給している。

歴史
 1961年(昭和36年)に「いすみ荘」で温泉掘削を行った際、毎分2,000L、泉温49℃の温泉が湧出し、周辺の川や田畑に流れ出した。その後即席の露天風呂が作られ、「青空温泉」と称したのがはじまりである。その後山梨県企業局や地域内の温泉宿によって掘削が行われ現在に至る。最初に温泉が湧出した場所は現在日本中央競馬会の場外勝馬投票券発売所「ウインズ石和」になっており、入口付近に発祥の地の碑が建っている。
 高度経済成長時代になってから出来た温泉であるが、新宿駅から特急「あずさ」「かいじ」で1時間半前後と近く、また中央自動車道開通などアクセスが容易になったことから京浜地区の奥座敷として発展。団体客向けの歓楽温泉として知られ、コンパニオンを配置した温泉旅館が作られたほか、スナックやバーなどの酒場、さらにはストリップ劇場などの大規模な風俗街も作られた。しかし風俗街というイメージ低下の懸念に加え、団体旅行の低迷により需要が落ち込んだため、近年では個人客や外国人向けに力を入れるようになり、風俗店の取り締まりを強化する一方で笛吹川の鵜飼いや八幡神社の太鼓演奏など歴史、文化を強調したイベントを開催している。また周辺が果樹園であることから特産物のブドウやモモとも結びつけて、ワイナリーが至る所に点在する。
 石和温泉駅から笛吹川まで近津用水路を中央に東西約1kmにわたり温泉街が伸びており、全盛期の宿泊施設は大小合わせて120軒超とその規模は熱海に次ぐともいわれていたが、現在は50程度の温泉旅館が営業している。宿泊施設は団体客向けの大型施設から家族向けの旅館、純和風の高級旅館など様々である。以前は宿泊前提であったが日帰り旅行向けの施設も増えてきており、健康ランドをはじめ有料の「石和源泉足湯ひろば」という足湯及び手湯も存在する。
(以上、「Wikipedia」参照)
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下栗原~石和~甲府。その1。(「甲州街道」をゆく。第9日目)

2017-08-31 21:51:21 | 甲州街道
 8月27日(日)。晴れ。久々の甲州街道歩き。今回も30度越えという、相変わらず暑い予報の甲府盆地。真夏の街道歩きもここへ来て暑さ負け。さすが群馬・館林などと一二を争う高温地帯。そう、前回も炎天下でリタイア。今回は?

 「山梨市駅」からタクシーで前回の「下栗原」交差点まで。ここから9:40出発。せめて甲府駅までの約12㎞、2万歩の予定。
 タクシーの運ちゃん「街道歩きですか。年に何人か乗せますね。ただ甲府は暑いからね、今の時期は。いないねぇ。」「甲府までは行けますよ、その先の竜王までくらいは。でも、車にだけは気をつけて下さいよ。」「ま、頑張って下さい。」
 風が少しあって、前回よりは少しましな感じ。でも、日差しは強い。木陰もなく、車が行き交う舗装道路を歩き始めます。

 ぶどうは最盛期。しかし、産地・勝沼から少し外れているので、お店も閉まっています。


(9:47)「明治天皇日川小休止所址」。

その先が「日川高校入口」。

 創立117年(2017年現在)の伝統高(旧制の山梨県第二中学校)。数多くの著名人を輩出している。部活動が盛ん。ラグビー部は花園へ県代表として42回出場、うち8回においてベスト4に進出。野球部は選抜高等学校野球大会に1回、全国高等学校野球選手権大会に5回出場。

 沿道には立派なお屋敷。


元養蚕農家らしい面影が。 

郵便局の建物も風情あり。 

(9:55)「一町田中」交差点を左折。

長い土塀の下には用水路。ここも大きなお屋敷。

「日川」の土手に突き当たります。かつてはこの辺りで対岸に渡っていたようです。


「日川橋」から笹子方向を望む。。

「石和」方向を望む。「日川」は「笛吹川」となります。

(10:02)「日川橋」を渡って「笛吹市」の表示があるところで、右折するのが旧道。


                   

収穫を終えた桃畑。

民家の庭先のザクロ。



                  

足下のマンホールには桃の絵柄。

 やがて道は「笛吹川」の土手に100㍍ほど平行して進み、カーブミラーのところで離れて行きます。
振り返って望む。

 かつての笛吹川はもう少し北西、「石和宿」近くを流れていました。旧甲州街道もそのまま左岸付近を進んでいましたが、その後の笛吹川の洪水や流路変遷によって、現在は笛吹川の中に消滅しています。


                       

 そのため、そのまま進んで「国道411号線」と合流し、石和宿方向へ向かいます。
              

(10:22)合流点には「甲州桃太郎街道」の標識。

「笛吹川」。川の中央付近を旧道は進んでいたようです。

(10:30)国道歩きをしばらく続け、「笛吹橋」を渡ります。

                      
                              対岸の左手奥が「石和宿」。
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鶴瀬宿~勝沼宿~栗原宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第8日目)

2017-08-01 19:03:41 | 甲州街道

 訪問客もいないお昼前のひととき、よもやま話に盛り上がり、気がついたら長居をしていました。
 暑いし歩くのも、といってもここからでは駅は遠いし、そこへ行くのもタクシーしかなさそうだし・・・。お礼を言って、「もう少し歩いてみます。」
 重い腰を上げて別れを告げます。

 (11:54)しばらく進むと、急な下り坂。どんどん下っていきます。「ようあん坂」。隣には、「海抜400米」と刻まれた石碑。

 

 そのまま下っていくと、「勝沼小学校」入口になり、「明治天皇勝沼行在所跡」碑が立っています。その下には「勝沼学校」碑。
 

 沿道には大きな「ぶどう園」が軒を連ねています。


                          

白壁の立派なおうち。

丸石を積み重ねた道祖神。けっこう目につきます。

「延命地蔵」。ここにも球形道祖神。

(12:20)やっとたどり着いたのが「白百合醸造」。


                            

 ここは、何種類ものワインを試飲させてくれます。暑い中を歩いてきて、ホッとひと息。いくつも試飲しながら休憩。外は、暑さもピーク。何人かお客さんが来ていました。車では飲めないので、どうやってここまで来たのか? 循環バスもあるようですが。

 (12:43)さて、小瓶のワインを土産に買って、また歩き始めます。「白百合醸造」の先で、甲州市から山梨市へ。


アルコールも加わって、道路の暑さに・・・。

 次第に道も平坦になって、ぶどう園もめっきり少なくなってきます。

(12:57)「栗原宿」に入りますが、宿場らしい雰囲気はありません。こうした石柱が当時を偲ばせるのみ。
「栗原宿 千歳屋 佐野」。

ここにも丸石を積み重ねた道祖神。

 「上栗原」交差点を過ぎ、しばらく進むと右手に「大宮五所大明神参道」の大きな石碑。その碑の裏側の道が旧道らしい。ここは桝形?


 その道を進み、突き当たりを左折、火の見櫓のところで国道に出たら、そのまま突っ切って日川の土手に向かいます。


                       

(13:08)土手から笹子峠方向を望む。

 「新日川橋」のたもとに出たら、右折して国道に戻ります。「下栗原」交差点。ここから国道を西へ進む予定でしたが、ここでギブアップ! 白百合醸造で控えて置いた電話番号をもとにタクシー会社に連絡、5分も経たないうちにタクシーが到着。「山梨市駅」に向かいました。

 炎天下の歩きはほどほどに。「東海道」四日市付近、「日光道中」石那田付近と、これで三度経験。それでも懲りない!

               
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