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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その9。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-08 21:40:45 | 甲州街道

 橋には緋毛氈が敷かれ、対岸には的が設置されています。さて? そのうち、高校の弓道部の生徒でしょうか、4人の男女。リハーサルのため、舞台に登場、向こう岸の的に向かって矢を射るようす。見ていると、見事に真ん中に命中する生徒も。


          なかなか見事な腕前を披露。

 次に登場したのは、「笹子追分人形芝居」のリハーサル。


      

なかなか息の合った人形遣い。国立劇場の文楽とは当然、大違いですが、それでも先日の人形浄瑠璃の感動が蘇ってきます。

そのうち、地元の方々が集まってきます。
「第16回さるはし観月の会」。

・紅富士太鼓
・絵本と演奏
・リコーダー演奏
・笹子追分人形芝居
・俳句表彰式

など盛りだくさんのイベント。

中でも、「笹子追分人形芝居」。ついこの間、文楽を観たばかりなので興味津々。

隣では紫陽花の鉢の無料配布。聞いたら地元の方で1年間世話をして来年の紫陽花祭に持ってくるということ。残念ながら地元の方以外はダメ! でした。

 「猿橋」は安藤(歌川)広重の浮世絵でも有名です。
甲陽猿橋之図 上下
The Monkey Bridge in Kai Province

詳細情報
作者歌川(安藤)広重 作者英名hiroshige 画題甲陽猿橋之図 掛物絵判錦絵 寸法72.8×25.0 署名広重筆 一立斎

(「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション」dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/ukiyoe/0424 HPより)

今回のイベントはそれにもあやかっているようです。4時から開始ということなので、大月駅まで歩くのはやめにして、ビールと地酒を飲みながら小一時間、待つことにします。

 さて、待望の4時。大月市長の挨拶があって、開会。

 最初に橋の上で披露された「紅富士太鼓」。西(上流)に向かって豪快で巧みな太鼓の合奏。世界一大きな太鼓だそうです。たたき手も若者が目立ちます。
 幼稚園の先生による絵本の読み聞かせ、リコーダーの演奏と続きます。

さて、「笹子追分人形芝居」。


  「追分人形式三番叟」。

この間「国立劇場」で観た文楽と同じ、三人がかりで人形を操ります。少々小ぶりな人形に素朴な衣装を身につけ、テープの義太夫節に合わせて動作をします。中央の人は高下駄状の履き物をはいています。素朴な中に地域の伝統芸能を観させてもらった感じです。歌舞伎でも全国のあちこちに、地域歌舞伎が残されていますが、江戸時代の伝統芸能の伝播、そして地域ごとの上上演、継承、保存というものの熱意・重さ強く感じました。
 次々回くらいに「笹子峠」を越える時、その手前で、発祥の碑を見ることができそうです。

笹子追分人形芝居 (「パンフレット」より)
 むかし、甲州街道で最大の難所にあたった麓の笹子村は、旅人が草鞋を脱ぎ、ひと息つく宿場にあたりました。
 笹子村の先人たちは山仕事のかたわら、淡路、江戸伝来の人形芝居を習得し、明日は峠に向かう客人をもてなしました。
 そのころ峠はより高く、谷は深く、緑は鬱蒼と濃く感じられたことでしょう。山と川とともにあった厳しい暮らしを、助けあい支えあったふるさとの、灯火のような人形芝居でした。
 以来、約300年、時の流れに翻弄されながら、人形は土地の絆に守られ、連綿とつながるふるさとの歴史を今も舞いつづけています。
 ひとえに、峠のあったおかげです。

・・・近年には、座員の高齢化という苦境のなか、前会長・天野宇吉氏らの尽力によりなんとか守られてきた活動も、平成6年ついに途絶えることとなりました。 復活の幕があいたのは、平成16年。大月市制50周年での10分間の上演がきっかけでした。古老たちの想いを受けた有志が集い、翌年から活動を再開。ほとんどの座員が未経験からのスタートでした。
 最盛期に県内各地に広まっていた人形芝居も今や追分人形が残るのみです。

上演演目
・吉窪美人鏡
・本朝二十四孝
・傾城阿波の鳴門
・伊達娘恋緋鹿子
・奥州安達原

など






                   

(17:21)イベントはまだまだ続くようでしたが、席を立ち、駅方向へ。浴衣姿のこどもたちが続々集まってきます。


             


(17:26)「猿橋宿」にはこれといった史跡は見当たりません。


さっき演奏していた「紅富士太鼓」トラック。猿橋上での演奏はなかなか迫力がありました。


(17:38)「殿上下宿(とのえしもしゅく)」バス停。

街道を西に進みます。「猿橋宿」を抜けたところにJRの駅があります。


今回はここまで。ここを左に曲がれば「猿橋」駅。(17:45)
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その8。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-07 20:34:00 | 甲州街道
 いよいよ奇橋・「猿橋」に向かいます。

「東京から90㎞」ポスト(14:41)。

蛇骨沢を過ぎ、常夜灯のある七面大明神の石碑の下を過ぎると、


「小菅」交差点。そこを右に折れます(14:45)。

                この道が旧甲州街道。ここから「猿橋」を渡って「猿橋宿」へ向かうことになります。

「仙台屋食堂」の手前に旧中央線トンネルの猿橋側の坑門が桂川渓谷に向かって開いています。




 もともと開口部は桂川に向いていましたが、切り立った崖と生い茂った木々のためにハッキリとは目視できません。また、「猿橋」のすぐ脇で「桂川」を越えていた鉄橋も撤去されています。

(↓)

 ここのメインは「猿橋」と「八つ沢発電所第1号水路橋」。この「水路橋」を遠目に見て線路跡とぬか喜びしてしまいそうです。

水路橋(以前撮った写真)。

    
                「八つ沢発電所・第1号水路橋」。国の指定文化財。

(14:49)眼下に「猿橋」が見えて来ます。
         

橋の上には毛氈(緋毛氈)が敷かれ、何かのイベントがありそうな雰囲気。


猿橋
 江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋であった。木造では唯一現存する刎橋である。猿橋は現在では人道橋で、長さ30.9メートル、幅3.3メートル。水面からの高さ31メートル。

《構造》
 猿橋は、桂川(相模川)の両岸が崖となってそそりたち、幅が狭まり岸が高くなる地点にある。このような地点では橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。こうした条件では吊り橋が用いられるのが常だが、江戸時代にはもう一つ、刎橋という形式が存在した。
 刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。猿橋では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨による腐食から保護した。

《歴史》
 猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点付近に位置し、甲斐国と武蔵国・相模国の交通拠点に位置する。江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置された。
 猿橋の架橋については、7世紀に百済の渡来人である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。
 室町時代、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという。
 1676年(延宝4年)以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも1756年(宝暦6年)からは類似した形式の刎橋である。
 この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠『峡中紀行』、渋江長伯『官遊紀勝』など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成している。文化14年(1817年)には浮世絵師の葛飾北斎が『北斎漫画 七編 甲斐の猿橋』において猿橋を描いている。
 江戸後期の天保12年(1841年)には浮世絵師の歌川広重は甲府町人から甲府道祖神祭礼の幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れている。
 広重は後に旅の記録を『甲州日記』としてまとめ、甲斐の名所をスケッチし作品にも活かしている。小島烏水によれば現存しない日記の一部には猿橋の遠景や崖などがスケッチされていたという。広重は天保13年(1842年)頃に版元・蔦谷吉蔵から刊行された大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。
 1880年(明治13年)には明治天皇が山梨県巡幸を行い、同年6月18日に猿橋を渡っている。三代広重は『諸国名所之内 甲州猿橋遠景』においてこの時の様子を描いている。
 木造で現存する刎橋はない。
 古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、1984年(昭和59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて1851年(嘉永4年)の橋を復元したものである。
 なお、1902年(明治35年)に中央本線の鳥沢-大月間が開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、1968年(昭和43年)梁川-猿橋間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から新桂川鉄橋で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなった。

                                  (以上、「Wikipedia」参照。)

注:奇橋=日本の古橋の中でとくに構造的に変わったものとして挙げられる橋。

 「日本三大奇橋」には説がいくつかあるようです。
・猿橋 【山梨県大月市】
・錦帯橋 【山口県岩国市】

 の二つは確定的ですが、現在は3番目にはいろいろと。
・愛本橋 【富山県黒部市】
 かつては全長63mにも及ぶ刎橋(はねばし)=「猿橋」と同様の構造=であったため。  

 おそらく、江戸時代にはこの三橋だったと思われます。しかし「愛本橋」が近代的な橋に架け替えられ、観光的・歴史的な意義はあっても外れてしまった?

そこで、三番目の候補として。
・木曽の桟(かけはし) 【長野県上松町】
 険しい山の崖ぎわに短く切った木をかけ渡した木の橋。
※現状では存在していないようです。石垣の一部が史跡として保存されているのみ。これもちょっと?

・かずら橋 【徳島県三好市】
・神橋 【栃木県日光市】

 などが挙げられるようです。こちらは現存する橋。

 「祖谷のかずら橋
     
 現在の西祖谷山村善徳のかずら橋は長さ45m、幅2m、谷からの高さ14mで日本三奇橋の一つであり、重要有形民俗文化財である。大正時代に一度、ワイヤーを使った吊り橋に架け替えられたが、1928年(昭和3年)、地域振興目的でかずら橋が復活された。ただし安全のためワイヤーは使われており、かずらはワイヤーを包み込む装飾とも言える。
 1970年に国鉄のディスカバー・ジャパンキャンペーンで登場したことで知名度が飛躍的に向上。現在でも年間35万人の観光客が通るため、老朽化が早い事から3年に一度架け替えが行われており、約1ヶ月を要する。材料である太いかずらの調達は年々困難になってきており細いかずらを撚り合わせて使用しているという。使用するかずらは高知県産のシラクチカズラである。
 東祖谷菅生のものは奥祖谷二重かずら橋と呼ばれ、男橋と呼ばれる長さ42mのものと女橋20mが並んで架かっている。いずれも人ひとり渡っても揺れ、床面も「さな木」と呼ばれる丸太や割木を荒く編んだだけであり、すき間から川面が望める。そういったこの橋の特徴をよく表す歌として「祖谷の粉ひき節」が知られている。
 2012年10月、徳島県のかずら橋がトリップアドバイザーの企画「バゲットリスト」の「世界の徒歩吊り橋10選」に選ばれた。
(以上、「Wikipedia」より。写真も借用。)

「神橋」は、「日光街道」のゴールにある橋。

 私(わたくし)的には「かずら橋」が入るかな、と。


                        解説板。



                  

            

橋の下(眼下30㍍)は「桂川」。なかなかの渓谷美。


                            

猿橋や 月松にあり 水にあり 芭蕉

甲州猿橋 お山の猿が お手々つないで かけた橋  野口雨情
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その7。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-06 23:16:23 | 甲州街道

「鳥沢宿」に入ります。
鳥沢宿(山梨県大月市)
概要:
 甲州街道の宿場町である鳥沢宿は2宿に分かれていて上鳥沢宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒(大5軒・中3軒・小5軒)、問屋1軒、宿場の規模は6町17間(約685m)。下鳥沢宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠11軒(大3軒・中4軒・小4軒)、問屋1軒、宿場の規模は4町30間(約495m)と甲州街道では小規模の宿場町がほぼ隣接(約550m)した形で設置されました。
 人馬継立や問屋役等は1ヶ月を半分に分け前半15日間を上鳥沢宿、後半15日間を下鳥沢宿でその役を務めました。元々は小西村と称していたそうですが、江戸時代初期に周辺の地名と共に十二支に因んだものに変更になったとされます(犬目宿や猿橋宿、駒橋宿など)。明治時代以降、鉄道の駅舎が設置された事で、周辺(旧富浜村)の中心として地位を確立し村役場や小学校が建設され市も開設され繁栄しました。道路の幅が当時から広かった為、藩政期の建物は少ないものの両側に木造2階建、切妻、平入り、出桁造の町屋建築が軒を連ね、宿場町らしい町並みを一部残しています。

(「山梨県:歴史・観光・見所」 www.yamareki.com/ootuki/tori.html HPより)

 申(さる)=猿橋、酉(とり)=鳥沢、戌(いぬ)=犬目。 「猿橋」がもともとあって、それにあやかって東側に続く宿場の名をつけたのではないでしょうか?

「国道20号線」沿いの宿場町。

(13:38)「東京から87㎞」ポスト。

古い街並みが残っています。

「下鳥沢宿」表示。
                           「山梨県東部JR八駅トレッキング推進協議会」とあります。

木造2階建、切妻、平入り、出桁造の町屋造りの建物が続きます。そのいくつか(順不同)。


               
          


                                     


(13:46)この信号、左手に「鳥沢駅」。
                                      駅のベンチで小休止。

(14:04)右手の「セブン・イレブン」の先に「上鳥沢宿」という案内表示と「明治天皇駐蹕地」碑。「井上本陣」跡。


              

注:「駐蹕(ちゅうひつ)」=天子が行幸の途中、一時乗り物をとめること。また、一時その土地に滞在すること。駐輦(ちゅうれん)。


通りを挟んで古民家。

しばらく進み、「三栄工業」の看板のところを右に入ります。(14:09)


「横吹沢」。

再び国道に合流。

 
              

この付近は、鳥沢駅から猿橋駅までかつてあった中央線の廃線跡探索で歩いたことがあります。その時の記録も交えて。

 ※かつての線路・築堤の上はこんな感じ。ちなみに「国道20号線」に合流する右下の道が今回歩いた「旧甲州街道」。
                     



(14:25)再び国道から右の道を上り、Y字路を左折します。その道が旧道。


         

 ※曲がらずに右の坂を上って行くと、突き当たりに「富浜公民館小向袴着分館」。その右手奥にトンネルの猿橋側の入口が見えます。
   
「公民館」の位置からは下にあって、廃線後、土盛りをした様子が分かります。「公民館」側を望む。              

旧道は私有地に入ってしまい、行き止まり。雑草の中の細道を国道側に降ります。


                         

降り立ったところは、国道20号線「宮谷橋」の脇。東京電力の管理する「水路橋」が橋のすぐ右手にあります。

※道路沿いの目の下に古びた橋梁(以前撮った写真。今回は、周囲の木々の緑が濃くて、全容がはっきりしませんでしたので)。「八ツ沢発電所」施設の一つ、「第3号水路」のようです。上部は煉瓦造り、下部はコンクリート構造。
    

名勝「猿橋」のすぐそばには「第1号水路橋」があります。

「八ツ沢発電所施設は,桂川にほぼ平行して東西に延びる水路式発電所施設である。
 東京電燈株式会社が第二水力電気事業の一環として建設したもので,明治43年に着工,大正3年の大野調整池の完成をもって全体が竣工した。
 建造物は,取水口施設,第一号から第一八号の隧道,第一号開渠,第一号から第四号の水路橋,大野調整池施設,水槽余水路などで,約14kmの範囲に現存する。
 取水口の沈砂池や隧道は,土砂流入防止等を意図して長大な規模で築かれる。第一号水路橋は大支間を実現した初期鉄筋コンクリート造橋梁であり,大野調整池堰堤は大正期を代表する大規模土堰堤の一つである。
 八ツ沢発電所施設は,大規模調整池を有するわが国最初期の本格的水力発電所施設であるばかりでなく,類型の異なる複数の構造物に高度な建設技術が発揮されており,土木技術史上,高い価値がある。
 わが国の重要文化財のなかで、最大規模となる。」
(以上、「」HPより)

(14:31)

 下の方まで降りて行った方の写真を見ましたが、見上げると、なかなか壮観なようです。水路には激しい勢いで水が流れています。構造的には「東海道」歩きの時に立ち寄った京都・南禅寺の「水路閣」と同じ頃つくられた、同じような構造の建築物のようですが。
京都・南禅寺「水路閣」。

 なお、民家の敷地を抜けていった「宮谷川」沿いに「宮谷川橋梁」の橋脚と橋台が残されているようです。
 この付近は、谷や山が入り組み、地盤などの崩壊なども激しいようで、旧道もここで途絶えてしまいます。かつての鉄道線路も維持管理の大変だったことが想像できます。
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その6。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-05 20:15:57 | 甲州街道

 「鳥沢宿」に向かって進みます。
古びた案内図。

「扇山」への道標。

 かつての甲州街道は今まで来た印象でも、現在のように車道となって曲がりくねっている道ではなく、尾根道をもっと直線的に進んでいたと思われます。この付近は特に標高が高く、富士山などの周囲の景観ももっとすばらしかったでしょう(足下はかなり悪いと思いますが)。
 地元の方々によって古道が復活されているところがしばしば見られます。しかし、荒廃している箇所もあるようで、一般の街道歩きでは現在の甲州街道・車道を歩くことが安全で確かなのかもしれません。景色は今ひとつ物足りませんが。

右手上に、茅葺き屋根のおうち。「瀧松苑」という蕎麦屋さんでしたが、現在は廃業?


旧道のようです。


        

 「君恋温泉」を経由して行く道のようでしたが、「君恋温泉」はすでに廃業しています。


(12:35)県道をそのまま進むと、正面に「恋塚一里塚」が見えて来ます。



恋塚一里塚
 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に1里(約4㎞)ごとに築かれた塚の一つで、江戸日本橋から21番21里にあたります。
 塚は原形をよく残しており、直径約12㍍、高さ約5㍍の円丘です。昔は街道を挟んで北側にもありました。
 もともと付近は峰続きでしたが、旧街道を造る時に堀割にしたため、道の両側に小高い場所ができました。この地形を利用して一里塚が築かれたものと考えられています。
 ・・・平成18年、大雨によって塚の西側斜面が崩れたため復旧工事を行いました。
・・・
           平成23年9月           山梨県教育委員会 上野原市教育委員会

 

振り返って望む。

カーブを曲がり、赤い鳥居のところを右に入って行きます。「馬宿」の集落。


              

その先に江戸時代の甲州街道・石畳が残っています。

枯れ葉に覆われた石畳道が40㍍ほど。

  

すぐ県道に出てしまいます。

左手が開けてくるので、富士山に期待が。

大月市に入ります。



                           

右手の高台に石仏と祠。

右側も開けてきます。山里風景。

しばらくすると山谷の集落に入って、どんどん下って行きます。旧道は途中、右に入る坂道を下って行くようでしたが、その入り口に気が付かず、そのまま県道を右に左にカーブしながら進みました。次の集落「中野」に向かいます。


               

小さな川を越えると中野の集落。

中野を過ぎると、目の前に中央道の高い橋脚が見えてきます。


中央道の高架下を進みます。

                  

しばらく進むと、「国道20号線」と合流。今回の出発地「上野原宿」以来、久々の国道(現「甲州街道」)との再会です。


             
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その5。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-03 18:42:06 | 甲州街道

森の中の道を出て「新田」の集落に入って行きます。 

右手に立派な門構えのおうち。

「甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家」の看板とそのいわれの解説文。

  
・・・米山家では一時期尾張の殿様が泊まる定宿だったことがあり、それを示す象嵌の札や三つ葉葵の金杯が残されている。新田宿は犬目宿の脇宿で、大きな大名行列の時だけ利用された。犬目宿の本陣ではなく、米山家になぜ宿泊したのかは、この前の駐車場から富士山がよく見え、甲州街道で最も眺望が良いためにお殿様がお気に入りになり、定宿となったものです。
・・・尾張の殿様は、徳川御三家でも筆頭の大名であったので、尾張の殿様が宿泊している間はそれを示す札(将棋の駒型で黒漆の象嵌で表に「踏馬」裏に「御免」と書かれている)を門にかけ、三つ葉葵の紋所の高張り提灯がたてられて門番がたち、いかなる格の高い武士でも馬にのったまま、通ることは不敬となるため許されず、馬を引いて歩いてとおらなければなりませんでした。
・・・宿場は遠くから見通しができないように入口の道路は曲げて造られていた。下の県道30号線(大月・上野原線)は、明治天皇が馬車でご巡幸するために造られた道であり、「新道」とよばれています。


正面の紅白に塗られた高い鉄塔(山梨放送・電波塔)を見ながら進むと、県道に合流します。広々とした合流点にはバス停があります。


 すれ違った中学生に「学校は近くにあるの?」と聞くと、「ありません。スクールバスで通っています」と。しばらくするとそのバスが来て、少年は乗り込みました。土曜日の部活のためなのでしょうか。

この先で「犬目宿」に入ります。

道路より下にある街道筋らしいおうち。

正面に近代的で大きなビルが現れます。「石垣エンジニアリング」とあります。


「犬目宿」の入口には「犬目兵助の墓」案内板。

「犬目宿」のようす。人っ子一人いないところに、正午のアナウンスが響きます。


犬目宿
 山梨県上野原市。正徳3年(1713)宿が構成された。本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠15軒であった。しかし、昭和45年の大火で宿の6割を焼失してしまう。
「この地極めて高き所にて、房総の海、富士の眺望奇絶たる所」といわれいた。

 この宿は、標高510㍍という高所に位置し、眺望が大変素晴らしかったところです。JR線から遠く離れ、今は静かな落ち着いた街並みです。
「下宿」バス停。一日に数本。

集落の中心に「犬目宿直売所」があります。土日は午後1時からなので、残念ながら開店前。やむをえず、その前の道端で小休止。


 新鮮な朝採り野菜ばかりをとりそろえ、安く販売しています。犬目地区は、旧甲州街道の犬目宿として栄え、葛飾北斎の富岳三十六景のひとつに甲州街道犬目峠が描かれています。
品目:野菜、果樹、その他(筍など季節のもの)
特産品:山菜(蕗・ウド・山椒など)
HPより)

(12:02)「犬目宿」碑。

「犬目宿案内板」。

―犬目宿のいわれ―
 犬目宿は、一つの村が「宿」そのものになった形と考えられます。言い伝えによれば、正徳2年(1712)、現在の集落より600mばかり下方の斜面(元土橋)にあったが、急遽そのまま現在の所に移住し、その翌年、宿駅起立の際に、統一的意思により「一村一宿」の宿場として創設されたということです。
 天保14年(1842)においては、戸数56戸、人口255名、本陣2、脇本陣0、旅籠15(大3、中3、小7)を数えた山峡の小さな宿場です。

                 平成7年3月   上野原町教育委員会


左側に兵助の生家「水田屋」。
解説板。

義民『犬目の兵助』の生家
 天保4年(1833)の飢饉から立ち直ることができないのに、天保7年(1836)の大飢饉がやって来ました。
 その年は、春からの天候不順に加え、台風の襲来などにより、穀物はほとんど実らず、餓死者が続出する悲惨な状況となりました。
 各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出ました。
 称して、『甲州一揆』と言われています。  
 このときの兵助は40歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、この一揆の首謀者は、当然死罪です。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されています。
 一揆後、兵助は逃亡の旅に出ますが、その『逃亡日誌』を見ると、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢を経ていますが、人々の善意の宿や、野宿を重ねた一年余りの苦しい旅のようすが伺えます。
 晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応3年に71歳で没しています。

   平成11年11月吉日                        上野原町教育委員会

静かなたたずまい。

この付近に本陣があったと言います。「犬目」バス停付近。


                

(12:19)宿場はすぐ終わり、桝形を右に折れていきます。寶勝寺が右手にあります。道路脇に「空」と刻まれた球形のオブジェ。
 

                  

この辺りからの富士山は葛飾北斎や歌川広重の版画でも有名。残念ながら今日は雲にかすんではっきりとは見えません。


葛飾北斎 冨嶽三十六景:甲州犬目峠

 新緑のなだらかな甲州道中の峠道を旅人や馬子が登っていく。摺り残して表現した雲は坂道と富士の間に距離を作り出し、眼下に渓谷があることをうかがわせる。鋭角の富士と峠の斜め線による簡潔な構図によって、明るくのどかな景色が広がっている。

犬目峠(山梨県上野原市)
…犬目宿は野田尻宿(上野原市)と下鳥沢宿(大月市)との間にある甲州道中の宿場であった。本図は犬目峠から富士を望む。犬目宿から桂川沿いの下鳥沢宿へと下る途中の峠の様子を描いたと考えられる。

HPより)

実際では構図的にはおかしい印象ですが。

歌川広重 不二三十六景:甲斐犬目峠

 本図は、甲州を旅した折に残したスケッチとよく似ているものの、やはり見えないはずの桂川を描きこんでいる。『甲州日記』の中で、4月の往路で開店したばかりの「しがらき」という茶屋で休憩し、11月の復路でも立ち寄っているが、右手の茶屋はこれを思い出してモチーフに選んだのかもしれない。

(同上)

これも実際とはかなり異なります。
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-06-01 21:45:08 | 甲州街道
                                           ↓が「談合坂SA」(下り線)。

 宿場の外れに位置する「犬嶋神社」から旧道は左に曲がって行きます。しばらく進むと、正面に「西光寺」。左手には中央道の防音壁が迫ってきます。



           
カエルの石像。

西光寺の右手を進むのが旧道。曲がりくねった上り坂になります。

(11:04) 振り返る。

しばらくすると、中央道の側道に合流、中央道を陸橋で越えていきます。橋付近からは、左手奥にある「談合坂SA」がよく見えます。

(11:08)陸橋を渡ると、森の中の砂利道。

県道30号線に合流し、「犬目宿」へ向かいます。


         

(11:12)右手石垣の上に「荻野一里塚跡」碑が立っています。その先には解説板。


                  

荻野一里塚跡
 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に1里(約4㎞)ごとに築かれ塚の一つです。江戸日本橋から20番20里にあたり、甲斐国(山梨県)に入って、3番目の一里塚です。
 一里塚の標柱が現在地から東に約10㍍の県道脇に建てられていますが、古老の話によると、北側の塚の上に「ヒラマツ」と呼ばれた老松がありました。
 一里塚は、旅人が、もう1里、もう1里と距離を知りながら旅をしたり、塚の木陰でひと休みをする場所でした。また、人夫や馬を借りる時の駄賃を決める基準にもなり、明治34年(1901)、中央線が開通するまで大いに利用されました。
 地域の歴史を知る貴重な文化財ですので大切に保護しましょう。

              平成23年9月         上野原市教育委員会

甲州の山々が広がります。のどかな山村。中央道が間近にあるとは思えないほど、静か。


           

人の姿も車の行き来もありません。初夏のような日差しのもと。


左手は深い谷になっています。

新緑の山々を眺めながらのんびりと。


                   

右手に中央道の防音壁が現れ、それに沿って進むと、右手には、中央道に架かる陸橋が。その橋を渡ってまっすぐ進みます。

(11:27)陸橋上から左手奥に見える富士山を肉眼では確認できますが、写真では判別不能。
                

その先、県道からは正面、右手の坂を上っていくようになります。


(11:29)その坂の入口に立っているのが、「矢坪坂の古戦場跡」解説板。


矢坪坂の古戦場跡
 大目地区矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、昔は、山腹と崖との間を道が入り組む要害の地でした。
 享禄3年(1530)4月23日甲斐国の郡内領主であった小山田信宥の軍勢が相模国の北条氏縄の軍勢を矢坪坂で迎え撃ち、激戦を展開しました。戦いの末、小山田勢は敗れ、多数の死者が出たと伝えられています。
 現在、戦いをしのぶ跡はありませんが、付近では時々、矢じりが掘り出されることがあったといいます。
 一説によると、矢坪の武甕槌(たけみかづち)神社(軍勢神社)や新田の丹勢神社はこの戦いに際に祀られたといわれています。

           平成29年3月           上野原市教育委員会


いよいよかつての難所、「座頭転がし」に向かいます。


               

(11:35)民家の脇を抜け、森の中に入って行きます。



左手が開けた所に出てきます。眼下には県道。急峻な崖になっています。フェンスがなかったらかなり不安。


(11:38)「矢坪金比羅神社参道」道標。

 

    

木々の間から遠くの山々が。


                                     (11:42)「座頭転がし」。

「座頭転がし」は、中山道・碓氷峠にもありましたが、それに比べればあっけなく着きます。しかし、今でもここで転げ落ちたら、たしかにおおごとになりそうです。むしろ、追いはぎでもあって突き落とされたら・・・。


参考:中山道・碓氷峠「座頭ころがし」
    

座頭ころがし(釜場)
 急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているので,すべりやすい所である。

 ここのように崖から落ちてしまう、というのではなく、「碓氷峠」では足下が滑りやすく転びそうで、たいへん危険で急な坂道という場所でした。
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-05-31 20:49:56 | 甲州街道

(10:30)側道の左手に、小さな緑地があります。「長峰砦跡」記念の緑地です。


          

発掘調査された長峰砦跡
 長峰砦跡は、山梨県の東端部、上野原町大椚地区に所在した、やや小規模な中世の山城跡です。この付近は戦国時代の終わり頃、甲斐と武蔵・相模とが国境を接するところで、当時こうした国境地帯によく見られる、「境目の城」と呼ばれるものの一つで、周辺のいくつかの城郭と結びつきを持ちながら、国境警護の役割を担ったものと考えられてきました。
 しかしそれがいつ頃、誰によってつくられたのか、どのような戦いの歴史があったのかなどについては不明な点が多く、また1960年代後半の中央自動車道建設工事などによる影響のため、元の姿をよくとどめない状況になっていました。このような中で1990年代後半になって再びこの遺跡が中央自動車道拡幅工事の計画区域に取り込まれたため、工事に先立ち平成7・9・10年度の三年にわたって発掘調査が実施されました。
 調査の結果、戦国時代末の長峰砦に結びつくと考えられるものに、山地を整形して設けられた郭(見張り小屋などを置く平坦地)の跡、尾根を切断する堀(堀切)の跡、斜面を横に走る横堀の跡などがあり、とくに堀跡からは鉄砲の玉が出土したことなど、いくつもの成果が得られています。また長峰と呼ばれるもとになった尾根状地形のやや下がった位置に尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続的に確認されました。これは江戸期の「甲州街道(正式には甲州道中)」に相当するものと見られるものでありました。
 長峰砦跡は、その歴史的な全体像を理解するには、すでに手がかりの多くが失われているものでありましたが、それでも発掘調査を通じて次のような歴史をとられることができるものと思われます。
 この長峰の地には、縄文時代以来の人々の何らかの活動の跡も断片的ながら確認され、ここが古くからの交通の要所であって、戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われています。そこで交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれました。
 その後、江戸時代になって砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備され、ここを行き来する旅人は砦の時代を偲びながら通行して行きました。そうした歴史は現在の中央自動車道にひきつがれているものといえましょう。

                                 上野原町教育委員会

 二度に亘る中央道の拡幅工事の機会に大々的に発掘調査が行われ、砦があったことを後世に伝えようと作られたのが「長峰砦跡碑」と小さな公園です。また、拡幅工事中に旧甲州街道の傍らに埋もれていた「句碑」が見つかりました。それが説明板の傍らにある石碑。
 碑に刻まれている句は芭蕉と、蕉門十哲の一人、支考の句。
句碑。
 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」芭蕉
 「あがりては さがりあけては 夕雲雀」支考

(注:実物の判読はなかなか難しいですが、幸いに「鶴川宿」入口にある解説板に句が載っていました。)

「長峰砦跡」碑。

 上の説明文にもあるように、この付近の旧道は「中央道」開通のためズタズタになり、ほとんどその跡は残されていません。中央道を何度か歩道橋で渡るのもそのせいです。また、街並みが分断されてしまった宿場もあるようです。



はるか遠くに住宅地。

振り返って望む。左手が中央道。

しばらく進むと、中央道を陸橋で越えます。左手に案内板あり。




陸橋を越えると、「野田尻宿」への道。

(10:42)右手に折れます。

切り通しを上り詰めると、

「野田尻宿」入口。振り返る。

この「野田尻宿」、実は「談合坂SAサービスエリア」に隣接しています。サービスエリアの照明灯などが間近に見えます。


「クマ出没注意」の看板! 

のどかな山村の家並み。

             



野田尻宿(のたじりじゅく)
 旧甲州街道、日本橋から数えて20番目の宿場。上野原市内。
 上野原市は山梨県東部の郡内地方に位置し、東は神奈川県(相模国)に接する。郡内地方は大部分を急峻な山地が占める地域であるが中世から武蔵国・関東方面に通じる交通路が存在し、江戸時代には甲州道中が整備される。
 甲州道中は鶴川、仲間川に沿いながら横断し、江戸から発して同道中の甲斐国の初宿である上野原とともに、鶴川宿、野田尻宿、犬目宿の各宿が設けられた。1713年(正徳3年)集落が形成される。1842年(天保14年)には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は大2軒、中3軒、小4軒からなる小規模な宿場町であった。万屋、蔦屋、中田屋、鶴屋、紺屋、酒屋といった当時の屋号を今も残す。本陣跡は明治19年の大火で焼失した。現在も開発されず落ち着いたたたずまいを見せる。上野原宿からは、野田尻宿を経て犬目宿へ至る。(以上、「Wikipedia」より)

かつては屋敷があったのでしょうか、跡が畑地になっています。


屋号「魚久」。

静かな通りに軽トラの音。「夏みかん」の販売車。1,500円で12,3個の大きな甘夏。おばあさんが買いに出てきました。この集落にはお店はまったくありません。食糧や日常品はどこまで買いに行くのでしょうか?


車が去ったあとは、また静寂さを取り戻します。穏やか日差しの下。


「野田尻宿」という石碑。隣には解説板。


             

 野田尻宿は、正徳3年(1713)集落起立の状態で宿を構成した。
 天保14年(1842)には、本陣1、脇本陣1、旅籠は大2、中3、小4計9の小さな宿場であった。蔦屋・紺屋・中田屋・酒屋・鶴屋・万屋など現在も昔の屋号が残っている。もちろん職業は違っている。
 お玉ヶ井にまつわる伝説は、その昔、旅籠「恵比寿屋」で働く美しい女中「お玉」にまつわる恋物語で、念願の恋が実ったお礼にと、水不足に悩む野田尻の一角に、澄んだ水をこんこんと沸き出させたと言う。なんとお玉の正体は「竜」で長峰の池の主「竜神」と結ばれたと言われている。
 熊埜山西光寺は、天長元年(824)真言宗として創立した歴史ある寺院である。鎌倉時代に建長寺第9世管長智覚禅師を勧請開山として、臨済宗に転宗した由緒ある寺院である。

                                   上野原町教育委員会
向かいの空地の隅に「明治天皇小休所跡」碑。


駐在所脇にも「野田尻宿」案内板。

この付近に「本陣」があったようですが。

簡易郵便局。古い郵便ポスト。
                      「このポストには郵便は出せません」とあります。


(10:58)宿内を振り返る。

      
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-05-30 20:07:17 | 甲州街道

 「鶴川宿」からは坂道を曲りながら上って行きます。
「馬頭観音」。

途中には古びた「蔵」やしゃれた「ログハウス」があります。


          

(9:47)森の中を進むと、やがて前方が明るく開けてきます。

「中央道」側道との合流地点。

 しばらく側道を歩き、左手、「中央道」に架かる橋を渡ります。
振り返って望む。

 (9:55)橋を渡って、そのまま切り通しの坂を上って行くと、左手に小さな駐車スペースがあって、そこに「大椚の一里塚」跡碑と解説板があります。


            
大椚の一里塚跡
 一里塚は、江戸時代、江戸日本橋を基点にして五街道の一里ごとに目印のため作られた塚であり、塚の上にはエノキ・松・ケヤキなどが植えられました。当時は、街道を行き来する旅人が距離を知る目安にしましたが、長旅のひと休みや雨宿りの場としても使われ、旅人には欠かすことができない大切な場所でした。
 上野原地域には甲州街道に沿って4ヶ所のの一里塚が作られ、大椚の一里塚は、江戸から19番19里にあたります。現在、その跡は残されていませんが、鶴川宿から大椚集落に入る手前の道の両側にあったことが江戸時代の絵図などからわかります。

          平成18年3月 上野原市教育委員会 
       
 もともとはもっと「鶴川宿」寄りにあったようです。
 そこのベンチに座って、先ほど「上野原」で買った酒まんじゅうを食べて小休止。


さて、緩やかに上って行くと、「大椚」の集落に入ります。沿道にはよく手入れされた草花や石碑が目につきます。

               
           

そこで、懐かしい看板を見つけました。「東海道」で三重県に入ってから至るところで見かけた「飛び出し坊や」によく似た「飛び出しお嬢ちゃん」。


この先もけっこう登場するのか、そして「飛び出し坊や」も登場するのかなと、期待します。
集落のようす。

イワナ・ヤマメの漁期、鮎釣の解禁のお知らせ。


かつて、渓流釣りにはまって山登りのたびに竿をかかえ、イワナやヤマメ釣に時を過ごしたのを思い出しました。

のどかな自然が続きます。

(10:14)常夜燈と祠。「大椚宿発祥の地」とあります。おそらくは間の宿だったでしょう。
 

ここにもありました! 

その先にも。

 しかし、その後は見当たりませんでした、残念! JA共済さん、頑張って甲州街道に設置して下さい。

集落の外れに吾妻神社の大杉。神社の木陰がちょうどよい休憩場所。トイレもあります。境内には大椚観音堂があります。


      



この付近から野田尻、荻野付近にかけては、馬の背のような長い尾根を歩くことになり、眺望が開けるところが多くなります。しかし、その尾根筋を中央道も通過していきます。

峠を越えると、目の前が開け、前方に「中央道」が迫ってきます。


「談合坂SA」まで1㎞。

(10:29)右側にはすぐ中央道が迫ってきて(フェンス一枚)、たくさんの車が猛スピードで走り抜けていきます。けっこうなド迫力。(この道はもちろん、旧道ではありません。)
          
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鶴川宿~野田尻宿~犬目宿~上下鳥沢宿~猿橋宿。その1。(「甲州街道」をゆく。第5日目。)

2017-05-29 20:48:33 | 甲州街道
 久しぶりに再開。5月27日(土)。晴れ。今回は、「上野原」駅で下車し、出来たら「大月駅」までという予定が、奇矯「猿橋」で地元のイベント「第16回さるはし観月会」に遭遇。結局、そこで長居をして「猿橋駅」に着いたのが17:45過ぎでした。本日は、ここまで。
 南側は雲が多くて富士山は肉眼では見えましたが、写真では? それでも、緑深い山々を眺めながらの旅です。

 8時30分過ぎに「上野原駅」に到着。さっそく路線バスに乗って、前回の「新町2丁目」交差点。上り坂を行くよりははるかに楽です。

8:48スタート。 

 「上野原」宿は沿道は商店街となって特に宿場時代の面影を遺す建物、史跡は見当たりません。「ルートイン上野原」というビジネスホテルが脇本陣「若松屋」があったところらしい。


かつての脇本陣「若松屋」(平成9年頃)。(「旧甲州街道ウオーキングマップ」より)
  

現在の街並み。

「東京より74㎞」ポスト。

「上野原名物」は酒まんじゅう。さっそく、あんこと味噌の二つを購入(1つ84円)。お店の方から「甲州街道をお歩きですか」と。

 本町の信号を過ぎると、道はY字路になります。その手前に、古びた商家「三井屋」さん。


Y字路。

左手の道を進むのが、旧道。

        振り返る。

 その前に、右手の国道沿いに「セブンイレブン」があるので、ちょっと寄り道して、食料を調達。いよいよ次の宿場に向かいます。このお店を見逃すと、道中、この後にお店はまったく見つかりません。



警察署の裏手を進むと、分岐点。(9:13)案内表示があるので安心。正面、石垣に沿った道を進みます。


         



しばらく進むと、左手の眼下が開けてきます。


国道20号線に架かる歩道橋を渡ります。一面、新緑の木々。県道に沿って進みます。


「甲州街道史跡案内図」。

豊かな緑に囲まれた家々。

江戸時代は甲州街道唯一の渡し場「鶴川の渡し」。今は「鶴川橋」(橋の下流に渡し場がありました)を渡って「鶴川宿」へ。



「鶴川」の流れ(上流)。

(9:27)「これより鶴川宿」碑。「史跡案内図」。




鶴川宿
 鶴川宿は、正徳3年(1713)一村一宿にて宿場を構成しました。また天保14年(1842)には
 戸数57戸人口295人、本陣1脇本陣2旅籠上3中3下2計8の小さな宿場でした。
 宿場に入り50メートル右手の家の前には「駒つなぎ石」、そして理法寺の入口には、萬霊等(天和6年-1785)・念仏供養塔(天和6年-1688)を見ることができます。少し進むと左手に、かつて馬宿であった若松屋が、北隣りには旅籠であった村田屋がありました。また、旅籠である街道をこえたところが、問屋柏屋であり近年まで屋号をついでいました。当時、間口24間(43メートル)奥行き18間(約32メートル)という大きな家で、上段の間があり脇本陣もつとめていましたが、大正10年(1921)の大火で焼失したためどのような間取りであったかは不明です。 
 また、大椚に向かう途中にはかつて本陣がありました。
 また、江戸五街道の川越は、通常橋梁によるものでしたが、鶴川は甲州街道唯一の「増水時
徒渡し」でした。そのほか、鶴川周辺には当時の街道をしのばせる名残を見ることができます。
 ※「駒つなぎ石」は、現在は鶴川神社境内にあります。

      平成8年3月                 上野原町教育委員会

現在の「鶴川宿」の街並み。

道案内。

大正時代のの大火で古い建物はなくなってしまったようですが、街道筋らしいおうちが見受けられます。


「中宿 藤井屋」。

宿場の最後、左手の大きなおうちの脇を左に折れます。枡形になっています。


    

振り返って望む。

(9:35)坂道を上って行くと、眼下に「鶴川宿」の街並み。
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与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿。その7。(「甲州街道」をゆく。第4日目。)

2017-05-12 21:46:55 | 甲州街道

 静かな集落を進むと、左手に自動販売機。ベンチに座ったとたん、自販機から「・・・いかがですか」と声が聞こえてきます。ビックリ! そこで、飲み物を購入して、しばし休憩。向かいは、「諏訪神社」の境内。緑濃き、大きな杉並木になっています(13:30)。

     

これは新しい「馬頭観音」。

どっしり構えた大きな屋敷が目立ちます。


              

「油屋」という屋号のおうち。

 (13:36)右手に大きな「旧甲州街道」碑。
 脇に「あいさつをかわす思いやりの道」「昔をしのぶ思い出の道」と刻まれています。

「中央道」を陸橋で渡ります。

 左手奥、台地の遥か下の「桂川」沿いにJR「上野原駅」があります。
 渡ってすぐ右手の「塚場一里塚」跡を見てから左折し、「中央道」沿いに進めば、駅まではさほどの苦労もなかったのですが、そのまま「上野原宿」に向かいました。
 そのため、上野原駅に行くために、「上野原宿」(新町二丁目交差点)から延々下り坂を歩くことに。約20分、最後は長く急な下り階段が続き、いかに「上野原宿」が高い台地上にあるかを否応なしに感じさせられました。

(13:40)真っ赤な鳥居と社の「疱瘡神社」。疱瘡(主に「天然痘」をさす)神を祀った神社。

疱瘡神(ほうそうがみ、ほうそうしん)
 疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種である。
 平安時代の『続日本紀』によれば、疱瘡は天平7年(735年)に朝鮮半島の新羅から伝わったとある。当時は外交を司る大宰府が九州の筑前国(現・福岡県)筑紫郡に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された菅原道真や藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられた。
 近世には疱瘡が新羅から来たということから、三韓征伐の神として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた。
 「笠神」、「芋明神(いもみょうじん)」などの別名でも呼ばれるが、これは疱瘡が激しい瘡蓋を生じることに由来する。
 かつて医学の発達していなかった時代には、根拠のない流言飛語も多く、疱瘡を擬人化するのみならず、実際に疱瘡神を目したという話も出回った。明治8年(1875年)には、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えており、疱瘡神除けのように赤い物を身に付けていたため、それが疱瘡神だったという話が、当時の錦絵新聞『日新真事誌』に掲載されている。
 疱瘡神は犬や赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった。赤い物として、鯛に車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた。
 疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている。江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝、鍾馗、金太郎、獅子舞、達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた。
 江戸時代の読本『椿説弓張月』においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。
 疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった。
 また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り、発病の1週間後にそれを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった。
 医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった。
 昔の沖縄では痘瘡のことをチュラガサ(清ら瘡)といい、痘瘡神のご機嫌をとることに専念した。病人には赤い着物を着せ、男たちは夜中、歌・三線を奏で痘瘡神をほめたたえ、その怒りをやわらげようと夜伽をした。地域によっては蘭の花を飾ったり、加羅を焚いたり、獅子舞をくりだした。また、琉歌の分類の中に疱瘡歌があり、これは疱瘡神を賛美し、祈願することで天然痘が軽くすむこと、治癒を歌った歌である。形式的には琉歌形式であるが、その発想は呪術的心性といえよう。
 幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた。種痘による疱瘡の予防が一般化した後も、地方によっては民間伝承における疱瘡神除けの習俗が継承されていた。
 21世紀に入っても、赤い御幣などの疱瘡神を家庭で祀っている例があり、疱瘡神の加護によって疱瘡を患うことのなかったことの感謝の念が今なお残っているものと見られている。
 茨城県では土浦市田宮地区の疱瘡囃子が、鹿児島県では薩摩郡入来町(現・薩摩川内市)や大浦町(現・南さつま市)などで行われていた疱瘡踊りが、それぞれ県の無形民俗文化財に指定されている。
                                          (以上、「Wikipedia」参照)
注:天然痘(てんねんとう、smallpox)
 天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つ。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高く、それまで流行していなかった地域においてはさらに致死率が跳ね上がるため、時に国や民族が滅ぶ原因となった事すらある。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた。世界で初めて撲滅に成功した感染症でもある。

奥州街道を歩いたときには「麻疹地蔵堂」という祠がありました。注:麻疹:「はしか」のこと。
                                          
そこに「塚場一里塚」跡の解説板があります。日本橋から18里目。

上野原市指定史跡 塚場一里塚
 この一里塚は、江戸時代、甲州街道に一里(約4㎞)ごとに築かれた塚の一つです。江戸日本橋から18番目・18里にあたり、甲斐国(山梨県)に入って最初の一里塚です。疱瘡神社の裏手にある小高い塚が一里塚と言われています。塚は直径約9㍍、高さ約3㍍の円丘です。古老の話によると、塚の上にカヤの木が植えられていました。
 一里塚は旅人がもう1里、もう1里と距離を知りながら旅をしたり、塚の木陰でひと休みする場所でした。また人夫や馬を借りるときの駄賃を決める基準にもなり、明治34年(1901)中央線が開通するまで大いに利用されました。
 この一里塚は、古墳時代に築かれた塚場古墳群の一部とも言われています。・・・

 塚跡そのものは、神社裏手のところにあるようです。明治に入って「一里塚」跡に「疱瘡神社」が出来たのか? それとも、この付近では、現在の旧甲州街道自体が江戸時代の道筋とは少し異なっているのか? 「中央道」の建設によって変化したとも思えますが。
  
そこから「上野原宿」方向を望む。

(13:48)「新町」交差点で右から来る「国道20号線」と合流します。旧道を振り返って望む。
             

「大ケヤキの街 うえのはら」。

(13:52)「新町二丁目」。今回はここまで。「上野原駅」に向かいます。

ここから延々下り坂+階段(約2㎞)を「上野原駅」まで。けっこうかかりました。駅到着が14:13。

ホームから北を望む。

南を望む。

 次回は、「上野原」駅から「鳥沢」駅、あるいは「猿橋」駅までか? JR線から離れての歩き旅です。
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与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿。その6。(「甲州街道」をゆく。第4日目。)

2017-05-11 20:33:22 | 甲州街道

 そのまま「国道20号線」を進むと、左手に「明泉学園相模湖セミナーハウス」、その先に「名倉入口」という信号。そこを左へ下って行くのが旧道です。


豊かな自然。

「甲州古道 下小渕下」。

急坂を曲りながら「相模川」方向へ下りていきます。


下ったところに架かっている橋が「境沢橋」。かつては「相模」と「甲斐」との国境でした。現在は、神奈川県相模原市藤野町と山梨県上野原市の県境。




                  
この橋は、相模川に流れる支流の上に架かる橋。

相模川に架かる「堤川橋」が前方にあります。そこからの相模川(相模湖)。


「上野原市」(県境)の標識。


甲州街道はこの橋を渡らず、Uターンするように急な坂(「乙女坂」というとか)を上って行きます。旧道としてはかなり違和感のある道筋。本来、「境沢橋」(国境)を渡ったあと、もっと手前から上っていったのではないかと思われます。
右から来て急角度で左に上がる。

けっこうな急坂で、何回もターンしながら上って行きます。眼下に相模川・相模湖。


坂を登り切った右手に「諏訪関(番所)」跡。



「解説板」には「諏訪番所」とあり、年代を追ってその経緯が記されています。。

諏訪番所
 戦国時代に武田氏が小田原北条氏などからの防備のために設置したのが起源とされます。武田氏滅亡後は天正10年(1582)に徳川家康が甲斐国郡内地方(山梨県東部地域)を領した鳥居元忠へ武田時代の通りに取締まるよう命じたといわれます。この時の番所の詳細は不明ですが、近世初頭の郡内地方からの川下げの取り調べは上野原宿本陣の加藤氏が担っていたといいます。
 その後、宝永4年(1707)に番所は相州との国境付近の台地の東端、境川近くに移転しました。そのため諏訪番所は境川番所ともいわれます。諏訪番所は本来、甲州街道を往来する旅人の取り調べが任務でしたが、郡内地方から川を下って出される材木や高瀬船の積荷を検査し、関税ともいえる「冥加永」を徴収する業務もおこなっていました。
        (この項は、HP参照)

「甲州街道史跡案内図」。

上って来た道を振り返る。

関所(番所)があったらしい高台は、「上野原自動車教習所」の敷地になっています。
  

「上野原」は相模川(山梨県内では「桂川」)の河岸段丘上にあって、用水が勢いよく流れています。
  

ここは「上野原宿」の手前に当たる土地ですが、旧道筋には家が建ち並び、車の通行も少なく、静かで落ち着いた雰囲気のところ。


右手に「船守寺」。

                 

門前の石碑に「日蓮大聖人伊豆御法難の危機を御救い申した船守弥三郎殿 伊東川奈船守山蓮慶寺より分骨の地」とあります。当寺と分骨との関連が?

船守弥三郎記念碑
故郷を捨て、伊豆国伊東の浦に住み着いて漁師となった諏訪の弥三郎は、弘長元年(1261)5月12日漁から帰る時に、日蓮をまないた岩の流罪から救った。日蓮は別れ際に弥三郎の海上安全を祈って、船守の守護を授けた。以来人々は彼を「船守の弥三郎」と呼びその徳を讃え、その名は天下に知れ渡ったという。昭和30年、伊東市蓮慶寺から弥三郎の骨を分骨し、ここに記念碑が建てられた。新町の植松菓子店では、「船守もなか」を販売しているそうだ。鎌倉には弥三郎の子の日実(弥三郎本人ともいう)が開山の妙長寺がある。

 なるほどここの出身だったというわけですね。

その先、「二十三夜塔」などの石碑群。
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与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿。その5。(「甲州街道」をゆく。第4日目。)

2017-05-10 20:56:57 | 甲州街道

 橋を渡り、左手に中華料理屋さんが見えたら、国道から右の坂道を上がって行きます。


                     

「藤野中学校」の前を通る短い旧道ですが、沿道には花々が咲き匂い、春らしい雰囲気。




                      

しばらくしてまた国道に復帰します。左手に大きな古木。一里塚だったという話があります。
 


エノキ
 高さ 12メートル
 樹齢 推定300年
・・・昔は一里塚に植えられていた。・・・

遠くの山肌に「ラブレター」。

集会所の前に大きな石碑。

「日連(ひづれ)入口」。

交差点を振り返る。
                                       「日連大橋」を経由して、「相模川」の対岸へ向かう道が分岐しています。

しばらくして右折すると、「藤野駅」。そのバス停のベンチで休憩。再び街道に戻ると、その正面に何だか奇抜な商店。
「横山薬品改めシーゲル堂」。

旧道は、この先をすぐ右折する道だったようですが、そのまま国道20号線を進んでしまいました。「中央道」を走っていると目に入る巨大なラブレターがはっきりと見えてきます。↓
緑のラブレター」高橋政行作
         
 作品は縦17メートル、横26メートル。鉄のフレームにシートが張られている。「ふるさと芸術村構想」のもと、藤野町(現相模原市)の依頼で、1989年に造形作家の高橋政行さん(67)が制作した。

藤野ふるさと芸術村
 第2次大戦中、藤田嗣治や猪熊弦一郎らが過ごした藤野。1988年に神奈川県が「藤野ふるさと芸術村メッセージ事業」を立ち上げ、国内外の作家による彫刻などを町内に展示した。当時の作品を含む29作品が、藤野駅周辺に今も残る。現在は、「ぐるっと陶器市」(毎年5月)など民間主体のイベントがさかんで、作家が活躍できる場も多い。

「東京から70㎞」ポスト。


しばらく進むと、左手が開けてきます。JR線を越えると、右手には「中央道」の橋脚。その下の歩道を進みます。
                          

「関野宿」に入ります。右手に「本陣跡」の説明板があるということですが、見落としました。
静かな街並み。
関野宿
 本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠3軒の相模国最後の宿場だったが、明治21年と、その後の2度の火災で焼失してしまった。


町外れに「増珠寺」があり、江戸時代の力士・追手風喜太郎の解説文があります。


 力士追手風喜太郎
 追手風喜太郎は、寛政11年(1799年)甲州街道沿いの当地関野に生まれ、幼名を「松次郎」と言いました。
 その生家は、現在もこの寺近くにあり、佐藤博文氏が当主として守っております。
 松次郎が力士への道を歩むようになったのは、9歳の時、同郷出身の力士で叔父にあたる「追手風小太郎」が長崎巡業の折り、松次郎の家に立ち寄ったことから始まります。この時、松次郎は親の止めるのも聞き入れず小太郎の後を追い弟子入りしました。力士としての仲間入りをしてからは、松五郎とも呼ばれ、文政3年(1820年)春場所には西三段目の下から二枚目となり、シコ名も「黒柳」と改めました。文政12年には前頭筆頭となり、黒柳の名を「往右衛門」と改め、さらに天保2年(1831年)春場所からは「追手風」としました。その後、小結・関脇とすすみ天保7年には西大関と据り、同10年には土俵を退いたとのことです。
 土俵を退いてからの追手風は、年寄となり相撲会所の要職に着くと共に、門下からは多くの名力士を出しました。また、敬神祟祖の念に厚く、竜渕山増珠寺には五具足・燭台などを寄贈し、氏神の三柱神社には、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神の幡(写真)を献納しました。
 この「安昌久全信士」の碑は、文政12年11月25日喜太郎の手により建立されたもので、追手風小太郎の碑であります。また、佐藤家の墓地には、昭和46年建立された追手風喜太郎と弟子の横綱雲竜久吉の碑が建てられています。

          昭和61年2月          藤野町教育委員会
 現在も年寄株として「追手風」があり、時津風一門の部屋として人気力士の遠藤などが所属しています。

 旧道は小渕小学校の脇を通っていたようですが、そのまま国道を進みます。



「上野原へ3㎞ 大月へ23㎞ 甲府へ64㎞」。

右手に「甲州古道坂の上」。

この道を上がっていくようですが。

 確かに現甲州街道(「国道20号線」)は、沢筋にかなり突き出て、カーブが続く。地盤は補強されているようで、河岸段丘上を進んでいた、かつての街道とは異なっている印象。


 ここまでには、かなり古びた木製の「甲州古道 道標」があり、所々に寸断された古道が残っているようですが、その標識を見失いがちで、つい車道を歩いてしまいます。
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与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿。その4。(「甲州街道」をゆく。第4日目。)

2017-05-09 20:30:59 | 甲州街道

吉野宿(神奈川県相模原市)
 甲州街道11番目の宿場。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒と小さな宿であった。この辺りは桂川(「相模川」上流の名称)に由来して「桂の里」と呼ばれていた。


 下り坂の途中に「高札場」跡碑があります。「高札場」がここにあるということは、宿場内では人が行き交う、けっこう中心的な場所のはずです。かつては下の街道(現:国道)から丘の上にかけて宿場町が形成されていたのでしょう。小規模な宿場でしたが、飯盛り女がたくさんいたという話も。   



(11:27)そこから国道へはすぐ。

右手に「吉野宿本陣」。



    
吉野本陣
 此処、藤野町吉野238番地吉野家は、江戸時代甲州街道吉野宿本陣・名主であり、現在でも屋号を「本陣」と呼びます。吉野家の由緒は弘安年間に遡り、承久の乱(1221年)の時、一族は天皇方に従い、宇治勢田で北条義時を討ったが闘いに敗れ、故郷を去りこの地に住み着きました。
 江戸時代に関東五街道制定と共に参勤交代の大名宿泊のため、街道宿駅名主の家を本陣に定め、道中奉行の統制のもと公用人馬の中継ぎを行わせていた。江戸時代末期の本陣は、木造5階建ての偉容を誇り、明治13年明治天皇行幸の際は行在所となり、陛下はこの2階で昼食をされたとの事であります。建物は明治29年暮れの大火で焼失したが、当時侍従であった神奈川県令の書と天皇御出立直後の写真が今も保存されています。

現在のようす。


       



向かい側に「郷土資料館・吉野宿ふじや」。



           

 明治29年の大火で宿場全焼、その後現在は郷土資料館として地域の歴史文化を学ぶ場とする為に再建されました。
 かつては甲州街道10番目の宿場・吉野宿の旅篭「ふじや」として大変賑わったそうです。
 1階はかつての「ふじや」の模型の側は畳部屋となっており、ご自由に休憩して頂けます。2階には地元で出土した土器や当時の人々が用いていた生活用具、そして養蚕業に関する展示がされています。
                                      (「相模原市観光協会」HPより)
 中に入って休憩兼見学。

かつての宿場のようす。

「相模川」の河岸段丘上にあったことがわかります。
現在のようす。
                           祝日のせいか、車の通りもほとんどなく、国道沿いとは思えない、静かで落ち着いた街並み。

壁には宿場の一覧表が宿間の旅程と共に掲げられています。


まだまだ先は長い!



(11:34)「東京から68㎞」ポスト。

左下に「相模湖」。



(11:47)しばらく進むと、「吉野橋」。
「二十三夜」塔など。

「小猿橋」の解説板。
小猿橋 小猿橋は、現在の吉野橋よりやや南寄りにあり長さ14間(約25㍍)幅2間(約3.6㍍)高さ5丈8尺(約25㍍)の欄干付きの板橋でした。この橋は、山梨県大月市の猿橋と工法も形も同じで、その規模が少し小さいことから「小猿橋」と呼んだと言われております。
 元禄11年(1698年)の記録によれば、橋の周辺の地形・地質が悪く迂回路の場所がないため、架け替え工事が非常に困難であった。その工事費は江戸幕府の支出で行われ、額は400両であった。その後、次第に工事費は減り、文久2年(1862年)には70両となり、徐々に幕府の支出はなくなっていった。地元では、人馬通行橋銭の徴収、宿場の貸座敷や旅籠の飯売り下女からの割銭等を財源として架け替え工事を行っていた。その折、八王子千人隊、萩原頼母を組長とする一部が工事中の警備・木材搬出の式に当たったと言う。
 明治初年からは総て官費で行われるようになり、明治中頃には上流約500㍍の地点に「新猿橋」という木橋ができた。大正8年、道路法制定と共に甲州街道は国道8号線となり、昭和8年8月の吉野橋の完成に伴い小猿橋、新猿橋は消滅した。

注:上流500㍍というと、宿場(旧甲州街道)からかなり遠くなり、道筋としては考えられない。数字の間違いではないか。

橋の下では釣り人が。

「沢井川」上流を望む。
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与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿。その3。(「甲州街道」をゆく。第4日目。)

2017-05-08 21:49:47 | 甲州街道

 (11:05)そのまま道なりに下って行くと、中央道を越える橋に出てきます。「相模湖インター」出口という標識付近に当たります。


沿道のおうちには色とりどりのお花が咲きそろっています。


          

 下る途中、右手に道標。車道は観福寺を迂回するように進みますが、ここから脇道に入ります。これが旧道ということのようです。

「赤坂」(11:10)。





 (11:12)目の下にJRのトンネルが見えて来ます。線路敷設の為、この道も一部付け替えられたような印象。


 再び車道に合流し、右に進みます。その付近に道標。「椚戸(くぬぎと)」。


本来の旧道は車道を越えて沢筋をそのまま直進したものと思われます。 


 しかし、車道をそのまま進みました。しばらく下ると、左手から先ほどの旧道が合流してきます。しっかりした道だったようです。
(11:17)

 その先、左手に「二十三夜塔」などの石碑群。中に「蚕影山(こかげさん)」と刻まれた石碑が目立ちます。


 この石碑は茨城県つくば市にある「蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)」と関連あり。
 蚕影山信仰は、中世末期から養蚕業が日本の基幹産業であった昭和中期まで、長く現役性を保った。「養蚕家の崇敬頗る厚く、遠近より参拝するもの極めて多し」とある。しかし、往古の信仰は、養蚕業の急速な衰退とともにした。
                                        (以上「Wikipedia」参照)
 以下は「www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/3160/doso.html」HP参照。

3.蚕影山と養蚕信仰
 山梨県甲府盆地の東部に位置する峡東地方では、集落の辻に道祖神と共に「蚕影山」と文字を刻んだ石碑が祀られている事が多い。この蚕影山(こかげさん)は、山梨で養蚕が盛んに行なわれるようになった江戸時代中期から、養蚕の神様として信仰を集めてきた。その本社は、現在の茨城県つくば市神部の蚕影神社であり、山梨県では、「シルクの里」を町のキャッチフレーズとする豊富村に分社された蚕影山神社があり、現在でも厚く信仰されている。それ以外にも、養蚕地帯であった東京多摩地区、神奈川、埼玉、群馬、長野、福島などに分社がある。
 養蚕は、江戸時代には、稲作の合間の現金収入の重要な手段として、主に女性によって行なわれた。ところが、蚕は病気に弱く、雨に濡れた桑の葉を食べさせただけでも病気になると言われた(発狂蚕等)。このため、消毒薬剤のない時代にあって、雨天の日の露切りには神経を使い、ついには、人間の生活する部屋を蚕室に切り替え、家そのものを養蚕のために改造する養蚕農家様式(切り妻出窓屋根様式)が峡東地方で誕生するに至った。
 人間と同じ屋根の下で蚕が一緒に暮らすことで、農民の蚕に対する愛着はいっそう深まり、養蚕の安全を祈ることが切実であった。このため、蚕を「かいこ」とは呼ばず、必ず「おかいこさん」と大切に呼びならわしたものである。ついには、外部から押し寄せてくる疫病や魔障を防ぎ、地域の繁栄を守ってくれる道祖神とともに、養蚕の神様である蚕影山を一緒に祀ることは、せつない農民の心でもあった。
 養蚕農家では、爾を出荷するばかりでなく(主に江戸、京都方面)、自分の家で繭を煮て、生糸取りをし機織りまで行い、より現金収入の増加を図ったり、家族の着物、夜具などをまかなった。
 峡東地方では、家庭での糸繰りは昭和30年代頃まで、おばあちゃんの仕事として、一般的に行なわれていた。こうした養蚕に伴う収入は、ある程度女性のへそくりにも認められていたようだ。
 現代でも、養蚕に関しては、農家の婦人(姑、嫁)が技術的な面で指導的立場にあった。けし粒のような蚕種の掃き立てから蚕が繭をつむぐための上簇(じょうぞく)まで、弱い生き物を相手に、細かい心遣いを必要とする命を育む技である。どうしても、女衆が寝る間も惜しんで、「お蚕さん」の様子を観察しながら、男衆に作業を指示する形となった。その昔、封建時代とはいっても、現金収入を養蚕に依存していれば、養蚕農家では女性の立場が強くなって当たり前。山梨県内で、「甲州名物かかあ天下にからっ風」といわれる理由は、そこにあった。もっとも、昭和50年代前半以降、養蚕が全県下で(いや全国で)衰微してしまった今では、死語となってしまったのかもしれない。

 なお、神奈川県下で残っていた養蚕業者は2010年度にすべて廃業したようです(ただし、一軒のみ続けているという情報もあり)。以前、北関東地方一帯で桑畑が見られ、養蚕業特有のおうちも見かけたが、現在ではほとんど見かけなくなりました。

 (11:24)しばらく進んで、相模湖方向を望むと、対岸に先ほどのホテルが見えます。


足下には国道20号線が。

いよいよ「吉野宿」に近づきます。
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与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿。その2。(「甲州街道」をゆく。第4日目。)

2017-05-06 14:55:31 | 甲州街道
 山に行くのか、キャンプに行くのか、満員のバス、人々。それらを尻目に「国道20号線」を進みます。同好の士らしい姿はいません。しばらくして左手に「セブンイレブン」が見えたら、右手の坂道を上ります。
 (10:26)その曲がり角に「明治天皇與瀬御小休所趾」。

この裏手に「与瀬本陣」跡の大きなおやしき。

急坂を上ると、「慈眼寺」。左手に「与瀬神社」と続きます。


二十三夜塔。 

 「月待行事」という民間信仰の一種。
 十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した。
 特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。十五夜塔も多い。群馬・栃木には「三日月さま」の塔も分布しており、集まる月齢に関しては地域的な片寄りもみられる。
 二十三夜塔は、旧暦23日の月待の記念として、二十三夜講中によって造立された塔である。月待を行う日は、毎月23日、あるいは正月、5月、9月、11月の23日など、地方によって異なる。他の月待塔は地域による分布の偏りがあるのに対し、二十三夜塔は日本全国に分布している。文字塔と刻像塔があり、刻像は勢至菩薩が多い。二十三夜待は「三夜待」「三夜供養」のように二十を省略して呼ばれることがあり、文字塔には「念三夜」と刻むものがある。
                                     (以上、「Wikipedia」参照)
 旧街道歩きでは随所でよく見かけます。「馬頭観音」もたくさん。

馬頭尊。

住宅地の中、石垣に沿って進むと、中央道の石垣にぶつかります。その先の階段を下りていきます。
振り返る。

(10:35)「中央道」をくぐって国道脇を進むと、右手にラーメン店があります。旧道はラーメン屋さんの裏手を進んでいて、その道が復活しているようですが、入口を見つけられず。


もう一度「中央道」をくぐって、右手の坂を上って行きます。来た道を振り返って。


そのまま坂道を。右から合流する道が旧道のようです。写真では右手の坂を上って来ました。


「甲州道中 横道」。

 ここまでの感想ですが、一部の区間を除いて「旧甲州街道」は鉄道敷設、「中央道」建設、それに伴う道路整備などでかなり消失・寸断されてしまった感がします(地元の努力で部分的に復活されているところもあり)。狭隘な土地に、鉄道、高速道路、さらには土地開発ということで、仕方がない面もありますが。 
 旧宿場、集落などを通過する道や峠道の一部以外は旧道ではなさそうな印象です。
 石仏などもまとまっているところが目立ちますが、旧道沿いにバラバラにあったものを一カ所にまとめた、というような印象。
 無論、このことは甲州街道に限ったことではありません。現代の旧街道歩きは、かつての姿を垣間見する楽しみがあります。
 さらに、歩きの人間にとって、日光近くまでの「日光街道」、高崎までの「中山道」(「板橋宿」付近の方が標高は高い! )、ゴールまでの「水戸街道」と異なって、「甲州街道」は、「内藤新宿」(標高約40㍍)を出てから、思った以上にけっこうアップダウンが続く街道です。直線で平らな道の部分はほとんどありません。膝に負担も出てきそうな道のり。
(余談ですが、高崎線・高崎まで、東北線・宇都宮まで、常磐線・水戸までにはトンネルがありません。中央線は八王子を過ぎるとトンネル続き。)

「相模湖」を望む。

「相模湖」は1947年(昭和22年)に完成した人工湖。それによっても旧道は湖の底に消失していたり、付け替えられてしまっています。今見る景色と江戸時代当時ではまったく異なるもののはずですね。

(10:45)目の下には中央道、相模湖湖畔のホテル。リゾートタウン。遠くに見える橋は、「勝瀬橋」。


            

石仏群。

左手に工場。

 

   

しばらく峠道の上りが続きます。道標「甲州道中 橋沢」。この付近で「藤野」町になります。のんびりと歩けます。


(10:59)住宅地に近づくと、左手の道を降りて行きます。(写真では写っていない一番左の坂道)


道標「子の入」。
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