百島百話 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

百と百々の水脈流源。

2022年08月01日 | 百会倶楽部(日本「百」歴史探訪)
僕の故郷は、瀬戸内海に浮かぶ百島。

その百島の祖となる先人は、嘉吉の乱の後に逃げてきた赤松一族だと伝え聞いています。



嘉吉の乱(かきつのらん)とは、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。

僕の記憶では、それ以前の百島は、桃島と呼ばれ、桃島の北浦某が倭寇として、中国大陸で活躍したと、尾道市の歴史編遷の何かに記載されていました。

活躍というのは美化しすぎ、倭寇というのは、要するに大陸まで遠征して略奪を繰り返していた日本の海賊です。

海賊の始まりといえば、伊予の河野水軍です。

嘉吉の乱、1441年の頃、まだ村上水軍は、伊予河野水軍を主家と仰ぎ、配下として動いていました。

さて、百々(もも、どど、どうどう)という一族、姓、地域があります。

この名の始まりは、伊予の河野氏がルーツとなるのです。

しかも、時は、嘉吉年間。

百々氏は、嘉吉年間に伊予の豪族・越智通春が戦乱を逃れるために義父の京極高経を頼って近江に移り、小野庄百々村に住んで「百々盛通」を名乗ったことが始まりとされる。その後は京極氏に代々仕え、摺針峠の関所の管理を任されていた。戦国期には浅井氏に属し、浅井長政に仕えた百々隠岐守盛実が佐和山城の城代を務めた。浅井氏滅亡後は織田氏に仕え、京極氏の頃からの関所管理の役目を追認されている。一族の百々越前守綱家は織田秀信の家老となり、関ヶ原の戦い後は土佐藩主・山内一豊の請願によって6千石の築城総奉行として山内氏に仕えた。
(彦根市歴史編遷史)

この彦根の百々村というのは、水の音、轟き、等々力、あるいは百済寺の百から派生しているのではないかと想像は出来ます。

ただ、現在における日本各地に散らばる百々という地域名、姓名のルーツが、嘉吉年間に始まるという僕の個人的な推測、発見です。

嘉吉の乱の以前、既に室町時代は混乱状態でした。

赤松が統治していた播磨の国でも統治不能状態、こんな記述があります。

「播磨国の土民が、去年の冬の京都と同じように蜂起。国中の侍をことごとく攻める。荘園の代官や守護方の軍兵が、土民らに、殺されたり、追放される。一国の騒動としては、世にもめずらしい例であるという。土民らは、侍を播磨には必要なしと、乱世が来てしまったといえる。このため、播磨の守護である赤松満祐が、京都から出陣。納税者の土民(農民)は、「徴税者の侍はいらない」という宣言。もう1つの徴税者側の公家は、これを「乱世の至り」と表現するだけで、実行力がないので、赤松氏の出陣を見守っている。」
(公家中山定親、薩戒記の現代訳文)

つまり、土民(農民)の立場からすれば、室町幕府も侍も必要無いという宣言みたいなものです。

さらに、京では、万民恐怖政治を行う籤引きで選ばれた将軍足利義教が登場。

嘉吉元年1441年6月、播磨の守護赤松満祐は、その悪名高き将軍足利義教を暗殺します。

これが嘉吉の乱。

この事件が伝わると、国中で起こる土民一揆、さらに幕府の赤松討伐も遅れて大混乱。

それを治める為、地方の豪族は次々に徳政令を発します。

ついには、室町幕府も日本国中ヘ徳政令を発布。

これが嘉吉の徳政令。

多分、土民一揆の武力に対しては、海賊の民を利用するのがよいと考えたのが、当時の権力者の意図だったのでしょう。

近江の京極氏は、伊予河野氏ヘ援軍要請、百々氏の始まりです。

その伊予河野水軍、幕府から赤松討伐を命ぜられていたが、嘉吉の乱の後、宗家と分家に分かれ対立、衰退ヘ向かいます。

京の山名氏と細川氏と勢力争いを含めて、伊予、備後の海上警備警固の役割は、だんだんと村上水軍が主流となります。

嘉吉の乱を切っ掛けに、時代は、応仁の乱、戦国時代へと移り変わります。

さて、不思議なのは、嘉吉の乱によって逃げ延びた赤松一族が、何ゆえ、どのように、百島で安住出来たのか?

赤松氏は、元々村上源氏の流れを汲むと伝わります。

因みに、村上水軍と村上源氏の繋がりは、歴史が積み重なり複雑で全く分かりません。

一点に絞るならば、百島と百々との地下に脈々と繋がる情報ルート、水脈源に興味があります。

八月になりました。

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