三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「ひきこもりの未来」

2006年08月11日 | 日記

某氏と繁華街を歩いていたら、デパートの前で「ビッグシュー」を売っていた。
喜んだ某氏はバックナンバーも何冊か買っているので、私もつられて「ひきこもりの未来」という特集をしている45号を買う。

上山和樹という人と精神科医の斎藤環の対談が載っていた。
上山さんは中学校で不登校、大学は卒業するが就職せず、ひきこもり状態になり、31歳で初めて自活、という人である。

世間的には、ひきこもりというのは甘えと見られている。しかし実際は逆で、「○○でなければならない」という規範意識が強迫観念化して、まったく動けなくなっている。親や周囲が言いたくなるような説教は、本人はもう自分に向かって百万回もくりかえして言っているわけです。ところがそれが周囲にはわからないから、本人がすでに病的に気にしていることを、さらに畳みかけて言うことになる。言えばいうほど逆効果で、働かなきゃいけない、社会参加しなきゃいけないと思えば思うほど硬直していく。(略)
元気に社会生活している方にとっては、家にいるのは「オフ」なんだと思います。だからひきこもりがうらやましいと言うんですが、これは実際には逆です。ひきこもりというのは、むしろ「24時間ずっとオン」の、異様に不自由な状態なんですね。


斎藤環はこのように応える。

(ある臨床心理学者が)どうすれば子供が元気になるのか考えればいいんだと言いました。まさにその通りなんですよそういう視点があまりにも欠けていた。この子はフリースクールで元気になるかもしれない、この子はオフにして家にいることで元気になるかもしれない、この子は再登校で元気になるかもしれない、で、話は簡単になる。(略)
結果としてこの人が社会参加をして元気になるのであればその方向にいけばいいし、ひきこもって元気になるならそれはそれでいい


某氏の子供(中学生)は不登校である。
さすがに最初のころはあせったそうだが、今は悠然としてる。

もしも私の子供がひきこもりになったら、絶対にガミガミ言いまくると思う。
ひきこもりは怠け者とかやる気がないという気持ちが、正直なところ私にはある。
ホームレスに対してもそういう思いがあり、ひきこもってたら将来はホームレスだ、という目でついつい見てしまう。

読者の投稿欄にこういうのがあった。

初めてビッグイシューを買った時、私は自己満足がしたかっただけだったのかもしれません。

この人は15歳、女性、学生。
恥ずかしくなった。

考えてみれば、我が家は先祖代々、人づきあいがまるっきりダメな家系である。
父も祖父も、おそらく曾祖父も人間関係が苦手で、家にいるほうが楽という人間である。
私はそれじゃダメだと思っていたが、血というのは恐いもので、映画館の暗闇に一人で座ると、しみしみと幸せを感じる。

そうはいっても、我が家の人間がそれなりの人生を送ってこれたのは、おそらく仮面をかぶることができたからではないかと思う。
仮面で人と接することで、他者との間に境界を作り、自己の内に他者を入れないことで、自分を守ってきたような気がする。
まあ、仮面を何種類か持つということは誰しもが無意識にやっていることではある。

で思ったのが、ひきこもりの人は自分を守る仮面がなく、生の顔で他者と接しているために、因幡の白ウサギのごとくヒリヒリしているのではないか。

だから、とにかく疲れてしまう。

そういうところは共感できるつもりではある。
だけどやっぱり差別意識がある。
差別することで安心したいのだろうか。

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8 コメント

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生という受動性 (ぷろじぇくとマンじ)
2006-08-11 23:44:08
 ※すこしづつ名前の表記を変えて遊んでますがここまではすべて同一人物です。



 さて、ビッグイシュー51号では、上山和樹さんは芥川の『河童』http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20060601#p1



 という作品をひきあいに出してひきこもりを論じています。(上山さんは2ちゃんねるなどでは実に評判が悪い。私もなんだか難しいことばかり書くなああとは思いますが)



 人間は生まれたくって生まれた人はいない。

「生まれる」というのは英語でアイ ウァズ ボーンで受身ですよね。これを書き換えて能動的に自分の人生を引き受けることというのは、実は簡単なことのようで簡単じゃないと思います。そしてそれがいとも簡単にできてる人にこの苦しみというのはなかなか理解しがたいことかも知れません。だから甘えるな!というのでしょうけど。

 ひきこもりというのは、(生の)門の前に佇むということ。門の外に出ることを拒否している状態ですが、他人がひいた(押し付けた?)レールに乗っかって生きるというのはほんとうに苦しいですよ。
返信する
ひきこもりについて。 (やくざ坊主)
2006-08-12 01:56:51
ひきこもりをしている人というのはおそらく真面目すぎる人なんだろうなあと思う。

と言うと逆説的な感じで矛盾しているように思われるかもしれないが、つまり、誰とも会いたくない状態、言わば対人恐怖症的なものではないだろうか、と私は思う。

ひきこもりに至る過程としては、仕事や勉強、または、学生生活で行き詰まりがあった、とか、会社や学校で自分が立場的に孤立(いじめとかで)してたりとか、将来などどうしていいのかわからない状態に陥ったときが始まりとなる。

そこで現状打破しようと考えているうちに自ら抜け出せぬ迷路に迷い込んだ状態となり、ついに「自分はダメ人間だ!もう人には顔向けできない!」と自分を追い込んでしまうのである。

そして厭世的な心理状態になり、ひきこもりが起こってしまうのだと思う。むしろ、ひきこもりのほうがまだましかもしれない。深刻に考えすぎて自殺に走ることもあるからだ。

だから、私はひきこもりをしてる人に対しては厳しくしたりとやかく言うつもりはない。むしろ、深刻に考えずに気楽に考えろ、ひきこもりをして解決策が出るようならそれでいいし、出ないようなら自分のベストと思うようにやれ、と言うと思う。他者が云々いうより、自分で解決策を見つけ出すことが何より大切だからだ。

と、自分なりの考えを述べてみたが、間違ってたら申\し訳ないです。
返信する
ひきこもりと対策 (chi-)
2006-08-12 13:43:42
こんにちわ。ご無沙汰しております。



今年の春、25年間対人恐怖症だったお坊さんに会いましたがその方が仰っておられたのは

「結局のところ自分がいちばん安心できる場所を探している」

ということでした。

もう一人、一時期、鬱がかっていたことのあるお坊さんが言うには

「こうなりたい、と思う本来の自分があるのに、一方で世間の決まりごとや制約が気になって動けなかった」

ということでした。



その時に思ったのは、周りは環境を整えるしかできないな

ということ。「ちと落ちつけ」、ということを言えるかなと

自分に対しては感じました。



もう一つ、「安心」ということにおいては

それは人と人との関係でしか生まれないのでは

ないか。問題がこんがらがり始めた原点に還る

しかないのではと。

それには自分が一歩踏み出さなければならないわけですが

そのためにも、個々人に対応した「環境」がいると。



個人的には

人が少なくなって困っている仏具職人の世界や

過疎地などで仏教を主体としたコミューンを

各所に作れたらなあと最近考えています。



返信する
あれこれと ()
2006-08-12 20:00:09
マン爺さん



どうして2ちゃんねるでは上山さんの評判が悪いんでしょうね。

難しいことを言う、というのはわかる気がします。

難しいことを言いたいんだろうと思います。



やくざ坊主さん



ひきこもりはどういう人なのか、どうしてひきこもりになるのか、それは千差万別でしょう。

だから、特効薬がない。

戸塚や長田・杉浦姉妹たちはそれがわかっていない。



上山和樹さんが難しいことを言うというのは、おそらく真面目だからでしょうね。

自分の状態を何とか言葉にしたい。

それは自己正当化ですが、真面目だから単純に自己正当化することができない。

で、迷路に迷い込む。

話が難しくなる。



こんなふうにさもわかったように言ってたんじゃ、戸塚と変わりませんね。(笑)



chi-さん



>「安心」ということにおいてはそれは人と人との関係でしか生まれないのではないか。



救いとは人との関わりの中にしかない、私もというように感じています。

しかしながら、対人恐怖症の人もウツの人もそんなことはとっくにご承知だろうと思います。

逆に、わかっているからこそ、人と関わらなければと思い、自縄自縛に陥るのではないでしょうか。



>個人的には人が少なくなって困っている仏具職人の世界や過疎地などで仏教を主体としたコミューンを各所に作れたらなあと最近考えています。



カウンセリングの先生の話にあったんですが、人づきあいがまるっきりダメな人がいて、電話の交換手になったそうです。

仕事をする場がないわけではないんでしょうけど、そう簡単にはいかないでしょうね。
返信する
宿業の非神話化 (プロジェクトまんじ)
2006-08-23 23:24:13
 仏教の根本原理には、苦を超えるという課題があると思います。苦すなわち、ドゥッカは思い通りにならないこと。いつまでも若くありたいけど齢を取り、いつまでも健康でいたいけど病を得、いつまでも生きていたいけどやがて死ぬ。

 同様に、この世に生まれて来るときも、この両親、この性、この容姿、この時代、この民族。。。という風に生処を選んで生まれてくるわけじゃない。それは誰もがどうにもならない、与えられたもの。

  ところが、往々にして人は、親になると子どもに過度の期待をし、思い通りにしようと無理難題をふっかけることがあります。「こんな人間に育てた覚えは無い!」「おかあさんの言うことが聞けない子はうちの子じゃありません!」等々。こんなことを言われ続けたら、子どもには逃げ場がなく、立つ瀬がありません。「誰が生んでくれって頼んだんだ!」子どもは、こう切り返してこの窮地を逃れようとします。実際によくこんな押し問答を聞いたことがありますし、実は自分もこういうことばかり子どもの頃言ってました。

 人にはこの、自分が逃げ込むことができる無実の居場所。文句なしに無条件でありのままの自分を肯定される隠れ家。それを見出すことが、必要なのでしょう。(今日、東本願寺の前を通りましたが、「あなたはあなたになればいい」という掲示板があって、一緒に歩いていた大学の先生が感激してました)

 けれど、人はいったん自分がこの根源的受動性を承認されたとき、その場に留まり続けて、どんなことに対しても「自分には関係ないよ」「あたしワルくないもん」とは言わないのではないのでしょうか。私が望み、思い描いた世界じゃなかったけれども、この世を、この自分の生を、自分に与えられた課題を引き受ける。

 浄土というのは、自分にとって「死後の世界」というものでなく、「ありのままの自分でいられる居場所」という意味に受け取っています。

返信する
ツボ ()
2006-08-25 19:30:47
「あなたはあなたになればいい」という言葉、さほど目新しくはない、ありふれた言葉ですよね。

「あるがまま」「そのまま」とか。

だけど、ツボにはまれば感動する。

ツボにはまる言葉を見つけ出すための試行錯誤が聞法なのかと、今、思いつきました。
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孵化すること (プロジェクトまんじ)
2006-08-26 00:33:57
 ええと。この大学の先生は、宗教には縁もゆかりも

無く、真宗の教えを聞法されてきた人ではないけれど、

こういうわかりやすい表現で、その人が日頃何となく

思っていたこと。長いあいだ、暖めている課題が

言い当てられたという実感、一瞬のひらめきがあったの

でしょう。

 ですから、私は、課題というか問いの方が大事だと

思うのですが、多くのカルトは答えを与えるのだと

思っています。
返信する
何が生まれるか ()
2006-08-26 14:48:44
「あなたはあなたになればいい」ということ、カウンセリングでよく言うじゃないですか。

これをカルト、もしくはスピリチュアリティでは「あなたは本来のあなたになればいい」という意味で言うんでしょうね。

同じ言葉でも立場が違えばまるっきり別の意味になるわけで、そのあたり難しい。



関係ないんですけど、「親鸞仏教センター通信」が今日来まして、トランスパーソナル心理学の流れの一つサイコシンセサスについて書かれていました。

いろんな思想を学ぶのはいいのですが、他の思想によって真宗を理解しようとして、真宗を見失っているのでないか、別の真宗になるのではと、毎度のことですが思いました。
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