自伝というのは大なり小なり臭みがある。
自己顕示欲がなければ自伝なんて書こうと思わないから、当然のことながら自伝には自慢の数々が陳列されている。
後藤忠政『憚りながら』は、元山口組系後藤組組長の聞き書き。
引退して天台宗で得度したというので、読んでみた。
最初は悪漢小説(ピカレスクロマン)みたいな面白さもあるが、読み進むにつれてイヤになってくる。
後藤忠政氏は組を解散してヤクザを辞めた半年後に得度する。
「新しい人生を歩むからには、何らかのけじめをつけなくちゃならんと思ってな」
「けじめをつける」を辞書で調べると、「過失や非難に対して、明白なかたちで責任をとる」とある。
得度することで、今までの行いの責任を取るということか。
得度するということは、それまでの生き方を全否定することだと思う。
ところが、『憚りながら』を読むと、後藤忠政氏は自分の生き方に疑問を持っていない。
「わしも若いときは悪さをして……」というワル自慢ほどイヤミなものはないが、それでも悪いことをしたという自覚はある。
しかし、『憚りながら』にはそれすら感じられない。
後藤忠政氏は15か16歳の時に留置場に入る。
面会や差し入れがない。
「俺の周りには誰も助けてくれる人はいない」
「自分独りで生きていかなきゃ、どうしようもないんだ」
「これからは自分のことはすべて、自分で解決しよう」
このように悟り、それからはこの生き方で生きてきたという。
「プライドが強くなけりゃ、極道のトップにはなれん。俺なんか今でもヤクザ辞めた今でも、そのプライドだけは捨ててないから」と言ってるように、自分の生き方、モットーに少しも疑問を持っていない。
だから、「貧乏を抜け出すには、誰にも頼らず、自分の力で抜け出すしかないんだよ」と年越し派遣村批判をする。
だけど、みんなが後藤忠政氏のような生き方をしたら、世の中滅茶苦茶になってしまう。
自分が傷つけた人のことを考えていないから、そんなことが言えるのだろう。
自己美化するだけでなく、暴力団の論理をも肯定している。
「極道の世界では、男としての心意気を見せるとか、親分や一家のために身を捨てる覚悟を示すとか、そういうことが大事なんだよ。戦国時代の武将みたいに」
バルブでパンクした連中を非難してこう言う。
「たかが自分でこさえた借金じゃないか。ピンチかパンチか知らないが、自分が招いたピンチで、自分のケツひとつふけないってのは情けないよ。
そこで盃受けたもん(ヤクザ)と、受けてないもん(企業舎弟)の差が出るんだ。ヤクザには自分のケツはもちろん、若い衆のケツをふくという責任が絶えずついて回ってくる。俺だって現役時代は、若い衆のやったことでピンチに立たされたことが幾度もあるんだよ。それが極道というもんで、そういう時にこそ、極道としての真価が問われる」と、自信満々。
そのわりに、有名人との交際を語らずにはおれない。
昔はよかった、それに比べて今は、日本はどうなる、と時勢を憂いてお説教をするのも、この手の自伝の特徴である。
「チンピラ同士でもちゃんとルールがあったんだよ、昭和30年代には」
バブルの5年近くで、日本も、日本人もすっかり変わったと嘆く。
「それまでの日本人が持っていた勤勉さとか、親を敬うとか、年寄りを大切にするとかいう基本的な価値観が全部崩れたんだ」
ヤクザにそんなこと言われたくない。
森元首相や小泉元首相、自民党や国会議員たちを時事放談的にやっつける。
おっしゃるとおりだが、暴力団組長が「政界の品格」云々を言えるのか。
社会貢献をさりげなく自慢するのも特徴。
ボランティアは黙ってするものだと島田紳助を批判しながら、「わしはこんなことをしている」と語ってるし、『憚りながら』の末尾に「後藤氏に対する本書の印税は、その全額が高齢者福祉及び児童福祉のために寄付されます」と書いている。
ええっと思ったのが、アメリカでの肝臓移植。
肝臓ガンになり、あと半年か一年だと宣告を受ける。
「その時もべつに死ぬのが怖いと思ったわけじゃないんだ。それまで散々、無茶して生きてきたし、殺されそうになったことも何回かあったから。殺られたら殺られたでしょうがないって思ってたよ。極道というのは、そういうもんだから」
それだけ悟ったようなことを言いながら、肝臓を移植するためにアメリカに行くんですからね。
4月に妻と若い衆2人を連れてアメリカに行く。
7月4日、適合する肝臓があり、移植手術を受け、帰国したのは11月。
なるほど、アメリカで臓器移植をするのはお金がかかることがわかった。
でも、それだけの金をどうやって工面したのかと思う。
収入に見合った所得税をちゃんと払っているのならいいけど。
現役の暴力団組長がアメリカに入国でき、どうして肝臓移植ができたのか。
「これについちゃあ、悪いが今は「日米両国でたくさんの人たちが汗をかいてくれたおかげだ」としか言えないな」とごまかす。
ウィキペディアには、アメリカで肝臓移植を受けさせてもらう見返りに、FBIに山口組内部情報を教えた、とある。
後藤忠政氏は「ただ俺はこの移植手術に際して、自分は何も不正なことはやっていないと思ってる」と言ってる。
「やっていない」ではなく「やっていないと思ってる」である。
得度式を受けたと言っても、僧籍は取らなかったそうだ。
天台宗ではそんなに簡単に得度できるものなんだろうか。
師僧となった浄発願寺の住職に得度することを頼みに行ったとき、住職は背中の刺青を見せたという。
左肩に野村秋介氏の名前と句、右肩には後藤忠政氏の名前が彫ってあった。
浄発願寺のHPのトップページには『憚りながら』が紹介されている。
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たちが悪いのは自分達の行為を綺麗ごと言って正当化する点ですね。当然理論が破綻してるんですぐに論破されちゃうんですけど。そして最終的には暴力だと・・・
ヒロユキさんなにがいいの?読んでみて否定の意味がわからないんだったら聞いてみてもわからないさ。
ヤクザも同じかも。
刺青をしているという浄発願寺の住職には、そこまでしなくても、と思います。
『憚りながら』はワル自慢です。
自慢話の多くは退屈なものですが、ワル自慢は不愉快になります。
人を傷つけ、迷惑をかけたのに、そのことについての痛みがないからです。
てつやさんがコメントされているように、すべて正当化しています。
『憚りながら』を読んで不快に感じない人がいるんでしょうか。
自分が被害者だったら、そうは思わないかもしれないけど。
政治家やマスコミを痛烈に批判してるのは、共感できる。
今の日本は、セコイ奴やカッコだけのやつが多すぎる。あまりにも表面的な常識が正しいと洗脳されている。
日本以外でも、トップレベルの「大人の世界」があって、その世界に入るには、マスコミ的常識では無理なんだという事が、実名入りでリアルに描かれていた。
個人的にはいい本だと思います。
仲間を売って肝臓を買うのも筋を通したことになるんですかね。
押しつけ?って言えば、かなり前のことです。先生のお子さんが外国で臓器移植しなくては、命が助からないということになって。先生が保護者会でPTA会員に寄付金を集めたいのでそういう会を作ってくれればと、そういうことだったと思うのですが、そんなようなことおっしゃったんです。その時のお母様方は、みんなそれ聴いてお泣きになって、そういう会の準備をし始めました。
私は複雑な気持ちでしたね。保護者会でのお話かなぁって。寄付はしましたけど、そのころは貧しい国のお子さんの臓器移植が問題になっていたころで。今でも、なんか押しつけモードだったような気がして。
生命の問題に宗教者が座視するのは許されないということで、発言している宗教者の方のご意見読みました。
「自分の子どもに臓器移植が必要な場合は、必死にお願いする。子供が脳死になり提供を求められたら悩む」という考えの方が多いそうです。そうだろうナと思います。
臓器移植の問題は他人の生命に依存する重要な問題でしょ?いろんな本読んで考えていくるのは、よいことでしょ?
私が他人のブログに私の考えを押しつけるようなコメントをしたなら、文句を言われても仕方ありませんが、自分のブログに本の感想を書くのがどうしていけないんですか。
それと、やくざが得度することがよくないとは言っていません。
>となりのみよちゃんさん
後藤氏や『憚りながら』に好意的な人がいるということは不思議です。
教師が保護者会で子供の臓器移植のために寄付を募るのにはびっくりですが、本来はアメリカのビザが下りないヤクザが組の情報を売って渡米するのもどうかと思うでしょ。
自分のしてきたことに恥ずかしいとか、申し訳ないという気持ちがないようです。