三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

本田哲郎『聖書を発見する』

2016年01月18日 | キリスト教

仏伝、高僧伝、聖書などには奇跡や超常現象が当たり前のように書かれています。
あるいは、差別的表現や差別を肯定する個所もあります。
そこらをどう受け取るか。

本田哲郎『聖書を発見する』は、聖書に書かれてあることはすべて歴史的事実だという立場ではなく、「自見之覚悟」ではないですが、そうした表現で何を伝えようとしているかが書かれています。

たとえばイエスが病人を治したということ。
実際に「病気を治す」という行ないは、イエスはほとんどしていない。
イエスには癒しのパワーがあると期待しがちだが、福音書を読むかぎり、イエス自身は必ずしも自分に癒しのパワーがあるとは思っていなかった。

たいていテラペウオという語が使われている。これは、手当をする、介護する、奉仕する、といった意味のことばです。(略)病気の人、苦しんでいる人、しんどい思いをしている人の背中を、たとえばさすってあげて、「治りたいよね」とつぶやくようなかかわりがテラペウオなのです。それが、ときどき本当にイヤスタイ、つまり治ってしまうというケースが、福音書の中に五回ほど出てくるというわけです。


ライ病を患う人を抱きしめ、「清められたらいいね」と願いを込めて言ったら治った。

「え、治ったの」と驚くというかたちで出てきます。「治ればいいね」と思って、らい病の人とかかわるイエスのやり方が、結果的に病を治してしまった。そのことに本人が驚くというように。

この個所の本田哲郎氏の訳(『小さくされた人々のための福音』)。

全身らい病におかされた男がいた。男はイエスを見るとひれ伏して、「どうか、お力でわたしを清めてください」と願った。イエスは手をのばしてその男を抱きしめ、「清められるように」と言った。すると、すぐにらい病は去った。

新共同訳ではこうなってます。

イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。


盲人が見えるようになったという個所は新共同訳では

イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。

となっていますが、本田哲郎訳は

二人の目があいた。イエスは二人に対して深い感動をおぼえ、「だれにも知られないようにしていなさい」と言った。

とあります。
「深い感動」は本田哲郎氏がつけ加えたのでしょうか。

クリスチャン・サイエンスやGLAの講演会で車イスの人が立ち上がって歩けるようになるそうですが、これは一時的なもので、本当に歩けるようになるわけではありません。
イエスの癒やしはこんなのとは違うでしょうが、「治りたいよね」とつぶやいたぐらいでハンセン病が治ったり、死者が蘇るものかと、そういうのは好きではない私は思います。

病気を治すといった超能力がイエスにあるのではなく、苦しむ人に寄り添い、共に苦しむイエスです。
そして、我々も奇跡的なことが起こって問題を解決してくれるように祈るのではない。
祈りとは行動を引き出す決意のようなものだと本田哲郎氏は言います。

自分たちだけが幸せになって、その一方でほかの人たちが相変わらずつらい思いを強いられているとしたら、それは本当の幸せとは言えない。つらい思いを強いられている仲間たちが少しずつでも解放されるような働きかけができないならば、宗教そのものも偽物ではないでしょうか。


「つらい思いを強いられている仲間」とは、たとえば羊飼いです。

この時代の「羊飼い」は被差別の職業と見られていたそうです。羊飼いは、律法をきちんと守れない人たちと見下されていました。仕事上、守れないのです。仮に安息日が明日であったも、羊を放っぽって自分だけ会堂に走るわけにはいかない。また、安息日には火を焚いてはいけないのですが、羊といっしょに野宿をしていたら、火の気なしには凍えてしまう。仕事がら、律法に違反せざるを得ないようなそういう職業は、罪人の職業、賤業というふうにユダヤ人は見なしていたようです。


虐げられている仲間に、死後の世界としての天国という救いを説いてはいない。

「天の国」とは、死んでから行くところ、いわゆる天国のことではありません。

「神の国」とは、地上に実現されるべき社会のことであり、「天の国」とは「天につながる世界」、この地上で、人間同士の間で、実現されるべき神につながる社会のことだ。

「弱い人の立場に立つ」と言いますが、本当の意味で他人の立場に立つということはおそらく不可能です。歩み寄って、その人の立場に寄り添おうという努力は大事ですが、ややもすると、その人の立場に立てたつもりになってしまって、「自分だったらこう思うから、相手も当然こう思うはずだ」と考えて、そこから「どうしてそう思わないのだ」と相手を非難したり、見下したりすることが始まってしまう。最後のところでは、他人の立場に立つことはできない。だから、相手から教えてもらうしかない。相手より下に立つということが大事なのです。


本田哲郎氏は、understand(理解する)とはunder stand(下に立つ)ことだ、と話されています。
なるほどと思いました。

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