1994年のルワンダ大虐殺を生き延びたイマキュレー・イリバギザという女性の手記が『生かされて。』である。
牧師にかくまわれ、7人の女性とトイレに三ヵ月間隠れて、何とか助かったのだが、両親と兄弟は殺された。
母と兄を殺し、自分も殺そうとした首謀者とイマキュレーは刑務所で会う。
彼をどうしてもよかったが、イマキュレーは「あなたを許します」と言う。
同席した地方長官は「何で許したりするんだ」と激怒するが、「許ししか私には彼に与えるものはないのです」と答える。
私が私の話を他の人に話すように、そして、愛と許しがもたらす癒しの力のことを可能な限りたくさんの人に話すようにと。
憎しみの連鎖を否定し、「許し」を強く訴えているこの本をぜひともお薦めしたいところだが、どうも素直に感動できなかった。
というのも、推薦の言葉を書いたウエイン・ダイアー博士は心理学者ということだが、「イマキュレーは、意識のとても高いレベルに生きていて、彼女に出会ったすべての人のエネルギーレベルを高めています」と、頭の痛くなることを書いている。
訳者のあとがきを読むと、訳者はスピリチュアル系の人らしい。
出版はPHP研究所で、本の最後にはブライアン・L・ワイスの『未来世療法』の広告がある。
ということで、ついつい偏見の目を持って読んでしまった。
イマキュレーは熱心なカトリックで、この本にも神について何度も書いている。
神を疑う気持ち、フツ族を怨む気持ちはイマキュレーにもある。
神様の目には、殺人者たちでさえ、彼の家族、愛と許しを受ける対象なのです。
私は、神の子どもたちを愛する気がないのならば、神の私への愛も期待することはできないとわかったのです。
その時です。私は、殺人者たちのためにはじめて祈りました。彼らの罪をお許し下さいと
いつ殺されるかわからない極限状況の中で、ひたすら神を信じていないと精神を保てないということは理解できるが、その考えには共感できない。
ひっかかったことは他にもある。
私は、これから神様がどんな人生を私のために用意しているにしても、人が誰かを許すことを助けることこそが、私の人生の仕事の大きな意味なのだと気づきました。
自分が生き延びたことをこういうふうに意味づけするのもわかる。
しかし、100万人もの人たちが殺されたのは、どういう目的が神様にあったのか。
では、神様はイマキュレーを選び、他の100万人を選ばなかったのか。
イマキュレーは願いはかなうというポジティブ・シンキングの信奉者である。
結婚したいと思い、こういう男性をお願いしますと神に頼んだら、ピッタリの男性が現れて結婚。
そして、国連で仕事をしたいと願ったら、その願いも叶ったという。
イマキュレーの父親はフツ族の攻撃から避難してきたツチ族にこう言う。
残された時間、懺悔をし、私たちの罪の許しを乞いましょう。もし死ななければならないのなら、綺麗な心のままで死ぬのです。
何千という群衆は、彼の言葉に従って祈り始めた。
さらに、父親はこう言った。
勇気を出して、強くなりましょう。そして、祈りましょう。
そして、みんな殺されてしまうのである。
なぜ神様の加護がなかったのだろうか。
イマキュレーが日本に来た時に安倍昭恵首相夫人と会談した。
安倍昭恵は「いじめに悩み自ら命を絶つ日本の若者に重要なメッセージを与えてくれる」とイマキュレーを讃えたそうだ。
イマキュレーは「許し」を訴えているのだから、安倍昭恵の言うメッセージとは「いじめた人を許しなさい」ということなのだろうか。
(追記)
安倍昭恵もスピリチュアルがお好きなようです。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/2bcfb4a8974a6ff6b54601ca607841ad
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/d18b1c1184e8e324a6274a807d87dde6
イマキュレー・イリバギザさんのことをもう少し知りたくて偶々このサイトに遭遇しました.
おっしゃる疑問,そうですね,私も「生かされて」を読んだのですが,疑問を感じました.私の娘は感動してましたが,私はひっかかりました.イリバギザさんの主張されていることは非常に微妙なんですが,やはり矛盾していると感じています.
「民族浄化」の凄惨な殺戮とキリスト教との関係が極めて問題なのではないでしょうか.魔女狩り,十字軍等々におけるキリスト教の名の下に行われた罪深き歴史的残虐行為を思い起こします.
まだ,うまく説明も納得もできないのですが,唯一神教の絶対神を信仰することは他の神を認めないという暗黙の前提がありますよね.これを否定したら唯一神教は存立し得ないわけですから.ここに,イリバギザさんの姿勢を十分に理解できない理由があるのではないでしょうか.唯一神教は排他的にならざるを得ないです.日本で「民族浄化」が起きなかったのは単一民族だからだったのではなく,多神教とともに生きてきたからだと思います.間違っているかも知れません.まだ不十分な見解ですみません.m(_ _)m
>「民族浄化」の凄惨な殺戮とキリスト教との関係が極めて問題なのではないでしょうか.
それはどうでしょうか。
深読みという気がします。
>イリバギザさんの姿勢を十分に理解できない理由があるのではないでしょうか.
単にイリバギザさんはニューエイジ系キリスト教にはまったというだけのことだと思います。
>日本で「民族浄化」が起きなかったのは単一民族だからだったのではなく,多神教とともに生きてきたからだと思います.
アイヌ差別、在日差別、外国人差別などが現実に今もあるじゃないですか。
多神教をことさら美化するのはおかしいと思います。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/12/post_3448.html
そこにある、キリシタン弾圧と真宗教団についての説があります。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/12/post_a0d0.html
いっぽうでは、真宗も弾圧されてきた土地もあったのにね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E5%BF%B5%E4%BB%8F
一神教が好戦的で、多神教が平和主義とか、キリスト教が好戦的で、仏教が平和主義とかいちがいには言えないではないでしょうか。それはイジメられてる方がイジメにまわることだってあるという現代にも通じる問題。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E7%9A%84%E8%BF%AB%E5%AE%B3#.E5.AE.97.E6.95.99.E7.9A.84.E5.BC.BE.E5.9C.A7.E3.81.AE.E4.BA.8B.E4.BE.8B
深読みというより,連想で浮かんできたものでした.
むしろ浅薄ですみません.
>アイヌ差別、在日差別、外国人差別などが現実に今もあるじゃないですか。多神教をことさら美化するのはおかしいと思います。
言葉足らずで恐縮です.「一切か無か」の議論ではなくて,多神教の持つ相対的な寛容さを意識した発言です.差別意識はどの国でも国民全員ではないですし,キリスト教の国,民族であっても,その宗教の寛容度に対して千差万別の想いが個々人において存在するはずです.その中に差別意識の強い人とそうでない人が混在しているわけで,差別意識強大な人がどれだけ支配的かということが問題になるかと思います.
例えば,「ニューエイジ系キリスト教にはまる」という概念が出てきましたが,この言葉の定義自体がどれだけ正確で,かつ正鵠を射ているかどうかはたぶん検証した結果として使用されていないと思います.その意味では粗い議論になっているのではないでしょうか.言い出した私が粗かったのでそれに合わせて下さっただけかとも思います.
自分自身を含め,「言葉遊びの不毛さ」を実感し,無意味な感想を書いたと反省しきりです.
価値観,倫理観,人生観の異なる人との対話は学ぶことが多いですし,相手・自分双方の思考上の欠陥も同時に見えて,得るもの大でした.
有り難うございました.
>明治初期の司法制度について興味深いウェブがありました。
「明治新政府が「拷問」を破棄しなかったのは、「拷問」を破棄することで、国民の犯罪に対する抑止効果が失われ、司法政策上混乱が生ずると予想されたからです」
死刑の犯罪抑止効果みたいなもんですね。
この拷問しないと悪い奴は白状しないという考えが、いまだに警察や検察、そして多くの人にあるわけでしょう。
「キリシタン弾圧を含むキリスト教に対する攻撃は、「両者の宗教的体質の相似性」に基づくものではなく、「非常民」(近世幕藩体制下の宗教警察)による「常民」(キリシタン)に対する官憲による迫害として遂行されたのです」
キリシタン・・浄土真宗の関係をどう考えるかですが、キリシタンが常民ということはないでしょうし、浄土真宗が宗教警察の役割を果たしていたかは疑問だと思います。
>一神教が好戦的で、多神教が平和主義とか、キリスト教が好戦的で、仏教が平和主義とかいちがいには言えないではないでしょうか。
私もそう思います。
違い探しよりも同じ見つけのほうが有意義な発見ができます。
>縁起空さん
>多神教の持つ相対的な寛容さを意識した発言です.
インドのヒンズー教徒とイスラム教徒の争いをみると、多神教だから、一神教だから、ということではなく、どんな宗教にも他者を排斥する要素があるんだと思います。
>言葉の定義自体がどれだけ正確で,かつ正鵠を射ているかどうかはたぶん検証した結果として使用されていないと思います.その意味では粗い議論になっているのではないでしょうか.
おっしゃるとおりです。
ごめんなさい。
手元に本がないので、うろ覚えですが、心理学者?が書いた序を読み、ニューエイジ、スピリチュアル的なものを感じました。
イリバギザさんの「神様は何か大きな目的があって私を生かしているのだ」という言葉もその文脈で私は受けとめました。
ここのブログ主さんには悪いのですが、確かに粗っぽい考察。
キリシタンの迫害といえば思いだすのは、天草の乱ですが、これは後々においといて。幕末~明治の話題となると浦上四番崩れ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%9B%9B%E7%95%AA%E5%B4%A9%E3%82%8C
ウィキによるとこの迫害は神道信者によるものとされます。萩に送られた人は神官が関わっていますが。
http://www2.ocn.ne.jp/~hagicat/junkyo/junkyo6.htm
真宗王国に移送された人々もいたわけで。
http://www.mrr.jp/~jf9hjs/kiku.htm
まあ状況証拠だけでは、真宗の罪は問えないか。で、その迫害にあい強制労働にあっても真摯な生活態度である姿にうたれて、逆にキリスト者になった人もいて。
http://www33.ocn.ne.jp/~jsknakai/maki.html
廃仏毀釈という危機から反撃に出る仏教は、キリスト教への激しい敵意や対抗心を各地で燃やしていたような。
http://denyukc.hp.infoseek.co.jp/kindai/kindai_004.htm
こういうお説教の前に、著書によってキリスト教を排斥する論文が真宗の学僧から提出されてました。
http://www.nanzan-u.ac.jp/TOSHOKAN/publication/bulletin/kiyo7/kiyou10.htm
http://blhrri.org/topics/topics_0184.html
寺檀制度というのもキリシタンを見つけるのが目的の一つですし。
幕末からの廃仏毀釈、そしてキリスト教公認の流れの中で、本派僧侶の危機感に基づく活躍はめざましいものがあります。
たとえば佐田介石や国家神道を作ったと言える島地黙雷など。
功罪がないとは言えませんが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%94%B0%E4%BB%8B%E7%9F%B3
>大阪の身分にされた人にキリシタンがいた
そうですか、知りませんでした。
一向一揆で活躍した地域が被差別とされたという説がありますが、言うことを聞かない人たちをとしていたということなんでしょうね。
ちなみに寺院の少ない県は沖縄、宮崎、高知です。
キリシタンと被差別民衆の関係。キリシタンであることが発覚したからにされたというのか。それとも、取締りが厳しくなったから、被差別民衆のあいだに伝道するしか道がなくなったというのか。
う~ん。寺請制度が強固な時代に、神道で葬式をあげようとすることがいかに難しかったかという世相を反映した落語。
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug315.htm
「三年酒」という落語、幕末に作られたものなんでしょうか。
神道はケガレを嫌うから葬式はしなかったんですが、仏教嫌いの国学者が神道葬を言い出して、だけどもなかなか普及しなくて。
それは坊さんが拒否するからというより、死んだら仏教という考えがあったからなんでしょう。