あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

ストーカーの悲劇について(自我その242)

2019-10-29 17:24:54 | 思想
ストーカーの悲劇とは、ストーカーによって起こされた悲劇だけでなく、人間がストーカーになってしまうことの悲劇も意味する。今から、20年前、1999年10月26日、女子大生の猪野詩織さんが、JR桶川駅前の路上で刺殺されたのである。これが、桶川ストーカー殺人事件である。犯人は、風俗店の店長の久保田祥史であった。彼女のストーカーである小松和人とその兄の小松武史が多額の報奨金で、小松和人が経営する風俗店の店長の久保田祥史に依頼したのである。小松和人と猪野詩織さんは、一時、恋愛関係にあった。しかし、彼女は、乱暴で独占欲の強い小松和人が嫌になり、別れを告げた。しかし、小松和人は、彼女を諦め切れず、つきまとい、嫌がらせを繰り返すようになった。それでも、彼女の気持ちが戻らないので、小松和人は兄の小松武史に相談し、久保田祥史に殺人を依頼した。久保田祥史は、JR桶川駅前の路上で、ナイフで、詩織さんを何度も刺して殺したのである。事件の裏側が露見し、追い詰められた小松和人は、北海道に逃亡し、屈斜路湖で自殺した。小松和人の母と妹は、猪野詩織さんをなじって、和人の死に涙した。小松和人には複数の恋人とがいて、その一人は、一見、猪野詩織さんと見紛うほど、容貌がよく似ていたと言われている。この事件を契機に、ストーカー規制法が成立した。また、埼玉県上尾署の担当署員は、伊野詩織さんや家族の訴えをまともに聞こうとしなかったばかりか、訴えの事実を隠蔽・改竄したので、懲戒免職になり、裁判でも有罪判決を受けた。この事件を契機に、ストーカーという言葉が、「ある相手に対して、一方的な恋愛感情や関心を抱き、執拗に付け回して、迷惑や被害を与える人」という意味で使われ、全国に広まった。これが、桶川ストーカー殺人事件の経緯であり、そして、影響である。確かに、これは、特異な事件である。その時は、世間を賑わせたが、今は、取り上げる人はほとんどいない。しかし、ストーカーとストーカー規制法という言葉はよく耳にする。それは、現在でも、ストーカーによる犯罪が、時折、世間を賑わせるからである。そして、マスコミは、ストーカーを精神異常者のように扱う。時には、ストーカーをかばうような発言をする家族や友人をも、精神異常者のように扱う。しかし、ストーカー、ストーカーの家族、友人は、精神異常者ではない。人間は、常に、ある構造体の中で、ある関係性を築き、ある自我を持って生きるしかないのだから、誰にも、犯罪者になる可能性があるのである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体に所属して、ある関係性を築いて、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間の最初の構造体は家族であり、最初の関係性は家族関係であり、最初の自我は、男の子または女の子である。恋愛関係にある者も、カップルという構造体を創造し、恋愛関係を築き、恋人という自我を持って、相手に接している。さて、人間は、常に、思考して、行動する。しかし、それは、表層心理による思考(意識しての思考)から始まるではなく、深層心理による思考(無意識の中での思考)から始まるのである。深層心理は、一般に、無意識と表現されている。深層心理は、奥深くに隠れている心の動き・外に現れない無意識の心の働きである。ラカンの「無意識は言語によって構造化されている」という言葉は、無意識、つまり、深層心理の動き・働きを的確に表現している。ラカンの言うところを簡潔に記せば、我々の深層心理が言語を介して思考しているということである。つまり、我々は、まず最初に、自ら意識して、自らの意志で思考するのではなく、我々の意識していないところで、すなわち、深層心理で思考するのである。表層心理は、深層心理による思考(無意識の中での思考)の結果を受けて、意識して、それを思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考する。表層心理による思考は、短時間のものから長時間のものまで多岐にわたっているが、一般的に、深層心理による思考よりも短くなることはない。ほとんどの人は、思考と言えば、表層心理による、意識しての思考を考え、深層心理による思考が存在することすら気付いていない。一般に言われる理性は、表層心理による、意識しての思考を意味する。さて、人間は、自我を持って、初めて、人間として活動をすることができる。自我を持つとは、ある構造体の中で、ある関係性を築き、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が、自我を主体にして、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。深層心理の思考は、常に、瞬間的に行われる。そして、すぐ後で、人間は、表層心理が、意識して、「現実原則」(自分にとって利益になること)に基づいて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の出した行動の指令を認可するか否かを思考するのである。表層心理の思考の結果を受けて、その後、行動に移るのである。また、人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、「快感原則」(快楽を得たいという欲望)によって、自我を主体にして、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出す。深層心理の「快感原則」(快楽を得たいという欲望)に基づいた自我の欲望には、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。深層心理は、自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、深層心理は、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。このように、人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が、「快感原則」に基づいて、思考する。深層心理が思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。そのすぐ後、表層心理が「現実原則」に基づいて、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の通りに行動するか抑圧するかを考えるのである。稀れには、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動することがある。それが、無意識による行動である。しかし、たいていの場合、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識し、行動の指令の採否を考えるのである。それが理性と言われるものである。理性と言われる表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。行動の指令を抑圧して行動しないことを決定するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。さて、確かに、桶川ストーカー殺人事件は、実に悲しく、残酷な事件である。小松和人にストーカーされた挙句、小松和人とその兄の小松武史に雇われた久保田祥史に殺された猪野詩織さんはとてもかわいそうである。小松和人、小松武史、久保田祥史の残虐性は、どれだけ非難しても非難し尽くせない。特に、小松和人は、後に自殺することになったが、その罪は、それで償われるものではない。しかし、小松和人に限らず、人間とは、深層心理が、恋に陥り、相思相愛になり、カップルという構造体ができ、恋人いう自我を持ってしまうと、失恋しても相手のことを追い続けてしまう動物なのである。それは、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことが非常に辛いからである。もちろん、どれだけ好きであったとしても、どれだけ失恋の痛手が大きかったとしても、相手を執拗に付け回して、迷惑や被害を与える人は、その罪を問われて当然である。しかし、誰しも、一旦、恋をすれば、失恋してしまった後も、心の中では、常に、相手を追っていて、それを行動に移したい欲望に駆られているのである。その欲望を抑えられない人が、時には、相手を執拗に付け回して、迷惑や被害を与えるのである。それがストーカーである。だから、誰しも、ストーカーになる可能性を持っているのである。しかし、ほとんどの人は、自分はストーカーになるはずがないと思っている。自分は、恋をしても、失恋しても、欲望に駆られて、相手を執拗に付け回すことは無いと思っている。確かに、多くの人は、恋をしている時は、失恋の憂き目に遭いたくないために、相手に迷惑や被害を与えるような近づき方はしないだろう。問題は、失恋した時である。なぜならば、誰しも、相手から別れを告げられても、すぐには気持ちの切り替えができず、すぐには相手のことを忘れることはできないからである。相手は自分を避けようとしているのに、自分は、依然として、相手の姿を追っている。そして、その中から、欲望に駆られて、相手の迷惑や被害を顧みずに、執拗に付け回す人が出てくる。それがストーカーなのである。それでは、ストーカーとなる欲望は、どこから生まれてくるのか。それは、自分の意志から生まれてくるのではない。自分が生み出したものではない。恋愛感情と同様である。恋愛感情もストーカーの感情も、自分の意志から生まれてはこない。すなわち、自分が生み出したものではない。もしも、自分の意志から、恋愛感情やストーカーの感情が生まれてくるのならば、自分の意志によって、それを消すことは容易にできるだろう。それは、自分の意志ではなく、自分の深層心理から生まれてくるのである。すなわち、深層心理がストーカーを生み出しているのである。深層心理は、人間の無意識のうちに、自我が失恋したことについて、「快感原則」によって、自我を対他化させて思考し、苦悩という感情を生み出し、つきまとえという行動の指令という自我の欲望を生み出す。相手に近づくことによって、失恋という現実を解消させようとするのである。表層心理は、それを受けて、「現実原則」によって、意識して思考し、相手につきまとえば、いっそう嫌われることを考慮し、つきまとえという深層心理が出した行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した苦悩という感情が強すぎるので、深層心理が抑圧できず、つきまとってしまうのである。それでは、猪野詩織さんに失恋して、ストーカーになった小松和人の行動について、深層心理による思考と表層心理による思考の関わりの面から、説明していこうと思う。小松和人の深層心理は、人間の無意識のうちに、自我が失恋したことについて、「快感原則」によって、自我を対他化させて思考し、苦悩という感情とともに、詩織さんとよりを戻すためにつきまとえという行動の指令を出した。表層心理は、それを受けて、「現実原則」によって、意識して思考し、相手につきまとえば、いっそう嫌われることを考慮し、つきまとえという深層心理が出した行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した苦悩という感情が強すぎるので、深層心理が抑圧できず、つきまとってしまうのである。しかし、彼は、深層心理の言うままに、執拗に詩織さんに付け回したが、詩織さんは、迷惑がるばかりで、より彼を疎んずるようになってしまった。この時、彼の表層心理は、これ以上突き進んでも無駄であり、未来においての絶望的な状況を彼に想像させたはずである。冷静に判断して、ここで思いとどまるべきであった。そうすれば、詩織さんは殺されることはなかった。小松和人自身、自殺しなくても良かった。なぜ、冷静な判断ができなかったのだろうか。それは、深層心理の苦痛が激しすぎたからである。深層心理の思考は、常に、自我の状況を施行して、感情と行動の指令を生み出す。小松和人の深層心理は、失恋を認識し、苦悩し、その失恋の苦悩から脱するために、よりを戻そうとして付きまとうように、彼に行動の指令を指示し、彼は、表層心理で、抑圧しようとしたのだが、苦悩の感情が強すぎるので、抑圧できなかった。そして、つきまとった。案の定、いっそう、詩織さんに嫌われ、絶望的な状況になっているということを彼に告げた。しかし、彼は、引き下がることを決断しなかった。あまりに、失恋の苦悩が大きかったからである。そして、彼の深層心理は、失恋の苦悩から脱するために、この世からの詩織さんの抹殺という行動の指令を出した。もちろん、表層心理は、「現実原則」によって、それが露見すれば、自ら自身が破滅することを推測し、自らの犯罪だと露見しないように、他者に託すことを考えた。それが、久保田祥史による詩織さんの殺害へと繋がっていったのである。このようにして、小松和人というストーカーの犯罪が生まれたのである。しかし、小松和人は、女性に持てなかったから、詩織さんに執着したわけではない。フォーカスの記者である清水潔さんは、小松和人には何人もの彼女がいて、詩織さんによく似た女性もいると記している。それでも、小松和人の深層心理は、詩織さんとのカップルという構造体が破壊され、恋人という自我を失うことを許さなかったのである。世の中には、一人の女性も恋人にできない男性もいる。大抵の男性は、一人の女性を恋人にして満足している。そして、大抵の男性は、失恋してストーカー的心情に陥っても、ストーカーにはならない。しかし、小松和人は、多くの女性と恋愛関係になり、詩織さんに似た人を恋人にしていても、詩織さんが去ることを許さなかった。それは、決して、詩織さんが特別な女性であったからではない。たとえ、詩織さん以外の人が、恋愛関係を解消しようとしたとしても、小松和人は許さなかっただろう。小松和人の深層心理が許さないのである。小松和人は、深層心理に、カップルという構造体、恋愛関係という関係性に執着し、恋人という自我を失うことを許さないものを持っていたのである。 確かに、小松和人は、カップルという構造体を形成し、恋愛関係という関係性を築き、恋人という自我を維持するには、不向きの人間であった。それは、小松和人の深層心理が、恋人という他者を対自化して、支配しようという欲望が強過ぎたからである。しかし、小松和人は、全ての構造体、関係性、自我に不向きであったわけではない。少なくとも、二つの構造体、関係性、自我上手くこなしていた。一つは、小松家という構造体で、家族関係という関係性を築き、小松家の次男という自我を持っていたことである。もう一つは、風俗業界という構造体で、上下関係という関係性を築き、風俗店のオーナーという自我を持っていたことである。だから、小松和人の兄の武史は、小松和人に同情し、久保田祥史に、伊野詩織さんの殺人の依頼をしたのである。そして、小松和人の母と姉は、小松和人を振った猪野詩織さんをあばずれだとなじったのである。そこには、加害者の小松和人をいたわる気持ちがあっても、被害者の猪野詩織さんをいたわる気持ちは全くない。人間性が薄い。しかし、家族という構造体はこのような存在なのである。小松和人の兄、母、姉は、家族という構造体の中で、家族関係を築き、兄、母、姉という自我に取りつかれ、小松家という家族という構造体以外の人間が、小松家という構造体に自我を持つ者を非難することを許さないのである。しかし、人間とは、このように作られた動物なのである。構造体、関係性、自我にこだわるように作られている動物なのである。次に、実行犯である久保田祥史について、触れよう。久保田祥史は、猪野詩織さんと直接の面識はない。もちろん、詩織さんから、迷惑をこうむっていない。それでも、小松和人と小松武史に頼まれただけで、詩織さんを刺殺したのはなぜか。報奨金を受け取っているが、久保田祥史はプロの殺し屋でもなく、生活に困っていた様子もない。だから、報奨金が主要因ではない。主要因は、久保田祥史にとって、小松和人が上司であったことである。久保田祥史は風俗店の店主であり、そのオーナーが小松和人であった。だから、オーナーとその兄の頼みごとを断れなかったのである。久保田にとって、小松和人と小松武史の頼みごとを断ることは、風俗店という構造体から追い出され、風俗業界との関係性を絶たれ、風俗店のオーナーという自我を失うことになるからである。それでも、久保田祥史の表層心理は、自分が犯人だと露見する可能性が高いと判断したならば、殺人行動を抑圧しただろう。自分が犯人だと露見しない可能性が極めて低いと判断したから、実行したのである。この事件だけでなく、この世の犯罪のほとんどは、深層心理が、構造体の中で、関係性、自我にこだわった行動の指令を出し、表層心理が、深層心理が生み出した感情が強すぎるので、その行動の指令を抑圧できなかった場合と、表層心理の判断が甘かった場合に起こるのである。次に、なぜ、埼玉県上尾署の担当警察官は、伊野詩織さんや家族の訴えをまともに聞こうとしなかったばかりか、訴えの事実を隠蔽・改竄したのだろうか。それは、次のような事情による。この警察官は、上尾署という構造体に属していたが、上尾署は、署内の警察官の関係性において、ストーカー被害などを扱うことに消極的な態勢だったのである。そこで、この警察官もそれに従って、伊野詩織さんや家族の訴えをまともに聞こうとしなかったのである。この警察官は、そのような行動を取っても、上尾署という構造体では、十分に警察官という自我を維持できたのである。しかし、マスコミにそれが露見されそうになったので、彼は、必死に隠蔽・改竄し、警察官という自我を守ろうとしたのである。結局、彼の行為が明らかになり、懲戒免職になり、有罪判決を受けてしまった。自業自得であり、因果応報である。しかし、誰が、この警察官を非難し、嘲笑できるだろうか。この世に、自らの所属している構造体に縛られず、関係性を客観視し、自我を離れて考えられる人は、何人存在するだろうか。我々は、毎日、色々な出来事の中で、色々な人間と関わって暮らしているのである。つまり、我々自身が、毎日、自分の属する構造体に縛られ、関係性に執着し、自我に取りついて、暮らしているのである。そこには、自我による判断はあっても、自己による主体的な判断は存在しないのである。つまり、自由が無いのである。そこには、ニーチェの言う、永劫回帰の暮らししか存在しないのである。構造体、関係性、自我を脱構築しなければ、自由は得られない。しかし、人間として、それは可能なのか。脱構築は、絵空事なのか。しかも、脱構築して、自由が得られたとしても、その自由とはどのような自由なのか。真に、自由なのか。脱構築の向こうに何があるのか。