あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理が自我の欲望を紡いでいる。(自我その224)

2019-10-08 11:16:46 | 思想
人間は、常に、誰かであり、何かである。人間には、人間一般のあり方は存在しない。それは、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って、行動するしか、生き方は存在しないからである。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。現代において、人間が最初に所属する構造体は家族である。それは、人間は、家族の中で、誕生し、育てられ、出生届も、父母などが、市区町村長に届け出ることが義務化されていることからも理解できる。しかし、人間は、山田家、鈴木家、佐藤家などの構造体も選べず、長男、長女、次男、次女という自我も選べないままに、家族という構造体に所属し、自我を持っているのである。しかし、人間は、疑問なく、家族という構造体の中で、常に、内に、自我としての気分を抱き、外に自我としての心を開いて、暮らしていくのである。しかし、自ら、意識して、そのように暮らしているのではない。人間は、無意識のうちで、それを行っている。すなわち、深層心理が、自我としての気分を抱き、外に自我としての心を開いているのである。だから、外部の出来事に反応し、新しく、感情を抱き、行動へと向かうことができるのである。さて、構造体は家族だけでなく、自我も、長男、長女、次男、次女などだけではない。他の構造体と自我の関係を具体的に言うと、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。さて、構造体の中で、自我を動かすものは、深層心理である。深層心理が、人間を動かすのである。深層心理とは、人間の無意識の心の働きであるが、思考するのである。深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理は、長時間、思考するのである。ラカンが「無意識は言語によって構造化されている。」と言っているのは、その謂である。ラカンの言う「無意識」とは、深層心理を意味する。「言語によって構造化されている」とは、論理的に思考しているということを意味する。人間の思考は、言語を使って論理的に為されるからである。つまり、深層心理は、人間の無意識のままに、論理的に思考し、感情と行動の指令を生み出しているのである。深層心理が自我にもたらした感情と行動の指令を、自我の欲望と言う。しかし、人間は、必ずしも、深層心理が出した行動の指令のままに行動するのではない。人間は、表層心理で、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指針の可否を考えるのである。例えば、深層心理が出した笑顔を作ること、涙を流すことなどの行動の指令は、表層心理は、それを可とし、人間は、そのように行動するだろう。しかし、深層心理が出した相手を侮辱すること、殴ることなどの行動の指令は、表層心理は、それを不可とし、行動の指令を抑圧するだろう。なぜならば、そのように行動すれば、相手から決定的に嫌われるばかりか、復讐にあったり、周囲の人からも顰蹙を買ったり、人間関係が閉ざされたり、犯罪者になったりするからである。そこで、表層心理は、深層心理が生み出した、相手を侮辱せよや殴れという行動の指針を抑圧するのである。しかし、そこでとどまることはできない。なぜならば、傷付いた心や怒りの感情は、表層心理が、深層心理の出した相手を侮辱せよや殴れの行動の指令の代わりの行動を考え出さなければ、鎮まらないからである。しかし、たいていの場合、表層心理は、なかなか、良い行動が思い浮かばない。表層心理は、傷付いた心のままで、良い行動を考え出そうとするから、苦悩する。このように、人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いた結果、そこに、感情と行動の指令が生まれてくるのである。表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の出した行動の指令を認識し、意識し、行動の可否を考えるのである。しかし、稀れには、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動することがある。それが、無意識による行動である。しかし、たいていの場合、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を意識し、行動するか、行動の指令を抑圧するかを決定するのである。表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧するのは、そのように行動したら、後に、自分に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、深層心理が、行動の指令を抑圧することを決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。人間が感情的な行動を取るのは、心が深く傷付き、怒りの感情が強いからである。それでは、なぜ、人間が傷付くのか。それは、他者から、悪評価・低評価を与えられたからか、無視されたからかのいずれかである。無視されることは、評価されるに値しないと思われているのではないかと思い、いっそう、心が傷付くことになる。人間は、他者から好評価・高評価を得ようと、他者の視線・言動・態度を窺いながら、暮らしている。これが、深層心理による自我の対他化である。対他化とは、他者によって、自己を知るあり方である。しかし、人間は、意識して、対他化を行っているのではない。また、自らの意志で、対他化を行っているのではない。意識や意志という表層心理は、対他化には関与していない。対他化は、深層心理の仕業なのである。深層心理とは、人間の無意識のうちでの心の働きである。さて、感情的な行動の目的は何か。それは、相手の上位に立つことである。相手の上位に立てれば、傷心・怒りの感情が消えるのである。そもそも、相手から、悪評価・低評価を与えられたり、相手から無視されたりしたということは、相手から自分が下位に落とされたということなのである。深層心理が、自分自身に、相手を侮辱せよや殴れという行動の指令を出したのは、そうすることによって、相手の地位を下げさせ、自分自身が上位になろうという意図からである。しかし、表層心理は、深層心理による短絡的な行動の指令を、そのまま実行すると、周囲から顰蹙を買い、いっそう、自分を下位に落とすことになるのを予想するから、抑圧しようと考えるのである。しかし、傷心・怒りの感情が強く、抑圧が功を奏さず。感情的な行動が起こるのである。そうして、後悔するのである。往々にして、深層心理が、大したことのないことで、深く心が傷付き、激しい怒りの感情を生み出し、感情的な行動を取らせるのである。人間は、自我の動物であるから、どうしても、自らを対他化して、他者の評価にこだわりやすい。しかし、自分自身、相手を深く見ていないように、相手も自分を深く見ていないのである。だから、相手が、自分を悪評価・低評価をしても、無視しても、自分のことを理解していない人だと思えば良いのである。表層心理は、深層心理が生み出した傷心の感情・怒りの感情や相手を侮辱せよ・殴れという行動の指令を意識しながらも、それに屈せず、自己分析、他者分析を深めていくべきである。そうすれば、深層心理にそれに伝わり、徐々に、傷心の感情・怒りの感情が収まっていき、年々、日を追うごとに、激しい感情・過激な行動の指令が生まれなくなっていくであろう。さて、人間は、構造体において、深層心理が対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、自我の思いを主人にして、行動しているのである。また、深層心理によって、自我は構造体の存続・発展にも尽力するが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。愛国心などという国に執着した感情が生まれるのも、国という構造体が消滅すれば、国民という自我も消滅するからである。さて、それでは、対他化とは、何か。先に述べたように、対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自分に対する他者の思いを探ることである。簡潔に言えば、愛されたい、認められたいという思いである。ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。それでは、対自化とは、何か。対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いである。「人は自己の欲望を他者に投影させる」(人間は、自己の思いを他者に抱かせようとする。人間は、自己の視点で他者を評価する。)ということである。ニーチェの言う「力への意志」とは、このような自我の盲目的な拡充を求める、深層心理の欲望なのである。思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、わがままに生きられず、他者に合わせなければ生きていけないところに、不幸がある。」と言っている。わがままに生きるとは、他者を対自化して、そのまま、行動することである。自分の力を発揮し、支配することである。他者に合わせて生きるとは、自我を対他化して、他者の評価を気にして行動することである。つまり、自分の思い通りに行動したいが、他者の評価が気になるから、行動が妥協の産物になると言っているのである。だから、思い切り楽しめず、喜べないというわけである。しかし、確かに、それは、個人としては不幸かも知れないが、他者や人類全体にとっては良いことなのである。なぜならば、深層心理の対自化による欲望を放置すれば、殺人をもいともたやすく行ってしまうからである。深層心理の対自化による欲望は、果てしなく広がるからである。それでは、共感化とは、何か。共感化とは、自分の力を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。簡潔に言えば、愛情、友情を大切にする思いである。往々にして、人間は、自我の力が弱いと思えば、対他化して、他者の自らに対する思いを探る。人間は、自我の力が強いと思えば、対自化して、他者の思いを探り、他者を動かそうとしたり、利用しようとしたり、支配しようとしたりする。人間は、自我が不安な時は、他者と共感化して、自我の存在を確かなものにしようとするのである。「呉越同舟」(仲の悪い者同士でも、共通の敵がいれば、仲良くする。)という現象、共感化の表れである。さて、作家の武田泰淳は、「人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとする。」と言っている。武田泰淳は、太平洋戦争下の中国大陸で、日本の多くの軍人が、中国の民家に押し入り、食糧を強奪し、若い女性をレイプし、抵抗する庶民を射殺しているのを目の当たりにしている。彼らは、帝国軍隊という構造体の中で、帝国軍人という自我を持っている。中国大陸において、大日本帝国は軍事的に優位を保っていたから、中国人に対して、対自化するばかりで、対他化することは無かった。つまり、中国人を思い通りに支配し、中国人の視線を気にせず、暴虐の限りを尽くしたのである。上司は、それを見て見ぬふりをするどころか、彼らも同じことをしていたのである。日本の中国での国策映画のヒロインの李香蘭(山口淑子)も、「中国大陸での、日本軍人・民間人の威張り方を見れば、中国人が日本人を嫌いになるのも理解できる。」と言っている。そして、中国大陸で、残虐非道の行為を繰り返した帝国軍人が、敗戦後、帰還して、素知らぬ顔で、家族という構造体の中で、父親、息子という自我を持って、平穏な生活を送るのである。確かに、人間は、どんなことをしてでも、生きのびようとするのである。さて、詩人の石原吉郎は、「人間は、どんな環境にもなじむものだ。」と語っている。彼は、14年間、シベリアに抑留され、飢え、寒さ、過酷な労働、射殺の恐怖の環境に耐えて、帰国した。人間とは、常識を越えて、悪環境という構造体でも、哀れな身の上という自我でも、それに合わせて生きていけるというのである。深層心理による対自化や対他化はそこでも行われ、日常生活がそこにあり、非人間的な暮らしが人間の日常生活として繰り替えされると言っているのである。確かに、人間は、どんな環境にもなじんで生きていくのである。それは、金一族に支配されている北朝鮮、共産党に支配されている中国、戦前の日本を見れば、わかることである。しかし、当該者は、それになじんでいるから、環境の劣悪さがわからないのである