あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

深層心理がもたらす苦悩について(自我その231)

2019-10-18 17:33:55 | 思想
石川啄木の短歌に、「不来方(こずかた)の お城の草に 寝転びて 空に吸はれし 十五の心」というものがある。テレビの青春ドラマでも、苦悩している、主人公の高校生が、砂浜に仰向けになって寝ころび、大きく体を広げ、青青を広がった、高い空を見上げる場面を見たことがある。人間は、一生、何かに悩むものだが、青春期は、特に傷付きやすく、友人、恋愛、家族、進路などについて悩むのである。確かに、芝生や砂浜に寝転び、高い空を眺めていると、悩んでいる自分の存在がちっぽけなものに思え、悩みもどこかへ吹き飛んでいくような気持ちになる。それで悩みが解消すれば、それで良いだろう。それについては、ウィトゲンシュタインの次の言葉が至言である。「大抵の場合、問題が解決したから、悩みが解消したのではない。その問題がどうでもよくなったから、悩みが自然に消えていったのである。」からである。それは、それまで、自分は、悩みに圧倒されていたのに、悩みに向かっていこうという気持ちになることはできたからである。あるテレビ番組で、「自分探しをするために旅に出る若者」を主題として取り上げていた。その時、コメンテーターの一人が、「旅に出ても自分が見つかるわけはない。現実の自分をしっかり見つめることが大切なのです。」と発言した。しかし、旅に出た若者は、自分が活躍できる場所を探すために、旅に出たわけではない。数日すれば、必ず、現在の場所、現在の生活に戻る。それでは、なぜ、旅に出たのか。それは、現在の自分を見つめ直すためである。それは、芝生や砂浜に寝転び、高い空を眺めることと同じである。さて、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。構造体とは、家族、学校、クラス、クラブ、会社、店、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係については、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では、担任・クラスメートという自我があり、クラブという構造体では、顧問・部員などの自我があり、会社という構造体では、社長・会長・部長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では、恋人という自我があるのである。さて、言うまでも無く、人間は、思考の結果、動く動物である。しかし、最初の思考は、無意識という深層心理が行うのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考し、感情と行動の指令を生み出すのである。その後、表層心理が、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を、意識的に、思考するのである。深層心理が、自我を生かすために、自我を対他化・対自化・共感化して、思考して、感情と行動の指令を生み出すのである。深層心理が、無意識的に、対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて考えて、感情と行動の指令を生み出すのである。表層心理が、深層心理の思考の結果を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を、意識的に、思考し、採用すれば、そのまま行動し、不採用ならば、行動の指令を抑圧するのである。さて、対他化とは、深層心理が、自我が他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、深層心理が、自我の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者をリードすることである。共感化とは、深層心理が、自我の力を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。さらに、深層心理は、自我を構造体の存続・発展のために尽力させるが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、人間は、一生、何かに悩むものであるが、それは、共通して、自我が他者から悪評価・低評価を受けた時に起こる。例えば、友人から、「おまえは馬鹿だ。」と言われた時などに起きる。人間は、構造体の中で、深層心理が、常に、自我を対他化して、自我が他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探っている。仲間という構造体の中でも、深層心理は、常に、自我を対他化して、自我が友人から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する友人の思いを探っている。その時、友人から、「おまえは馬鹿だ。」と言われた。深層心理は、思考して、自我が友人から悪評価・低評価を受けていることに気付き、傷心・怒りの感情とともに、侮辱した友人を殴れという行動の指令を出す。殴ることによって、侮辱した友人を下位に落とし、下位に置かれた自分の地位を取り戻し、プライドを取り戻すのである。しかし、そのすぐ後、表層心理が、深層心理の思考の結果を受けて、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情の中で、深層心理が出した友人を殴れという行動の指令の採否を、意識的に、思考するのである。表層心理は、思考の結果、深層心理が出した友人を殴れという行動の指令の不採用にし、その行動の指令を抑圧する。なぜならば、友人を殴れば、仲間という構造体から追い出され、周囲の顰蹙を買い、殴られた友人が復讐する可能性が高いからである。しかし、表層心理は、深層心理が出した友人を殴れという行動の指令を抑圧し、その行動を取らないならば、別の行動を考えなければならなくなる。そうでなければ、悪評価・低評価を受けたということから来る、傷心・怒りの感情も消えず、下位に置かれた自我の地位を取り戻すこともプライドを取り戻すこともできないからである。しかし、なかなか、別の方策が思い浮かばない。たとえ、思い浮かんでも、その方策に自信が持てない。そこで、更に、別の方策を考えようとする。そうして、傷心・怒りの感情の状態が続く。このような状態、つまり、傷心・怒りの感情の状態のまま、下位に置かれた自我の地位を取り戻すこと、プライドを取り戻す方策を考え続けている状態が、悩むということなのである。つまり、悩むとは、自我の修復の方策が見つからないので、苦痛の状態が継続している状態を指すのである。それでは、苦痛の原因は、何か。言うまでも無く、それは、友人からの「おまえは馬鹿だ。」という言葉である。それでは、苦痛をもたらしたのは、何か。深層心理の対他化である。深層心理が、友人からの「おまえは馬鹿だ。」という言葉を聞き、自我が下位に置かれ、プライド失ったと認識し、傷心・怒りの感情という苦痛を呼び起こしたのである。換言すれば、表層心理が、深層心理がもたらした課題を考えているのである。しかし、この課題とは、重要なものではない。生きるか死ぬかというような問題ではないからである。プライドを取り戻すことが、課題だからである。だから、この場合、友人に、「なぜ、このようなことを言うのか。」と尋ねれば、良いのである。そうすれば、友人は、その理由を話す。そして、それに対して、自分も話す。そうして、理解を深めていけば、自分一人で思い悩むことでは無かったことがわかるのである。誰しも、後で、その時のことを振り返って、「どうして、あんなことで悩んでいたんだろう。」と疑問に思うことがしばしばあるのである。先に述べた、哲学者のウィトゲンシュタインの「大抵の場合、問題が解決したから、悩みが解消したのではない。その問題がどうでもよくなったから、悩みが自然に消えていったのである。」という言葉は、悩みの内実を解き明かしている。人間とは、深層心理の対他化中心の動物である。プライドに囚われた動物である。人間は、プライドが傷つけられた時、心に動揺をきたし、それを回復するために、深層心理が、その人間に、近視眼的な行動を取らそうとするのである。それ故に、表層心理が、冷静に対処する必要があるのである。