あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は自我と他者によって生かされている(自我その239)

2019-10-26 18:41:53 | 思想
人間は、他者の助力によって、窮地を逃れることができると、「自分一人で生きているのではない。他の人々によって、生かされているのだ。」と実感する。特に、愛する人、親しい人を喪い、家を失い、田畑を失い、生活基盤を全て失って、絶望の淵にさまよっていた時に、周囲の人々、遠くの人々、ボランティアの人々によって、励ましの言葉、衣食住の生活物資の援助、復興作業の支援を受けて、生きる希望を取り戻した時に、そう感じる。しかし、残念なことに、人間は、日々、他者によって、心や体が傷つけられたり、時には、殺されるたりすることがあるのも事実である。つまり、人間は、日々、他者によって生かされていると同時に、他者によって傷つけられ、時には、殺されることがあるのである。そして、、また、人間は、自分自身によっても、生かされているのである。稀れには、自分自身によって、殺されるのである。すなわち、自殺である。自分自身によって生かされているのは、人間は、自ら、意識して、意志で、生きようとしているのではないからである。人間は、無意識の心理である深層心理と無意識の肉体である深層肉体によって、生かされているのである。しかし、深層心理の生きようとする方向性と深層心理の生きようとする方向性は異なる。深層心理は快楽を求めて生きようとし、深層肉体はひたすら生きようとするのである。そして、人間は、意識しての思考である表層心理が、深層心理の感情に屈して、ひたすら生きようとする深層肉体を抑圧して、自殺することがあるのである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間が最初に所属する構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、欲望を生み出す。それ以後、人間は、人間社会において、深層心理が生み出した欲望主体に生きる。それ故に、人間の欲望は、深層心理が生み出した自我の欲望なのである。自我の欲望には、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではなく、自我のために構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。人間は、まず、無意識のうちに、深層心理が動くのである。深層心理が動いて、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。その後、表層心理が、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を決めるのである。稀れには、人間は、表層心理で意識せずに、深層心理が生み出した感情のなかで、深層心理が生み出した行動の指令のままに、行動することがある。これが、無意識による行動である。しかし、たいていの場合、表層心理は、深層心理が生み出した自我の欲望を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理の生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令の採否を決めるのである。それが理性と言われる表層心理の思考である。理性と言われる表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が生み出した行動の指令を意識して思考し、行動の指令のままに行動するか、行動の指令を抑圧して行動しないかを決定するのである。表層心理が、深層心理の出した行動の指令を認可すれば、人間は、そのまま行動するのである。しかし、表層心理が、深層心理の出した行動の指令を認可せず、抑圧して、行動しないこともあるのである。行動の指令を抑圧して行動しないことを決定したのは、そのように行動したら、後に、自我に不利益なことが生ずる虞があるからである。しかし、表層心理が、深層心理が出した行動の指令を抑圧して、行動しないことに決定しても、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、抑圧が功を奏さず、行動してしまうことがある。それが、感情的な行動であり、後に、周囲から批判されることになり、時には、犯罪者になることがあるのである。そして、表層心理は、抑圧して、深層心理が出した行動の指令のままに行動しない場合、代替の行動を考え出そうとするのである。なぜならば、心の中には、まだ、深層心理が生み出した感情がまだ残っているからである。その感情が消えない限り、心に安らぎは訪れないのである。その感情が弱ければ、時間とともに、その感情は消滅していく。しかし、それが強ければ、表層心理で考え出した代替の行動で行動しない限り、その感情は、なかなか、消えないのである。しかし、深層肉体のあり方は単純である。心理や肉体がどんな状態に陥ろうと、ひたすら生きようとするのである。人間は、無意識のうちに、深層肉体の働きによって生かされているのである。人間の肉体の内部には、肺や心臓や胃があるが、誰も、自分の意志で、肺や心臓や胃の動きを止めることはできない。人間は、息を吸い込んで、肺に空気を送り込み、肺から送り出された空気を吐いているが、この呼吸ですら、自分の意志で行っているのではない。無意識に、呼吸をしているのである。テレビの学園ドラマで、授業中、教師に、「おまえは何をしているのだ。」と注意された生徒が、とぼけて、「息をしています。」と答えるシーンがあったが、その生徒は間違っている。誰も、意識して息をしていない。人間が意識して息をしているのならば、寝入ると同時に、息が止まり、死んでしまう。深呼吸という意識的な行為も存在するが、それは、深く吸うということを意識するだけでしかなく、常なる呼吸は無意識の行為である。呼吸は、誕生とともに、既に、人間に備わっている機能である。心臓も、人間の意志で動いているのではない。だから、止めようと思っても、止めることはできない。心筋梗塞が起こったり、人為的に、他の人もしくは自分がナイフを突き立てたりなどしないと、心臓は止まらない。さらに、胃も、人間の意志によって動いているのではない。心臓や肺と同じく、誕生と同時に、既に動いているのである。胃の仕組みや働きすら、今もって、ほんの一部しか知られていない。だから、人工的な胃は存在しないのは当然のことである。確かに、人工心臓は存在するが、それは、新しく作り出したのではなく、現に存在している心臓を模倣したものである。だから、人工心臓は、生来の心臓の一部の働きしかできない。このように、人間は、ほとんどの場合、自らの意志によって、肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。それが深層肉体の働きである。人間が、意識して行う肉体の活動、すなわち、表層肉体による活動は、深呼吸する、授業中挙手する、速く走る、体操するなど日常生活の中でも一部の活動である。そして、人間は、自らの意志よって、肉体そのものを創造できない。現に存在する肉体を模倣するしかない。肉体を創造できるのは肉体自身でしかないのである。確かに、我々は、自分の意志によって、体を動かすことができる。しかし、少し考えてみればわかるように、それは、深呼吸する、授業中挙手する、速く走る、体操するなどの些細な動作である。しかも、その意志的な動作も、動作の初発のほんの一部にしか関わっていない。例えば、歩くという動作がある。確かに、歩こうという意志の下で歩き出すことがある。しかし、両足を交互に出すという動きは、誰も意識して行っていない。もしも、右、左と意識して足を差し出していたら、途中でこんがらがり、うまく足を運べなくなるだろう。たとえ、目的地まで、意識して両足を差し出して歩いて行ったとしても、むしろ、必要以上に、疲れてしまうだろう。だから、最も意識して行っていると考えられる動作の一つである歩くという行動すら、意識して行っているのではなく、無意識に、つまり、肉体自身によって行われているのである。歩きながら考えるということも、歩くことに意識が行っていないから、可能なのである。このように、人間は、自分の意志によって、ほとんど、意識的に肉体を動かしているのではなく、肉体自身が肉体を動かしているのである。つまり、人間は、肉体的に、生きているのではなく、生かされているのである。それが深層肉体である。深層肉体の生きようとする意志は並大抵のものではない。私の父は亡くなっても、その翌日も、遺体の髪の毛も爪も伸びていた。髪の毛も爪も、つまり、深層肉体は父が亡くなったことを知らないのである。いや、知ろうとしていないと言ったほうが正確かもしれない。人間は、指を切っただけでも、痛みを感じ、血が出る。血は、その部分を白血球で殺菌し、傷口を血小板で固め、その部分の再生を助けるために、出るのである。肉体は、自ら、再生能力を持ち、更に、痛みによって、深層心理に、そこに異状があることを知らしめるのである。それを受けて、表層心理は思考し、原因を追究し、同じ過ちを繰り返さないようにし、治療法も考えるのである。深層肉体は、これほどまでに、生きようとしているのである。先に述べたように、深層心理も、また、深層肉体と同じく、人間の無意識の活動である。深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、人間の無意識のうちに思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。例えば、人間は、怒りの感情によって、相手に面と向かって悪口を言ったり、殴りかかったりしたい欲望に駆られる。それは、人間が、他者から侮辱されたり、無視されたり、セクハラ・パワハラを受けたりして、自我が悪評価・低評価を受けたからである。人間は、常に、深層心理が、自我を対他化することによって、他者に認められたい、好評価・高評価を受けたいという欲望を生み出しているが、自我が悪評価・低評価を受けたから、怒りの感情がわき上がったのである。深層心理は、傷心し、自我を取り戻そうとして、怒りの感情と相手に面と向かって悪口を言えや殴りかかれなどの行動の指令という自我の欲望を生み出したからである。もちろん、表層心理が、意識して思考し、行動した後の自我の立場に配慮して、相手に面と向かって悪口を言えや殴りかかれなどの行動の指令を抑圧するだろう。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎると、表層心理の抑圧は効かず、相手に面と向かって悪口を言ったり、殴りかかったりしてしまうのである。そうして、後に悔いることになるのである。しかし、感情は、喜びももたらす。満開の桜を見たり、富士山を見たり、雪景色を見たりしての感動は、深層心理が生み出した感情である。深層心理が、自我と満開の桜、富士山、雪景色という他者と共感化できたから、そこに、感動という感情を生み出したのである。そして、自然に対してだけでなく、オリンピックやワールドカップで、日本人チームや日本人選手が活躍しているのを見て感動するのも、深層心理の働きである。深層心理が、日本人という自らの自我と同じく、日本という構造体に、日本人チームや日本人選手が自我として所属しているから、彼らの活躍を見て、自らの持っている日本人という自我と所属している日本という構造体が評価されているような気持ちになり、感動したのである。しかし、喜びの感情にずっと浸っていようと思っても、暫くすると消え、悔しい思いを忘れようとしても、なかなか消えない。それは、感情は、深層心理によって生み出され、意志という表層心理によって、継続させたり、消したりすることはできないからである。カラオケや酒によって、気分転換をはかるのも、感情は、意志という表層心理によって生じるものではないことの現れである。カラオケに行くことや酒を飲むことは、表層心理による意志の行為であるが、感情は深層心理が生み出すものであるから、時には、気分が変わらなかったり、いっそう落ち込んだりすることがあるのである。次に、思考であるが、多くの人は、感情と異なり、思考は自分の意志によって為されていると考えている。しかし、そうではない。思考には、深層心理による思考と表層心理による思考があるのである。理性とは、表層心理による思考である。だから、理性によらない思考があるのである。まず、悪口を言ったり、殴り掛かったりすることは、深層心理の思考によって生まれた行為である。理性という表層心理の思考は、悪口を言ったり、殴り掛かったりする行為を考え出さない。深層心理が、人間の無意識の中で思考し、怒りの感情と同時に行動の指令を生み出すから、悪口を言えや殴り掛かれなどの指令が生み出されてくるのである。また、誰しも、悪口を言ったり、殴り掛かったりすることは、怒りに駆られての所作だと考えているが、それは正しいが、全ての人の深層心理が、怒りの感情の時に、悪口を言うことや殴りかかることの行動の指令を出すのでは無い。また、同じ人でも、深層心理が、怒った時には、常に、悪口を言うことや殴り掛かることを考え出すのでは無い。それは、意志が及ばない範囲に存在する、深層心理(無意識の心の働き)が、感情と思考を生み出しているから、一定しないのである。だから、表層心理のできることは、意志によって、悪口を言わないようにすること、殴りかかりたいという思いを抑圧することである。しかし、深層心理の生み出した怒りの感情が強すぎると、意志の抑圧は効かず、悪口を言ったり、殴りかかってしまうのである。それでは、どうして、表層心理は、意志で抑圧しようとするのか。それは、悪口を言ったり、殴りかかってしまう後のことを考えるからである。相手に面と向かって悪口を言えば、相手に復讐され、周囲の人に軽蔑されることを考えるからである。相手に殴り掛かれば、相手から殴り返され、周囲の人に軽蔑され、時には、逮捕されることが考えられるからである。そこから、悪口を言うことや殴り掛かることを止めさせる意志を生まれてくるのである。これが表層心理である。つまり、深層心理は短期的な「快楽原則」によって動き、表層心理は長期的な「現実原則」によって動くのである。つまり、人間の心理とは、常に、まず、深層心理が感情と思考を生み出すのであるが、そのすぐ後に、表層真理が、その思考通りに行動したらどのようなことになるかという思考を働らかせるのである。誰しも、人間の心理は自然とそのように動くのである。人間は、そのように作られているのである。人間は、表層心理が、深層心理の行動の指令のままに行動しても、何の問題も無いという風に判断すれば、深層心理の言う通りに行動する。しかし、深層心理の行動の指令のままに行動したら、その後、自分にとって不利益な状態に陥ると判断すれば、その行動を抑圧する。しかし、表層心理が、不利益だとわかっていても、深層心理が強過ぎると、表層心理はそれを制止できず、そのまま行動してしまうことがある。それが犯罪である。だから、犯罪者の多くは、それが犯罪だとわかっているが、深層心理が生み出した感情が強過ぎたために、自らを律することができなかったのである。ストーカーと言われる人も、表層心理では、自分が行っていることはやってはいけないことだとわかっているが、深層心理が生み出した別れの悲しみが強すぎるので、深層心理の行動の指令のままに、付きまとい、相手に迷惑を掛けるのである。それでは、冷静な思考は、どうであろうか。誰しも、冷静な思考だけは、自分の意志によって、行われているのだと思いがちである。しかし、そうではない。冷静であろうと、思考は、全て、言葉が繋がった文によって編み出されるものだからである。人間、誰しも、自分の意志で、言葉によって構成されたもの、つまり、文章を作ることはできない。文章は、深層心理によって、編み出されてくるのであり、そこには、意志という表層心理の力添えはない。文は、作るのではなく、作られるものなのである。文は、意志で作るのではなく、意志が介在しない、深層心理によって作られるのである。文は、外部に対する反応である。外部というのは、周囲の環境、他の人の存在、他の人の言葉や文や文章だけでなく、自分の言葉、自分の体内の状態もそうである。つまり、反応できるものには、全て、言葉や文が生まれてくるのである。それでは、思考とは、何に反応して、形成されるのだろうか。それは、自分自身の言葉や文や文章によってである。もちろん、最初に生まれて来た言葉や文や文章は、自分の言葉や文や文章ではない。周囲の環境、他の人の存在、他の人の言葉や文や文章、自分の体内の状態などである。最も多いのは、他の人の文章である。著書である。他の人の著書を読み、それに反応して、ある思いが生じ、それが言葉や文になって、心に浮かんだり、発せられたりする。そして、その言葉や文を聞き、それに反応して、また、次の言葉や文が浮かんでくるのである。そうして、文が綴られていくのである。これらの一連の文章作成は、意志によって行われるのではなく、無意識において、つまり、深層心理において、為されるのである。つまり、文が構成されたものである限り、思考と言えども、人間の意志ではなく、深層心理によって、為されるのである。このように、我々人間の肉体も精神も、無無意識によって、動かされているのである。それ故に、私たちは、生きているのではなく、生かされていると言えるのである。



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