あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

病気とは深層心理と深層肉体による防衛機制である。(自我その240)

2019-10-27 19:17:35 | 思想
病気には、精神的なものと肉体的なものがある。精神的な病気は精神疾患と呼ばれ、肉体的な病気は、そのまま、病気と呼ばれている。精神疾患の代表的なものが鬱病である。医学書には、「会社員が、毎日のように、上司に叱責されたので、気分が重くなり、何事に対してもやる気が起こらず、会社にも行けなくなったので、医者に診てもらったところ、軽度の鬱病と診断された。」と、例を挙げて、簡潔に説明されている。病気の代表的なものが風邪である。医学書には、「主に、ウィルスが原因となり、咳・発熱などの症状が起こる。」と、簡潔に説明されている。確かに、鬱病の原因は「毎日のような上司の叱責」であり、風邪の主因は「ウィルス」であるが、それらが、直接的に、「気分が重くなり、何事に対してもやる気が起こらず、会社にも行けなくなった」ことや「咳・発熱」を引き起こしたのではない。深層心理が、「毎日のような上司の叱責」を避けるために、自らの精神を鬱病という精神疾患にし、気分を重くし、何事にもやる気を起こらないようにして、会社に行けなくなるようにしたのである。深層肉体が、自ら、風邪という病気になり、咳でウィルスを体外に出そうとし、発熱でウィルスを殺そうとしているのである。つまり、深層心理や深層肉体が、自らが病気になることによって、「毎日のような上司の叱責」から逃れ、「ウィルス」を除去・殺戮しようとしているのである。つまり、病気とは、深層心理と深層肉体による防衛機制なのである。しかし、病気について、辞書では、「精神の働きや身体の生理的機能に障害が生じ、苦痛・不快感などのよって通常の生活が営みにくくなっている状態。生物の全身または一部分に生理状態の異常を来し、正常の機能が営めず、また諸種の苦痛を訴える現象。」と記されている。症状については、辞書では、「病気や怪我の状態。病気や怪我によって起こる心身の異状。病状。」と記されている。つまり、病気と症状は同じ意味で使われているのである。病気の意味が、正確に捉えられていないのである。だから、一般的に、精神疾患も(肉体の)病気も、マイナス面しか知られていないのである。確かに、精神疾患にしろ(肉体の)病気にしろ、それらには、常に苦悩がつきまとう。だから、そこに陥りたくない、陥った場合には、できるだけ早く抜け出したい気持ちになるのは当然のことである。しかし、精神疾患とは、最も差し迫った問題を解決する苦悩から逃れるために、深層心理が選択した窮極の手段なのである。このような深層心理の働きを、フロイトは、防衛機制と呼んだ。深層心理とは、無意識の動き・働きを意味する。人間が無意識に行っていることは、深層心理の、積極的な、意味ある動きなのである。しかし、深層心理は、人間を苦悩から逃れさせるために精神疾患に陥らせるが、精神疾患に陥った人間が、その後、それをどのように引きずっていくかまでは考えない。だから、精神疾患は、苦悩から逃れることには一定の効果を有するが、その後は、精神疾患それ自体が、その人を苦しめることになるのである。しかし、我々は、自分の意志によって、直接的に、深層心理を動かすことはできない。深層心理とは、我々人間の心の奥底に存在する、意識されることもなく、意志によらない、心の動き・心の働きだからである。また、精神の奥底に、深層心理が存在するように、肉体の奥底に、意志によらない動き・働きをするものが存在する。それが、深層肉体である。深層心理が、自らの精神を精神疾患に陥らせて、苦悩から人間を逃れさせるようとするように、深層肉体は、自らの肉体を病気に陥らせて、細菌やウイルスが侵入した肉体を治癒しようとする。一般に、病気とは、細菌やウイルスによって肉体に異状が生じ、弱体した姿のように捉えられている。だが、真実はそうではない。真実は、深層肉体が、肉体に侵入した細菌やウイルスに対決し、除去しよう・死滅しようとしている姿なのである。だから、誰しも、風邪を引くと、咳がしきりに出たり、熱が上がったりするのである。そうなると、多くの人は、風邪のウイルスが体内に入り、咳を生み出し、発熱させたのだと思う。しかし、真実は、そうではない。真実は、我々の深層肉体が、体内に入った風邪のウイルスを体外に出そうとして、肉体に咳をさせ、風邪のウイルスを弱らせ、殺そうとして、肉体の温度を上げているのである。もちろん、このことは、我々の無意志、無意識の下で、深層肉体によって行われている。我々の意識に上ってくるのは、咳が出そうになっている事実、咳が出た事実、熱が上がった事実である。だから、多くの人は、咳や発熱は、風邪のウイルスによって引き起こされた体の異常の状態だと誤解しているのである。さらに、肉体が損傷すると、深層肉体は、神経組織を使って、その予防策まで講じている。それが痛みである。深層心理が痛いと感じるから、我々の表層心理はは肉体の異常を知り、二度と同じ失敗をしないように対策を立てるのである。例えば、我々は、野原に出て、指に、痛みを感じた。見ると、血がにじんでいる。指に切り傷ができている。原因を考える。薄の葉に触れたからである。そこで、それ以後、薄に気を付けて、歩くようにする。このようにして、深層肉体は、表層心理を動かし、我々に、同じ失敗を繰り返させないようにさせるのである。もちろん、深層肉体は、損傷個所の修繕にもすぐに取り掛かっている。深層肉体は、出血によって損傷個所を消毒・保護し、自らの細胞増殖によって、その箇所を再生するようにするのである。また、我々は、足を骨折したり捻挫したりすると、深層肉体が、激しい痛みを感じさせるから、表層心理は表層肉体を使って、足を動かさないようにするのである。そのため、足はそれ以上ひどくならないのである。そして、その後、深層肉体が、その部分を再生させるのである。さらに、手術して、治癒できるのも、深層肉体の再生力があってのことである。このように、深層肉体は、常に、自らの肉体を維持し、治療しようとしているのである。だから、深層肉体がもたらした肉体の病気や痛みは、深層心理がもたらした精神疾患と同様に、表面的なマイナス面にとらわれず、その奥底にあるプラス面を見ることによって、初めて、真の目的を知ることができるのである。また、深層肉体が存在すれば、当然のごとく、表層肉体が存在する。表層肉体とは、我々が一般に言う、体、身体、肉体の動きのことである。表層肉体とは、我々が、自らの意志の下で、歩いたり、走ったり、立ち上がったりする動きを言う。つまり、表層肉体とは、自分が意識して、自分の意志で行う動きを言うのである。言わば、深層肉体は、我々を従えさせているのに対し、表層肉体は、我々の意志に従っているのである。さて、それでは、意志は、どこから来るのであろうか。それに対して、「我々が意志するのであり、意志の本をたどることは不可能だ。強いて言えば、我々自身は意志なのである。」と答える人がいるだろう。この人は、我々は何ものにもとらわれずに意志することができると思っているからである。それは、まさしく、我々人間には絶対的な自由が備わっていると思っているのである。自由の有無が、人間と他の生物との違いだとも思っているのである。しかし、果たして、我々人間に、自由は存在するのだろうか。我々人間は、何にもとらわれずに、自由に選択し、行動し、意志することはできるのだろうか。例えば、歩くという現象について考えてみよう。我々は歩こうと意志し、そして、歩き出す。確かに、これは、誰にであることである。この場合、確かに、歩こうという意志はあった。だが、理由なくして、意志は存在しない。歩こうと意志したのは、他の人の働きかけや自らの思いがあったからである。他の人の働きかけは、命令やアドバイスや誘いなどの形で行われる。一般に、「歩け」という命令、「歩いた方が体にいいよ」というアドバイス、「一緒に歩きましょう」という誘いなどである。我々にとって、他の人からの働きかけは、全て、言葉(文、文章)を介して行われる。身振り、手ぶり、合図など、言外の働きかけも、言葉(文、文章)に解釈して理解される。例えば、「歩け」と命令された時、歩かなかったら、叱責されたり罰せられたりするなどの場面が想像されるから、歩くのである。「歩いた方が体にいいよ」とアドバイスされた時、歩かないことで太ったり寝たきりなどの困った状態が想像されるから、歩くのである。「一緒に歩きましょう」と誘われて歩くのは、その人と歩いている楽しい姿が想像されるから、歩くのである。しかし、断ることもできる。命令さえ、罰を受ける覚悟があれば、拒否することができる。しかし、それでも、拒否せず、他の人の言葉に従ったのは何によるものなのか。この問いに対して、多くの人は、「これこそ自分の意志によるものだ」と答えるだろう。確かに、その人は断ることもできたのに歩いたのだから、歩く原因はその人の意志によるものだと結論を出しても、誤りは無いように思われる。その人は、自由な選択の下で、自分の意志によって、歩いたのだということで一件落着するように思われる。そうすると、表層心理が、自らの意志の下で、歩くということを意識して歩いたということになる。人間には自由が存在することになる。しかし、事は簡単ではない。言葉(文、文章)と想像について追究すると、この結論は危うくなる。なぜならば、言葉(文、文章)と想像は、表層心理の範疇には無く、深層心理の範疇に属しているからである。例えば、「歩け」と命令された時のことを考えてみよう。「歩け」と命令された時、歩かなかった時の叱責や罰の姿が想像されるので歩いたのだが、その想像は表層心理の働きによって為されるたのであるが、それは自由な意志ではなく、他者の命令が想像を生み出すきっかけになっているのである。そもそも、歩けという文に限らず、我々は、他の人の言葉(文、文章)を聞くや否や、それの意味する一つの状況を想像する(思い浮かべる)。深層心理が他の人の言葉(文、文章)を受けとめ、それの意味する状況を想像する(思い浮かべる)のである。もしも、深層心理が自由な存在ならば、我々は、自由にいろいろな状況を想像する(思い浮かべる)ことができるので、文意は、なかなか、定まらないだろう。深層心理が動くから、他の人の言葉(文、文章)から状況が想像されるのである(思い浮かべるのである)。深層心理の想像を受けて、表層心理が考えるのである。つまり、表層心理も自由ではないのである。つまり、他の人の働きかけ(語りかけ)があった場合、深層心理がそれを受け取り、解釈して、我々を歩くように仕向けたのである。表層心理は、深層心理のそれを受けて思考したのである。文章読解は全て、深層心理が行っている。だから、逆に、文意を誤解しても、なかなか修正できないのである。深層心理が納得して、初めて、解釈の修正が行われるから、時間が掛かるのである。ちなみに、文章作成も深層心理の働きである。言わば、文章は作るのではなく、作られるのである。例えば、話し合いの場合でも、深層心理が、他の人が語りかけた文章を解釈し、それに反応して、自らの文章を作るのである。だから、自分自身は、主語を明記するか、連用形が良いか終止形が良いかなど、意識した選択をしないのである。もちろん、作成した文章を、そのまま発表せず、修正してから発表することもあるが、その修正も、深層心理が読んで変だと思うから、表層心理が考えてそうしたのである。作成した文章を、本人がもう一度読んで、それを深層心理が聞いて、解釈して、不都合な部分に気付き、表層心理が考えて修正するのである。つまり、文章の解釈も、解釈の修正も、文章の作成も、作成した文章の修正も、全て、深層心理が最初に行っているのである。だから、心理学者のラカンは、「無意識(深層心理)は言語によって構造化されている。」と言うのである。次に、他の人の働きかけ(語りかけ)がなく、自分の思いだけで、歩き出した場合において、自由が成立するかどうかを考えてみよう。例えば、我々は、「今日は天気も良いし、散歩に持って来いだな」と思って歩き出すことがある。この場合は、一見、自分の意志による行動、自由な選択による行動と言えるように思われる。つまり、表層心理による行動が成立するのではないかと思われる。確かに、そこには、他の人からの働きかけもなく、歩かなければならない状況にも置かれていない。だから、自分が自由に選択して、自分の意志によって歩き出したと言えそうである。一見、表層心理の自由な選択による、意志の下での行動が成立したように思われる。しかし、天気が良いと判断したのは、表層心理だろうか。そうであれば、時間を掛けて、様々な天気と比べるはずである。しかし、それは、ほとんど瞬間において判断されている。つまり、天気が良いと判断したのは、深層心理なのである。それでも、ほとんどの人は、歩くという行為は、表層心理の意志の下に行われていると思っている。それは、歩こうという気持ちは意識に上り、歩くという行為は我々の見えるところで行われ、歩いている時には自分は今歩いているのだと意識されるからである。確かに、歩く過程は意識化されているのだが、歩こうと最初に思ったのは深層心理である。なぜならば、深層心理が、「今日は天気も良いし、散歩に持って来いだな」と思ったからである。どのような思いにしろ、我々は、自分の思いをコントロールできない。思いとは、意志によって作るのではなく、心の底から湧き上がってくるものだからである。つまり、思いを作るのは、深層心理なのである。しかし、その思いは深層心理によるものだとしても、実際に歩くことを選択したのは意志という表層心理ではないかという反論が予想される。しかし、たとえ、この思いが表層心理で意識化され、決断されたとしても、歩くということを意識化させたのは、深層心理なのである。だから、表層心理の自由は限定された自由なのである。そのような自由は、自由ということはできない。自由とは、何ものからも些かも束縛を受けないということだからである。さらに、歩くという行為も、意志によって為されていない。深層肉体の行為である。誰しも、右足と左足を交互に差し出して歩いている。だが、意識して足を出しているのではない。無意識のうちに、右足と左足が交互に出るのである。時として、躓くのも、無意識に(深層肉体で)歩いているからである。このように、歩くという身近な行為でさえ、深層肉体が行っている行為なのである。表層心理において為されることは、限定の中での選択と意識化(認識)だけである。歩くということが決断されたということと歩いているということの意識化(認識)だけである。つまり、我々には、表層心理の下で、絶対的に、自由に選択し、意志した行為は存在しないのである。全ての行為の最初の働きかけは、深層心理、深層肉体によるものである。表層心理や表層肉体は、意識化(認識)して、限定の中で、選択・決断しているだけなのである。ニーチェが、「意志を意志することはできない」と言うのは、この謂いである。意志が生まれてくる状況は作っているのは、表層心理ではなく、深層心理なのである。つまり、我々には、自由は存在しないのである。自由が存在するとすれば、それは深層心理の自由である。しかし、深層心理の自由を自由とは言わない。自分の意志によらない自由は自由とは言わないからである。我々が自分の意志通りに夢を見られないのは、深層心理が夢を作っているからである。稀れに、「私は自分の希望した夢を見ることができるようになった」と豪語する人が存在するが、その夢は、もはや、夢ではない。ところが、サルトルは、表層心理の優位を説く。サルトルは、「実存は本質に優先する」、「人間の全ての行為は自分の意志による」、「人間は自由へと呪われている」と言う。「実存は本質に優先する」とは、自由な選択によって自己を形づくることは、人間の本質と呼ばれているものよりも大切であるという意味である。「人間の全ての行為は自分の意志による」には、絶対的な意志の優位が説かれていて、人間が迷いの状態にあっても、それは、人間が迷うことを選択したからだと言うのである。「人間は自由へと呪われている」とは、人間は、全ての行為を自分の自由な選択によって行っているのだから、全てのことには責任を持たなければならず、その責任から逃れることはできないという意味である。サルトルは、実存、意志、自由を、全て、表層心理の範疇に属していると考えている。サルトルが自らのいかなる行為に対しても責任を取らなければならないと主張していることは、評価に値する。だが、深層心理の範疇に属していることや深層心理が出発点である、実存、意志、自由を、表層心理の範疇のみで語っているので、上滑りの主張になっているのである。レヴィ=ストロースは、サルトルの思想には、未開人の視点が無視され、近代西洋人の視点だけしか入っていない。近代西洋人の傲慢さが表れていると批判した。確かに、サルトルの実存思想は、表層心理だけの恣意的なものであった。その過ちに気づいたサルトルは、そこに、マルクスの思想を導入し、方向性を定めようとした。マルクスという外部の思想家の思想を導入した時点において、サルトルの実存思想は破綻してしまった。ハイデッガーにも、自己の決断を重んじる、実存思想が存在するが、ハイデッガーの思想には、表層心理だけでなく、深層心理も存在する。根本が深層心理なのである。そこが、サルトルと、根本的に異なっている。ハイデッガーの思想の深層心理とは、第一次大戦後のドイツの歴運(歴史性、民族性)である。しかし、ハイデッガーは、ナチスこそドイツの歴運を引き受けている政党だと誤って解釈し、全面的に協力した。そのために、第二次世界大戦後、散々に批判され、公職追放の憂き目にも遭っている。ハイデッガーの痛恨のミスである。さて、現在でも、多くの人は、我々人間は、自らの意志によって、行動のほとんどを行っていると思っている。つまり、表層心理・表層肉体の下での思考や働きによって、人間は動いていると思っている。だが、実際は、自らの意志に関わり無く、無意識の下で、深層心理や深層肉体によって行われていることがほとんどなのである。特に、我々の生命の中枢を管理しているのは、深層肉体である。心臓や血液などの循環器系、肺などの呼吸器官、胃や腸などの消化器官、毛髪や皮膚などの表皮組織、細胞分裂、細胞増殖に至るまで、深層肉体が司っている。そこには、共通して、常に、生きることへの強い意志が存在する。どんな場合でも、何としても生きようとする強い意志が存在する。その意志は、我々が求めて作り上げた意志でも、我々が意識している意志でもない。深層肉体自身が生来持っている意志である。深層肉体は、常に、生き延びることへの強い意志に基づいて行動しているのである。深層肉体が、生きることを諦めたり、死を選択したりすることは、決してない。そこには、ニーチェの言う「力への意志」が常に存在している。次に、精神疾患について、細説しようと思う。精神疾患とは、所謂、心の病である。精神疾患には、神経症と呼ばれるものと精神病と呼ばれるものが存在する。神経症について、辞書では、「心理的な要因と関連して起こる心身の機能障害。」と説明されている。精神病については、「重症の精神症状や行動障害を呈する精神障害の総称。」と説明されている。精神病の方が神経症より重篤の症状を示すという違いはあるが、方向性は同じである。しかし辞書は、マイナス面しか捉えていない。確かに、神経症であろうと精神病であろうと、精神疾患に陥ると、恐怖感、不安感に苛まれたり、苛立ちを覚えたり、絶望感に囚われたり、幻聴が聞こえたり、幻覚を見たり、自信が失われたり、生きがいが感じられなくなったり、楽しみも喜びが感じられなくなったり、憂鬱や悲しみしか感じられなくなったりする。しかし、このマイナスの現象は、副作用である。主作用は、当面している現在の苦悩から自らの精神を逃れさせることにある。深層心理が、苦悩から自らの精神を逃れさせるために、精神疾患に陥らせるのである。深層心理とは、我々の意志が及ばない、我々に意識されない、我々の奥底にある心の働きであるから、我々は、深層肉体に対してと同様に、深層心理の存在も動きも働きを気付いていない。我々が感じ取ることができるのは、深層心理がもたらした精神疾患の苦痛だけである。だから、深く悩み過ぎたために精神疾患になったと思い込んでしまうのである。そこに、深層心理の働きが介在しているのが理解されていないのである。だから、日常生活での苦悩から精神疾患の苦悩へという点だけしか見ることができないのである。さて、、深層心理が存在すれば、当然のごとく、深層心理の思考の結果を受けて思考する、表層心理が存在する。表層心理とは、我々が、ボールを投げよう、ボールを蹴ろう、椅子に座ろう、椅子から立ち上がろうなどの意志、頭痛や腹痛や味覚や触覚などの意識に上った思いや感じを言う。つまり、表層心理とは、意志、意識された思い、感じを意味するのである。一般の人は、深層心理の存在を知らず、表層心理のみを自分の心理や感情だと思い込んでいる。もちろん、一般の人には、表層心理と深層心理との区別は無い。表層心理しか存在しない。そのような視点からは、当然のごとく、深層心理の動き・働きは考えられないから、精神疾患の現象の真実を捉えることはできない。しかし、誰しも、自らの意志という表層心理によって、精神疾患に陥ったのではない。もしも、自らの意志という表層心理によって陥ったのならば、自らの意志という表層心理によって精神疾患から脱却できるはずである。しかし、それは不可能である。精神疾患は、表層心理の範疇に属していないからである。深層心理が、自らの精神を精神疾患に陥らせることによって、当面している問題の解決の苦悩から自らの精神を逃れさせ、当面の問題から逃れさせようとするのである。深層心理は、自らの心理を精神疾患に陥らせることによって、現実を正視させないようにして(我々から現実を遠ざけて)、その苦悩から解放させようとするのである。しかし、精神疾患も、また、苦悩の状態である。つまり、深層心理がもたらした精神疾患は、当面している問題の苦悩とは異なった、新しい、別の苦悩を持ち込んで来るのである。しかし、我々は、深層心理の動きに気づかず、表層的に、単純に、当面している問題の苦悩のために精神疾患になってしまったと思い込んでいるのである。しかし、真実は、深層心理が、言わば、毒を以て毒を制そう(精神疾患という毒を使って現実の苦悩という毒を制圧しよう)としたのである。次に、適応障害という精神疾患について、説明しようと思う。辞書では、「適応障害とは、職場や学校、そして家庭などの生活環境に不適応を生じ、不安や抑うつなどの症状を招くケースをさす。」と説明されている。そして、症例として、「ある男性会社員は、課長に昇進したものの、業務量が倍増し、夕方になると、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えるようになりました。業務にも些細なミスを生じるようになったので、部長に相談して、一旦降格させてもらったところ、まもなく症状は回復しました。」と挙げられている。例に挙げられている男性会社員は、課長とは一般会社員とは異なった業務をこなさなければいけないという価値観を持っていた。そこで、自分が課長になると大きなプレッシャーを感じたのである。恐らく、その男性会社員も、その苦しみから逃れようとして、自己正当化のために、色々なことを考え、やってみたはずである。人間誰しも、苦悩に陥ると、その苦悩から逃れるために、色々なことを考え、色々なことを行って、自己正当化に励むものである。なぜならば、苦悩とは、自己正当化が失敗したり、自己正当化の道筋が見えなかったりした時に訪れるものだからである。当然のごとく、自己正当化が成功したり、自己正当化の道筋が見えてきたりした時に、消えていくのである。ウィトゲンシュタインが、「問題の解法が見つからなくても、その問題がどうでもよくなった時、苦悩は消える。」と言っているのは、その謂いである。その会社員も、「誰でも失敗はあるのだ。」などと自己暗示をかけたり、酒を飲んだり、カラオケに行ったりなどしたはずである。しかし、課長の職務というプレッシャーの苦悩から逃れることはできなかった。そこで、その会社員の深層心理は、自らの精神を適応障害に陥らせることによって、課長の業務から離れさせようとした(忘れさせようとした)のである。確かに、疲労、倦怠、憂鬱感を覚えさせることによって、課長の業務から離れさせよう(忘れさせよう)とすることには効果はあったかもしれないが、それが、仕事への集中力を欠かせ、些細なミスを生じさせたのである。さらに、この会社員は、会社以外でも、疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛を覚えていたはずである。適応障害に限らず、精神疾患は、発症した構造体(この場合は、会社)だけでなく、他の構造体(この場合は、会社以外の場所、家庭、通勤電車、店など)にも、それが維持されるものだからである。その後、その会社員は、部長に相談して、課長から一般社員に一旦降格させてもらったところ、まもなく、適応障害の症状が消えていったとある。それは、自己否定の状態から解放され、自己正当化ができるようになったからである。課長の職務という自己否定の状態から解放されたので、適応障害が必要でなくなり、症状が消えたのである。この男性会社員にとっての苦悩とは、課長として、部下や上司に認められる仕事ができるかどうかの不安感から来ている。男性会社員がその不安感がもたらす苦悩からどうしても逃れることできなかったので、深層心理が、自らの精神に、適応障害(疲労、倦怠、憂鬱感を覚えるという症状)という精神疾患(の状態)をもたらしたのである。確かに、適応障害に陥ることによって、課長としての仕事の苦悩は薄まっていく。しかし、課長としての仕事に対する苦悩が薄まるということは課長という仕事に対する集中力も薄まっていくということに直接的に繋がるのである。それが、業務に差し障りを生じさせることになる。それが些細なミスの発現である。そして、仕事が原因で適応障害に陥ったのだが、適応障害の状態は社内だけにとどまらず、社外においても維持される。それが、精神疾患の特徴である。つまり、帰宅しても、コンビニに入っても、電車の中でも、歩いていても、疲労、倦怠、憂鬱感の苦痛を覚えるのである。さて、確かに、この会社員は、課長から一旦降格されることによって、課長というプレッシャーから解放され、適応障害の症状が消滅し、良い結果になった。しかし、一般に、このような単純な方法では、精神疾患は寛解しない。なぜならば、確かに、誰しも、課長に昇格したことが精神疾患を呼び寄せたのであるから、課長から降格させ、一般社員に戻せば、精神疾患から解放されるだろうと判断しがちである。しかし、課長から降格されると、そのことを恥辱に思い、より深く苦悩し、適応障害の症状がいっそう重くなることも考えられるのである。しかし、それは、この会社員の深層心理の決断だから、何とも言えないのである。結果的に、この会社員にとって、課長から一旦降格されたことが良かったというだけなのである。さて、精神疾患には様々なものであるが、深層心理が、現実逃避することによって、当面している問題の苦悩から精神を解放させるという目的でもたらしたということでは一致している。現実逃避の仕方が様々あり、それが精神疾患の様々な形なのである。次に、解離性障害について説明しようと思う。辞書では、解離性障害について、「自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合が失われる心因性の障害。心的外傷(トラウマ)に対する一種の防衛機制と考えられる。」と説明されている。まさに、深層心理が、自らの精神を、自己の同一性、記憶・感覚などの正常な統合を失った状態にさせ、心的外傷(トラウマ)という当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。次に、離人症についてであるが、辞書では、「自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失われ、対象は完全に知覚しながらも、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない精神状態。人格感喪失。有情感喪失。」と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神から、自己・他人・外部世界の具体的な存在感・生命感が失わせ、それらと自己との有機的なつながりを実感しえない状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。次に、統合失調症についてであるが、辞書では、「妄想や幻覚などの症状を呈し、人格の自律性が障害され周囲との自然な交流ができなくなる内因性精神病。」と説明されている。これも、また、深層心理が、自らの精神を、妄想や幻覚などを浮かばせ、人格の自律性を失わせ、周囲との自然な交流ができなくなる状態にして、当面している問題の苦悩から解放させようとしているのである。さて、人間誰しも、精神疾患に陥ると、すぐに寛解するようなことはなく、日常生活全ての場面において、その状態が続く。なぜならば、精神疾患をもたらしたのは、深層心理だからである。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間が最初に所属する構造体は、家族であり、最初の自我は、男児もしくは女児である。人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、欲望を生み出す。人間は、人間社会において、深層心理が生み出した欲望主体を生きている。それ故に、人間の欲望は、深層心理が生み出した自我の欲望なのである。自我の欲望には、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。このように、人間は、常に、深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出して生きているが、他者から、悪評価・低評価を与えられたり、悪評価・低評価を与えられる可能性が大であったりしたときに、苦悩するのである。この苦悩が、全ての精神疾患の原因なのである。つまり、全ての精神疾患は、他者の視線・評価が原因なのである。だから、誰しも、精神疾患に陥る可能性があるのである。先に例に挙げた、課長に昇進した会社員が適応障害に陥ったのも、課長としての仕事を、上司や同僚や後輩などの他者から低く評価されることを恐れ、それが大きく苦悩と成ったからである。さて、それでは、どのようにすれば、精神疾患に陥らずに住むであろうか。確かに、深層心理が、精神疾患に陥らせるのであるから、深層心理の考え方が変わらない限り、精神疾患を止めようが無い。また、我々の意志という表層心理は、深層心理に直接に働きかけることはできない。しかし、ニーチェの「永劫回帰の」の思想が言うように、森羅万象は同じことを繰り返すのである。人間も、同じことを繰り返すのである。人間の思考もそうである。人間の思考も習慣化しているのである。人間の思考も習慣化し、深層心理がそれに則っているから、(表層心理の思考は長時間掛かるが)、深層心理は、瞬間的に思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すことができるのである。だから、我々の意志という表層心理が、精神疾患に陥らない思想を考え出し、それを心で反芻することによって、その思想を習慣化させることである。その思想が習慣化すれば、深層心理がそれに則って思考するから、精神疾患に陥らないのである。しかし、思想に限らず、習慣化するには、長時間を要する。しかし、長時間要することを覚悟して、精神疾患に陥らない思想を創造し、それを習慣化しない限り、精神疾患から逃れられないのである。さて、先に述べたように、人間が、精神疾患に陥るのは、深層心理が、自らの精神を精神疾患という苦悩の状態に置くことによって、現実の大きな苦悩から逃れるためである。精神疾患という毒をもって、現実の苦悩という毒を制しようとするのである。深層心理は、将来のことを考えず、(将来のことを考えるのは表層心理である)、現在差し迫っていることを対処することだけを考えるから、現実の大きな苦悩から逃れるために、自らの精神を精神疾患に陥らせたのである。現実が大きな苦悩となるのは、現実を過大視しているからである。現実を過大視しているから、実際に現実が報われなかったり、現実が報われないように思ったりすると、大きな苦悩を背負い込むのである。現実を大きく見るとは、深層心理による自我の対他化の力が強いということである。つまり、他者から認められたい、他者から好評価・高評価を得たいという気持ちが強いことを意味している。先に例に挙げた会社員も、課長として、上司・同僚・部下に認められたいという思いが強いから、それが叶えられない不安から、苦悩し、適応障害という精神疾患に陥ったのである。だから、現実を過大視しないことが大切なのである。つまり、他者から認められたい、他者から好評価・高評価を得たいという気持ちを強く持たないことが大切なのである。すなわち、他者の評価を期待しないことである。確かに、人間は、日常生活において、いついかなる時でも、深層心理が自我を対他化することによって、自我を認めてもらいたいという思いが存在する。自我が他者からどのように思われているか気にしながら生きている。それは、他者から好評価・高評価を得ると、喜びが得られるからである。そして、他者から悪評価・低評価を与えられると、心が傷付くのである。だから、人間は、他者から好評価・高評価を得ようと努力するのである。しかし、その期待が大きすぎるから、現実を過大視するから、他者から悪評価・低評価を与えられたり、他者から悪評価・低評価を与えられる可能性が大きい時は苦悩し、時には、精神疾患に陥るのである。もう、その悪循環を絶たなければいけないのである。しかし、他者からの視線や評価を無視することはできない。人間は、常に、構造体の中で、自我として生きているからである。だから、他者からの視線や評価を、自我を知る手段とすれば良いのである。自我を知るために他者が存在すると考えれば良いのである。