あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

恋愛は深層心理であり、自らの意志には関係しない。(自我その232)

2019-10-19 18:20:02 | 思想
人間は、考える動物である。しかし、初めから、自ら意識して考えるのではない。無意識のうちに、思考することから始まるのである。つまり、深層心理の思考から始まるのである。そして、その思考の結果を受けて、意識しての思考が行われるのである。意識しての思考とは、表層心理の思考である。しかし、多くの人は、自らの思考は、表層心理の思考で終始すると誤解している。さて、人間は、他者に面した時、他者に対して、深層心理が、無意識のうちに、自我を対自化、対他化、共感化のいずれかをして、思考し、感情と行動の指令を生み出し、自我を動かそうとする。表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を、意識して思考し、採用の結論を出せば、行動の指令のままに行動し、不採用の結論を出せば、行動の指令を抑圧し、行動しないようにするのである。また、自我とは、構造体におけるポジションを、自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。例えば、日本という構造体には、日本人などという自我があり、家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社には、社長・課長・社員などの自我があり、仲間には、友人という自我があり、カップルには、恋人いう自我があるのである。さて、深層心理による対自化とは、他者に面した時、他者の心の中を探ったり、動物の行動の目的を探ったり、物の利用価値を考えたり、事の意味を考えたりするあり方である。つまり、自我が中心になって、積極的に関わっていくあり方なのであり、自我を他者の上位に置いているのである。深層心理による対他化とは、他者に面した時、自我が他者からどのように見られているかを意識するあり方である。つまり、自我を受け身の立場にして、評価を確認する行為なのである。この時、自我を他者の下位に置いている。深層心理による共感化とは、他者を、自我と愛し合う存在として、友情を交わし合う存在として、協力し合う存在としてみることである。呉越同舟(仲の悪い同士でも、共通の敵に対する時には、協力し合うこと。)も、共感化である。カップル、仲間という構造体も、共感化によって成立する。この時、自我は、他者と、対等の地位である。さて、恋愛感情を持つのも、深層心理の働きである。いつの間にか、ある人を好きになっていたのである。人を好きになることは、自我が他者を評価したのであるから、深層心理による対自化の働きであるが、それと同時に、相手にも自我を好きになってもらいたい気持ちが起こるのである。それは、深層心理による対他化の動きである。つまり、恋愛感情とは、深層心理が起こし、対自化の働きと対他化の働きの両化によって、形成されるのである。そして、その後、相思相愛の関係になれば、カップルという共感化の構造体ができるのである。さて、恋愛感情だけでなく、深層心理による対自化と対他化は、車の両輪のように、人間の心理と行動の全てを動かしている。もちろん、相思相愛が成立し、カップルという共感化の構造体が創造されたならば、男女二人とも、深層心理の対自化、対他化ともに、満足している状態にあるということを意味している。しかし、どのような恋愛も、互いの心に、深層心理による共感化が成立するまでには、深層心理による対自化の働き(相手への愛情)だけでは成立せず、深層心理による対他化の働き(相手からの愛情)が満足されることが加わって、初めて、可能になるのである。それ故に、恋愛は、深層心理による対他化の働き(相手からの愛情)が満足されるか否かによって、喜びと哀しみが生じるのである。さて、日常生活においては、深層心理による、対自化と対他化が交互に訪れ、両化が同時に満足された時、深層心理による共感化が訪れる。たとえば、男性が、女性と昼食を共にしている時、「何を食べたいのかなぁ。」と考えている時に、深層心理が女性を対自化している。女性の笑顔を見て、「この人は、私を信頼している。」と思った時、深層心理による対他化が満足されたのでいる。しかし、人間は、動物や物や事柄に対しては、深層心理は、対自化のあり方しかしない。なぜならば、それらには心が無いので、それらが自分をどのように見ているかを考える必要が無いからである。だから、虎に対しては、危険だから近付かないようにしよう、掃除機に対しては、それを使って掃除しよう、太平洋戦争に対して、日本にどのような損害をもたらしたのか考えるなど、自我がそれらに対して、一方的に思いを馳せるのである。しかし、動物でも、ペットは異なる。人間は、ペットを人間のように扱い、自我を信頼していると思ったり、愛情を持っていると思ったりなど、深層心理は、対他化のあり方で接している。人間のように、可愛く感じているのである。そのために、家族と同等にペットに執着し、ペット依存症になる人間まで存在するのである。また、ある人がセーターを買おうとし、寒さをしのぐにはどのセーターが良いかと考えている時、対自化してセーターを見ている。そして、そのセーターが自分に似合うかどうか、つまり、他者から自我がどのように思われるかを想像している時、深層心理は、対他化のあり方をしている。また、野球の試合中、ピッチャーが、バッター投げる時、深層心理は、対自化のあり方をしている。バッターに打たれないように、バッターだけを見ているのである。そして、敵チームを押さえた後、観客の声援に応え、ヒーローの気持ちを味わっている時、深層心理は、対他化のあり方をしている。また、入学試験や入社試験で、必死に問題を解いている時、人間の深層心理は、対自化のあり方をしている。ふと、「この試験に受かったら、両親が褒めてくれるだろう。」と思った時、対他化のあり方をしている。また、ゲームをしていて、無我夢中でゲームに打ち込んでいる時、深層心理は、対自化のあり方をしている。そして、突然、誰かに声をかけられ、自我がどのように見られているか考える時、深層心理は、対他化のあり方になる。つまり、深層心理の対他化には、他者の立場に立ち、自らを対象化して見ることでもあるのである。また、女性が化粧をしている時、男性が髭剃りをしている時、男女とも、道具を使って、自らの顔に働きかけている間は、深層心理は、対自存在のあり方をしている。しかし、化粧や髭剃りが終わった時から、男女とも他の人に目を意識するから、その時点から、深層心理は、対他存在のあり方をする。しかし、人間は、自らの意志で、つまり、表層心理で、対自存在、対他存在の両方のあり方のどちらかを選択しているのではない。深層心理が、必要に応じて、この二つのあり方のどちらかを選択して、思考しているのである。そうして、深層心理は、ある感情と行動の指令を生み出し、それを意識に上らせる。それを受けて、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が行動の指令の通りに行動するかしないかを思考するのである。表層心理は、深層心理の出した行動の指令のままに行動するとのような状態に陥るかを予想して、自らの行動を決めるのである。しかし、表層心理で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強すぎると、表層心理は抵抗できず、深層心理の思うままに行動することになってしまうのである。大抵の犯罪は、深層心理が生み出した感情が強いので、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理が出した行動の指令のままに行動したことによって起こるのである。そうして、行動した後、深層心理が弱まると、後悔するのである。このように、常に、人間の思考は、無意識の心の働きである、深層心理から始まる。深層心理が、感情とそれに伴う行動の指令を考え出すのである。そのすぐ後で、表層心理が、深層心理の思考の結果を受けて、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を考え、その結果、人間は、行動するのである。しかし、動物には、深層心理と表層心理の区別が存在しない。だから、動物は、迷うこともなく、将来のことを考えることもない。さらに、動物には、対他存在のあり方は存在しない。だから、彼らは、常に裸であり、他の動物がいる前で、小動物を襲って食べ、排泄し、交尾できるのである。しかし、動物の雄は、雌を争うことがあっても、殺し合うことはない。対他存在のあり方が無いからである。雄は、雌をめぐって戦うことはあっても、勝った雄は負けた雄を決して殺さない。また、負けた雄も、決して、ストーカーにならない。動物には、カップルという共感化の構造体が存在しないからである。さて、人間の中には、人を好きになっても、「私は片思いで良い。」と言う人がいる。しかし、それは、決して、本心ではない。好きな人ができて、相手の気持ちが自分に向かわなくても良いと思う人はいない。確かに、相手に告白しないで、ただ黙って遠くから見ているだけの人が、男女とも、数多く存在するのは事実である。しかし、それは、自分の気持ちを告白して、交際を申し込んでも、相手から断られる可能性が高く、恥をかきたくない(心が傷付きたくない)から、黙っているのである。深層心理の対他化(相手から好かれたいという思い)によって、自我が傷付くのを恐れているのである。それが、意志という表層心理の抑圧の行動である。しかし、そのような人も、恋愛感情が高まると、思い切って、告白してしまう。黙っていることに、我慢できなくなったのである。恋愛感情という深層心理の高まりを、告白した後のことを想定して、傷つくことを回避する表層心理が押さえることができなかったのである。つまり、自分は相手に恋愛感情を持っているのに、相手がそれに気付かず、自分に愛情を注いでくれないことに対して、堪えられなくなったのである。言うまでも無く、人を好きになるという現象は、表層心理の意志の作用ではなく、深層心理の作用である。だから、誰しも、いつの間にか、そうなってしまったのである。だから、好きになることを、「恋に落ちる」や「恋に陥る」などと表現するのである。さて、恋愛の動機になる、外見と中身についてであるが、人は、よく、「人間は中身が大切だ。外見ではない。」と言う。しかし、中身は、外から見えない。外見から、中身を判断するしかないのである。だから、外見つまり外面性(顔・しぐさ・態度・ステータス(社会的な位置・地位・身分))と、中身つまり内面性(思いやり・性格・気質)は、相反するものではなく、むしろ、深い繋がりがある。一般に、男性は、可愛い人、美しい人、色っぽい人、スタイルの良い人を好きになる傾向がある。つまり、外面的に魅力のある人である。そこに、優しく、柔らかなしぐさが加わる。一般に、女性は、社会的に力のある人や有名な人(若手政治家、医師、弁護士、スポーツ選手、俳優、芸能人)とイケメン(爽やかな人)を好む傾向がある。つまり、男女とも、外面性に引かれるが、女性は、それ以外に、社会的にステータス(地位、身分)に秀でた人にも好意を寄せるのである。それも、外面である。つまり、外面によって、内面を想定するのである。ちなみに、女性が、イケメンと声高に言うようになったのは、最近のことである。女性は、普遍的に、有名人や実力者を好む傾向がある。だから、古代ローマの将軍のアントニウスにクレオパトラが近づき、唐の玄宗皇帝が楊貴妃を侍らせ、フランス皇帝のナポレオンに美女のジョセフィーヌが嫁いだのである。平安時代の女性にとっての憧れの男性である「よき人」は、身分が高く、教養(和歌、笛、漢詩などの才能)のある人だった。江戸時代の女性にとっての憧れのイケメンは、歌舞伎役者だった。現代では、プロ野球選手と美人女子アナウンサーがよく結婚する。それは、有名人や実力者に美女だけが近づいていくという意味ではなく、有名人や実力者に多くの女性が近づき、彼らは、その中から、美女を選んで、結婚するという意味なのである。さて、このように、男女は問わず、大抵の人は、外見やステータスから人を好きになるのだが、外見やステータスの基準が時代ごとに変遷している。しかし、同時代の人々は、他者への同一化という深層心理によって、同じタイプの人を好きになる傾向があるう。他者への同一化とは、簡単に言えば、人のまねをする傾向である。わかりやすい現象は、流行を追う傾向である。具体的に例を挙げれば、次のようなことである。弟が持っている玩具を兄もほしくなってしまう。兄弟喧嘩になり、弟が泣かされるので、甘い親は、同じ玩具を二つ買う羽目になる。女子高校生は、他の生徒がルーズソックスをはいているのを見て、自分もはきたくなるのである。ブランド品を買いあさる女性たちは、他の女性がブランド品を身に着けているので、自分もほしくなったのである。現代の男性の多くが胸の大きな女性を好むのは、周囲の男性やマスコミが大きな胸の女性をちやほやするからである。だから、若い女性の多く胸を大きくするように努力し、豊胸手術をする人までいるのである。しかし、四、五十年前は、胸の大きな女性よりも胸の小さな女性の方が評価が高かったのである。男性から、胸の大きな女性は頭が悪いと思われていたからである。だから、胸の大きな女性は、むしろ、さらしなどでそれを隠そうとしていた。現在、小顔が好まれ、流行して、若い女性を中心に化粧などによって小顔に見せようと努力している。これは、これまでの日本の歴史に存在しなかったことである。四、五十年前の女優は、現代から見ても、美人だと言えると思うが、その顔は、現代から見ると、大きい部類に属する人が多かったと思う。小顔の女優は、現代でも、活躍している。吉永小百合がその一人である。彼女は、小顔だからこそ、現代でも人気があるのだろう。平安時代は、顔がふっくらした女性、江戸時代は、浮世絵を見てもわかるように、顔が目立つ人が好まれた。だから、平安時代や江戸時代の男性の多くは、顔の大きさには、全くこだわらなかったと思われる。また、現代の女性は、二重瞼を美の条件にしているが、平安時代の女性は、一重瞼の切れ長の目が推奨された。そして、現代において、若い女性の多くは、肌をできるだけ白く見せようとし、男性もそれを好む傾向がある。顔の白さだけは、どんな時代にも通用する、所謂美人の条件のように思われ、「色の白いは七難隠す」と言われてきた。しかし、これも、四、五十年前には、夏目雅子という女優が、テレビのコマーシャルで、水着を付けて、小麦色の肌をアピールすると、若い女性はわざわざ肌を焼くようにし、男性たちは、白い肌の女性よりも小麦色の肌の女性を好んだ。このように、美の基準は、時代の変遷とともに、変化しているのである。そして、男性も女性も、無意識のうちに、時代の美の基準に自らを順応させて、外面を修整したり、人を好きになったりしているのである。これが、他者への同一化の意味である。もちろん、人を好きになるということは、深層心理のなすことだから、自分自身はそれに気づいていないのである。