あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

日本の右翼と左翼について(自我その241)

2019-10-28 17:15:30 | 思想
人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。人間は、自我を持って、初めて、人間となるのである。自我を持つとは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、他者からそれが認められ、自らがそれに満足している状態である。それは、アイデンティティーが確立された状態である。しかし、人間は、意識して、自我を持つのでは無い。深層心理という無意識が自我を持つのである。人間は、自我を持つと同時に、深層心理が、欲望を生み出す。それ以後、人間は、人間社会において、深層心理が生み出した欲望主体に生きる。それ故に、人間の欲望は、深層心理が生み出した自我の欲望なのである。自我の欲望には、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、日本を国籍にしている人々は、日本という国の構造体に所属し、日本人という自我を持っている。そして、日本人は、皆、愛国心を持っている。それは、日本という国の構造体が日本人という自我を保証しているからである。つまり、日本人が、日本という国に愛国心を持っているのは、日本人という自我を愛しているからである。それは、他国民についても言えることである。韓国人、中国人、アメリカ人、ロシア人も、韓国、中国、アメリカ、ロシアという国の構造体に愛国心を持っている。世界中、国民は、皆、自国に愛国心を持っている。現代という時代は、国際化の時代であり、国ごとに独立した動きをし、国民という自我が無ければ、国の動きに参加できず、延いては、世界の動きに関与できないからである。さて、愛国心とは、文字通り、国を愛する心であるが、その愛し方は、一様ではない。国家観(国に対する見方)によって、大きく、二つに分けられる。保守的国家観と革新的な国家観である。保守的な国家観を持つ人々は、国の伝統を墨守し、国のために個人があると考える。革新的な国家観を持つ人々は、未来に向かって国を変革しようとし、個人のために国があると考える。保守的な国家観を持つ人々を右翼と言い、革新的な国家観を持つ人々を左翼と言う。日本の右翼と左翼の国家観の違いは、日本の近代史の見方において、顕著に現れる。右翼は、韓国併合は、インフラ整備も為され、併合以前よりも国は豊かになり、韓国の国民にとっても良かったと主張する。左翼は、韓国併合は、創氏改名をさせ、韓国の自治を侵し、韓国民を侮辱することになったから、容認できないと主張する。右翼は、太平洋戦争(右翼は、大東亜戦争と表現する)は、アメリカから仕掛けられてやむを得なく起こした戦争であり、日本の兵士はよく戦ったと主張する。左翼は、太平洋戦争は、中国大陸への侵略行為の連続であり、アメリカに対して勝ち目のない戦争を仕掛けたのは日本を神国だとする驕りから引き起こしたのであり、挙げ句の果てに、アジアの人々に対して残虐な行為を繰り返し、最悪の戦争だったと主張する。右翼は、南京大虐殺は、大虐殺と呼ばれるようなものではなく、戦争中によくある出来事であり、原因は、中国兵が一般市民を装って逃げようとしたことだと主張する。左翼は、南京大虐殺は、戦争中のこととは言え、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜及び一般市民を大量虐殺し、放火・略奪・強姦などの蛮行を加えたことは、到底許すことはできないと主張する。右翼は、特攻は、自ら志願して、国のために命を捧げたのであり、その行為は称賛に値し、戦後の日本の繁栄は特攻隊員のおかげだと主張する。左翼は、特攻は、志願しているように見せかけられているが、実際は、強制されたり、志願せざるを得ないような状況に置かれたからであり、特攻隊員の苦悩を偲ぶにはあまりあると同情し、彼らが生き残っていたならばもっと日本は平和で豊かな国になっていただろうと主張する。このように、両者の主張の隔たりは大きい。当然、激論になる。右翼は、左翼は自国民に対して冷淡過ぎる、自虐史観だと批判する。右翼は、左翼は愛国心が欠如しているから、過去の日本人や日本人の行為を批判できるのだと批判し、反日だ、非国民だ、売国奴だと罵る。つまり、右翼は、左翼に対して、もっと、過去の日本や日本人の行いを評価し、過去の日本や日本人の行いを非難してくる韓国・中国・北朝鮮を批判すべきだと主張するのである。左翼は、右翼の歴史観は自慰史観だと批判する。つまり、左翼は、右翼に対して、もっと、過去の日本や日本人に対して厳しく見て、自国や自国民の過ちを潔く認め、もっと。韓国・中国・北朝鮮政府や国民が過去の日本や日本人の行いを批判することに耳を傾け、謝罪すべき所を謝罪しなければ、日本の未来は無いと主張する。さて、それでは、どうして、このように、右翼の歴史観と左翼の歴史観に大きな隔たりがあるのか。その原因は、右翼は愛国心の有無だとする。だから、右翼は、左翼的な考えをする人を反日だ、非国民だ、売国奴だと罵るのである。しかし、左翼と言えども、日本人という自我を有している限り、日本という国の構造体に愛国心が存在しないはずが無い。それでは、右翼と左翼の違いは、愛国心の多寡、深浅だろうか。右翼には、愛国心が多くある人や深い愛国心がある人がなるのだろうか。左翼には、愛国心が少ない人や浅い愛国心の人がなるのだろうか。確かに、「日本のためなら何でもできる。死ぬことさえできる。」と主張する人は、決まって、右翼である。また、「日本が好きなだけ。」と言い、ヘイトスピーチを繰り返す人も右翼である。愛国心を声高に主張する彼らには、愛国心の多さ、深さにおいては、他の日本人に決して劣ることはないという自負心があるだろう。しかし、愛国心の多寡、深浅を測ることができるのだろうか。また、本当に、右翼の言動は、愛国心の多さ、深さを表していることになるのだろうか。単に、日本人という自我に対する愛情が強いことを意味しているのではないだろうか。さらに、右翼の言動には、日本及び日本人だけではなく、他国及び他国の人々、世界及び世界の人々に対する、現在から将来へのあり方への展望があるのだろうか。そこには、普遍的な人間性への視点は存在するだろうか。しかし、右翼には、このような批判は、批判にならないだろう。なぜならば、右翼は、「日本のためなら何でもできる。死ぬことさえできる。」、「私は日本が好きなだけ。」と言い、自らが日本にだけ執心していることを誉れとしているからである。しかし、左翼は、右翼と異なり、人間性を重要視し、日本及び日本人だけではなく、他国及び他国の人々、さらには、世界及び世界の人々に対する、現在から将来へのあり方への展望を有している。だから、左翼は、右翼のみならず、現在の日本の保守政権を批判するのである。しかし、現在の日本において、左翼は右翼の勢いに圧倒されがちである。しかし、これは、現在のみならず、明治時代以降、いつも見られた光景なのである。また、それは、当然のことなのである。右翼の原動力は、理性から来る思想ではなく、愛国心という観念、わかりやすく言えば感情だからである。感情に囚われた人間は、一方向に、脇目も振らずに、後先構わず、激しく動き、他を寄せ付けない怖さを持っているのである。だから、思想を基にして行動している左翼は、右翼に圧倒されているように見えるのである。さらに、「日本のためなら戦争で死んでも良い。在日は日本にいてはいけない。反日は日本人ではない。」と言うような愛国心に囚われた自我を持っているいう右翼と対決するには相当の覚悟が必要なのである。戦前、戦後、右翼のテロに倒れた、民間人、思想家、小説家、国会議員は枚挙に暇が無い。死を覚悟してまでも自分の思想を吐露できるような左翼でない限り、それに抗することはできないのである。言い換えれば、自らの構築した思想を自我として有している左翼しか右翼に抗することはできないのである。つまり、現代日本において、左翼が右翼に圧倒されているように見えるのは、右翼に抗する発言をする、覚悟ある、左翼が少ないということを意味しているのである。さて、このように、愛国心に囚われ、愛国心を増長させた右翼と、愛国心を抱きつつそれに反省を加えている左翼は、根本的に異なったあり方をしている。だから、その方向性も違ってくるのは当然のことである。それが、過去の日本や過去の日本人に対する思いにも表れるのである。右翼には、過去の日本や過去の日本人のあり方を肯定し、そのまま繋がろうという思いがあり、左翼には、過去の日本や日本人のあり方を、時には否定し、批判的に継承し、新しく創造しようという思いがある。そのために、同じ歴史上の出来事や事件に対しても、その評価に、大きな差異が出てくるのである。同じ日本人であり、同じ日本に愛国心を持っているが、それに心を寄せることを良しとする思いとそれを超えていこうとする思いの違いが、日本のあり方に対して異なった考えを抱かせるのである。それでは、どちらのあり方が日本人として正しいのか。このような問いかけをすると、右翼の方に肩入れする人が多くなるだろう。愛国心を謳っているのが右翼であり、日本人は、皆、愛国心を持っているからである。それでは、どちらのあり方が人間として正しいか。このような問いかけをすると、左翼の方に肩入れする人が多くなるだろう。なぜならば、左翼は、日本人を超えて、他国の人々、延いては、世界中の人々のことを慮って、発言しているからである。このような面においても、愛国心に心を寄せる右翼の日本人を重んじたあり方と世界中の人々の心に向かっている左翼の人間一般を重んじたあり方の違いが鮮明に現れてくるのである。ところで、愛国心は、国という構造体に所属し、国民という自我を持つことから発生するが、愛郷心、恋愛、母性愛なども、都道府県、カップル、家族という構造体に所属し、都道府県民、恋人、母という自我を持つことから発生する。一般的には、愛は推賞される。愛は、慈しみ合う心、思いやり、かわいがること、大切にする心などを意味するからである。しかし、仏教では、愛は、煩悩として忌避される。なぜならば、人間は、愛に囚われると、苦悩し、自分を失った行動、人間性を失った行動を取ってしまうからである。愛郷心は、地元の都道府県のチームを応援することなどに現れる。高校野球の甲子園大会、高校サッカーの選手権大会、高校バレーの春高バレーなどの応援を見ればわかる。なぜ、そのチームを応援するのか。言うまでもなく、自分の出身地のチーム、もしくは、自分が住んでいる所のチームだからである。ただ、それだけの理由である。愛郷心とはそういうことである。お国自慢も、また、愛郷心の現れである。青森県民がリンゴの生産量を誇るのも、山形県民がサクランボの生産量を誇るのも、栃木県民と茨城県民が認知度を争うのも、静岡県民と山梨県民が富士山の所属を争うのも、全て、お国自慢をしたいがためである。しかし、愛郷心は地元の高校チームを応援する、お国自慢をするなどのほほえましい現象として現れているうちは良いが、それが、暴力沙汰になると笑っていられなくなる。かつて、北陸の隣県同士の暴走族が、県境で、隣の県の自動車がこちらの県に入って来ないようにするために、その運転手に暴力を振るったことがある。これは歪んだ愛郷心であるが、これもまた、愛郷心である。愛国心もそうである。日本のサッカーチームや野球チームやバレーボールチームやラグビーチームを手に汗を握って応援している様子は、ほほえましい現象である。しかし、領土を巡ってや覇権のために戦争を行うのは愚の骨頂である。しかし、これもまた、愛国心がもたらす業なのである。さて、恋愛は、誰しも、憧れるものである。相思相愛になると、生きている喜びに満たされ、明日への希望が湧いてくる。相手のために何でもしてあげようという気持ちになっている。しかし、ストーカーも、また、恋愛感情が為せる業なのである。恋愛状態に陥っていた者が、相手から別れを告げられても、どうしても、相手を忘れられなくて、付きまとってしまう時、ストーカーだと言われる。誰しも、別れを告げられると、すぐには、失恋を認めることができず、ストーカー的な心情に陥る。しかし、ほとんどの失恋者は、何かによってその気持ちから徐々に逃れていき、ストーカーにならない。しかし、ほんの一部ではあるが、失恋の苦しみから逃れることができず、相手に付きまとってしまい、ストーカーだと言われるのである。だから、誰しも、失恋すると、ストーカーになる可能性があるのである。それ故に、ストーカーは、精神に異常がある人でも、変態でもない。自分の気持ちの切り替えに失敗した人がなるのである。恋愛に溺れた者の悲劇である。それは、愛国心に溺れた者の悲劇が国家間の戦争であり、愛郷心に溺れた者の悲劇が他県の者への暴力であるのと同様である。さて、母性愛は、言うまでもなく、母親が自分の子供に対して抱く愛情を意味する。子供のためならばわが身を犠牲にすることを厭わないほどの、母親の我が子の対する強い愛情を意味している。それは、「女は弱し、されど、母は強し。」という言葉があるように、一般的に推賞されている。しかし、いじめっ子をかばう母親の気持ちも、また、母性愛の現れなのである。いじめられていた子が自殺して、いじめっ子が特定されても、その母親のほとんどは、我が子の非を認めようとしない。自殺の原因をいじめられていた子の性格やその家庭環境に求める。いじめられていた子の苦悩やその家族の悲しみを推し量ろうとはしない。いじめられて自殺した子の母親の気持ちさえ推し量ろうとしない。むしろ、対抗意識を燃やそうする。いじめっ子の母親にとって、我が子だけがかわいいからである。我が子が非難されるのが耐えられないからである。それは、自分が責められているように感じられるからである。つまり、母性愛とは自分の身を犠牲にしても我が子を守ろうという感情であるとともに、我が子に非があっても、盲目的に我が子をかばおうとする感情なのである。母性愛を褒めたたえる人は多い。しかし、非難すべき点があることを見逃してはならないのである。それは、愛国心、愛郷心、恋愛と同様である。つまり、愛国心、愛郷心、恋愛、母性愛には、常に、マイナスの要素をはらんでいるのである。この四つの愛ばかりでなく、愛とは、例外なく、マイナスの要素をはらんでいるのである。なぜならば、それは、仏教が説くように、愛に囚われると、自分を見失い、人間性を見失ってしまうからである。その中にあって、最も大きな悲劇をもたらすのが愛国心である。なぜならば、愛国心に囚われた人間は、戦争すらもためらわないからである。愛国心に囚われたた権力者やそれを支持する者たちが、自分たち以外の大勢の者を、つまり、大勢の他者を、国民という形で巻き込んで、国家間の戦争を始めるのである。国家間の戦争が始まると、国民は例外なく、戦争に参加させられるのである。愛国心を持ちながらも囚われていない者には、それは、大いなる悲劇である。しかし、愛国心に囚われたた権力者やそれを支持する者たちにとって、むしろ、それが狙いなのである。戦争ほど、国が一つにまとまること、国民が一つの方向性にあることはないからである。彼らは、日本は、戦争が始まれば、戦争に行かないという意見や戦争に反対する意見を述べる人がほとんどいなくなり、たとえ、いたとしても、非国民などと罵倒して存在性を失わせることができ、簡単に法律を成立させて逮捕できる国だと知っているからである。明治時代以降、日本国民は、皆、愛国心を抱くようになった。それは、明治時代以降、日本人は、日本という国が国際競争にさらされているということを意識するようになったからである。だから、日本国民は、皆、日本人という自我を持つようになったのである。だから、日本国民は、皆、日本に対して愛国心を持ち、日本人という自我を持っているのである。それ故に、日本人は、皆、日本という国の誉れとなることに対して感動し、恥となることには心が傷つくのである。それは、愛国心を抱きつつも愛国心に囚われるまでに至っていない日本人も、愛国心に囚われている日本人も、同様である。日本人は、皆、オリンピックやワールドカップやノーベル賞受賞などの日本人選手や日本チームや日本人の活躍に感動し、オリンピックやワールドカップなどで日本人選手や日本チームが敗れると心が傷つくのである。しかし、愛国心に囚われている人は、国が誉れを得ることにとどまらず、国が一つにまとまること、国民が一つの方向性にあることを望む。だから、愛国心に囚われた権力者やそれを支持する者たちは、戦前のように、天皇を元首として、国を一つにまとめ、マスコミまで圧迫して国民を一つの方向性に導こうとしているのである。愛国心に囚われたた権力者やそれを支持する者たちが、右翼的な権力者であり右翼の人々なのである。それに反して、国民に主権があり、その国民に様々な意見があるのを当然だと考えている人々がいる。それが、左翼である。だから、左翼の人にとって、共産主義思想が、単純に、左翼の考えを意味しない。それが国家主義、全体主義に繋がれば右翼の思想である。だから、中国や北朝鮮の共産主義国家が左翼ではないことは言うまでもない。中国や北朝鮮は、右翼の国である。権力者が愛国心を前面に押し立て、国民の大半がそれに従っている国は右翼の国である。韓国は、共産主義国家ではないが、権力者が愛国心を前面に押し立て、国民の大半がそれに従っている国であるから、右翼の国である。日本の右翼は、中国、北朝鮮、韓国と敵対するように国民を煽るが、それは、これらの国は右翼の国だからである。同じ国に所属していなければ、右翼同士は敵対するのである。自分が所属している国が最も偉大な国だという意識があるからである。ナチスとは国家社会主義ドイツ労働者党の通称である。ここに、社会主義や労働者という名称が入っているが、左翼の集団ではない。ゲルマン民族の優位性、反個人を唱え、愛国心に訴えたファシズム政党であるナチスこそ、典型的な右翼の政党である。ナチスは、第二次世界大戦とともに、消滅した。しかし、その思想が、跡形も無く、消えたわけではない。現在も生き残っている。現在、ドイツでは、ナチズムとの連続性を持つ、ネオ・ナチズムという右翼勢力が存在する。ネオ・ナチの政党やグループを結成し、動きを活発化させている。右翼は、どこの国にも、いつの時代でも存在するのである。そこに愛国心があれば存在するのである。愛国心の有しない国民は存在しないから、国民である限り、右翼思想に傾く可能性があるのである。愛国心に大きく傾き、溺れ、ナチスと同じように自国民の優越を唱え、他国民を攻撃する可能性があるのである。愛国心に溺れ、国民という自我に操られると、他国民を攻撃することに厭いもためらいも無くなるのである。むしろ、それを目的化し、積極的に行うようになるのである。そこに喜びさえ感じられるようになるのである。国民という自我に操られた人間は、その自我を守るプライドのために、無反省に他を攻撃するのである。それは、県民という自我、恋人いう自我、母親という自我であっても同様である。愛郷心に溺れた県民がそのプライドのために隣県の自動車運転手を襲い、恋愛に溺れた恋人が失恋するとそのプライドのためにストーカーになり、母性愛に溺れた母親がそのプライドのためにいじめっ子の母親になると被害者の少年にいじめの原因があると主張するのである。そして、右翼とは、国民というプライドを守るために、他国民を攻撃することを厭わず、ためらわない集団なのである。右翼とは、愛国心に操られた集団なのである。だから、国という構造体が存在し、国民という自我が存在する限り、そこに愛国心が常に存在するゆえに、誰しも、右翼に転化する可能性があるのである。そして、国民は、誰しも、愛国心を有しているから、右翼の考えや行動を支持しやすいのである。右翼は、国民の愛国心に訴えるからである。それゆえに、人類の普遍性を唱える左翼は、常に、政治権力の弾圧や右翼の暴力を受ける覚悟を持たなければ、その成立はない。また、往々にして、愛国心に訴える右翼に、国民の支持が集まり、左翼は、孤立無援状態に陥りやすい。しかし、それらを恐れて、自らに考えを言わない左翼や行動しない左翼は、左翼ではない。右翼とは、愛国心に溺れて、日本人という自我を持ち、日本のためならば死んでも良いという死の覚悟を持って、日本のためという具体的な目標に向かって行動する者たちである。左翼とは、自らが確立した思想によって、自己という自我を持ち、権力者の弾圧・右翼の暴力・国民の非難を受ける覚悟を持って、人類の普遍性という目標に向かって行動する者たちである。それ故に、右翼と左翼は、相容れないのである。国民がどちらを選ぶか。それが、国の運命を決めるのである。しかし、国民とは、大衆化しやすく、批判精神なく、右顧左眄品しながら、大勢に従い、自らの行動に責任を取らない傾向がある。だから、ニーチェは、「大衆は馬鹿だ。」と言ったのである。しかし、それでも、人類の普遍性という目標に向かって、国民に呼びかけ続けなければならないのである。それしか。方法が無いからである。



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