あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

構造体の中で役を演じ、成りきることが自我である。(自我その230)

2019-10-17 17:46:06 | 思想
私たちは、毎日、朝目覚めた瞬間から、眠りに落ちる瞬間まで、ある構造体の中で、あるポジションを得て、その役を演じて暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。たいていの人は、目覚めた時と眠りに落ちる時の構造体とポジションは同じである。つまり、家族という構造体の中で、父・母・息子・娘というポジションで起き、それらしく振る舞い、そして、それらしく振る舞いながら、父・母・息子・娘というポジションで眠るのである。たとえ、独居老人や独身者やホームレス生活者であろうと、一人生活者という構造体の中で、起き、それらしく振る舞い、そして、それらしく振る舞いながら眠るのである。私たちは、朝起き、準備し、家やアパートやマンションなどを出発すると、会社などという構造体に行き、部長・課長・社員などというポジションを得て、それらしく振る舞い、店などという構造体に行き、店長・店員などというポジションを得て、それらしく振る舞い、中学校などという構造体へ行き、一年生・二年生・三年生などというポジションを得て、それらしく振る舞い、高校などという構造体へ行き、一年生・二年生・三年生などというポジションを得て、それらしく振る舞って、終業時間になると、別の構造体に向かうか家族という構造体のある家やアパートやマンションに向かうのである。このように、私たちは、いついかなる時でも、何らかの構造体に所属して、何らかのポジションを得て、それらしく演じながら、暮らしているのである。役を演じることが、私たちの暮らし方なのである。私たちに与えられたポジションが、役を演じさせるのである。私たちは、その役に成りきって、つまり、そのポジションに浸りきって暮らしている。そのポジションに浸りきって、その役に成りきって演じているあり方を、自我と言う。言い換えれば、自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを自己として活動するあり方である。さて、ドラマや映画にも、必ず、俳優が登場し、その役になりきって、演技する。私たちも、いついかなる時でも、何らかの構造体に所属して、何らかのポジションを得て、その役を演じながら、暮らしている。しかし、俳優と私たちには、明確な違いがある。俳優は意識して、つまり、表層心理で、その役を演じている。しかし、私たちは、深層心理で、役を演じている。つまり、そのポジションの人間に成りきっているのである。だから、演じているのに気付いていない。意識して演じているのではなく、それになりきって演じているからである。つまり、そのポジションそのものなのである。俳優には、名優と大根役者がいる。名優とは、その役柄にはまり、演じているように感じられない人のことを言う。大根役者とは、その役柄に成りきれず、わざとらしく演じているように感じられる人を言う。しかし、私たちには、名優も大根役者もいない。演技そのものが自己表現だからである。それが、すなわち、自我である。しかし、若い女性が、同じようなしぐさをしても、「かわいい」と言われる人と、「ぶりっこ」と言われる人がいる。「かわいい」と言われる人は、そのしぐさが演じているように見えない人であり、「ぶりっこ」と言われる人は、そのしぐさがいかにも演じているように見える人である。だから、「かわいい」と言われる人は名優であり、「ぶりっこ」と言われる人は大根役者である。しかし、どちらもかわいらしさを演じていることは同じである。しかし、「かわいい」と言われる人は、無意識的に、かわいらしさを演じているように見え、つまり、かわいい女性に成りきっているから、そのように言われ、「ぶりっこ」と言われる人は、意識的に、かわいらしさを演じているように見えるから、そのように言われるのである。しかし、どちらもかわいい女性に成ろうとしているのである。しかし、そばの人間は、そのしぐさが演じているように見えない人を「かわいい」と言い、そのしぐさが演じているように見える人を「ぶりっこ」と言うのである。ドラマや映画でも、女優が、かわいい女性を演ずることがある。観客から、「かわいい」と思われる人は名優であり、「ぶりっこ」と思われる人は大根役者である。もちろん、ドラマや映画は現実生活とは異なるから、女優は、意識的に、意志で、かわいい女性を演ずることになる。しかし、名優は、その世界に浸りきり、無意識的に、かわいい女性を演じることになる。つまり、かわいい女性になる。それは、言い換えれば、かわいい女性がその女優に憑依したのである。さて、かわいいとはどういう意味であろうか。辞書では、「小さくて美しい」と記されている。明確では無いのである。また、かわいいは、美しい、きれいだという言葉との意味の違いはどこにあるのだろうか。ある辞書には、かわいいは「小さくて美しい」、美しいは「整っていて、賞美すべきだ」、きれいだは「上品で美しい」と出ているが、これも、明確では無いのである。しかし、かわいい女性、美しい女性、きれいな女性の違いは、言葉にはできないが、たいていの人は理解している。それは、深層心理で理解しているからである。ウィトゲンシュタインが言うように、「言葉の意味を言えなくても、正しい使い方をしていれば、言葉の意味を知っていることを意味する。」ということなのである。それは、サッカーや野球を説明できなくても、観戦できたり、試合できたりすれば、サッカーや野球を知っているという意味と同じである。深層心理でサッカーや野球を知っているから、言葉では説明できないのである。深層心理とは、人間の無意識的な心の働きであり、瞬間的に思考する機能である。深層心理とは、何かに反応して、思考し、判断を下す。だから、深層心理は、「かわいい(女性)」と「ぶりっこ」を明確に説明できないが、実際に、若い女性のしぐさを見て、それに反応し、思考し、「かわいい(女性)」もしくは「ぶりっこ」と判断を下すのである。それは、構造体や(ポジションとしての)自我についても言えることである。機能すれば、正しい構造体であり、正しい自我のあり方をしているということなのである。さて、人間の最初の、そして、最も基本的な構造体が、家族である。家族という構造体の中で、それぞれが、父・母・息子・娘・祖父・祖母などの自我を持って、深層心理が、(無意識的に)、その役を演じている。もちろん、我が家族以外に、他の家族という構造体が存在する。そこで、私たちは、他の家族という構造体、他の家族という構造体の自我から、家族という構造体、家族という構造体の自我のあり方を学ぶのである。また、テレビ番組のホームドラマは、家族という構造体を模したものである。実際の家族を模して、ホームドラマが作られ、そして、ホームドラマが実際の家族の在り方に影響を与えている。ホームドラマは、家族の中に起こる問題を、いろいろな自我にさまざまな影響を与え、いろいろな自我がさまざまに関わり、それが、家族全体にどのように影響を与え、どのように変化し、どのように解決していったかを描いたドラマだからである。私たちは、ホームドラマからも、家族という構造体、家族という構造体の自我のあり方を学ぶのである。そして、家族という構造体は、血縁関係を基にした構造体である。だから、血縁関係の無い者が家族に加わると、拒否反応を示す自我が存在するのは当然のことである。子供を持つ女性が、よく、再婚したり、内縁関係になったりした男性を家族という構造体に入れるが、そこに悲劇が生ずるのは当然のことである。子供にとって、母の愛する人と言えども、血縁関係の無い、他人の大人の男性にしか過ぎないからである。他人の大人の男性が、自分に命令すると、子供は素直に従えないのである。子供は、息子や娘という自画を演ずる気にならないのである。そこで、プライドを傷付けられた大人の男性は、子供に暴力を振るったり、子供を殺したりするのである。しかも、女性は、母という自我を演じず、妻や恋人と愛人という自我を演じるから、子供は救われないのである。