あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛国心という自我の欲望をどうするか(自我その226)

2019-10-13 18:15:49 | 思想
世界中の人々は、誰しも、自分が属している国を愛している。愛国心を持っている。日本人は、自分が属している日本という国を愛している。また、誰しも、愛郷心を持っている。自分が生まれ育った場所、つまり、故郷を愛している。誰しも、自分の家族を愛している。自分の帰るべき家と温かく迎えてくれる人々を愛している。誰しも、愛社精神を持っている。自分の生活を支えてくれる会社を愛している。誰しも、愛校心を持っている。自分が学んだ場所を愛している。誰しも、恋人を愛している。自分を恋人として認めてくれている人を愛している。誰しも、友人を愛している。自分を友人として認めてくれる人を愛している。誰しも、宗教心を持っている。自らが帰依している宗教の共同社会、つまり、教団を愛している。このように、人間は自分の属している構造体を愛しているのである。なぜ、自分の属している構造体を愛するのか。それは、構造体が自らの存在を認めてくれるから、人間として行動できるからである。つまり、人間は、構造体あっての人間なのである。ハイデガーの世界-内-存在の用語を借りれば、人間は、構造体-内-存在として生きている。いや、生きるしかないのである。人間は、構造体に属し、構造体の人々にその自我が認められて初めて自分の存在を確認し、安心できる動物なのである。構造体とは、国、生まれ故郷、家族、会社、出身校、カップル、仲間などであり、自我とは、国民、郷人、父・母・息子・娘、在学生・卒業生。恋人、友人などである。人間の、構造体に属し、構造体の人々にその自我が認められ自分の存在を確認して、安心できる状態を、アイデンティティーと言う。辞書では、アイデンティティーという言葉を次のように説明している。「①人格における存在証明または同一性。ある人が一個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識をもち、それが他者や共同体からも認められていること。自己同一性。同一性。②ある人や組織がもっている、他者から区別される独自の性質や特徴。」しかし、一般には、アイデンティティーは、単に、「自己同一性」と翻訳されている。しかし、そのように訳すから、不明確になったり、誤って解釈されるのである。「他者や共同体から認められていること」と「他者から区別される独自の性質や特徴」が重要である。「他者や共同体から認められていること」が重要なのは、人間は単に構造体に属しているだけではアイデンティティーを得ることはできず、他者や構造体から存在を認められて初めてそれを得ることができ、安心して構造体の中で暮らしていけるからである。「他者から区別される独自の性質や特徴」が重要なのは、人間は、自らが属している構造体の中で、自らの役目・役割を認識し、それを果たすことによって、他者や構造体から、認められるからである。この「他者から区別される独自の性質や特徴」、すなわち、自らの役目・役割を自我という。つまり、人間は、自分が属している構造体と他の構造体を区別し、自らの自我と他者の自我を区別し、構造体の自我が認められることによって、アイデンティティーを得ているのである。換言すると、アイデンティティを得るには、自我に対して他者から承認と評価を得ることを必要とし、自我が属している構造体を際立たせるためには、他の構造体に打ち勝つことが必要なのである。そこに、アイデンティティーを求める者・確立した者の悲喜劇があるのである。さて、テレビ番組で、愛国心の有無、強弱に関して解説する人がいる。自分が日本に対して強いの愛国心を持っているのに、他の人は薄いと批判するためである。しかし、それは全く無意味である。日本人ならば、誰でも、愛国心を持っているからである。確かに、日本が嫌いだという人も稀れには存在する。しかし、それは、自分の理想とする日本と現在の日本が違っていると思うからであり、決して、愛国心を失ったわけではない。しかも、愛国心は、日本人だけでなく、全世界の人々が持っている。なぜならば、愛国心とは、国民という自我を形成しているからである。国民という自我があるから、世界が国に分離された中で、国を形成しているの一員として活動できるのである。愛郷心、家族愛、愛社精神、愛校心、恋愛、友情、信仰宗教も、愛国心と同じように、自我を形成しているのである。また、「俺は、誰よりも、日本を愛している。」と叫び、中国や北朝鮮や韓国などに対して対抗心を燃やす男性が数多く存在する。そして、自分の考えや行動に同調しない人を売国奴、非国民、反日だなどと言って非難する。辞書には、売国奴を「敵国と通じて国を裏切るものをののしっていう語。」非国民を「国民としての義務を守らない者」、反日を「日本に反対すること。日本や日本人に反感をもつこと。」と記されている。つまり、売国奴、非国民、反日のいずれも、日本に対して自分の愛し方だけが正しいと思い込んでいる人たちが生み出した言葉なのである。この人たちは、日本人ならば日本に対して愛国心を持っていることを知らないのである。また、憂国という言葉もある。辞書には、憂国を「国家の現状や将来を憂え案ずること。国家の安危を心配すること。」と記されている。しかも、憂国の士という言葉さえ存在する。しかし、日本人ならば、誰しも、理想の日本の国家像があり、現在の日本がその国家像にそぐわないように思えれば、憂国の念を抱くのである。それ故に、憂国の念を抱く人を特に特別視し、憂国の士と呼ぶ必要はないのである。更に、「国家の現状や将来を憂え案ずること。国家の安危を心配すること。」とあるが、現在の日本の国家の捉え方も、個人差があり、自らの捉え方を絶対視できないはずである。ところが、傲慢にも、憂国の士を自認する者は、自らが持っている理想の日本の国家像は誰にも通用するものだと思い込み、自分だけが日本の現状や将来を憂え案じていると思い込んでいる。そして、自らと異なった理想の日本の国家像を持っている者たちや自らと異なった日本の現状のとらえ方をしている者たちを、売国奴、非国民、反日などと言って非難するのである。幼稚である。もちろん、中国の人々や北朝鮮の人々や韓国に人々にも、愛国心はある。特に、近代において、自国が日本に侵略された屈辱感がまだ過去のものとなっていないから、日本人に侵略・占領の過去を反省する心を失ったり、正当化するような態度が見えると、愛国心が燃え上がるのである。中国において、愛国無罪を叫んで、日本の企業を襲撃するような人たちも、歪んでいるが、憂国の士である。さて、日本の憂国の士と中国の憂国の士、日本の憂国の士と北朝鮮の憂国の士、日本の憂国の士と韓国の憂国の士が一堂に会するとどうなるであろうか。互いに自分の言い分を言い、相手の主張を聞かないであろう。挙句の果てには、殴り合いが始まるか、最悪の場合、それが高じて、戦争に発展することもあるだろう。このように、愛国心が高じると危機的な状況を招くのである。だから、愛国心とは、一般に言われているような、手放しに、評価すべきものではないのである。しかし、国が存在する限り、国民が存在し、国民は必ず愛国心を有する。愛国心を持てない国民は悲劇である。国が存在しない国民、国にプライドを持てない国民は、悲劇である。国のことを考えると、精神状態が不安定になるからである。それは、家に帰っても、家族の誰からも相手にされない父親と同じ気持ちである。自らが日本人であることにアイデンティティーを持っているから、理想の日本の国家像を描き、現在の日本を批判し、将来の日本を憂えるのである。それが、日本人としての自我のあり方である。それは、中国の人々、北朝鮮の人々、韓国の人々も同様である。そのことに思いを致すことなく、日本人としての自我を強く主張すれば、中国、北朝鮮、韓国と対峙するしかないのである。ヘイトスピーチをして、中国国籍の人、韓国国籍の人、北朝鮮国籍を日本国内から追い出そうとする人たちは、極端に日本人としての自我に強い人たちである。大勢の日本人とヘイトスピーチをすることによって、日本人のアイデンティティーを確認し合っているのである。彼らは、自らの行為を愛国心の発露だとしている。彼らは日本を純粋に愛しているからこのような行為をするのだと言っている。彼らは、彼らの行為に反対する日本人を、売国奴、非国民、反日だと非難する。しかし、なぜ、日本を愛すのだろうか。その答えは一つしかない。自分が日本という国に所属しているからである。自分に日本人という自我が与えられているから日本という構造体を愛しているのである。ただ、それだけのことなのである。それは、県出身者という自我を与えられているからその県という構造体を愛し、長男という自我が与えられているから家族という構造体を愛し、社員という自我を与えられているから会社という構造体を愛し、大学の出身者という自我があるからだからその大学を愛し、カップルという構造体になってくれているから恋人を愛し続け、友人になってくれているから仲間という構造体を愛するのと同様である。人間を保証するものは、構造体と自我なのである。このように、日本人は、日本人という自我を与えらえているから、日本を愛しているのである。それ故に、愛国心は国を愛しているように見えるが、真実は、自分を愛しているのである。それに気づかないので、愛国無罪のような罪を犯すのである。それは、また、愛郷心、家族愛、愛社精神、愛校心、恋愛、友情、宗教心も同様である。真実は、自分を愛しているのである。しかし、愛国心とは、畢竟、自分を愛していることだと認めることは、決して、愛国心の終わりではない。愛国心の始まりである。ところで、精神分析の用語に、エディプス・コンプレックスがある。エディプス・コンプレックスについて、辞書には、次のように説明されている。「父に代わって母と性的関係を結ぼうとする無意識の欲望から生ずる観念の複合体。父への殺意と母への恋慕という感情的側面と、人間が過去の文化的遺産を引き継ぐための図式という構造的側面がある。このコンプレックスの感情的側面は、しばしば人間主体の社会的成熟と結びつけられる。母への性的欲望はまず父によって持たれたものであるから、このコンプレックスにおいて主体は父の欲望を模倣することになり、その結果彼の欲望は規範化される。また欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出すことにより、主体は自ら父親になると同時に、交換という社会的システムの中に導入されることになる。」エディプス・コンプレックスを最初に唱えたのはフロイトだが、フロイトは母に育てられた男子は必ずこのような経験を持つと説いている。エディプスの欲望とは、男児の欲望だが、それは、「父に代わって母と性的関係を結ぼうとする無意識の欲望から生ずる観念の複合体」であるから、当然、父も許さず、社会も許さない。それを許すと、家族関係が破綻し、社会の秩序が乱れるからである。男児は、自らの欲望を抑圧し、「欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出すことにより、主体は自ら父親になると同時に、交換という社会的システムの中に導入されることになる」のである。エディプス・コンプレックスとは、男児という幼児が自らの欲望を抑圧して、大人の男性として社会に出ていくための過渡期にあるものである。愛国心もまた幼児の欲望ということができる。日本人は、日本という国に育っていくので、必ず、愛国心を抱くのである。男子は、自分の存在を保証してくれので、母を愛すのである。日本人は、日本人という自らの存在を保証してくれるので、日本という国を愛すのである。しかし、「母への性的欲望はまず父によって持たれたものであるから」、父の権威が壁になり、男子はその思いは断念せざるを得なくなる。そして、男子は、「欲望の対象である母に代えて」、「母と同価値を持つ性的対象を見出すことに」になるのである。このように、父親と社会が男子の欲望の暴走を止めるのである。男子の暴走を止めなければ、家族関係、社会体系が不都合状況に陥る。それでは、愛国心を強く抱いている人の暴走を止めるのは何であろうか。子供は無垢な存在だと誤解している人でも、男子の母親に対する欲望を許さない。それと同様に、愛国心は国に対する純粋な思いだと誤解しても、愛国無罪という犯罪を許すべきではないのである。男児の欲望が「欲望の対象である母に代えて、やがて母と同価値を持つ性的対象を見出す」ようになるように、愛国心もまたむき出しの行為ではなく、ワールドカップやオリンピックなどで日本を応援すれば良いのである。愛国心もまた幼児の欲望なのである。それ故に、男児の欲望も愛国心も恥ずべき心情なのである。むき出しにしてはならないのである。むき出しにしたいからこそ、むき出しにしてはならないのである。それは、アイデンティティーを基本とした心情だからである。アイデンティティーとは、各々の共同体(構造体)において、「他者や共同体からも認められていること」や「他者から区別される独自の性質や特徴」を自認した時に生まれるものであり、それを他の人に発露することは、他の人に対する挑戦となるからである。誰しもが、アイデンティティを持つと、それを発露したくなる。それ故に、それを実践すると争いになるのである。それ故に、大人は、発露したいという幼児の心情を恥として、抑圧するのである。それは、愛郷心、家族愛、愛社精神、愛校心、恋愛、友情、宗教心でも同様である。故郷、家族、会社、学校、恋人、友人、教祖にアイデンティティを得れば、だれでも発露したくなる。しかし、それを発露することは、他の人も抑圧していたアイデンティティーを発露し、争いになるのである。それ故に、愛国心を発露させてはならないのである。つまり、愛国心の発露は幼児の行為なのである。子供は正直だと言う。それと、同様に、愛国心の発露も正直な心情の吐露である。しかし、それは、後先を考えない、幼児の行為である。日本の愛国主義者と中国の愛国主義者の争い、日本の愛国主義者と北朝鮮の愛国主義者の争い、日本の愛国主義者と韓国の愛国主義者の争いは、幼児の争いである。幼児の悪行は大人が止めなければいけない。しかし、日本、中国、北朝鮮、韓国の最高指導者は、それを止めるどころか、むしろ、たきつけている。彼らは、それを利用して、国民からの自らの支持を高めようとするのである。それ故に、愛国心による批判合戦は収まる気配は一向になく、むしろ拡大している。それ故に、為政者を変えない限り、おさまらないだろう。