あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は、情態性から始まり、情態性を追い求めて終わる。(自我その225)

2019-10-09 17:44:32 | 思想
人間は、褒められると喜び、貶されると心が傷付く。自分はきれいな部類に属していると思っている女性も、小学生にしろ、「あんまり可愛くない。」と言われると、心が落ち込んでしまう。逆に、自分は不美人の部類に属していると思っている女性も、小学生にしろ、「可愛い。」と言われると、心が舞い上がってしまう。また、自分は格好良い部類に属していると思っている男性も、小学生にしろ、「あんまり格好良くない。」と言われると、心が落ち込んでしまう。逆に、自分は醜男の部類に属していると思っている男性も、小学生にしろ、「格好良い。」と言われると、心が舞い上がってしまう。人間とは、他者の評価の虜なのである。他者の評価は、人間の心の奥深くまで、影響し、精神疾患の原因になる。精神疾患は、他者の評価が低かったり、他者の評価が低くなる虞がある時に起こる。その精神疾患の典型的なものは、鬱病である。鬱病に罹患すると、気分が落ち込む、気がめいる、もの悲しくなるといった抑鬱気分に陥る。あらゆることへの関心や興味が無くなり、何をするにも億劫になる。知的活動能力が減退し、家事や仕事も進まなくなる。抑鬱気分が強くなると、死にたいと考えたり(自殺念慮)、自殺を図ったりする(自殺企図)。さらに、睡眠障害、全身のだるさ、食欲不振、頭痛などといった身体症状も現れる。鬱病の原因や発症のきっかけとして最も多いのは、ストレスである。(学校での)成績不振、仲間内のトラブル、(会社での)転勤や退職、(家庭での)離婚、子供の死亡などがストレスとなり、鬱病を引き起こすのである。しかし、ストレスがたまったから、心のバランスが崩れて、鬱病に罹患するのではない。深層心理(人間の無意識の心の働き)が、自らを鬱病に罹患させ、抑鬱気分に陥ることのよって、(学校での)成績不振、仲間内のトラブル、(会社での)転勤や退職、(家庭での)離婚、子供の死亡などの辛い現実から、目を背けようとしているのである。つまり、鬱病とは、辛い現実から逃れる方策なのである。精神疾患は、いろいろなものが存在するが、辛い現実から逃れる方策であることにおいては一致している。。(学校での)成績不振は、学校という構造体で生徒という自我が低く評価されること、(会社での)転勤は、会社という構造体で社員という自我が低く評価されることの虞が、鬱病の原因になっている。(学校での)仲間内のトラブルは、仲間という構造体から追い出され、友人という自我を失うことの虞が、鬱病の原因になっている。(会社での)退職は、会社という構造体から追い出され、社員という自我を失ったことが、鬱病の原因になっている。(家庭での)離婚は、家族という構造体から追い出され、父(母)という自我を失ったことが、鬱病の原因になっている。(家庭での)子供の死亡は、家族という構造体が傷付けられ、父(母)という自我も傷付けられたことが、鬱病の原因になっている。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きている、自分のあり方である。人間は、社会的な動物であるから、いつ、いかなる時でも、常に、人間の組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、それを自我として、その務めを果たすように生きていかざるを得ないのである。さて、構造体にも、自我にも、さまざまなものがあるが、先に挙げたものについて、次のようになる。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我がある。その他、日本という構造体には、日本人という自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我がある。そして、自我を動かすのは、その人の深層心理である。深層心理とは、人間の無意識の心の働きである。深層心理が、自我を主体に、言語を使って、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その人を動かそうとするのである。深層心理は、快楽を得ることを目的にして、自我の欲望を生み出しているのである。それが、フロイトの言う「快感原則」である。深層心理は、自我を主体にして、快楽を得るために、対他化・対自化・共感化の機能を使い、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。それでは、対他化とは何か。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。好かれたい、愛されたい、認められたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られるからである。逆に、他者から、低く評価されたり、嫌われたり、憎まれたり、無視されたり、そのような虞があると、心が落ち込み、ストレスを感じるのである。先に挙げた、鬱病の原因になった、(学校での)成績不振は、学校という構造体で生徒という自我が低く評価されること、(会社での)転勤は、会社という構造体で社員という自我が低く評価されることの虞は、深層心理の自我の対他化から起こるのである。次に、対自化とは何か。対自化とは、自我が他者を思うように動かすこと、自我が他者の心を支配すること、自我が他者たちのリーダーとなることである。つまり、自我の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者に対応し、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いから他者を見ることである。自我が、他者を思うように動かすこと、他者の心を支配すること、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。わがままに生きるとは、深層心理の自我の対自化による行動である。次に、共感化とは何か。共感化とは、自我と他者が心の交流をすること、愛し合うこと、友情を育みこと、協力し合うことである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。そして、深層心理は、自我が存続・発展するために、さらに、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。先に挙げた、鬱病の原因になった、(会社での)退職は、会社という構造体から追い出され、社員という自我を失ったから、(家庭での)離婚は、家族という構造体から追い出され、父(母)という自我を失ったから、(家庭での)子供の死亡は、家族という構造体が傷付けられ、父(母)という自我も傷付けられたからである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。このように、人間は、まず、自ら意識せずに、深層心理が、まず、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を、心の中に、生み出すのである。そして、次に、表層心理が、深層心理の結果を受けて、それを意識し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を許諾するか拒否するかを思考するのである。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動である。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。表層心理の意識した思考が理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出したものだから、瞬間的に湧き上がるのである。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。このように、人間は、深層心理がまず思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理は、それを受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の諾否を思考し、許諾の結論が出れば、そのまま行動し、拒否の結論が出れば、行動の指令を抑圧するのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。これが、フロイトの言う「現実原則」である。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。表層心理(理性)の思考は、深層心理の思考の結果を受けてのものなのである。さて、ハイデッガーは、「人間は、常に、何らかの感情や気分の中にあり、それが、自分の外の状態を知らしめ、自分の内の状態を知らしめるとともに、自分の存在を認識させるのである。」と言う。感情とは、深層心理がもたらした、すぐに、一つの行動を起こすための心理状態である。気分とは、深層心理の中にある、長期の、一連の、継続した行動を起こすための心理状態である。つまり、感情も気分も、深層心理が引き起こした、行動を起こすための心理状態なのである。さて、人間が常に何らかの感情や気分の中にあるということは、人間は常に何らかの情態性にあるということである。情態性は、単なる心の状態ではない。人間は、情態性にあるから、それに応じて、いろいろな事象が認識でき、自分の状態が認識でき、自分の存在が認識でき、そして、行動を起こすことができるのである。逆に言えば、人間に情態性が無ければ、いろいろな事象も、自分の状態も、自分の存在も無味乾燥になり、何も認識できず、行動を起こすこともできないだろう。情態性が、人間と人間の外なる現象を結びつけ、人間と人間の内なる現象を結びつけ、人間とその人の存在を結びつけ、行動を起こさせるのである。つまり、感情や気分が、人間の認識の起因であり、行動の起因なのである。つまり、感情や気分が無ければ、人間は、自己の外の現象も自己の内の現象も自己そのものの存在も認識できず、行動できないのである。さて、新約聖書「マタイ伝」に、「人はパンのみにて生くるものに非ず」(人は物質的満足を得るために生きるものではなく、精神生活が大切である。)という言葉がある。人間は、「物質的満足を得る」ことができれば、次に、「精神生活を大切」にせよという意味である。フロイトの言葉を借りれば、「現実原則」がかなえば「快感原則」に向かえという意味である。つまり、「物質的満足を得る」ことと「精神生活を大切」にすること、「現実原則」をかなえ後で「快感原則」に向かうということ、それは、すなわち、幸福を求めることなのである。幸福とは、心が満ち足りていること、すなわち、感情(気分)なのである。つまり、幸福とは、深層心理の感情や気分が、満ち足りているということなのである。つまり、人間とは、深層心理の感情や気分という情態性から始まり、深層心理の感情や気分という情態性を追い求めて終わるのである。