あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

悪なる心について(自我その229)

2019-10-16 17:31:11 | 思想
テレビ画面で、よく、警察に逮捕され、パトカーに乗せられる犯罪者、パトカーに乗せられた犯罪者が映し出される。ある者はフードをかぶり、ある者は顔をうつむけ、悄然として、そして、茫然として、マスコミのカメラの前にいる。確かに、罪を犯した者は、償わなければならない。しかし、罪という言葉には、自分の行動は全て自分の意志から発し、人間は意識的に行動しているという意味が含まれている。しかし、それは誤解である。なぜならば、まず、人間の心の中に生まれて来る感情、そして、その感情に伴った行動は、自分の意志ではないからである。言わば、自分の意志と関わりなく、無意識の中で、生まれて来るのである。例えば、男性によくあることだが、ある人の言動に対して心が傷付き、怒りを覚え、殴ってやりたいという思いが湧いてくる。しかし、その傷心・怒りの感情も殴ってやりたいという思いも、自分の意志ではない。自分の心の中で生まれたものであるが、自分の意志によって生み出したものではない。深層心理が、人間の無意識の中で、心が傷付き、その傷付いた心を復興させるために怒りの感情とともに殴れという行動の指令を生み出したのである。しかし、大抵の人は、殴った後のことを考えて、自分の意志で、殴れという行動の指令を抑圧し、殴ることをやめる。それが、表層心理の働きである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強ければ、表層心理による意志の抑圧が功を奏さず、深層心理が出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、殴ってしまうのである。殴ってしまえば、罪に問われなくても、相手から復讐され、周囲から顰蹙を買い、不利な状況に追い込まれる。殴った男性の表層心理は、殴った後の状況が予測できないわけではない。だから、深層心理が出した殴れという行動の指令を抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した怒りの感情が強いので、抑圧しきれないのである。もちろん、たとえ、深層心理が出した指令であろうとも、殴ったのは事実だから、その責めを負うのは当然のことである。しかし、犯罪を含めて、人間の行動は、自らの意志によって生み出されるのではなく、意志とは関わりの無いところで、行動の指令が出されているのである。だから、根っからの悪人は存在せず、確信犯は存在しないのである。つまり、人間の心の中には、無意識という、自分の意志や意識の入り込めない深層心理と自分の意志や意識の入り込める表層心理があり、常に、深層心理が、先に、思考して、感情とそれに伴った行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理が、それを受けて、意識して思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を思考するのである。表層心理が、深層心理が無意識の中で、生み出した感情の中で、意識して思考して、深層心理が、無意識の中で、出した行動の指令の採用を決断すれば、そのまま実行し、それが意志による行動となる。表層心理が、深層心理が生み出した感情の中で、意識して思考して、深層心理が出した行動の指令の不採用と決断すれば、意志によって、行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強ければ、表層心理の意志による抑圧は功を奏さず、深層心理が出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが悪行の場合、犯罪者になるのである。もちろん、悪行を犯す人は、自分が今行おうとしている行為が悪行だとわかっている。つまり、表層心理では、わかっている。しかし、深層心理が生み出した感情が強いので、表層心理の意志による抑圧が効かないのである。なぜならば、深層心理が、まず、無意識の中で、フロイトの言う「快感原則」で思考し、感情と行動の指令を生み出し、表層心理が、それを受けて、フロイトの言う「現実原則」で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について意識して思考するのだが、表層心理の結果に関わらず、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が出した行動の指令の通りに行動してしまうのである。「快感原則」とは、喜びや楽しさを得ることを求めて思考することである。「現実原則」とは、自分に利益をもたらすことを求めて思考することである。つまり、深層心理には、道徳観や現世利益観は存在しないのである。表層心理は、孤立しないように道徳を遵守し、利害得失を重視して、思考するのである。深層心理と表層心理の思考の方向性が異なっている上に、深層心理が感情を生み出しているところに、人間の悲喜劇、可能性が生じているのである。もちろん、犯罪は、犯罪者の責任であるが、その悪行は、表層心理の意志によるものではなく、深層心理が生み出したものであり、深層心理が生み出した強い感情に引きずられて行ったものなのである。人間には、自分の意志でできることとできないことがあるのである。人間には、責められるべきことと責められるべきではないことがあるのである。それは、「行為を責めて、人間を責めるな。」ということである。もちろん、悪行を責めることは、結果的には、悪行を犯した人を責めることになる。それで良いのである。悪行を犯したのはその人だからである。しかし、悪行を犯した人を責めることから始めると、その人は悪人だから悪行を犯したという結論になるのである。そこには、人間の心理構造の洞察が行われていないのである。だから、いたずらに、他者を責めたり、自分自身を責めたりするべきではないのである。なぜならば、いたずらに、他者を責めたり自分自身を責めたりする人は、人間は自分の感情も行動もコントロールできる動物だと誤解しているからである。人間は、自分ではコントロールできない、深層心理という、無意識の心の思考から始まるのである。深層心理は、「快感原則」の下で、自我を対他化、自我を対自化、自我を共感化して、思考するのである。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを自分として、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。だから、日本という構造体には、日本人という自我があり、家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・部長・課長・社員などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。深層心理が、自我を対他化するとは、人間は、常に、他者から、自我がどのように評価されているか気にしているあり方をしていることを意味している。深層心理が、自我を対自化するとは、人間は、他者を、自我の欲望に沿って、どのように扱い、どのように支配するかを考えることを意味している。「わがまま」とは、対自化の現れである。深層心理が、自我を共感化するとは、人間は、他者を、愛し合い、協力し合い、友情を深めようとすることである。カップルという構造体、仲間という構造体は、共感化の現れである。対他化、対自化、共感化の中で、深層心理が最も強く機能するのは、対他化である。深層心理は、多くの場合、自我を対他化することによって、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、人間は、常に、自我が他者からどのように評価されているか気にしてしながら生きているのである。正確に言えば、人間は、人の目を気にするのではなく、人の目が気になるのである。それほど、深層心理の対他化が、人間を牛耳っているのである。人間には、怒り、悲しみ、苦悩などの自分の心のバランスを崩す感情が生まれてくるが、これらは、深層心理が、自我を対他化することから生まれてくるのである。、他者から、叱り、批判、侮辱、無視、陰口、暴力などの悪評価・低評価を受けたからである。それは、言い換えれば、人間は、常に、自我が、他者から、人並みに、もしくは、人並み以上に見られたいという思いがあることが示している。この、自我が、他者からどのように見られているか、意識している姿が、人間の常のありようである。自我の他者の評価のありようが、自分のプライドの動向に影響する。怒り、悲しみ、苦悩ともに、自我が傷つけられ、プライドを失ったことから、自我を修復するための感情である。怒りは、ある構造体で、自我の能力を低く評価され、自我が傷つけられた時、自我を傷付けた者に対して復讐することによって、自我を復興させようとするのである。自我を下位に落とした他者を、復讐によって、より下位に落とすことによって、自我を上位にするのである。哀しみは、ある構造体で、自我の能力を低く評価され、自我が傷つけられた時、涙を流すことなどによって、傷付いた自我を癒やそうとするのである。まさしく、涙によって心の傷を洗うのである。苦悩は、ある構造体で、自我の能力を低く評価され、自我が傷つけられた時、それを修復するのに良い方法が思いつかず、絶望に陥った時である。苦悩は、誰にでも、訪れる感情である。中には、絶えることなく訪れ、それが高じて、うつ病になり、挙句の果てに、自殺する人まで存在する。人間の苦悩の原因は、大体において、精神的なものである。肉体的なものは、苦悩ではなく、苦痛である。苦悩が、人間を精神的にどん底に突き落とすのである。うつ病になったり、自殺したりする人は、肉体的な苦痛よりも、精神的な苦悩が原因であることが多いのである。確かに、人間世界には、悪なる行為は存在する。しかし、人間の精神には、悪なる心は存在しない。それは、怒り、哀しみ、苦悩と同じように、精神現象の一つにしか過ぎない。、