あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自己責任という虚言について(自我その228)

2019-10-15 14:55:36 | 思想
マスコミは、よく、自己責任という言葉を使う。そして、それは、決まって、政府の意向を無視して活動をしているNGOの職員やフリーの記者やカメラマンに対して向けられる。日本政府が危険地域や危険な国だと指定したのに、危険を冒してまで活動していたり潜入したりして逮捕された者は、税金を使って、政府が助け出すのに及ばないという論理を形成する時に、決まって、自己責任という言葉を使う。政府は、彼らを助ける気が無いのだから、そのようなマスコミは大助かりである。産経新聞、読売新聞などの御用新聞だけでなく、週刊文春、週刊新潮、週刊ポストなどの弱者いじめの三文週刊誌などがこぞって、自己責任という言葉を使う。そして、自民党支持の右翼的な考えを持っている者たちは、それに同調する。しかし、どのような思想を抱いている者であろうと、どのような活動をしている者であろうと、他国で、不法に拘禁されたら、日本政府には、日本人を助け出す義務がある。なぜならば、日本国という構造体は、日本人という自我を持っている者たちで形成されているからである。日本政府の意向を無視したというだけで、悪事を犯してもいないのに、不法に拘束されている日本人を救いの手を差し伸べようとしないならば、日本国という構造体の存在意味は無い。しかし、稀れに、不当に拘禁されていたNGOの職員やフリーの記者やカメラマンが助け出され、帰国すると、悄然として、茫然として、マスコミのカメラの前を歩いている(歩かされている)。そして、記者会見で、悪事を犯した者が帰国したように扱われる。確かに、助け出すには、政府の裏方の努力があっただろう、大金の税金も投入されただろう。しかし、不当に、不法に、拘禁されていた日本人を救出するためには、それらのことがあって、当然のことである。それが、民主主義国家という構造体の最大の存在意味である。日本国という構造体は、日本人という自我も持った人たちによって形成されている。それは、家族という構造体が、父・母・息子・娘などの自我を持った人たちによって、形成されているのと同じである。構造体のために、自我があるのではない。自我のために構造体が存在するのである。戦前の日本は、日本国という構造体のために、日本人が存在していた。だから、太平洋戦争などで、若者を中心に、無駄な死に追いやられた。しかし、戦後の民主主義国家としての日本は、日本人という自我のために、日本という構造体が存在するのである。それが、民主主義国家の宿命である。それは、厳として、動かすことのできない真理である。しかし、自民党議員、自民党支持の右翼的な考えを持つ者はもちろんのこと、マスコミ、自民党を積極的に支持していない国民の中にも、国家主義的な考えを持っている者が存在していることである。国家主義とは、日本国という構造体のために日本人が存在するとする考えである。自民党議員、自民党支持の右翼的な考えを持つ者、産経新聞や読売新聞などの似非マスコミの御用新聞、週刊文春、週刊新潮、週刊ポストなどの弱者いじめの三文週刊誌などは、根っからの国家主義者、根っからの国家主義者の巣窟だから、そのように考えても不思議はない。しかし、他のマスコミや自民党を積極的に支持していない国民の中にも、国家主義的な考えを持っている者が存在していることである。国家主義者や国家主義的な考えを持っている者は、個人の権利や個人の主張を認めず、日本人という自我を持った者たちの個人の活動を認めない。だから、日本では、個人の権利を主張する労働組合はごく稀れにしか存在しない。現存する日本の大手の労働組合は、体制迎合の国家主義的労働組合である。なぜ、日本人は、自民党議員、自民党支持の右翼的な考えを持つ者、御用新聞、三文週刊誌だけでなく、多くの者は、個人の権利や個人の主張を認めず、日本人という自我を持った者たちの個人の活動を認めないのであろうか。それは、日本人の多くは、ニーチェの言う「ルサンチマン」(弱者が強者に対する憎悪や復讐心を鬱積させていること)に囚われているからである。「ルサンチマン」とは、簡単に言えば、嫉妬心である。日本人の多くは、個人の権利を唱える者や個人の主張をする者や日本人という自我を持って個人的に活動している者に対して「ルサンチマン」という嫉妬心を抱いているから、小さなミスを取り上げて、大きく指弾するのである。多くの日本人が、「ルサンチマンという」という嫉妬心を抱いているから、自らの異常性に気付かないのである。