あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

存在が重く感じられることについて(自我その128)

2019-06-11 21:32:22 | 思想
存在の重さには、二つの意味がある。一つは、自分の存在の重要性である。自分の存在をいとおしく思うことである。もう一つは、存在していることの圧迫感である。自分が存在していることが堪えられないように思うことである。まず、前者の意味での存在の重さについて説明することにする。人間の存在の重さ、つまり、存在の重要性は測りようがない。言うまでもなく、自分が存在しているからこそ、生きていけるからである。しかし、皮肉にも、人間は、自分の存在の重さを考えるのは、自分の存在が軽んじられた時なのである。人間は、対他存在として、常に、他者からの好評価・高評価を求めて生きている。しかし、時として、無視されたり、侮辱されたり、馬鹿にされたりする。そんな時、心が深く傷付き、怒りに震えたり、恥ずかしさに堪えられなくなったり、悲しみに暮れたり、居たたまれない気持ちになったりする。その時、初めて、自分が自らの存在の重さにこだわり、それを保証するものとして、他者からの好評価・高評価を求めていることに気付くのである。つまり、人間は、常に、対他存在の生き物であり、社会的な存在者だということである。しかし、その人の存在の重さは、その人自身、そして、その人と家族、仲間、カップル、クラス、クラブ、会社などの構造体を形成している人にしか感じることができない。同じ構造体に生活し、それぞれの人が、父・母・息子・娘、友人、恋人、クラスメート、部員、社長・課長・社員などのステータス(ポジション)を自我として持って活動しているから、人間関係が生まれ、自分の存在を感じ取るとともに他者の存在を感じ取ることができるのである。つまり、存在に重さがあるのは、ある構造体の中で、自分が自我として持っているステータス(ポジション)の働きが、他者から評価され、存在性を認められた時なのである。構造外の人とは、自我を持つことも無く、人間関係も無く、存在性も感じないのである。なぜならば、関わりが無いから、感じようが無いのである。しかし、それは、当然のことである。誰しも、同じ構造体にいる人だけが自分の存在を保証し、同じ構造体の中にいる人との関係を処理することだけで精一杯であり、構造体に属さない人の存在にかかずらう余裕が無いばかりか、関わり方がわからず、また、それ自体が存在しないからである。家族、仲間、カップル、クラス、クラブ、会社などの構造体を共に形成する他者の存在には気を遣うのも、彼らの存在があるからこそ、自らが存在できるのである。しかし、人は、常に、家族、仲間、カップル、クラス、クラブ、会社などの構造体から追放される可能性もある。だから、自分の存在の重さを普遍的に感じるのは、その自身のみである。次に、後者の意味での存在の重さについて説明することにする。人間は、存在が、堪えられないほど、重く感じられる時がある。自分が存在していることが堪えられないように思う時がある。深層心理から、自分の存在している意味を問う、形而上的な問いが圧迫感をもって押し寄せ、それに答えられない限り、存在の重さから解放しないという問いかけが来る。そこに、思考が始まる。しかし、そもそも、人間は、自分で自分を創造したのではない。気が付いた時には、そこに存在していたのである。誰が、何が、何のために、その人を誕生させたのかわからない。母親も、どんな子が生まれてくるのかわからない。母親にとって、どんな子であろうと、生まれてきた子が我が子であるという意味しか持っていない。母親が、子供が無事に生まれて喜ぶのは、自分が母親に成れたという実感である。母親としての役目を果たしたからである。だから、我が子が可愛いのである。しかし、この可愛いという言葉は、「可愛い女の子。」、「可愛い人形。」、「可愛い猫。」などと表現するように、何に対しても使われ、普遍的である。つまり、我が子に対する気持ちだけに使われるのではない。だから、どのようなものに対しても、気持ちが変わることがあるように、可愛いと思っていたものが憎たらしく思うことがあるように、我が子に対する気持ちも変わることがあるのである。心理学に、「人は自己の欲望を他者に投影させる。」という言葉があるように、人は、他者を自分の思い通りに動かし、自分の思うように考えさせ、自分を思うように(自分を好きになるように)させようとする。そして、自分の思い通りになる他者を好み、自分の思い通りにならない他者を嫌う。しかし、賢明な人は、一旦は、自分の思い通りにならない他者を嫌っても、好きになるようにさせる方策を考える。しかし、愚かな人は、自分の思い通りにならない他者を嫌って、嫌がらせをしたり、復讐したりする。母親でも、同じである。自分の思い通りになる子を好み、自分の思い通りにならない子を嫌う。しかし、賢明な母親は、一旦は、自分の思い通りにならない子を嫌っても、好きになるように方策を考える。愚かな母親は、自分の思い通りにならない子を嫌って、嫌がらせをしたり、復讐したりする。それが、現在、頻繁に起こっている、母親による子への虐待、殺人である。愚かな父親も同じである。自分の思い通りにならない子を嫌って、嫌がらせや復讐に向かい、虐待し、殺人にまで及ぶことがあるのである。かてて加えて、そこに、同居する、交際相手の男性が犯罪に絡んでくることが多いのは、当然のことである。交際相手の男性は、母親が好きでも、母親の子が好きとは限らない。赤の他人と同じである。特に、若い男性は、ロリータとして対象になるような少女は好きではあるが、幼児や乳児は世話が面倒な上によく泣くので、いらいらを募らせ、虐待や殺人まで行ってしまうのである。母親は、交際相手の男性が自分の子を虐待しても、それを止めるのではなく、その男性の愛情を引き留めるために、自ら、虐待に加担するのである。母子家庭の母親が、「子供の父親になってもらうために再婚相手を探している。」と言うのは嘘である。そのような偽善を言っているから、安易に交際相手を家に入れたり、子との相性を考えずに再婚したりして、悲劇、惨劇を生み出すのである。交際相手や再婚相手にとって、母親の我が子は我が子ではなく、赤の他人であることを認識して、母親は、交際相手や再婚相手を吟味すべきなのである。そもそも、人間には、母性愛は存在しない。他の動物は、母性愛は存在する。他の動物の母親は、理屈抜きで、子を愛し、守ろうとする。人間の母親は、理屈で、子を愛する。人間の母親は、自分の思い通りになる子を愛する。しかし、それは、母性愛とは言えない。ところで、子にとっての母の存在は、ヤドカリにとってのヤドの存在と同じく、仮の存在にしか過ぎない。仮は借りに通じている。だから、いつか、返さなくてはいけない時がやって来る。それでは、その時とは、いつであろうか。それは、母の全能者としてのイメージが崩れた時である。子は、母親を万能の存在者として信頼して育つ。しかし、ある時、母に落胆し、その能力は、他の人と同じ程度のものだと気付く。その時、子は、母のヤドを返し、自立し、人となる。しかし、人となるということは、自らの存在の重さを、自ら受け止めなくてはいけないということなのである。人間は、人となると、時として、存在の重さに襲われる。存在が重く感じる時があるのだ。それでは、その時とは、どんな時であろうか。それは、ある構造体の中で、自らの自我が傷付けられた時である。先に述べたように、人間は、いついかなる時でも、家族、仲間、カップル、クラス、クラブ、会社などの構造体に属し、父・母・息子・娘、友人、恋人、クラスメート、部員、社長・課長・社員などのステータス(ポジション)を自我として持って、他者から好評価・高評価を得ようとして活動している。しかし、時として、無視されたり、侮辱されたり、馬鹿にされたりする。そんな時、心が深く傷付き、怒りに震えたり、恥ずかしさに堪えられなくなったり、悲しみに暮れたり、居たたまれない気持ちになったりする。その時、「自分とは、何か。」、「自分は、何のために生きているのか。」、「自分に、生きる意味や価値があるのだろうか。」などの自分の存在に対する形而上的な問いに襲われ、それが、「人間とは、何か。」、「人間は、何のために生きているのか。」、「人間に、生きる意味や価値があるのだろうか。」などという普遍的な形而上的な問いにまで辿り着くことがあるのである。それでは、何が何を襲うのだろうか。深層心理が表層心理を襲うのである。深層心理が、表層心理に、意識して、この形而上的な問いを考えろと命令するのである。表層心理は、深い傷心、怒り、恥ずかしさ、悲しみ、居たたまれない気持ちの中で、これらの気持ちから逃れるために、これらの形而上的な重い問いを考え抜こうとするのである。これが、後者の意味での存在の重さを感じ取るということである。自分が存在していることの圧迫感や自分が存在していることが堪えられないような思いの中で、「自分とは、何か。」、「自分は、何のために生きているのか。」、「自分に、生きる意味や価値があるのだろうか。」、「人間とは、何か。」、「人間は、何のために生きているのか。」、「人間に、生きる意味や価値があるのだろうか。」などの形而上的な問いを考え抜こうとするのである。中には、自分探しの旅に出る者もいる。しかし、たいていの場合、思考に入る前に、若しくは、思考の途中で、自我が傷付けられた構造体で、自我を褒められると、存在の重さは雲散霧消し、形而上的な問いを考えることをやめるのである。例えば、家族という構造体で、父親に、息子が叱られ、自我が傷付けられても、母親が慰めてくれたならば、存在の重さは雲散霧消し、形而上的な問いを考えることをやめるのである。会社という構造体で、部長に、社員が叱られ、自我が傷付けられても、課長が慰めてくれたならば、存在の重さは雲散霧消し、形而上的な問いを考えることをやめるのである。なぜならば、存在の重さを感じるようになり、深い形而上的な思いをするようになった原因は、単に、自我に傷付けられたことだからである。しかし、哲学者、心理学者、思想家などは、自我の慰めを受け入れず、重い存在を受け止めつつ、これらの形而上的な問いを考え抜こうとするのである。


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