あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

理性について(自我その130)

2019-06-13 18:52:22 | 思想
理性について、辞書では、「概念的思考の能力。実践的には感性的欲求に左右されず、思慮的に行動する能力。古来、人間と動物とを区別するものとされた。本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。」と説明されている。デカルトは、「方法序説」の冒頭の文で、次のように述べている。「良識はこの世で最も公平に配分されているものである。正しく判断し、真を偽と区別する能力、それはまさしく良識または理性と呼ばれているものであるが、これは生まれつき、全ての人に平等である。」しかし、理性を備えているからと言って喜んではいけない。「良い精神を備えているだけでは不十分である。大切なことはそれを正しく適用することである。」と述べ、適用法の重要性を述べている。そして、「私の企ては、誰もが自分の理性を正しく導くために従うべき方法をここで教えることではなく、ただ、いかなる仕方で私がこれまで自分の理性を導こうと努めてきたかを示すことに過ぎないのだ。」と述べ、各人が、デカルトのやり方を参考にして、自分の理性の使用法を磨いていけば良いと言っている。デカルトの姿勢は良い。「方法序説」だけでなく、「第一哲学ついての考察」、「哲学原理」、「情念論」などのデカルトの著書は、自分の理性を磨こうと努力してきた(「自分の理性を導こうと努めてきた」)具体的な道程を読者に示すことによって、読者の理性的な心情を高めようとする狙いであることがわかる。それは、「我思う、故に我在り」という言葉で、理性が正しく考え、論証したものが真理であると、理性を高らかに歌いあげていることからも、理性を最重要視していることが理解できる。しかし、辞書の説明にしろ、デカルトの深い思いにしろ、理性の重要性を説いてはいるが、理性の志向性や理性を動かすものについて、触れていない。両者とも、理性が自立しているように考えている。そうではなく、理性は、志向性と動かすものがあって、初めて働くのである。それでは、理性の志向性とは何か。それは、方向性である。対象に向かう方向性があって、それに基づいて、理性は対象を捉え、分析し、理解するのである。理性の志向性(方向性)を、クーンはパラダイムと名付けた。パラダイムとは、一時代の支配的なものの見方や時代に共通の枠組みを意味する。理性は、その時代のパラダイムに基づいて、思考するのである。理性もまた、ラカンの言うように、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、他者のまねをするようになる)という自我の欲望の理論に基づき、その時代の支配的なものの見方やその時代に共通の枠組みの志向性(方向性)から、対象を捉え、分析し、理解するのである。だから、誰しも、独自の志向性(方向性)で、理性を働かせているわけではないのである。また、理性は、ひとりでに動くのではない。対象を支配したいという欲望と他者に認められたいという欲望、この二つの自我の欲望が理性を動かすのである。対象を支配したいという欲望は、「人は自己の欲望を対象に投影させる」(人間は、自分の見方で対象を捉え、支配しようとする)という自我の欲望から発している。他者に認められたいという欲望は、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、常に、他者から愛されたい、認められたい、高評価・好評価を得たいと思っている)という自我の欲望から発している。このように、理性は、決して、それ自体独立した、独自の、純粋な存在のあり方をしていないのである。理性は、対象を支配したい、他者の認められたいという欲望を力にして、パラダイムという、その時代の支配的なものの見方やその時代に共通の枠組みを志向性(方向性)にして、対象を捉え、分析し、理解するのである。アドルノは、「現代の理性は方向を誤り、アウシュビッツの悲劇を生み出した。」と述べ、ヒットラー率いるナチスが600万人ものユダヤ人を大虐殺した原因を理性に求めた。しかし、ユダヤ人の大虐殺は、理性のせいではない。ナチスの理性は、自我の欲望から与えられたパラダイムに従って、粛々と、行動したに過ぎない。そして、自我の欲望は、常に、他者の欲望から生まれる。つまり、ナチスのユダヤ人に対する大虐殺の欲望は、ドイツ人のユダヤ人を攻撃したいという欲望から生まれたのである。ドイツ人の自我の欲望が、ヒットラー率いるナチスの600万人ものユダヤ人の大虐殺を生み出したのである。理性は、常に、自我の欲望に従って粛々と行動し、決して、自我の欲望と対立したり、自我の欲望を抑えたりするものではないのである。


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