あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

日本人という自我(自我その20)

2019-02-02 18:14:44 | 思想
自我は、自分や自己と同じく、第一人称を表す言葉である。しかし、自分や自己は第二人称や第三人称や外界と区別した客観的な第一人称を表した言葉であるが、自我はその時の現在の位置、立場、地位、身分にとらわれた第一人称を表した言葉である。この説明だけでは、わかりにくいと思うので、例を挙げて、説明しようと思う。昨年の7月4日、名古屋高裁金沢支部の内藤正之裁判長は、関西電力大飯原子力発電所3,4号機の運転差し止めを命じた一審・福井地裁判決を取り消し、「安全設計が完全に崩壊する致命的状況に至る可能性があるとしても具体的危険は無い。」と述べ、原告住民側の請求を棄却する判決を言い渡した。国民の側に立つ判決を下したのならば、内藤裁判長は、自己判断をしたと言えよう。しかし、安倍政権が原発推進を積極的に打ち出しているので、内藤裁判長は、自己の今後の昇進を考慮して、政権寄りの判決を下したのである。つまり、内藤裁判長は、自我判断したのである。しかし、これは、氷山の一角に過ぎない。戦後、政治に関係する裁判の判決はほとんど政権に迎合したものである。日本の裁判官のほとんどは、政治に関係する裁判において、自己判断をせず、自我判断をしているのである。これは、ゆゆしき問題である。また。いじめ事件で、いじめられていた生徒が自殺すると、いじめていた生徒の親のほとんどは、「本人に問題があった」とか「本人の家庭に原因があった」などと言って、いじめられていた生徒に責任転嫁して、我が子の非を認めようとしない。いじめられていた生徒の家族や世間から、加害生徒の親としての責任を追及されるのが嫌だからである。つまり、自らの立場を守ろうとして、自我保存の気持ちから、被害生徒や被害生徒の家庭に責任をなすりつけようとするのである。さて、愛国心も自我から発する。多くの人は、愛国心とは自分の国を愛する気持ちであるから美しい心だと思っている。しかし、日本人は、日本という国に生まれ育ったから、日本人という自我が生じ、日本という国を愛しているのである。つまり、自分自身を愛しているのである。愛郷心、愛社精神、愛校心、家族愛も、また、自分がそこに生まれたから、その会社に勤めているから、その学校を卒業したから、その家族と暮らしているから自我が生じ、そこで愛が生まれてきたのである。とどのつまり、これらもまた、自分を愛しているのである。そして、自我があるところ、必ず、ニーチェの言う「力への意志(権力への意志)」がある。「力への意志(権力への意志)」とは、他の人から認められたという欲望である。日本人が、オリンピックやワールドカップで、日本人選手や日本チームを応援するのは、他の国の人々に、日本人を認めてほしいからである。だから、日本人選手や日本チームが優勝すると、自分が優勝したかのように嬉しく思うのである。このように、日本人は皆日本人としての「力への意志(権力への意志)」を持っているが、文字通り、その欲望を最も強く持っているのは、権力者である。日本において、権力者の頂点は、総理大臣である。日本の総理大臣の自我の欲望、つまり、「力への意志(権力への意志)、日本人だけでなく世界の人々に、自分が日本という国を掌握し、日本が優れた国であることを見せつけることである。それ故に、そこに、権力の乱用・悪用が生まれる可能性は十分にある。権力の乱用・悪用の最たるものは戦争である。最初から勝ち目がないとわかっていた太平洋戦争も、権力の乱用・悪用から起こった。現在の安倍晋三総理大臣が日本国憲法を変えようと考えているのも、自分が日本という国を掌握し、日本が優れた国であることを見せつけるためである。そのためには、戦争も辞さない覚悟でいるのである。我々国民は、愛国心に踊らされてはいけない。どの国でも、権力者は、自分がこの国を掌握し、この国が優れた国であることを見せつけるために戦争を起こすのである。