あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自我ゆえの幸福、自我ゆえの不幸(自我その35)

2019-02-18 18:02:47 | 思想
ほとんどの人は、自分で動いていると思っている。自分が自分を動かしていると思っている。だから、人間は自由だと言うのである。哲学者でさえそう言う人が多い。しかし、真実は、そうではない。人間は、いついかなる時でも、自我に動かされているのである。ほとんどの人も、自分は常に同じ自分であると思っている。しかし、そうではない。無意識のうちに自分を変えている。変えなくては社会生活を送れないのである。この変えた自分が自我である。例えば、近藤由美という人がいる。彼女は、近藤家にいる時は娘であり、道路を歩けば通行人であり、電車に乗れば乗客であり、中山田高校へ行けば二年生の女子高校生であり、放課後テニス部に行けば部員であり、仲間と下校する時は友人であり、コンビニに入れば客であり、休日デートしている時は恋人である。この、娘としての自分、通行人としての自分、乗客としての自分、二年生の女子高校生としての自分、部員としての自分、友人としての自分、客としての自分、恋人としての自分がそれぞれ近藤由美の自我である。つまり、彼女は、近藤家、道路、電車、中山田高校、テニス部、仲間、コンビニ、デートなどという構造体に応じて、娘、通行人、乗客、二年生の女子高校生、テニス部員、友人、客、恋人というふうに適切ななポジション(立場)を取り、その異なったポジション(立場)を自分として行動しているのである。そうしないと社会生活は送れないのである。例えば、コンビニに入って、近藤家の娘だと言っても通用せず、他の客と同じように扱われる。中山田高校以外の高校へ行って、二年生の女子高校生と言っても通用せず、追い出される。卓球部に行って部員のように振る舞っても通用せず、追い出される。デート中に友人のように振る舞えば、彼氏に失恋の苦しみを味わわせる。認知症とは、構造体と自我の不一致になった人の行動である。例えば、実際には、この家の住人ではないのに、自分はこの家の住人だと思い込んで、ドアをどんどん叩くのである。このように、人間は、ある構造体に行き(入り)、ある特定のポジション(立場)を得て、それを自我として行動せざるを得ないのである。ポジション(立場)の選択はできないのである。そういう意味でも、人間は自由ではなく、自我に動かされていると言えるのである。さて、近藤由美には、宗一郎という名の父と明子という名の母がいて、三人家族である。明子は、長年妊娠できず、不妊治療の結果、明子43歳、宗一郎51歳の時、由美が誕生したのである。待望の子供であったから、二人は、これまで、由美を大切に育ててきた。由美も、二人の深い愛情を受け、素直にすくすくと育ち、両親を心の拠り所にしている。宗一郎、明子は、今は、父、母という自我を得たゆえに幸福なのである。しかし、万が一、由美が病死や事故死などしたらどうなるだろう。宗一郎、明子は地獄のような苦しみを味わうだろう。宗一郎、明子は、今度は、父、母という自我を得たゆえに不幸になるのである。二人に、夫、妻という自我しかなかった時の寂しさより深い苦しみを味わうのである。また、由美がいじめに加担していて、被害者の同級生が自殺した時、二人はどのような対応を取るだろう。必ず、二人は、自殺の原因を、被害者の成績や家庭問題などのいじめ以外のことに求める。父、母という自我を守るためである。これも、また、父、母という自我を得たゆえの不幸である。そして、教育委員も校長も担任も、自殺の原因をいじめと認めないのも、やはり、自らの自我を守るためである。由美の交際相手は、同じテニス部で同学年の水木洋一である。彼は、小学校の高学年の時から恋愛に憧れ続け、ようやく、高校二年生になって初めて近藤由美という彼女ができ、交際して三ヶ月目である。学校に行き、クラブに行くのが楽しい。恋人という自我を得たゆえに幸福なのである。しかし、もしも、由美から別れを告げられると、目の前が真っ暗になるだろう。恋愛に憧れ続けた時の方が楽だっただろう。恋人という自我を得たゆえに不幸になるのである。特に、男性が失恋すると、多くの場合、女性と異なり、未練が残り、相手を軽蔑仕切れず、相手の上位に立つことがなかなかできないから、実際にストーカーにならなくても、ストーカー的な心情に陥って、長く苦しむことになるから厄介である。逆に、洋一から別れを告げられると、由美は目の前が真っ暗になるだろう。恋人という自我を得たゆえに不幸になるのである。由美の友人が大空香である。香には交際相手がいなかった。友人ゆえに、恋人のいる由美に劣等感を覚え、嫉妬し、苦しんでいた。友人という自我を得たゆえの不幸である。しかし、由美が洋一から別れを告げられたと聞けば、劣等感から解放され、逆に優越感を抱き、楽しくなるだろう。友人という自我を得たゆえの幸福である。このように、人間は決して自由ではなく、常に、自我に動かされて生きているのである。そして、自我ゆえに幸福になり、自我ゆえに不幸になるのである。