あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

ルーティーンについて(自我その26)

2019-02-08 13:16:22 | 思想
我々は、朝、起きると、トイレに行き、洗面台に向かい、着替えをし、朝食のテーブルに着く。そして、歩いたり、電車に乗ったり、車を運転したりして、会社や学校へ行く。授業や仕事が終わると、部活動をしたり、酒場に寄ったり、コンビニに寄ったりして、家路につく。これがルーティーンであり、ほとんど、無意識の下で行われている。無意識と言っても、そこに心理が働いていないわけではない。我々が気付いていないだけで、心理が働いている。心理が働いていなければ、我々は活動出来ないだろう。我々の気付いていない心理の働きを深層心理と言う。それでも、何か異常なことが起こると、我々は、その状況を意識して考える。トイレに紙が無かったり、電車が遅れたり、会社や学校で嫌なことがあったりすると、その状況を意識しながら、考える。また、自分が何かやっているかも、自分で意識している。このように、状況を意識し、自分自身を意識して考える時、我々の表層心理が働いている、もちろん、異常なことが起こらなくても、洗面台に向かって歯を磨いている時、妹に後ろから「お兄ちゃん、早くして。」と声を掛けられると、自分と自分が今歯磨きをしていることを意識する。この時も、表層心理が働く。また、漠然と、今自分は運転しているのだと意識することがあれば、表層心理が働いていることになる。深層心理が働いて活動している時、つまり、無意識に行動している時は、意識して自分で考えることが無いから、我々に精神的な疲れはほとんど無い。表層心理が働いて活動している時は、意識して自分で考えているから、我々は精神的に疲れるのである。だから、誰しも、毎日、ルーティーン通り事が済み、何も異常なことが起こらないように望むのである。さて、我々は、所属する構造体(行く場所)によって、ポジション・ステータス(位置・身分・地位)が異なる。だから、我々は、所属する構造体(行く場所)によって、異なったポジション・ステータス(位置・身分・地位)を自我として持って活動しているのである。例えば、山田一郎は、山田家にいる時は父親という自我を持ち、電車に乗れば乗客という自我を持ち、車を運転している時は運転手という自我を持ち、大川株式会社に行けば社員という自我を持ち、コンビニに行けば客という自我を持って活動する。つまり、山田家にいる時は父親になりきり、電車に乗れば乗客になりきり、車を運転している時は運転手になりきり、大川株式会社に行けば社員になりきり、コンビニに行けば客になりきって活動する。山田一郎は一人であるが、所属する構造体(行く場所)によって、自分のポジション・ステータス(位置・身分・地位)としてのそれぞれ一つの自我を持つから、一日に、総合すると、複数の自我を持つ。人間は、自分のポジション・ステータス(位置・身分・地位)があるから、それを自我として、活動できるのである。自我の活動が自分の活動になるのである、つまり、自我が自分と一体化するのである。ここが動物との違いである。猫や犬はどこへ行っても同じように活動する。自我を持たないからである。さて、恐らく、山田一郎にとって、失いたくない自我は、山田家の父親、大川株式会社の社員だろう。前者は、父親として尊敬され、家族全体が仲が良いからである。後者は、給料が良く、やりがいのある仕事が与えられるからである。しかし、夫婦関係がうまくいかなかったら、離婚を考え、山田家の父親という自我を捨てることを考えるだろう。また、給料が低くなったり、仕事にやりがいが無くなったら、大川株式会社の社員という自我を捨てることを考えるだろう。しかし、今までの自我を捨てることは、よほどの場合にしか、起こりえない。なぜならば、我々は、ルーティーンを変えることに不安を覚えているからである。毎日、ルーティーン通りのことを行っていれば、無意識のうちに、深層心理がことを行い、精神的な疲れも覚えずにすむからである。