あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

戦場とは人間の欲望がそのまま現れる場である(自我その45)

2019-02-27 15:52:13 | 思想
人間は、決して、美しい生き物ではない。誰一人として、いつも、美しい気持ちを持っているわけではない。美しい気持ちとは、人に対して優しい言葉を掛けたい、親切にしたい、助けたいなどの欲望である。全ての人間は、何らかのやましい気持ちを懐く時がある。常にやましい気持ちを持っている人も存在する。やましい気持ちとは、人に対して文句を言いたい、殴ってやりたい、殺したい、、浮気心を懐くなどの欲望である。しかし、たとえ、やましい気持ちを懐くことを阻止しようとしても、誰一人してできない。美しい気持ちをいつも持っていようとしても、誰一人としてできない。なぜならば、意志によって気持ちが生まれてくるわけではないからである。この美しい心、やましい心を含めて全ての欲望は、我々の深層心理から生まれてくるからである。深層心理が全ての欲望を生み出しているのである。意志は深層心理には及ばない。そこで、意志を表層心理と呼ぶのである。我々ができることは、意志(表層心理)で、美しい気持ち(深層心理の生み出した欲望の一つ)は実行し、やましい気持ち(深層心理の生み出した欲望の一つ)は心の中で抑圧し、実行を阻止することである。敬虔なキリスト教徒の既婚の男性が、司祭に、「私は妻以外の女性に恋心を懐いてしまいました。」と懺悔し、神の許しを請うことがあるが、彼は決して浮気症の男性ではない。妻以外の女性に恋心を懐いてしまったことは、彼の深層心理が為したことであり、彼の意志とは関わりがない。だから、彼の罪ではない。彼は、この恋心を抑圧し、実行に移さなければ、彼に何の罪もない。もっとも、司祭に懺悔するくらいだから、既に抑圧は始まっていると言って良い。しかし、人間には誰しも深層心理が存在するので、敬虔なキリスト教徒の既婚の男性の懺悔は永遠に続くだろう。しかし、どれだけ抑圧しようと思っても、深層心理が強過ぎれば、抑圧しきれず、やましい気持ちを実行してしまうこともよくあることである。さて、それでは、なぜ、人間は自分の欲望を抑圧しようと思うのか。それは、その欲望を実行すると、周囲から冷たい目で見られたり、逮捕されたり、時には、殺されたりするからである。このような、他の人の視線を気にする人間のあり方を対他存在と言う。フロイトの思想に、エディプスコンプレックスというものがある。幼い男児は、母親に恋愛感情を懐くが、父親の妨害に遭い、この家で生き延びるために自分の気持ちを抑圧し、その後男性として父親のまねをして生きていくということである。さて、幼い男児が母親に恋愛感情というやましい感情を懐いても、それは彼の深層心理のなすことだから、彼の罪ではない。また、父親の存在があったから、彼はその家に生き延びるために、自らの欲望を抑圧したのである。彼の対他存在がうまく機能したのである。そして、この世で、対他存在が最も強く機能するのが戦場である。戦争とは、言うまでもなく、敵と味方と分かれて殺し合うことである。兵士は、上官の視線を気にして、どんな命令にも従うのである。そうしないと、自分は、軍法で裁かれるからである。しかし、逆に、この世で、対他存在が最も機能しないのも戦場である。言うまでもなく、兵士には、敵兵が自分をどのように思っているか考えない。兵士には、憎しみだけしかない。自分が殺されるかも知れないという、敵兵に対する憎しみしかない。そして、敵兵に対する憎しみがなければ、殺せないのである。そこに、敵兵の視線を思い遣ることは全く存在しないのである。それが戦場である。戦場とは、人間の欲望がむき出しになる、残酷な場所である。だから、人間は戦場に立ってはいけないのである。

日本の大衆はいつまで愚かなのか(自我その43)

2019-02-27 10:03:45 | 思想
19世紀のドイツの哲学者のニーチェは「大衆は馬鹿だ」と言った。それから2世紀経っているのに、世界の大衆は賢くなっていない。馬鹿のままでいる。それは国民という自我に囚われているからである。20世紀という世紀は戦争の世紀であり、世界の大衆は歴史上最も愚かな状態にあり、最も国民という自我に囚われていた。しかし、現在も全く改善されていない。愚かな状態にあり、馬鹿のままである。しかし、日本の大衆も例外ではない。日本人という自我に囚われていて、愚かな状態にあり、馬鹿のままである。さて、江戸時代までは、日本に住んでいる人々には、日本人という自我はなかった。江戸時代は、農民は村民としての自我を持ち、商人は町民としての自我を持ち、武士は藩士としての自我を持っていた。自我を持つとは、自らが所属する構造体とそこでの自らのポジションを、自他共に認めることである。そして、人間は、自我を持つと、誰しも、自らが所属する構造体とそこでの自らのポジションを、他の人から、認められ、高く評価されることを欲望する。なぜならば、その欲望が満たされると、大きな感動が得られるからである。だから、江戸時代、農民は他の村や村民と張り合い、商人は他の町や町民と張り合い、武士は他の藩や藩士と張り合ったのである。しかし、それは、言わば、コップの中の嵐であり、幕府もしっかりとしていたこともあり、戦争に発展するようなことはなかった。しかし、自我を持った人間の中には、その自我の欲望を満たそうとするあまり、常軌を逸した考えを持ったり常軌を逸した行動を取ったりすることを、意に介さなかったり良しとする考える者が現れることがある。それが自我に囚われた人間である。その典型がヒットラーである。ヒットラーはドイツ人という自我の欲望を満たそうとして、戦争を起こし、ユダヤ人を虐殺したのである。日本でも、明治時代になると、欧米諸国と同じように、日本人という自我の欲望を満たそうとするあまり、戦争を辞さない若しくは戦争を目的とした、常軌を逸した考えを持ったり常軌を逸した行動を取ったりする者が現れてきた。それが権力者たちの群像であった。そもそも、明治政府の権力者たちは、尊皇攘夷を掲げて、徳川幕府を倒した者たちであるが、彼らには、幕末から、日本人という自我を持っていた。彼らは、既に、日本人という自我を持っていたからこそ、明治政府という四民平等の体制を築き、日本を一国にしたのである。廃藩置県という制度は、おらが国の藩という小さな国を廃止して、日本という大きな国にした制度である。明治初期の佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争は、皆、武士たちが武士という自我を守るために引き起こした戦争であった。言わば、武士という自我を守る者たちと日本人という自我を守る者たちの戦争であった。しかし、多勢に無勢、武士たちに勝てる要素はなかった。しかし、彼らはそれを知りながらも、反乱を起こしたのである。それほど、自我が人間を動かすのである。さて、明治政府の権力者たちは、明治政府という体制を創設するだけでは、国を動かすことができないことはわかっていた。それだけでは、仏作って魂入れずの状態であるこることはわかっていた。魂を入れる必要があった。魂とは、国民に日本人という自我を持たせることであった。それに、まず利用したのが、天皇である。彼らは、「天皇は万世一系である」(天皇家は永遠に同一の系統が続いている)、「国民は天皇の赤子(あかご)だ」(天皇陛下は親であり、国民一人一人はその子供である)と言って、大衆に、日本人という自我を持たせた。新政府になって不安だった国民は、天皇を中心に国がまとまり、自分もその一員として認められていると思い、喜んで、日本人という自我を持つことができた。そして、明治の権力者たちは、徴兵制を導入し、国民皆兵にし、現在の北朝鮮・韓国である李氏朝鮮や現在の中国である清に攻め入った。もちろん、李氏朝鮮や清を攻略したのは、領土獲得や資源獲得などの経済的な面も大きいが、日本人という自我を持たせるということも大きな目的だった。戦争をすると、敵味方がはっきり分かれ、味方には同胞意識を持つようになるからである。これほど強い日本人という自我による結びつきはないからである。李氏朝鮮や清に攻め入ったのは日本だけではなく、欧米諸国も同罪であるのに、なぜ、日本人だけが、現在も、中国人や韓国人や朝鮮人に恨まれているのか。それは、欧米諸国は経済面だけの収奪に終わったが、日本だけが経済面の収奪とともに、日本人という自我を中国人や韓国人や朝鮮人に認めさせ、高く評価されようと思い、残虐な行為を行ったからである。日本人という自我を無理に認めさせ高く評価されようとすれば、中国人や韓国人や朝鮮人にも自国民の自我があるから、抵抗する者がいる。そうすると、拷問したり、残虐な殺し方をしたり、レイプしたりする。いや、抵抗しなくても、拷問したり、残虐な殺し方をしたり、レイプしたりする。慰安婦問題や徴用工問題はこの氷山の一角である。挙げ句の果てに、太平洋戦争を起こし、アメリカに完膚なきまで叩きのめされてしまった。日本人という自我に囚われたことによる悲劇、惨劇である。それでは、いつから、日本人は、日本人という自我に囚われてしまったのか。それは、明治初期からである。明治政府の権力者たちが、国民は天皇の赤子だと言い、李朝朝鮮を攻め、日本人に日本人という自我を持たせた時から始まっている。彼らは、まんまと、国民に日本人という自我を持たせ、それに囚われるようにすることに成功したのである。大衆は、太平洋戦争が終了するまで、権力者が用意した、日本人という自我に囚われていた。太平洋戦争を起こした、東条英機が作成した「戦陣訓」には「生きて虜囚の辱めを受けず」(捕虜になるような恥ずかしいことをするな)という項目は、多数の無駄死にを生み出した。そして、権力者たちは、敗軍の将になるのを嫌がり、自らの自我を守るために、「自分も後に続く」と言って、若者をだまして、幾千もの兵士を特攻に追いやり、殺した。実際に、自決したのはわずかである。戦後、生き残った大勢の権力者たちは、特攻の責任を自決したわずかな者たちに押しつけ、特攻隊員たちは勇敢にも自ら志願したと言って、責任転嫁している。戦後、大衆は賢くなったか。賢くなっていない。戦後の大衆の多くも、戦前の大衆と同じように、中国、韓国、北朝鮮を敵視している。日本人という自我に囚われているのである。そのために、自民党議員や官僚たちと同じように、アメリカを頼りにしている。したたかなアメリカは、日本と安保条約、地位協定を結び、密約を取り決め、国会にも報告義務のない月二回の定期的な日米合同会議で、ただ同然に日本から基地を提供してもらい、基地の駐留費の七割を日本に持ってもらい、核の配備や持ち込みは自由で、基地からいつでも他国に攻撃にも行け、自衛隊とアメリカ軍の合同軍の指揮をアメリカ軍人が執り、アメリカ軍人の日本の出入りは自由であると取り決めている。日本は完全にアメリカの言いなりである。アメリカの家来である。しかし、大衆の多くは、それに気付かず、気付いても意に介さず、逆に、中国、韓国、北朝鮮に理解を示す人を反日だと言って、非難する。自分たちの言動が、むしろ、反日だということに気付いていないのである。ニーチェの「大衆は馬鹿だ」という言葉が、今でも、説得力を持っている。