あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間には自由は存在しない(自我その30)

2019-02-12 18:44:36 | 思想
自由の意味については、広辞苑には「①心のままであること。②責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。」と記され、明鏡国語辞典には「他から強制や命令を受けることなく、自分の思いどおりにできること。」と記されている。ここでは、二つに分けて考えてみようと思う。一つは、「心のままであること」や「自分の思いどおりにできること」である。もう一つは、「責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと」や「他から強制や命令を受けることなく」である。まず、前者の「心のままであること」や「自分の思いどおりにできること」という言葉は、人間を理解していない言葉である。「心」や「自分の思い」という短い言葉園そのものが人間を理解していない言葉である。人間とは、その時の自我(その時の自分のポジション・ステータス・位置・地位・身分)にこだわりながら、深層心理(感情・初発の思い)と表層心理(理性・後発の思い・深層心理の思いのまま行動すればどのような事態や結果を招くかを想像すること)の葛藤の上で結論を出し若しくは結論を出し渋り、行動する若しくは行動しないというあり方をする動物である。それを理解していないのである。そして、「心のままであること」や「自分の思いどおりにできること」の言葉は、人間を、何ものにもとらわれず、一直線に考え、容易に結論出せる動物のように扱っている。次に、後者の「責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと」や「他から強制や命令を受けることなく」についてであるが、確かに、ここでも人間は理解されていないが、日常生活で使われている自由の意味に合致している。日常生活で使われている自由とは、障害、束縛、強制、命令などが無い行動だからである。つまり、日常生活では、自由は不自由ではない行動という意味で使われているのである。しかし、これでは、トートロジー(同語反復)であって、自由の意味を解説したことにはならない。しかし、日常生活では、それで良いのである。自由の意味を真に捉えていなくても、通じればそれで良いのである。しかし、もしも、自由の意味を真に捉えたならば、日常生活では、誰も自由という言葉を使えなくなるだろう。そもそも、本質的に、自由の現象は、人間界に存在しないのである。まず、言語の制約がある。一般に、日本人は日本語を話し、中国人は中国語を話し、アメリカ人は英語を話し、ロシア人はロシア語で話す。言語の違いは、単語や文法だけでなく、考え方にまで影響を及ぼす。つまり、誰しも、言語に制約された考え方をせざるを得ないのである。ここからも、人間は自由と言えないのである。次に、自我の制約がある。まず、国籍の自我がある。一般に、オリンピックやワールドカップでは、日本人は日本チームや日本選手を応援し、中国人は中国チームや中国選手を応援し、アメリカ人はアメリカチームやアメリカ選手を応援し、ロシア人はロシアチームやロシア選手を応援する。つまり、誰しも、国籍を無視して応援しないのである。ここからも、人間は自由と言えないのである。次に、母親の自我がある。一般に、いじめっ子の母親は、自殺した子の自殺の原因を、いじめられていた子の性格や家庭環境に求める。それは、教育委員や校長や担任教師も同じである。つまり、いじめっ子の母親も教育委員も校長も担任教師も、自我(自らの立場)を守ることしか考えていないのである。ここからも、人間は自由と言えないのである。さて、人間は見る存在であるとともに見られる存在である。最初に、見る存在としての人間について述べようと思う。これが、対自存在としての人間のあり方である。人間は、誰しも、人やものごとを公平平等に見ていると思っている。しかし、今述べたように、いじめっ子の母親も教育委員も校長も担任教師も人の見方に偏見がある。しかも、科学者ですら、その視点には限界があるのである。アメリカの科学史家クーンの考え方にパラダイムがある。パラダイムとは、ある時代の科学者集団のものの見方や考え方を支配する概念的な枠組みや施行の規範である。クーンは、科学者はパラダイムに支配されていると言う。つまり、科学者ですら自由な見方をしていないのである。ここからも、人間は自由と言えないのである。次に、見られる存在としての人間について述べようと思う。これが、対他存在としての人間のあり方である。人間は、誰しも、常に、人から良いように思われたいと思いつつ、その人が自分をどのように見ているか窺いつつ生きている。日本の裁判官の判決のゆがみもそこから来ている。日本の裁判官は、アメリカ軍基地問題や原発問題について、日本国民に寄り添った判決を下さなければいけないのに、安倍政権に寄り添った判決を下している。それは、日本の裁判官は、安倍晋三から良いように思われたいと思いつつ、安倍晋三が自分をどのように見ているか窺って、判決を下すからである。安倍政権に寄り添った判決を下せば、立身出世できるからである。ここからも、人間は自由と言えないのである。このように、人間には自由は存在しないのである。しかし、それを認めると惨めに思えるから、人間は、人間に自由があると言うのである。しかし、人間に自由が存在しないと認めつつ、人間らしい生き方を方策を見いだしても良いのではないか。もうその時期が来ているように思う。