あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

プロレタリアートは存在しない(自我その34)

2019-02-17 19:59:27 | 思想
本来的な意味では、プロレタリアは「近代資本主義社会において、生産手段を持たず、自己の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者の階級。無産階級。」という階級を指し、プロレタリアートが「近代資本主義社会において、生産手段を持たず、自己の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者。無産者。」という人を指す。だから、ほとんどの人は、プロレタリアートである。ちなみに、現在、プロレタリアも人を指すように使われることが多い。ブルジョアジーは「近代資本主義社会における資本家階級、生産手段を持つ階級。」という階級を指し、ブルジョアが「近代資本主義社会における資本家階級に属する人、生産手段を持つ人。」という人を指す。マルクスは、プロレタリアとブルジョアの階級闘争によってプロレタリアートが勝利することや共産主義の必然性などを宣言する。しかし、マルクスは、資本主義のメカニズムを中心に分析し、未来の社会である共産主義社会を明示しなかった。それが、ソ連、中国、北朝鮮が全体主義国家になった一つの要因である。資本主義の分析は鮮やかだったが、共産主義社会の方が、資本主義社会より権力闘争が激しくなり、民衆をそっちのけにするまで思い至らなかった。不運なことに、ニーチェやフロイトは、マルクスより一世代後の人であったから、彼らの書物に触れることはできなかった。だから、ニーチェの言う「力への意志(権力の意志)」の思想もフロイトの強調する「深層心理」や「対他存在」の存在も知らなかった。「力への意志(権力の意志)」とは「他の人に自分の存在を認めさせようという強い欲望」である。「深層心理」とは「心の奥底に潜む、人間を最初に突き動かす気持ち」である。「対他存在」とは「常に他の人からどのように見られているか思い測るあり方で」である。つまり、共産主義という今までにない社会になったから、自らの心の奥底からわき上がる欲望に突き動かされ、これまで権力に無縁だった者たちの中で、権力者を目指す人が現れてきたのである。彼らは、例外なく、新参者だったから、他の人から自分がどのように見られているか、思う必要はなかった。ひたすら、権力者を目指した。そして、最高権力者に上り詰めた者は、例外なく、自分中心の全体主義国家を作った。本来、共産主義と全体主義は相容れないものである。しかし、彼らにとって、それはどうでも良いことであった。この革命が自我(自分のポジション)を変える道だった。スターリンは靴証人の息子、毛沢東は下層中農の息子であり、金日成は素性はわからないが決して裕福ではなかったと言われている。彼らは、マルクスの思想を深く理解していなかった。自分にとって都合の良い部分を取り上げ、わかりやすく労働者に説明し、それを共産主義の神髄だとした。大衆である労働者は、わかりやすいマルクスの思想に納得した。労働者大衆も、マルクスの思想を真に理解していなかったから、わかりやすいものがありがたかった。だから、彼らを支持した。労働者大衆は、マルクスの思想やマルクスが言うプロレタリアートの意味を理解していなかったから、容易に彼らにだまされた。しかし、大衆とは、常に、このようなものである。自らの味方になる者を見逃し、敵になる者にだまされるのである。スターリン、毛沢東、金日成は、マルクスの思想、共産主義の神髄を理解している者だけを恐れた。スターリンがトロッキーをメキシコまで追いかけて暗殺したように、彼らは、才能ある共産主義者を大粛清した。このように、不遇な者が、権力者になったり権力者になる可能性が大きくなったりすると、「対他存在」の歯止めが無い時、「深層心理」に突き動かされて、残酷なことをすることはよくあることである。ヒットラーのユダヤ人虐殺もそれである。日本の幕末期の動乱において、薩長土肥という外様大名の下級武士である、不遇な若者たちが、京都で、佐幕派の人々を虐殺したのもそれである。同じく、日本の幕末期の動乱において、浪士や農民出身という新撰組を結成した不遇な若者が、京都で、尊皇攘夷を唱えた勤王の志士たちを暗殺したのもそれである。生き残った勤王の志士たちは、明治時代を切り開くが、天皇を利用し、西洋諸国に迎合し、江戸時代より重い税を課し、徴兵制をしき、学校を義務教育化して天皇崇拝と軍国教育を取り入れ、近隣のアジア諸国を侵略し始めた。幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二などの共産主義者や無政府主義者が、命をかけて、戦争に反対したが、庶民は、天皇を崇拝し、軍国主義を受け入れ、太平洋戦争で命を散らした。庶民とは、こういうものである。マルクスの言うプロレタリアートはこの国にもいなかったのである。マルクスの思想を真に理解している人は知識人である。しかし、彼らはプロレタリアートではない。プロレタリアートであるはずの庶民や労働者は、自らがプロレタリアートであることを理解していないどころか、知識人の言うことに反発している。そして、似非知識人の言う、中国、韓国、北朝鮮への悪口雑言、アメリカへの賛美の言葉に目を輝かせている。どこにも、プロレタリアートは存在しないのである。