あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

孫への愛(自我その37)

2019-02-20 12:05:03 | 思想
近所の老夫婦だけで暮らしている七十代前半の男性が「孫は、理由無く、純粋に可愛い。」と言う。老夫婦は、正月と盆に孫たちに会うのを楽しみにしている。確かに、老夫婦の孫たちに対する愛情には偽りはないだろう。それは、純粋に可愛いという彼の言葉にも表れている。しかし、彼に限らず、老人が孫を可愛く思うのに、理由が無いわけではない。老人が孫を可愛く思う理由を端的に言えば、自分がこの世を去っても、自分の血を引いた孫がこの世に生きている限り、自分がこの世に行き続けるような気がするからである。換言すれば、あの世へ行く不安が、孫をいとおしく思わせるのである。孫とは、この世に生き続ける自分なのである。言わば、孫とは自分自身のことなのである。究極的には、人間とは、自分自身しか愛せない生き物なのである。それでは、一般に、子より孫の方が可愛く感じられるのはなぜだろうか。それには、二つの理由が考えられる。一つの理由は、子を育てる時、親に非常な責任を負わされることである。もちろん、子も可愛いが、手放しに可愛いと言っていられるほど、心に余裕が無いのである。しかし、老夫婦にとって、育てる責任は親に押しつけることができるから、孫に対する愛情を前面に押し出すことができるのである。それは、純粋に可愛いという言葉に表れている。もう一つの理由は、一般に、子を持った時、夫婦はまだ死を間近に意識する年代に達していないということである。もしも、近所の老夫婦のような七十代前半で子供を設けたならば、その子に対しては、孫のようにいとおしく感じるだろう。吉田兼好は、徒然草で「長くとも四十に足らぬほどに死なんこそ、目安かるべけれ。そのほど過ぎぬれば……、夕の日に子孫を愛して、榮行く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く……、浅ましき。(人は長くても四十歳になる前に死んでしまえば見苦しくないでしょう。それくらいの年齢を過ぎると……、年寄りのくせに子供や孫を可愛がったり、その子孫たちが立派に栄えていくのを見届けるまで生きたいなんて、やたらといつまでも貪欲に満足しない、欲深いって言うか……、嘆かわしい。)」と述べている。吉田兼好は、仏教思想を心髄としていて、ものごとに囚われないことを心情にしているから、このように述べるのである。しかし、逆に言えば、鎌倉時代から、老人の思いは同じだということである。誰しも、老人になると、孫から、おじいちゃん、おばあちゃんと呼びかけられると嬉しいのである。それは、自分が死んでも、この世に、自分の血を引いたこの子が残っていると思うからである。端的に言えば、自分が死んでも、この世に、自分が生き残っているように思うからである。しかし、これは、幻想である。孫は自分ではない。自分で生んですらいない。しかし、血縁幻想が老人を幸福にするのである。おじいちゃん、おばあちゃんと呼びかけられると、祖父、祖母の自我が自らの頃の中で確認され、孫との深い絆を感じるのである。人間とは、自我に囚われ、幻想の中に生きている動物なのである。