おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

雲ながるる果てに

2022-06-15 06:49:40 | 映画
「雲ながるる果てに」 1953年 日本


監督 家城巳代治
出演 鶴田浩二 木村功 高原駿雄 沼田曜一
   金子信雄 岡田英次 山田五十鈴

ストーリー
昭和二十年春、本土南端の特攻隊基地が米軍機により襲撃を受けた。
この空襲で出撃を待っていた学徒兵の秋田中尉(田中和彦)は戦死し、深見中尉(木村功)は負傷した。
松井中尉(高原駿雄)は町の芸者である富代(利根はる恵)を愛し、深見は女教師の瀬川道子(山岡久乃)を想っている。
秋田の妻町子(朝霧鏡子)は夫の死も知らず、基地を訪れ、位牌の前に泣き崩れた。
雨続きの一日、笠原中尉(沼田曜一)が戦艦大和の撃沈を報じたが、軍人精神の権化を自負する大滝中尉(鶴田浩二)は、頭からそれを否定した。
大滝と北中尉(清村耕二)たちは出撃命令を待つが、連日の雨でなかなか命令が下りてこない。
雨が上り出撃の時は来た。
松井は富代に別れ、深見に「戦争のない国で待ってるよ」と言残して飛立ったまま再び帰らなかった。
深見は道子と夕闇の道を歩いている時、片田飛行長(神田隆)に見つけられ散々に殴られた。
道子は「このまま死んでしまいたい」と深見にすがり、泣きじゃくる。
基地では激しい訓練がつづけられ、山本中尉(沼崎勳)は乗機が空中分解をおこして死んだ。
彼を葬むる煙を見つめながら、深見は大滝に特攻隊の非人間性をしみじみと諮るのだった。
その大滝を父母が訪れるという便りがあった。
然しその喜びも空しく、大滝等は出撃の時を迎え、負傷のいえない深見も、「君らと一緒に死ぬ」と、共に空中へ舞上った。
大滝の両親が駆けつけた時、すでに機影は遠く白雲の流れる果てに飛び去っていた。


寸評
学徒動員され特攻に志願した青年たちの姿が描かれる。
彼等がたたき上げの軍人から鉄拳の制裁を受けたり、体罰的な訓練を受けるシーンも登場するが、大半は出撃前の彼等の生活ぶりが描かれ、神風特別攻撃隊を神格化した映画にみられるような勇壮な姿よりも、当時の特攻志願兵の姿としてリアリティを感じさせる。
特攻は死を約束された連中の集まりであるので、少しは大目に見られるところもあったのだろう。
松井が度々芸者通いをしていることも知れ渡っているし、黒板には特攻を揶揄する落書きも見受けられる。
彼らの生き方は刹那的であり、どこか悟りきったところがある。
一方で、今日一日生き延びたことを謳歌しているようにも見える。
そのくせ「どこかに背負っている「死」を感じさせる日常生活だ。
そんな中にあって、悩み、苦しみ、生と死を考えさせるのが木村功が演じる深見中尉である。
彼は負傷したことで今は特攻要員から外れていることで、仲間たちとの間に微妙な空間を生み出している。
真面目な深見と対極にあるのが芸者通いをする松井だ。
朝帰りで遅刻の常習者である松井は出撃の日も遅れて帰ってくる。
あわてて飛行服に着替え、それを手伝う深見に「戦争のない国で待っている」と言って飛び立っていく。
哀しい場面だ。

軍部の非人間性、特に特攻を指揮する上層部の身勝手な態度が糾弾される。
怪我のために出撃を見送られていた深見が特攻を志願してくる。
その場にいた金子司令や片田飛行長たちは、これで特攻の美談がまた一つ増えたと喜ぶ。
大滝たちの特攻部隊は大きな戦果を挙げることが出来なかったことが判明するが、片田飛行長は特攻の予備はいくらでもいると公言すると、画面は瀬川が教える小学生たちの姿にかわり、軍部はこの子たちも特攻の犠牲者にと考えていたことが暗示され恐ろしい。
僕は日教組という組織は好きではないが、二度と教え子を戦場に送り出したくないという教員たちの気持ちはよくわかる。
そのことを心底感じている教員も少なくなってしまった。
特攻として散っていった学徒たちは深見が言うように「これは戦術ではない」と感じていたのだろうが、同様に深見が瀬川に言うように「何か大きな力に抵抗できない」という状況下にもいたのだろう。
目に見えない大きな力とは、軍隊組織とか下される命令とかでなく、世の中を覆っていた風潮、雰囲気だったに違いない。
民主主義選挙においても見受けられることなのだが、世の中に湧き上がったぼんやりとした空気は恐ろしい。
それが間違ったものでないことを祈るばかりだ。
鶴田浩二が演じた大滝は、この作品の中ではむしろ浮いた存在だが、その彼も苦しんでいたことが描かれ、それを見た深見が怪我を押して特攻を志願する。
それを知った大滝をはじめとする仲間たちが「お前は残れ」と説得を試みるが、彼はがんとして受け付けない。
崇高な精神におもわず涙がこぼれてしまうが、特攻を編み出してしまう追い込まれた戦争は恐ろしいと感じる。
あの小学生たちが戦争に駆り出されなかったことがせめてもの救いである。

Queen Victoria 至上の恋

2022-06-14 06:50:54 | 映画
「Queen Victoria 至上の恋」 1997年 イギリス


監督 ジョン・マッデン
出演 ジュディ・デンチ
   ビリー・コノリー
   アントニー・シャー
   ジェフリー・パーマー
   リチャード・パスコ
   デヴィッド・ウェストヘッド

ストーリー
1861年。ヴィクトリア女王(ジュディ・デンチ)は夫アルバート公を亡くし、3年もの長きに渡りワイト島のオズボーン宮に蟄居して喪に服した。
滞った公務を処理すべく、政財界は亡くなったアルバート公の信頼厚かったスコットランド人従僕ブラウン(ビリー・コノリー)を悲嘆に暮れる女王の馬の世話係として宮に派遣する。
純朴な彼は女王の憔悴ぶりを目のあたりにして衝撃を受ける。
ブラウンは自分の意志で行動してはいけないと言われているが意に介さない。
中庭で白い馬と共に女王を待つブラウンの姿を見て、命じていないとしてやめるよう告げる。
それでも懲りずに何日もの間立ち尽くすブラウンを目にした女王は、連れ出されるように久々に戸外へと出る。
規則を破って女王を外に連れ出したりする献身的なブラウンに、やがて女王は心を開くようになっていった。
心ない周囲の動きもあったが、女王のために忠誠を尽くし続けるブラウンは女王の心に変化をもたらしていた。
亡き夫の喪に服していたヴィクトリア女王は、ブラウンへの気持ちの変化を感じて司祭にとまどう胸の内を明かしたが、愛した夫への想い出と新たな感情は両立すると諭される。
一方、ブラウンは彼に悪意を持つ人々のためにあらぬ誤解を受け苦しみ、ついに女王にその危害が及ぶことを恐れて辞職を願い出た。
だが、女王は「私はあなたなしでは生きていけない」と告げて彼の手をとって口づけをする。
ブラウンも女王の手に長く接吻を返すのだった。
ロンドンから遠く離れた場所に居続け、公務に就こうとしない女王だったが、首相は君主制の存続の為に公務につくよう説得するようにブラウンに告げた。


寸評
僕はイギリス王室についてまったくと言っていいほど知識がなく、スキャンダルを含む個人的な話は現在のエリザベス女王に関係する人たちのことしか知らない。
女王の子供たち、すなわちチャールズ、アンドルー、エドワードという三人の息子と娘のアン、さらにチャールズと結婚したダイアナ妃、彼女の息子であるウィリアム王子とヘンリー王子などであるが、他国の王室に比べればその認知度は格段に高い。
マスコミの恰好の餌食となってゴシップが多い王室でもあることが認知度を高めていると思われる。
ここで描かれたヴィクトリア女王とブラウンの間に不適当な関係があるとか、秘密結婚していたとかの風説もあったらしいが、ここでの描かれ方はお互いに秘めたる愛情を抱いていたというものとなっている。
ヴィクトリア女王の63年7か月に及ぶ治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれて一大植民地帝国を築き上げ、イギリスが最も繁栄した時代だったであろう。
そんな女王も個人的には公務に追われて心が休まる暇もなく、古くからの伝統に縛られた生活を送っている。
古くからの伝統に縛っているのは変化を好まない回りの者たちだ。
そこにブラウンと言うズケズケものを言う男がやって来て、喪に服して心を閉ざしている女王を導いていく。
君主制を巡る政争も描かれるが、それは添え物的で映画はあくまでもヴィクトリア女王がブラウンへ信頼を寄せていく様子と、ブラウンの献身的な女王への忠誠、回りの者たちのブラウンへの嫌悪を描いていく。
ブラウンの傲慢な態度は、彼のもともとの資質もあったのだろうが、女王の庇護があってのものだ。
よき友人関係と言っているが、やはり愛情はあったのだろう。
何処の国でも王室、皇室の人たちに愛が絡むとややこしいものがあるようだ。
わが国でも2021年には秋篠宮殿下の長女である眞子内親王の結婚問題がマスコミをにぎわした。

男どもを支配するヴィクトリア女王を演じたジュディ・デンチが素晴らしい。
圧倒的な貫禄と威圧感で、子供たちと侍従たちを顎で使う姿に引き込まれてしまうものがある。
その女王にものが言えるのはブラウンだけなのだが、ブラウンの居丈高な態度には少々嫌味な部分も感じられ、それが従来からの宮廷人には嫌われる要因となったのだろう。
実際、彼は宮廷人に嫌われていたようで、そのあたりの状況は上手く描けている。
我が国の皇室にも同じような状況があるのではないかと想像してしまう。
想像できてしまえるから、この映画は面白いと感じ取れる。
イギリス映画らしい風格を持った作品で、ジョン・マッデンはアメリカに渡って、1998年に「 恋におちたシェイクスピア」を撮っているが、その後にパッとした作品がないのはどうしたことか。
女王の息子であるアルバートが馬鹿な息子のように描かれているが、彼はヴィクトリア女王の崩御後にエドワード7世となったのだから、こんな描かれ方をしても良いものかと思った。
日本映画なら時の皇太子を無能的に描くことなどないであろう。
それともヴィクトリア女王もエドワード7世も歴史上の人物になってしまっていて、どのように描こうが国民は何とも思わなくなってしまっているのかもしれない。
エドワード7世がブラウンの胸像を叩き割ったのは事実らしいから、彼の憎しみは尋常ではなかったのだろう。
僕にとってこの映画はロマンス作品と言うより、ヴィクトリア女王の一端を知る事が出来た歴史物であった。

クイール

2022-06-13 08:33:15 | 映画
さて「く」です。
1回目は2019/4/23の「空気人形」から始まり、以後「空中庭園」「苦役列車」「グエムル ―漢江の怪物―」「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」「グッバイ、レーニン!」「蜘蛛巣城」「クライマーズ・ハイ」「暗くなるまで待って」「クラッシュ」「グラディエーター」「グラン・トリノ」「クリーピー 偽りの隣人」「グリーンマイル」「狂った果実」「ぐるりのこと。」「クレイジー・ハート」「クレイマー、クレイマー」「グレン・ミラー物語」「黒い雨」「軍旗はためく下に」とかなりの本数を取り上げました。、「

2回目は2021/1/11の「グーグーだって猫である」から始まり、「クィーン」「沓掛時次郎」「沓掛時次郎 遊侠一匹」「グッド・シェパード」「グッドフェローズ」「グッドモーニング,ベトナム」「首」「グランド・マスター」「グラン・プリ」「グラン・ブルー ―完全版―」「クリード チャンプを継ぐ男」「グリーン・デスティニー」「黒い十人の女」「黒い罠」「グローリー」「黒部の太陽」「グロリア」を補足しています。

興味のある方はバックナンバーからご覧ください。
今回は3回目になりますが、あまり思いつきませんでした。

「クイール」 2003年 日本


監督 崔洋一
出演 小林薫 椎名桔平 香川照之 戸田恵子
寺島しのぶ 黒谷友香 櫻谷由貴花
松田和 名取裕子

ストーリー
ある時、東京のとある家庭でラブラドール・レトリーバーの子犬が5匹誕生した。
その中で、鳥が羽根を広げたようなブチ模様がお腹にある1匹は“ジョナサン”と名付けられる。
生ませの親・レン(名取裕子)のたっての願いで、ジョナサンは盲導犬になる為に訓練士・多和田(椎名桔平)に預けられることになった。
そのおっとりした性格が逆に盲導犬向きといわれるジョナサンが、ボランティアで子犬を育てる、パピーウォーカー・仁井夫妻(香川照之、寺島しのぶ)に預けられることになった。
ジョナサンはそこで、“鳥の羽根”という意味を持つ“クイール”という新しい名前をもらう。
その子犬は、1年間、夫妻のもとで愛情一杯に育てられた後、いよいよ盲導犬訓練センターで本格的な訓練を受けることになる。
のんびり屋でマイペースなクイールに、ヴェテランの多和田でさえ手を焼くこともあったが、やがてクイールは立派な盲導犬へと成長し、視覚障害者の渡辺(小林薫)と巡り会う。
初めこそ息の合わなかった渡辺とクイールだが、ハーネスを介して伝わってくるクイールの思いやりに、渡辺は次第に心を開くようになり、互いにかけがえのない存在になっていく。
しかし、クイールとの生活が2年を過ぎた頃、渡辺は重度の糖尿病に冒され、3年後にこの世を去る。
そしてそれから8年後、仁井夫妻のもとで余生を送っていたクイールもまた、12年と25日の生涯を静かに閉じるのだった。


寸評
子供と動物を主人公に据えるとそれなりの作品となるのは、大抵の人が子供や動物を可愛いと感じることにあるのではないかと思う。
この作品は盲導犬を描いているのでなおさら感動的になる要素を有している。
盲人と盲導犬の強い絆は想像出来、そうした点をドラマチックに描くことは難しくないはずだが、この映画のストーリー展開は平板で盛り上がりや感動に欠けるものがある。
崔洋一監督が意図したものなのか、感動物語にしかならない素材を感動から遠い描き方をしている。
訓練士役の椎名桔平の飄々とした演技や盲人の小林薫のオーバーとも思えるユーモラスな演技がそれに拍車をかけている。
そもそも主人公は彼等ではなくクイールという盲導犬であり、クイールを演じたラフィー号である。
言い換えればこの作品はクイールの一生を描いたもので、しかもそれを誇張することなく淡々と描いている。
崔洋一監督はこの映画を通じて盲導犬のことを知ってほしいと願っているだけなのではないかと思ってしまう。
そうであれば知識を得たことはあったので、目的は達したのかもしれない。
盲導犬は血統が重要で、両親とも盲導犬でなければなかなか盲導犬にはなれないこと。
生まれてから1年間はパピーウォーカーというボランティアに預けられること。
さらにパピーウォーカーは犬を絶対に叱ってはいけないということを知る。
おそらくこれは犬を支配するのではなく共存するためなのだと想像できる。
訓練所での厳しい訓練は想像できるが、ここでの様子も厳しさを連想させるものではない。
時々は笑ってしまうシーンに出会うが、ドキュメンタリーかと思うほどの覚めた目で追っている。

名取裕子の家で生まれたクイールは、彼女のたっての願いで盲導犬になる道を選ばれる。
そして1年間香川照之、寺島しのぶの夫婦のもとで育てられる。
1年後に椎名桔平の訓練センターに引き取られていく。
クイールはそこで訓練士たちによって施される訓練を長期に渡って受ける。
訓練を終えた盲導犬は盲人と共にセンターで生活するようになり、盲人も盲導犬との歩行訓練を受け、やがて盲人たちの個人宅へと引き取られていく。
やがて飼い主との別れがやって来て、歳を取ったクイールはパピーウォーカーであった香川照之、寺島しのぶの元へ帰ってくる。
クイールはそこで大往生を遂げることになる。
クイールに話を絞れば概ねそのようなものである。
これは人間と犬の感動のドラマではなく、落ちこぼれ犬クイールのたくましい人生ならぬ「犬生」を描いた作品なのだと理解する。
人間的な感情移入を排除して、犬の一生を等身大でありのままに描いていて、人間の都合の良い解釈を排除していると言えるが、その分、期待する感動も除外されている。
盲導犬という仕事を与えられたクイールだが、皆に可愛がられ幸せな一生だったのだろうと感じられたのは救いであるが、動物映画として見た場合は平均以下といったところ。

禁断の惑星

2022-06-12 08:25:53 | 映画
「禁断の惑星」 1956年 アメリカ


監督 フレッド・マクロード・ウィルコックス
出演 ウォルター・ピジョン
   アン・フランシス
   レスリー・ニールセン
   ウォーレン・スティーヴンス
   ジャック・ケリー
   リチャード・アンダーソン

ストーリー
西暦2200年、高度に文明の進んだ地球人は他の遊星に植民を行い、光より速いスピードの原子艇で宇宙を駈けめぐり、アダムス機長の宇宙巡察機Cー57ーD号は惑星第4アルテアに赴く。
艇の任務は20年前、この惑星に派遣・消息を絶った科学者の一団を探すことだった。
惑星には、科学者団の一人、哲学、文学博士で言語学者のエドワード・モービアス博士だけが生き残っていた。
彼はこの惑星で生れた娘アルティラと、彼の造った精巧なロボットを使って生活していた。
アルテアにはかつて強大なクレール人が住み2万年以上前の全宇宙を支配、アルテアを不可侵の星“禁断の惑星”としていて、調査団はその怒りにふれて皆殺しにあっていたのだ。
しかし人類より数百万年も進化したクレール人は、精神内部の完成直前、一夜にして滅亡してしまった。
博士は一同をクレールの遺跡、原子物理研究所へ案内する。
アダムスは感嘆の末、その設備を地球に持ち帰りたいと申し出たが、博士は反対しアダムスらに、早く地球へ戻れという。
ある夜現われた姿が見えない怪物は隊員の一人を殺し、やがて原子艇を襲うようになる。
博士の言動を疑うアダムスらは博士の不在中に書斎を調べ、彼の秘密を知った。
20万年前滅びたクレール人の残した怪物、いわば“観念の具象化”ともいうべき、考えたことが直ちに実現するという存在に博士は“悪”の面を利用して隊員を襲わせたのだった。
秘密を知られ、心の平静を失った博士は誤って怪物に襲われる。
彼は娘の命を助けるため連鎖反応で実験室を破壊し博士と怪物、そしてアルテアは永久に宇宙から消滅。
アダムスの艇はロボットのロビイとアルティラを乗せ、爆発寸前に辛うじて惑星から脱出した。


寸評
今のようなグラフィックス技術がない時代の特撮映画としては、そのクオリティは非常に高いものがある。
日本映画でも「宇宙大戦争」などの宇宙物が撮られていたが、プラモデルのような宇宙船におもちゃのような機械装置が並んでいる作品が多かったように思う。
日本の特撮映画は子供向けのような内容だったが、この「禁断の惑星」は大人を対象とした作品である。

宇宙船の形状は陳腐だが、セットは本格的な物で凝っている。
惑星第4アルテアは地球とよく似た環境で宇宙服もいらない設定となっている。
消息を絶っていた一団の中でモービアス博士(ウォルター・ピジョン)だけが生き残っていて、彼にはこの惑星で生れた娘アルティラ(アン・フランシス)がいる。
父と二人だけで生きてきたアルティラは異性を愛する感情が乏しくキスも知らないので、ジェリー大尉(ジャック・ケリー)からキスをすれば元気になると言われ、キスされてもそれを信じて元気にならないとそっけない態度である。
しかしアダムス機長(レスリイ・ニールセン)に対しては別の感情が湧いてくるという、そのあたりの描写は非常に淡白で、感情の変化をもう少し面白く描けたはずだ。

アルテア4にはかつて、人類が及びもしない極度に発達した科学を創り上げ進化した「クレール人」が先住民族として存在していたが今は遺跡だけが残っている。
博士はその遺跡を秘かに研究しているのだが、そこには巨大なエネルギーを生成する装置が残されていて、その装置をめぐるアイディアがこの映画を大人向けとしている。
この星には透明人間のような怪物がいて、20年前には研究者の一団を襲い、今またアダムス機長たちを襲ってくるのだが、この怪物の正体が面白い着想だ。
怪物の正体はモービアス博士の潜在意識、自我そのものだということであり、そしてモービアス博士の潜在意識とは憎しみであり、それは装置によって増幅されたものである。
非常に進化していたクレール人も自分たちの潜在意識を制御しきれず、巨大なエネルギーでお互いに殺し合って自滅していたというのも面白いし説得力もある。
怪物をやっつけるにはモービアス博士を殺すしかないと言う悲劇性を全面に出しても良かったような気もする。

人間から憎しみの感情を取り除くことは至難の業である。
この感情がある限り争いは絶えない。
人間に潜む憎しみと言う怪物が国内の分裂、世界の紛争を生み出している。
我々は全能の神ではないので、平和の灯台となるべきモービアス博士が生きてこの地球に現れないものかと祈るしかないのかと思う昨今の世界情勢である。

あのトラはなぜアルティラを襲ったのだろう?
僕は疑問を解決できていない。
登場するロボットのロビイは、SFに登場するロボットのひとつのモデルになっていると思われる。

金閣寺

2022-06-11 08:18:12 | 映画
「金閣寺」 1976年 日本


監督 高林陽一
出演 篠田三郎 市原悦子 柴俊夫 横光勝彦
   島村佳江 内田朝雄 加賀まり子
   水原ゆう紀 テレサ野田 ダン・ケニー

ストーリー
溝口(篠田三郎)は、吃音コンプレックスに悩み、心に暗いかげりを抱く青年である。
彼は少年の頃から、この地上で金閣寺ほど美しいものはない、と父に教えられ、金閣寺を美の象徴として憧憬していたが、父の死後、遺言によって金閣寺の徒弟となった。
溝口には金閣寺と同じように自分の半生を支配している初恋の女性・有為子(島村佳江)という存在があった。
少年の頃、有為子に話しかけようとするが言葉にならず、罵倒され、冷たく拒否され、以来溝口はひたすら有為子の死を願うようになる。
が、やがて彼女は脱走兵をかくまい射殺されてしまう。
彼女の美しい肉体は喪失したが、有為子は溝口の心の中に生きつづけているのだった。
溝口は鶴川(柴俊夫)という友人を得、老師(内田朝雄)のはからいで二人は大学に進学し、美青年・柏木(横光勝彦)を知った。
柏木に惹かれていく溝口は、彼の手びきで、次々と女と接し犯す機会を与えられた。
しかし、その度に突如現われる金閣寺の幻に上ってセックスはさまたげられる。
彼は人生をはばみ、自分を無力にしている金閣寺を憎悪するようになっていった。
柏木は金閣寺の永遠の美を批判し、溝口を背徳に誘う。
その背徳は老師との間にも垣根を作ることになり、ついに老師も彼に背を向けた。
寺のあと継ぎになることで現世的に金閣寺を支配するという望みも失なわれ、鶴川の突然の死も彼には激しいショックだった。
全てに裏切られ、背を向けられた溝口に残されたものはただ一つ、非現世的な美との対決--金閣寺を焼かねばならぬ--ということだけだった。


寸評
三島由紀夫の「金閣寺」を原作とした名作に市川崑の「炎上」があり、本作は二度目の映画化である。
僕は現時点で三島の原作を読んでいないので、どちらが原作に近いのかは分からないが、溝口と言う男の内面は「炎上」の方が上手く描けていたと思う。
溝口はこの世の欺瞞と醜い嘘を体験する。
父が住職をする寺で母親が住み込んでいる男と関係を持つ現場を目にする。
年老いた父はそれを知っていながら見るなと溝口の目を覆い隠す。
溝口は美しい有為子に想いを寄せていたが、吃音の彼は上手く気持ちを伝えることができない。
有為子にひっぱたかれて拒否されたばかりか、「しゃべれない者が!」と罵倒されてしまう。
溝口は有為子の死を願うようになるが、実際に彼女は関係を持った脱走兵によって殺されてしまう。
願ったことへの後ろめたさもあっただろうが、有為子は溝口の永遠の女性として彼の中に生き続け、彼女は溝口にとって美の象徴となる。
その美は想像の中にあるのだが、現実の美として金閣寺が彼女と同化していく。
溝口は女性と関係を持つ機会を度々持つが、そのたびに金閣寺が現れて行為をやめてしまう。
金閣寺は有為子でもあり、彼はその時に至って永遠の女性の有為子を思い浮かべてしまうのだろう。
溝口は南禅寺の山門から見下ろした部屋で、加賀まりこが男の飲むお茶の器に乳房から出る乳を注ぐ場面を目撃し、彼女も彼の中に存在することになるが、やはり同様の理由で最後の一線を乗り越えることが出来ない。
俗人ならば有為子を重ね合わせて相手の女性と関係を持つだろうし、その方が人間らしい。
未練たらしい男の性(さが)だと思うが、叶わぬ恋の相手との情事はそのようにしてでしか成就できないと思うものの、それは三島の世界ではないのだろう。
溝口が吃音であることも影響して、彼には絶対的な美への嫉妬があったのかもしれない。
彼の描く理想に対して現実は余りにもかけ離れている。
溝口は自分のハンデに対するコンプレックスを乗り越えることが出来なかった男である。
彼と対照的なのが同じようにハンデを背負った柏木で、彼は自分のハンデを武器にして次々と女性と関係して金も貢いでもらっている。
鶴川は溝口にそのような柏木と付き合うなと忠告するが、まっとうなことを言った鶴川はあっけなく死んでしまう。
この世の中にまっとうなことなどないという暗い気持ちになってしまう。

「炎上」では溝口は死を選ぶが、この「金閣寺」では生きる方を選んでいる。
ラストシーンで彼は燃え上がる金閣寺を山の上から煙草をふかして眺めているのだが、この時の彼は何を考えていたのだろう。
自分を縛っていた呪縛からやっと逃れたと言う満足感だったのだろうか。
それとも煩悩を持ちながら、これからも生きて行こうと決意したのだろうか。
僕は彼の表情から勝者の陰りを感じなかったし、もやもやが溜まったまま終わってしまったような気分になった。
そもそも溝口は米兵に連れられてきた女性を踏みつけておいて、その事実をやっていないと鶴川に語り、目撃者もいないのだから事件になるはずはないのだとうそぶいていた男で、僕はそのような溝口に肩入れすることも同情を寄せることも出来なかったのだ。

ギルバート・グレイプ

2022-06-10 08:02:42 | 映画
「ギルバート・グレイプ」 1993年 アメリカ


監督 ラッセ・ハルストレム
出演 ジョニー・デップ
   ジュリエット・ルイス
   メアリー・スティーンバージェン
   レオナルド・ディカプリオ
   ダーレン・ケイツ
   ローラ・ハリントン

ストーリー
人口千人ほどの田舎町、アイオワ州エンドーラで、24歳のギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)は、大型スーパーの進出ではやらなくなった食料品店に勤めている。
日々の生活は退屈なものだったが、彼には町を離れられない理由があった。
知的障害を持つ弟アーニー(レオナルド・ディカプリオ)は彼が身の回りの世話を焼き、常に監視していないとすぐに町の給水塔に登るなどの大騒ぎを起こすやんちゃ坊主。
母のボニー(ダーレーン・ケイツ)は夫が17年前に突然、首吊り自殺を遂げて以来、外出もせず一日中食べ続けたあげく、鯨のように太ってしまった。
ギルバートはそんな彼らの面倒を、姉のエイミー(ローラ・ハリントン)、妹のエレン(メリー・ケイト・シェルバート)とともに見なければなれなかった。
彼は店のお客で、中年の夫人ベティ・カーヴァー(メアリー・スティーンバージェン)と不倫を重ねていたが、夫(ケヴィン・タイ)は気づいている。
ある日、ギルバートは沿道にキャンプを張っている美少女ベッキー(ジュリエット・ルイス)と知り合い、2人の仲は急速に深まるが、家族を捨てて彼女と町を出ていくことはできなかった。
そんな時、ベティの夫が死亡し、彼女は子供たちと町を出た。
アーニーの18歳の誕生パーティの前日、ギルバートは弟を風呂へ入れさせようとした時、いらだちが爆発して暴力を振るってしまい、いたたまれなくなって家を飛びだした彼の足は、自然にベッキーの元へと向かった。
華やかなパーティも終わり、愛するアーニーが18歳を迎えた安堵からか、ボニーが2階のベッドで眠るように息を引き取ると、母の巨体と葬儀のことを思ったギルバートは「笑い者にはさせない」と決心し、家に火を放つ。
一年後、ギルバートはアーニーと、町を訪れたベッキーのトレーラーに乗り込む。


寸評
レオナルド・ディカプリオがすごい!
知的障害を持つアーニーを演じているが、この演技がこの映画を支配している。
とは言え、主人公は長男のギルバートである。
彼は肉親に拘束され町を出ることも、自由に飛び回ることもできない。
父親は自殺しており、そのショックからか母親は食べ過ぎてギルバートからクジラだと言われるくらい太っている。
その巨体は町の子供たちの好奇の対象でもあり、家族はその巨体を恥じている。
母親が家に引きこもっているのは、その巨体の為だ。
そんな母親をギルバートも、姉のエイミーも、妹のエレンも見捨てるわけにもいかず、せっせと世話を焼いている。
そんな母親がたった一度家を出て、保安官事務所に補導されたアーニーを迎えに行く。
所長は旧知の間柄らしく、呼び捨てにしてアーニーを連れ戻すのだが、母親は醜い姿になって人目をはばかるようになっていても、自分の子供への愛情は人並み以上なのだと訴える感動的なシーンとなっている。
ここでも母親は町の人から好奇の目を向けられ、中には写真を撮る者もいるという状況が痛ましい。

知的障害を持つ弟の面倒を見ているのがギルバートで、彼は職場の食料品店にも連れていき、一日中アーニーと過ごしている。
動けない母親と、知的障害の弟を抱えギルバートはどうすることもできない。
そんな環境に対するイライラが内在しているギルバートのはずだが、そのイライラを表立って見せないのは上手い描き方で、彼の立場につい同情を寄せてしまう。
同情は一歩離れた他人の感情で、自分が彼の立場だったらと思うと恐ろしくもある。
母親は太っている以外は普通という状態だが、見ている限りでは要介護者だ。
介護が必要な家族がいる事の大変さは、少なからず僕も経験しているが、世の中の人は僕の経験などとは比較にならないほどの苦労をしているはずだ。
おまけに給水塔に登って何度もパトカーのお世話になっている弟を抱えているのである。
そんな彼のはけ口が中年夫人ベティの不倫相手になることだったのだろう。
妻が不倫しているというこの家庭も変で、夫は気付いているような所があって、子供に対しても極端な行動を見せている。
結局、心臓マヒを起こして子供用のビニールプールで溺死してしまうのだが、街の人は妻が殺したのではないかと噂をしているという始末なのだ。
ギルバートはそんな異様な人間に囲まれていたということになるのだが、それを救うのがベッキーである。
しかし彼女も定住者ではなく、母親とキャンピングカーで旅しているという女性である。
どうやらギルバートの居る町の近くはキャンピングカーの集積地の様で、毎年列を連ねてやってきている。
ギルバートはベッキーと恋に落ちるが、母親や弟を棄てて出ていくことが出来ない。
悲しいことに、そんな彼を救うのが母親の死である。
クレーンで運び出されるのを見物に来る町の人を予想し、家財道具を運び出して家ごと火葬してしまう。
切ないシーンだが、燃え上がる家が美しいシーンでもある。
憂鬱になってくる映画だが、最後になってやっと救われた気分になった。

霧の中の風景

2022-06-09 07:38:00 | 映画
「霧の中の風景」 1988年 ギリシャ / フランス


監督 テオ・アンゲロプロス
出演 ミカリス・ゼーナ
   タニア・パライオログウ
   ストラトス・ジョルジョグロウ
   エヴァ・コタマニドゥ
   ヴァシリス・コロヴォス

ストーリー
11歳の少女ヴーラと5歳の弟アレクサンドロスは、ドイツにいる父に会いに行きたい気持ちを持ちながら、列車に乗る勇気はなかったのだが、ある日ついにふたりは列車に飛び乗った。
切符がない2人はデッキで身を寄せて眠り、そしてヴーラは父に向けて話しかけるのだった。
無賃乗車を車掌にみつかった2人は途中の駅で降ろされ、ヴーラは駅長に伯父さんに会うのだ、と答える。
伯父の勤める工場のコントロール・ルームで警官に、「ふたりは私生児で父はいない」と語る伯父の話を立ち聞きしたヴーラはショックをうける。
そして警察署に連れていかれたふたりはそこから逃げ出し、夜行列車に乗り込み、旅を続けるのだった。
山道で、ふたりはオレステスという旅芸人一座の青年の運転するトラックに乗せてもらい、町はずれの広場にやって来る。
その夜、2人はオレステスから霧がかかったように白いだけで何も写っていないフィルムの切れはしをもらう。
雨のハイウェイで2人はトラックの運転手の車に乗せてもらうが、翌朝アレクサンドロスが眠っている間にヴーラは運転手に犯される。
ふたりの乗った列車に警官たちが乗り込んできて、逃げた工場で二人はオレステスに再会する。
ふたりはオレステスのオートバイで海岸を走り、テサロニキ駅にたどりつくと夜の列車に乗ることにした。
徴兵され軍に入るオレステスは、オートバイを売るためひとりの青年と出て行き、残されたふたりは追いかけてきたオレステスを振り切り、夜のハイウェイを歩く。


寸評
姉のヴーラと弟のアレクサンドロスは12歳と5歳の姉弟で、母親はいるが映画では登場せず、父親の存在自体は謎に包まれている。
何度も駅を訪れていた姉弟だが、ある日とうとう「乗っちゃった!」 と列車に飛び乗り 嬉しそうに抱き合う。
家出してきたのだと分かるが、母親が心配する姿などは描かれない。
二人は保護された警察を抜け出すが、部屋の外にいたおばさんが「首に縄を巻いた」と恐ろしい言葉をつぶやく。
謎めいてきて二人が外の飛び出すと、全ての人が降ってくる雪を眺めて上を見上げている。
時間が止まってしまったかのように誰もが固まっている中を、生き生きと走り出すのは2人だけで、もう誰も姉弟を止めることはできないと告げている。
この映像は詩的で美しく非常に印象に残るシーンである。
結婚式場から逃げ出してきた花嫁が出てきて、死にかけた馬が引きずられてくる。
連れ戻された花嫁が皆に祝福されて楽し気に出てくる。
何が何だか分からないが、幼い2人が旅をすることによって様々な経験を積んでいくという事なのだろう。
僕にとって、これは旅を通じた子供たちの成長物語なのだと匂わされたシーンである。

二人はオレステスという旅芸人の男の車に乗せてもらうが、このオレステスは重要な人物となる。
途中でヴーラが疲れて寝ている間にアレクサンドロスは一人である店に入りサンドイッチを注文する。
店長が「お金はもっているのか」と聞くと、アレクサンドロス「お金はないが。お腹がすいた」 と何度も答える。
店長は「食うには金がいる、なかったら稼ぐんだ」と仕事を命じる。
幼い弟も、働くことで食べ物が手に入ると理解するので、やはりこれは成長物語なのだと思わされる。
オレステスと対比するようにトラック運転手が登場し、幼いヴーラが残酷な目に合う。
それをワンカットで撮っているのだが、直接的シーンがないにもかかわらず凄みを感じさせるものとなっている。
運転手の男がヴーラに来いと強引に迫り、ヴーラはドアから出て逃げる。
寝ている弟が映る後ろで彼女が男に捕まってしまうのが見え、そしてトラックの荷台に連れ込まれてしまう。
映像はそのままで荷台のシートが映され、その奥で何が行われているかを想像させる。
寝ていたアレクサンドロスが姉のいないことに気づき「ヴーラ!」と叫び姉を探しに走り去ると、男がやっと荷台から出てくる。
ここまで全景をずっと映していたカメラはここでヴーラの悲痛な姿に寄り添っていくと衝撃的なシーンが現れる。
姉弟は喜びも楽しみも、苦しみも悲しみも、それが人生だとすべてを経験しなければいけないのだ。
そしてヴ―ラはオレステスが言う新しいものを発見する。
それは人を愛する気持ちだったのだが、それも事実を知って哀しい別れとなる。
ドイツに着いた彼らは霧の中にネガフィルムの中にあったあの一本の木を発見する。
絵画のような映像が徐々に動き出し、姉弟はその木に寄り添う。
木は父親の象徴だが、姉弟はどうなったのか。
ドイツに行く前に渡った川で「止まれ!」と叫ばれ、霧の中に銃声が響いた。
撃たれたが弾は当たらず父に巡り合えたのか、それとも小舟の上で撃たれて死んでしまい、あれは彼らの夢を描いていたのだろうか、どちらにしても、木はまるで父親のようにやさしく姉弟を包み込んでいた。

去年マリエンバートで

2022-06-08 07:04:55 | 映画
「去年マリエンバートで」 1960年 フランス / イタリア


監督 アラン・レネ
出演 デルフィーヌ・セイリグ
   ジョルジョ・アルベルタッツィ
   サッシャ・ピトエフ

ストーリー
豪奢だが、どこか冷たいたたずまいを見せる城館に、今日も富裕らしい客が、テーブルを囲み、踊り、語って、つれづれをなぐさめている。
まるで凝結したような、変化のない秩序に従った生活で、誰も逃げ出すことの出来ない毎日なのだ。
この城館の客である一人の男が、一人の若い女に興味をもった。
女とは去年に会っていた、マリエンバートで……。
そして男は女に、「過去に二人は愛しあっていた、彼は女自身が定めたこの会合に彼女を連れ去るために来た」と告げた。
男はありふれた誘惑者なのか、気ちがいか?女はこのとっぴな男の出現にとまどった。
だが男は真面目に、そして執拗に、過去の物語を話して聞かせながら言葉をくり返し、証拠を見せる…。
女は相手を認めるようになったが、女は今迄自分が安住していた世界を離れることに恐怖を感じた。
それはやさしく、遠くから彼女を監視しているようなもう一人の男、多分彼女の夫である男によって表現される世界であった。
今や苦悩は女の現実であり真実となり、現在と過去はついに混り合った。
三人の間の緊張は女に悲劇の幻想さえおこさせたが、ついに女は男の望んだ通りの存在であることを受け入れ男とともに、何ものかに向って立ち去った。
それは、愛か、詩か、自由か、……それとも死かもしれないのだが……。


寸評
人気のない大きな邸宅の内部の装飾された天井や壁画が、ゆっくりとしたカメラの移動で映しとられるシーンで始まるが、いつまで続くとのかと思うくらいかなり長く感じるシーンとなっている。
まるで主人公がゆっくりと歩いている風にも見えるが姿は見えない。
やがてこの館に集まっている人々であろうか、正装した男女が徐々に登場してくるが動きがない。
ストップモーションではなく、彼らは動きを止めているのだが、何故静止しているのかはわからない。
人々は館内にある劇場で演劇を見ているが、服装からして上流階級の人たちのように思える。
芝居が終わると儀礼的なスタンディングオベーションを送るが、ここでも彼らは動きを止める。
まったく動かない人々は度々登場してくるが、無表情に見える彼らなのだが瞳の輝きだけは失っていない。

「去年マリエンバートで」は僕にとっては難解な映画である。
まずドラマらしいドラマがない。
意味ありげな独白が続くが、僕はその意味するところも良く分からなかった。
これは僕のような平凡な人間でもわかるドラマではなく、この男の心の中、想念の世界を描いた映画なのだ。
人間関係もよく分からないが、想像するに男は女と去年マリエンバートで出会っている、あるいはそう思っているのだが、女には夫がいるようだ。
男の思い込みにしては、その記憶は鮮明に思える。
男は関係があったのか、見かけた女に魅かれたのか、女を愛している風でもある。
男は夫らしき男とパズルのようなゲームをするが常に負けてしまう。
なかなか夫から愛する女を奪うことができないでいるように見える。
そう思えば、男が射撃場で射撃の練習をするシーンもその事を言っていたのかもしれない。
パンパンと銃撃の音が聞こえていて、男が振り向きざまに拳銃を発射すると銃撃音は聞こえず、いきなりカットが変わって女が歩いてくるシーンに変わる。
僕の飛躍かもしれないが、拳銃は男性器の象徴で、彼は女を射止めることが出来なかったと言う事ではないのかと思ったりした。
そんなことに思いをはせながらこの映画を見なくてはならないので、非常に疲れる。
普通だと眠気が襲ってきそうなものだが、それぞれのシーンに何故か迫ってくるものがあり瞼は閉じない。

映画は過去と現在を行き来するが、それも男の幻想の世界なのかもしれない。
なぜなら、男はさんさんたる太陽の下で愛を語り合ったのだと言っているのだが、館の人の会話では「去年の今頃はマリエンバートは大変な寒さで噴水の水も凍った」ということが語られていたのだから、男はやはり思い込みの世界に居たのかもしれない。
しかし、いったいこの映画は何を言いたかったのだろう。
思いを寄せた女性を空想の中で想った時に、出来なかったことを想像したり、また物語を作り込んでその中で思いを遂げるという経験は人によってはあるかもしれない。
そんなことを描いた映画だったのかなあ・・・。
でも、女は男と共にすることを選んだようにも思えるラストでもあったしなあ。。。わからん。

清須会議

2022-06-07 08:02:29 | 映画
「清須会議」 2013年 日本


監督 三谷幸喜
出演 役所広司 大泉洋 小日向文世 佐藤浩市
   妻夫木聡 浅野忠信 寺島進 でんでん
   松山ケンイチ 伊勢谷友介 鈴木京香
   中谷美紀 剛力彩芽 中村勘九郎
   天海祐希 西田敏行

ストーリー
天正10年(1582年)。本能寺の変で、一代の英雄・織田信長(篠井英介)が明智光秀(浅野和之)に討たれた。
長男の忠信(二代目中村勘太郎 )も討ち死にし、にわかに織田家の後継争いが勃発する。
跡を継ぐのは誰か……。
後見に名乗りをあげたのは、筆頭家老・柴田勝家(役所広司)と後の豊臣秀吉・羽柴秀吉(大泉洋)であった。
勝家は、武勇に秀で聡明で勇敢な信長の三男・信孝(坂東巳之助)を、秀吉は、信長の次男で大うつけ者と噂される信雄(妻夫木聡)を、それぞれ信長の後継者として推す。
勝家、秀吉がともに思いを寄せる信長の妹・お市様(鈴木京香)は、最愛の息子を死なせた秀吉への恨みから勝家に肩入れ。
一方、秀吉は、軍師・黒田官兵衛(寺島進)の策で、信長の弟・三十郎信包(伊勢谷友介)を味方に付け、秀吉の妻・寧(中谷美紀)の内助の功もあり、家臣たちの心を掴んでいくのだった。
そんな中、織田家の跡継ぎ問題と領地配分を議題に“清須会議”が開かれる。
互いに一歩も引かぬまま、いよいよ決戦の清須会議へと臨む勝家と秀吉。
重臣の一人である滝川一益(阿南健治)は戦場から急いで戻るが官兵衛の策略もあって遅れてしまう。
会議に出席したのは、勝家、秀吉に加え、勝家の盟友で参謀的存在の丹波長秀(小日向文世)、立場を曖昧にして強い方に付こうと画策する池田恒興(佐藤浩市)の4人だった。
様々な駆け引きの中で繰り広げられる一進一退の頭脳戦。
騙し騙され、取り巻く全ての人々の思惑が猛烈に絡み合っていき、日本史上初めて合議によって歴史が動いたとされる、同会議に参加した人々の複雑な心情が明らかになる・・・。


寸評
三谷幸喜は喜劇を追求している監督であるが、時折自己満足的な強引な笑いを求めるような演出も見られる監督だが、今回は技巧に走ることもなく本筋から外れた笑いもないので成功の部類に入る作品になっていた。
まず題材の清洲会議そのものがユニークな出来事で、それ自体が面白い出来事だ。
諸説ある中から面白い方を選択してまとめあげている。
例えば滝川一益は、直前の神流川の戦いでの敗戦を口実に参加を拒まれたとの説もあるが、関東地方へ出陣中で欠席した方を採用している。
映画ではさらに飛躍して、急いでかけ戻ってくるが黒田官兵衛の策略で間に合わなかったことにしていた。
信長と共に死んだ長男の信忠の妻は史実通り前田玄以らによって清須に落ち延びるが、信忠夫人の出自も諸説ある中で一番面白いと思われる武田信玄の娘・松姫説をとっている。
絶世の美女だったとも言われているお市の方は、周りが羨むほど仲睦まじかったという夫の浅井長政を責め滅ぼされ、長男の万福丸は捕われて殺害されているので秀吉を恨んでいたのはあながち嘘ではあるまい。
お市の方は柴田勝家と再婚するが、それは織田信孝の仲介によるとされてきたが、近年は羽柴秀吉の仲介を伺わせる書状から、秀吉の仲介であった説が有力となっていると聞くが、映画の中では秀吉憎しから、お一の方から勝家に言い寄っていた。
歴史を知らなくても楽しめる作品だが、歴史を知っていた方が楽しめる作品であることは確かだ。

中心になるのは柴田勝家と羽柴秀吉の対立なのだが、そこに丹羽長秀や池田恒興、信長の妹お市などが絡んでスッタモンダの大騒ぎをやらかす。
粗野な勝家、狡猾な秀吉、復讐に執念を燃やすお市、優柔不断な恒興など登場人物のキャラを明確にしているのも分かりやすくていい。、
演じるのが実力者揃い だし、端役にまで大物役者が登場する豪華版なので、それを見るだけでも楽しい。
バカな織田信雄を演じる妻夫木聡などは登場場面も多いが、女忍者の天海祐希や北条方の武将の西田敏行、森蘭丸の染谷将太、後に三法師の守役となる堀秀政の松山ケンイチ などはわずかのシーンだ。

大泉洋の秀吉はキャラとしてあれぐらいの大芝居をやっても不思議ではないが、役所の柴田勝家は面白い。
甕割柴田と言われた勝家だから豪快な武将をイメージするが、ここでの勝家はお市恋しさだけの粗野で軽薄な男を面白おかしく演じている。「らっきょう」が度々登場して笑わせる。
「この歳になって夢中になれるものが見つかった」としみじみと語らせたりもしているが、お市の部屋をのぞき込む滑稽な姿や、足の裏で丹羽長秀を突っついたりするシーンがあって、案外と戦国の世に生きた彼等はそのような仕草をしていたのかもしれない。
秀吉に取り込まれてしまう勝家の軽薄さを愉快に演じる役所を見ていると、何でもやっちゃう人なんだなあと感心する。
剛力彩芽の松姫の野望エピソードは面白かった。武田のちを絶やさないという遠謀を巡らすが、仮に彼女が武田の血を引いていたとしても、成人した三法師は関ヶ原で西軍に与して高野山へ追放されて生涯を閉じているから、結局武田の血は途絶えてしまうことになる。
結果を知って見る歴史は面白い。この作品は歴史好きが茶々を入れながら気楽に見ることができる作品だ。

姉妹(きょうだい)

2022-06-06 06:21:35 | 映画
「姉妹」 1955年 日本


監督 家城巳代治
出演 野添ひとみ 中原ひとみ 内藤武敏
   望月優子 河野秋武

ストーリー
圭子(野添ひとみ)と俊子(中原ひとみ)の姉妹は、山の中の発電所の社宅に住む両親(河野秋武、川崎弘子)のもとをはなれ、学校に通うために、都会の伯母の家に厄介になっていた。
姉の圭子は十七歳、五人姉弟の長女のせいか家庭的な大人しい性質だが、妹の俊子は三つ年下の天真らんまん型。
姉妹の伯母お民(望月優子)のつれ合いの銀三郎(多々良純)は大工の棟梁で大の酒好きである。
時にはいさかいもあるとは云え、夫婦は至って好人物で、姉妹はこの庶民的な伯母夫婦に愛されながらすくすくと成長していた。
俊子はある日、同級生のとしみ(野口綾子)の家へ遊びに行き、としみの姉(田中稲子)と弟が二人共障害者なのを知って、幸福は金で求められるものでないと思った。
冬休みが来て、二人の姉妹は山の中の父母のところへ帰り、久し振りで戻ったわが家で近所の青年男女と共につつましく楽しい正月をすごした。
新学期が来て、姉妹は伯母の家の近所に住む貧しいはつえ(城久美子)の一家と知り合ったり、花札とばくで伯父が警察へ連れて行かれたりするような経験にめぐり合った。
やがて圭子は学校を卒業し、俊子は寄宿舎へ入った。
山の発電所にも人員整理の波が押し寄せ、真面目な父親の健作は、周囲の人達の苦しい生活をはばかって、俊子の修学旅行をも控えさせたが、俊子はそうした悲しみにも耐えた。
やがて圭子の嫁ぐ日が来たが、俊子は姉の圭子が正月のかるた会で一緒だった岡青年(内藤武敏)と好き合っていたものと思い、ひそかに気をもむのだった。


寸評
野添ひとみ、中原ひとみ、というダブルひとみで仲の良い姉妹を描いた健全映画である。
僕は一人っ子で兄弟の関わり合いを知らないで育ったので、彼女たちのような兄弟の関係を見せられると羨ましく思えてくる。
もっとも兄弟姉妹と言えども皆が仲が良いわけではなく、血のつながった兄弟だからこそ骨肉の争いもあるのが現実で、遺産相続などでのもめ事を噂話として耳にする事がある。
幼い頃は仲の良かった兄弟が疎遠になるのも珍しいことではない。
ここで描かれた姉妹は、時には言い争いをすることも有るが模範としたいような姉妹愛で結ばれている。
学校に通うために叔母のところで世話になっている野添と中原の青春がみずみずしく描けている。
物語の構成上で二人の性格は正反対に描かれる。
姉は誠実で実直、妹は現実的で無垢で経済観念がないという単純図式ではある。

中原はおこずかいをすぐ無駄使いし、いつも姉の野添に注意されている。
端的に現れるのが二人が実家に帰省した時の場面である。
野添は三人の弟たちにおみやげを買ってくるが、中原はお金が無く買って来ていない。
弟たちは姉を持ち上げ妹を非難する。
その時父親は、「お土産を買ってこられる人もいるし、買ってこられない人もいる。大事なことはどんな時でも温かく受け入れてあげる家族でいることだ」と諭す、実に道徳的な映画なのだ。
中原はただ見たままを口にして世の中の不条理を訴える純真な妹なのだ。
時にユーモアを交えながら溌溂とした姉妹を描く中で、世の中の不合理や差別を描き込んでいる。
友人のはつえが掃除もできないというので二人は掃除をしに行ったのだが、はつえから「この家は皆結核持ちだからくるな」と言われ帰っていく。
盲目の父がいて貧しいこの家庭に国も社会も支援できていない。
まだまだ社会保障が十分でない時代だったのだ。
野添は浮気男と同じ車両に乗るのも嫌な潔癖さを見せるが、中原は浮気の相手の女性を擁護するような発言をしているから、中原は当時芽生えつつあった新しい概念の持ち主の代表者として描かれているのだろう。

僕が面白いと思ったのは野添の結婚問題である。
野添は内藤武敏が演じる岡という青年に好意を抱いているようで、岡もまんざらでもないそぶりである。
しかし結婚となれば違うと、野添は両親も賛成している銀行員との結婚を選ぶ。
岡も野添はこの様な土地で生きる人ではないと、中原の訴えにはそっけないのだが、それは岡の愛する人への思いやりであろう。
岡がずっと思ってきたことなので、めそめそしたり悔んだりするようなそぶりはまったくない。
このさっぱりした描き方は、むしろ新鮮感さえあった。
それでも野添の嫁入りのシーンはグッとくるものがある。
家から出てくる花嫁姿の野添を村人が祝福して迎え、浮気した女性も幸せにと手を振って見送る。
僕の子供の頃にはあった、このようなコミニティが消え失せてしまったのは淋しい限りだ。

キャロル

2022-06-05 07:07:44 | 映画
「キャロル」 2015年 ギリス / アメリカ / フランス


監督 トッド・ヘインズ
出演 ケイト・ブランシェット
   ルーニー・マーラ
   サラ・ポールソン
   ジェイク・レイシー
   カイル・チャンドラー
   ジョン・マガロ

ストーリー
1952年、クリスマス目前の活気あふれるニューヨーク。
フォトグラファーという夢を持ちマンハッタンに出て来たテレーズ(ルーニー・マーラ)は、高級百貨店のおもちゃ売り場でクリスマスシーズンの臨時アルバイトをしている。
そんなある日、テレーズの前に、娘へのクリスマスプレゼントに人形を探しているゴージャスな毛皮のコートを着た女性キャロル(ケイト・ブランシェット)が現れる。
エレガントで洗練された美しさを持ち、裕福そうなのにどこかミステリアスな雰囲気を醸す彼女に、テレーズはたちまち心を奪われる。
送り先伝票からキャロルの住所を知ったテレーズがダメ元でクリスマスカードを書くと、すぐにキャロルから連絡が届く。
二人は会うようになり、キャロルは離婚訴訟真っ最中の人妻で、娘の親権を巡って泥沼の争いをしていることを知る。
婚約者からの求婚のプレッシャーや、これからのキャリアに対する不安からストレスを感じているテレーズは、クリスマス休暇に別居中の夫ハージ(カイル・チャンドラー)に娘を取られて孤独なキャロルから車での小旅行に誘われる。
テレーズは生まれて初めて本物の恋をしていると実感し、キャロルとの愛の逃避行に出発するが、この旅がきっかけで二人の運命が思いがけない方向に向かうとは、まだどちらも気づいていなかった…。


寸評
アイゼンハワーの大統領就任とかが会話の中で出てくるのでその時代の話なのだと分かるのだが、クラシックでエレガントな衣装に始まり、きめ細やかな美術セットなどで時代色豊かな世界を醸し出していて、その映像は観客である僕を落ち着かせてくれた。
これは紛れもなく上質な恋愛映画である。
設定された年代では同性愛は病気とみなされていた背景が、今となってはその感情をより高貴なものと感じさせた。
キャロルには夫ハージとの間に出来た愛娘がいて溺愛している。
夫との仲は冷え切っているが、それはキャロルの同性愛嗜好によるものではなく夫の無理解から来ている。
キャロルは娘の名付け親でもあるアビーという女性とも親しくしているが、夫は彼女との仲も同性愛で結びついていると思っている。
かつてはそのような関係であったあったかもしれないが、アビーは今ではキャロルを理解してくれる唯一の人として存在している。
僕はこのアビーの存在が物語を深遠なものにしていたように思う。
これが中年の男と若い女性、あるいは中年女性と若い男性の不倫映画なら今までもよくあった話で珍しくもない。
しかしこれは女性が女性に恋する内容で、ともすると興味本位な作品に陥りそうなのだが、主演のケイト・ブランシェットとルーニー・マーラの落ち着いた演技が高度な芸術映画に昇華させていた。
恋人との恋愛に違和感を感じ、自分の将来を模索する若い女性テレーズ。
お飾りの妻であることを強要する周囲に耐えられない人妻キャロル。
二人の境遇はまったく異なるが、あふれる思いは抑えられない。それが恋愛だ。
キャロルは娘のために自分を殺して夫を交えた家族との食事会に同席するが、その形式ばった雰囲気と自分に対する評価に耐えることが出来ない。
これだけ価値観の違う者同士が一緒にいられるわけがないことは、観客である我々には理解できるが夫側の当事者たちにはわからない。
その苦悩を理解してくれるのがアビーでありテレーズなのだ。
キャロルはテレーズを守ろうとするのと同様にアビーもキャロルを守ろうとする。
同性愛であり不倫でもある二人の恋愛に不快感を感じない。
それは二人の愛が利己的なものでなく、愛に誠実で、自分が大切にする人間関係を守り抜こうとしているからだ。
ワイドショーを賑わす色恋沙汰のゴシップを見飽きている僕には、とても新鮮で崇高な恋愛に思えた。
それが不倫という形の上にあったとしてもだ。
僕は心底同性愛を理解しているとは言い難いが、それでもこの作品を見ると男女間ではない中にも清い恋愛はあるものだと思わされる。
「心に従って生きなければ人生は無意味よ」というキャロルの言葉に励まされるし、これこそ映画だと思わせてくれる雰囲気のある作品だ。
ラストで冒頭のレストランシーンに移っていく手際の良さに感心し、余韻を沸き立たせたラストシーンにゾクリときた。
ルーニー・マーラのまなざしも良かったけれど、ケイト・ブランシェットは貫禄あるわあ~。
ラストの微笑に底知れぬ迫力を感じた。
恋愛映画の秀作である。

木屋町DARUMA

2022-06-04 08:19:22 | 映画
「木屋町DARUMA」 2014年 日本


監督 榊英雄      
出演 遠藤憲一 三浦誠己 武田梨奈 寺島進
   烏丸せつこ 趙民和 宇野祥平 石橋保
   木村祐一 梶原雄太 尾高杏奈 勝也

ストーリー
かつて京都の木屋町を牛耳る組織を束ねていた勝浦茂雄(遠藤憲一)は、5年前のある事件で四肢を失った。
今では、ハンデのある身体で債務者の家に乗り込み、嫌がらせをして回収する捨て身の取立て稼業で生計を立てていた。
その手口とは、下の処理すらできないその躰で債務者の家に居座り続け、彼らが音を上げるまで嫌がらせを続けるというもの。
仲間の古澤(木村祐一)から世話を命じられた坂本(三浦誠己)の助けを借り、次々仕事をこなしてゆく毎日。
そこへ、真崎という一家に対する追い込みの仕事が入る。
その家族は、勝浦を裏切り、金と麻薬を持ち逃げした元部下サトシの身内だった。
勝浦は責任を取って今の身体になったのだが、事件に疑問を感じた坂本が過去を嗅ぎ回り始める。
人生が壊れてゆく債務者を見つめながら、薄汚い闇社会でもがく勝浦と坂本は、5年前のある真実を知ってしまう……。


寸評
映画の出来がどうのこうのと言う前にすごい映画だ。
タブーに次から次へと挑んでいく。
ヤクザ社会はもとより、聾唖者同志の結束につけ込んだものや、身障者に対する補助金問題にもふれていく。
それらの社会敵問題に正義ぶって切り込んでいくのではなく、社会の暗部の一部として描いていく。
ヤクザの裏社会のドロドロした世界と、酷い借金の回収により崩壊していく家族の姿を闇の世界にあぶりだしているのだ。
借金苦の親の犠牲になって女子高生が風俗の世界に落ちていく話もあるが、裸を登場させたエロい場面はなく、あるのはグロいシーンばかりだ。
エロ、グロ、ナンセンスという言葉があるが、二つはなくてグロテスクなシーンだけが存在している。
老人や障がい者を相手としたヤクザビジネスの怖さと、債務者やその家族をいたぶりつけることで精神が崩壊してく人間たちが描かれているが、それだけだったら遠藤憲一の勝浦は両手両足がない男である必要がない。
不通のヤクザとしても描けたはずだ。
四肢のない彼は肉体的には最も弱者である。
自分では何もできないから、相手が本気になれば立ち向かうことなどできない人間だ。
彼を介護する坂本というヤクザの存在があるが、係わった人間は四肢をなくしても生き続けている彼の迫力に気後れしてしまう。
それがラストシーンの状況に一番現れている。
借金苦の男が包丁をもって襲ってくるが、勝浦は「刺せるもんやったら刺してみい!」と凄むと、男は何もできなくなる。
その勝浦は坂本に抱きかかえられているだけなのだ。
兎に角この映画、達磨なヤクザ役の遠藤憲一の怪演につきる。

聾唖者たちの助け合いの輪を通じてマルチ商法をやらせたり、健常者の耳を聞こえなくして生涯手当をふんだくるとか、老人の年金をかすめとるとか、描くことがはばかられるようなことが描かれ、どこかの団体から抗議を受けそうな内容があるが、ヤクザ達はそんな非道をやっているに違いないとも思わせる。
優しそうに振舞いながら、いざという時に豹変するヤクザを木下ほうかが演じていたが、ある経験からリアリティを感じた。
遠藤憲一と木村祐一の義兄弟は友情で結ばれている(ように見える)。
しかし木村祐一は兄貴分である遠藤憲一に貫録でもってどうしても追いつけないコンプレックスを持っている。
それでも対等に付き合ってくれる兄貴分に感謝の気持ちも抱いている。
彼は坂本に「勝浦の世話をお前がするんやない、俺の代わりに勝浦の世話をするんや」と言っている意味がやがて分かる。
四肢を失った勝浦は裏切りも陰謀もすべてを知りながら、自分の生きる場所はそこにしかないと受け入れている。
二人友情は分かるが、ヤクザ者同志の友情などは映画の世界だけにしておいてほしい。

坂本は勝浦にシンパシイを感じていって、最後にはずっと車いすを押す介護者になろうとするが、あそこで終わっていれば暴力礼賛みたいになってしまうので、さすがにそれはしていなかった。
親の犠牲になって壊れていく少女を演じた武田梨奈がなかなか良かった。
ドもこの映画、一般劇場での公開が出来ない理由はわかる。
エグくグロすぎる。

キャプテン・フィリップス

2022-06-03 08:06:15 | 映画
「キャプテン・フィリップス」 2013年 アメリカ


監督 ポール・グリーングラス
出演 トム・ハンクス
   バーカッド・アブディ
   バーカッド・アブディラマン
   ファイサル・アメッド
   マハト・M・アリ
   マイケル・チャーナス

ストーリー
2009年3月28日、マークス海運に勤務するリチャード・フィリップス(トム・ハンクス)は、マークス・アラバマ号の船長としてオマーンからケニアへ援助物資を運搬するため、妻アンドレア(キャサリン・キーナー)や2人の子どもたちとともに暮らす米国バーモント州の自宅を出発。
到着したオマーンのサラーサ港では、ベテラン船長らしく手際よく出航準備を進めてゆく。
乗組員20名を乗せてマークス・アラバマ号は予定通りケニアのモンバサ港へ向けて出航するが、海賊の活動が激化する航路上で、2隻のモーターボートの追跡に気付いたフィリップスは警戒を指示。
ドバイの英国海運オペレーションとの交信を傍受した海賊も、一度は引き返した。
翌4月7日、再び追跡を始めた海賊がハシゴを使ってアラバマ号へ侵入。
大混乱の中、乗組員の大半は訓練通り機関室へ身を隠す。
海賊は4人で、英語が堪能なリーダー格のムセ(バルカド・アブディ )に、血気盛んなナジェ(ファイサル・アーメド )とエルミ(マハト・M・アリ)、そして、まだ少年の面影を残すビラル(バルカド・アブディラーマン)だった。
拘束されたフィリップスからの“金庫に保管した3万ドルの現金を提供する”という提案にムセは満足せず、ビラルとフィリップスを伴って他の乗組員を探し始める。
ガラス片を床にばら撒く、電源を止めるなどの時間稼ぎによって、機関室に隠れた乗組員たちが命を辛うじて繋ぎ止めると、やがて事態が急転し、隠れていた乗組員たちがムセの捕獲に成功した。
これにより、海賊たちは現金3万ドルを受け取ってアラバマ号の救命艇でソマリアへ向かうことを決断。
しかし、救命艇の発進直前、フィリップスが人質に取られてしまう。


寸評
日本の自衛隊も日本船舶の護衛を名目としてソマリア沖へ派遣されている。
海賊による襲撃が常態化し、航行する船舶の安全が国際的に問題となっているからで、国際貢献の名のもとに自衛隊が海外派遣されているのだ。
それほどソマリア沖の海賊行為は頻繁に行われているので、それを題材とした映画は歴史的な遺産として後年に残されておいてもいいのかもしれない。
その観点から言えば、なぜソマリアでは海賊が横行するのかの説明はなされていない。
海賊と言っても漁船に毛の生えたような足の速い小型船で接近して乗り移り、船員を脅迫して金品、あるいは船そのものを強奪したり、船員の人命と引き換えに身代金を要求すると言ったものだ。

ここでも武器を携えたソマリア人が2隻に分乗してマークス・アラバマ号を追ってくる。
海賊がどのようにして巨大な船舶を襲うのかが第一の見どころだ。
フィリップス船長の機転の利いた無線を傍受した一隻は離脱していくが、残った一隻は諦めずに追尾してくる。
何か武器があれば追っ払えそうな小型船だが、マークス・アラバマ号は民間船なので機関銃の様な武器は備えていなくて、対抗手段は人工波による防御と放水による撃退と、きわめて人道的なものである。
この攻防が結構見せる。

やがて海賊たちは乗船を果たすが、ここからが第二の見せ場となる。
船長は彼等に拘束されるが乗組員たちは機関室に隠れる。
船内の構造は船員たちの熟知している所で、機転を利かせて海賊たちに対抗していく。
トランシーバーで連絡を取り合いながら、危険を避け反撃を試みる様子がリアリティをもって描かれる。
活劇をメインに置いたフィクションならば、いきなり誰かが射殺されたり、海賊の誰かが船を自由に操縦したりするのだろうが、これは実話をもとにしているのでそうはならない。
米軍に攻撃されればひとたまりもない彼等は、船長たちが重要な人質であることが分かっている。
それでもこれはアメリカ映画なので、ソマリアの海賊は仲間を見捨て、怪我をしても助けない、人間的な思いやりが欠如している瘦せこけた野蛮人として描かれ、反対にフィリップスを演じるトム・ハンクスは、ソマリア人海賊に仲間の負傷者を手当てするよう促し、若い男には“君はいくつだ、16歳か、17歳か? こんなことをして、ここにいるには若すぎるな”と父親のような接し方をする。
正義のアメリカと、悪のソマリア海賊という図式で、このようなソマリア人を救うために世界の警察であるアメリカは戦っているのだと言いたげである。

第三幕となるのが乗組員を救うために海賊たちと一緒に救命艇に乗り移ったフィリップス船長の救出劇である。
海軍の出動に加えシールズの投入と米国は着々と手を打っていくのが映画的に描かれ、交渉のやり取りもなかなか真に迫っていて見応えがある。
救出されたフィリップス船長が恐怖と惨劇にワナワナと泣き崩れるのが真実味を出していて人間的だった。
後日談がテロップで示されるが、本国ではフィリップス船長が無謀に危険地帯に入って行ったとか、燃料を節約するためのコースを取ったために事件に巻き込まれたとする乗組員の証言もあるようである。

キャット・バルー

2022-06-02 07:53:02 | 映画
「キャット・バルー」 1965年 アメリカ


監督 エリオット・シルヴァースタイン
出演 ジェーン・フォンダ
   リー・マーヴィン
   マイケル・カラン
   レジナルド・デニー
   ナット・キング・コール
   ドウェイン・ヒックマン

ストーリー
教師として赴任先に列車で向かうキャット・バルーが同席した男は牧師ではなく酔っ払いのお尋ね者だった。
男はその列車で護送されている自分のおじさんを助けるためにその列車に乗っていた。
おじさんを逃がす途中でキャット・バルーに一目惚れして口説き始めるが、おじさんを助けた後は別れ別れになり、その後キャット・バルーはワイオミングで教師になり、数年ぶりに里帰りを果たす。
父親のいる牧場は馬がほとんどいなくなり、インディアンのジャクソンがカウボーイになっていた。
父親は土地にある水源を巡って新興の大工場の持ち主と対立しており村八分になっていた。
村の祭りに行くと乱闘騒ぎになり、そこで列車にいたならず者のクレイと再会し、父親の苦境からおじさんのジェドと共に用心棒として納屋に寝泊まりしてもらうことにした。
ただ二人は人を撃ったことはないため頼りないので、凄腕と評判の殺し屋シェリーンを雇うことにする。
いざシェリーンを連れてきて見るとアル中になっていたのだが、シェリーンは相手の殺し屋の名前がストローンであると聞くと表情を変えた。
父親を守ろうとするシェリーンの努力も空しく、ついに父親がストローンに殺されてしまう。
その上、大工場主の男達がやってきて、キャット・バルーたちは家と牧場からも追い出されてしまう。
キャット・バルーは父親の仇を撃つと心に決め、クレイ達と一緒に流れ者の町に逃げ込み、そこで列車泥棒を計画して大工場に持っていく従業員達の給料を盗んだ。
キャット・バルーのもとにストローンがやってきて、「お前が女じゃなければとっくに殺してるぞ」と脅した。
ついにシェリーンが本気でストローンと戦う決意をした。
シェリーンは風呂に入り、髪もジャクソンに切ってもらいガンマンの正装をして、工場主のハリー・パーシバルがなじみの風俗店に行き、一つずつ部屋を開けていきティムのいる部屋に入り、そこでストローンを殺した。
工場主のハリー・パーシバルは大勢の部下に流れ者の町にいるキャット・バルー達を襲いに行かせた。


寸評
西部劇でありながらミュージカルの様でもあり、また喜劇でもある作品である。
キャスティングの筆頭はジェーン・フォンダなのだが、アル中のリー・マーヴィンとストーリー・テーラーのナット・キング・コールが印象深い。
特にのシェリーンのリー・マーヴィンがよれよれの酔っ払いとして暴れまくり画面を圧倒している。
映画はキャット・バルーが牢獄に入っていて縛り首にされるところから始まり、何故彼女が縛り首になるのかを描いていく組み立てなのだが、コロンビアのマークがアニメになってキャット・バルーの説明本のページをめくる形でキャスト、スタッフが示されていくことがこの映画の雰囲気を出している。
キャット・バルーは教師をしていたが父親の牧場に帰ってくると父親は殺され牧場を追い出されてしまう。
この町を支配している大工場を経営するパーシヴァル卿を殺したことで、キャット・バルーは絞首刑にされるのだが、同情を集めても良さそうな彼女が町の人から嫌われている理由が、工場主を殺したので町の半数の人が職を失い給料をもらえなくなったからというのが面白い。
社会を支配しているのは大資本家なのだと言われているようである。
パーシヴァル卿は保安官も抱き込んでいるのだが、この保安官は普通の西部劇ならきっと制裁を受けただろう。
だからこの映画は普通の西部劇ではないのだ。

キャット・バルーの父親であるフランキーは水利権をめぐって嫌がらせを受けているようなのだが、その争いは描かれていないし、変人ぶりで町の人からも嫌われているらしいのだが町の人との争いも描かれてはいない。
そのことは大した問題ではない筋立てであり、フランキーもドラマ的な盛り上がりもなくあっけなく殺されてしまう。
シェリーンとストローンの関係と対決も普通の西部劇なら大いに盛り上がるところだが、それもほとんどと言っていいぐらい描かれていない。
普通なら観客の驚きを狙ってリー・マーヴィンにシェリーンとストローンの二役をやらせないだろう。
だからこの映画は普通の西部劇ではない。
飲んだくれのシェリーンが酒を断ち鍛えていくのは当然なのだが、薄汚い彼が正装していく様が面白くコスチュームも独特なもので、彼のプライドが見て取れるものの滑稽でもある。
いよいよキャット・バルーの処刑が行われると言う時にジェドが牧師に変装して登場してくる。
彼が牧師に成りすましているのは冒頭の牧師姿が伏線となっている。
当然ここは凄腕が蘇ったシェリーンがロープを撃ち抜いてキャット・バルーを助けると思ったら、相変わらず酔いつぶれていて僕の期待は裏切られた。
考えてみれば、そうなれば正当派の西部劇になってしまうから、この映画の内容からすれば当然の結末だった。

彼らは牧場を追い出されてお尋ねものだけが出入りを許される「壁の穴村」へ向かう。
かつてはならず者として恐れられた彼らだが、すっかり歳をとって往年の元気がない。
シェリーンと旧知の仲である酒場の主人は、あの「明日に向かって撃て!」で ポール・ニューマンがやったブッチ・キャシディである。
しかし制作されたのはこちらの方が早い。
ナット・キング・コールは撮影中に病状が悪化していたものの、ストーリー・テーラーとして美声を披露している。

キャタピラー CATERPILLAR

2022-06-01 07:22:13 | 映画
「キャタピラー CATERPILLAR」


監督 若松孝二
出演 寺島しのぶ 大西信満 吉澤健 河原さぶ
   篠原勝之 粕谷佳五 増田恵美 石川真希
   飯島大介 地曵豪 ARATA

ストーリー
シゲ子の夫・久蔵が召集され盛大に見送られて勇ましく戦場へと出征していったが、シゲ子のもとに帰ってきた久蔵は、顔面が焼けただれ四肢を失った無残な姿であった。
村中から奇異の眼を向けられながらも、多くの勲章を胸に“生ける軍神”と祀り上げられる久蔵。
四肢を失っても衰えることのない久蔵の旺盛な食欲と性欲に、シゲ子は戸惑いながらも軍神の妻として自らを奮い立たせ、久蔵に尽くすのだった。
だが、自らを讃えた新聞記事や勲章を誇りにしている久蔵の姿に、シゲ子は空虚なものを感じ始める。
やがて、久蔵の食欲と性欲を満たすことの繰り返しの日々の悲しみから逃れるかのように、シゲ子は“軍神の妻”としての自分を誇示する振る舞いをみせるようになっていく。
一方、日本の輝かしい勝利ばかりを報道するニュースの裏で、東京大空襲、米軍沖縄上陸と敗戦の影は着実に迫ってきていた。
久蔵の脳裏に、忘れかけていた戦場での風景が蘇る。
燃え盛る炎に包まれ逃げ惑う女たちを犯し、銃剣で突き刺し殺す日本兵たち。
戦場で人間としての理性を失い、蛮行の数々を繰り返してきた自分の過ちに苦しめられる久蔵。
混乱していく久蔵の姿に、シゲ子はお国のために命を捧げ尽くすことの意味を見失っていく。
1945年8月6日広島、9日長崎原爆投下。
そして15日正午、天皇の玉音放送が流れる中、久蔵、シゲ子、それぞれの敗戦を迎えるのだった……。


寸評
2010年ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品作品で、寺島しのぶが最優秀女優賞を受賞した作品である。
もちろん寺島しのぶの女優賞に異存はないが、久蔵を演じた大西信満もすごい。
両手両足を切断され、言葉も発することが出来ず、ただ食欲と性欲を満たす傷痍軍人を鬼気迫る姿で演じていた。
二人あっての作品だった。

シゲ子は子供を産むことが出来なくて、黒川家や久蔵から冷たくされていたことが分かる。
そして義父や義妹から「姉さんを返さなくてよかったね」などと言われ久蔵の世話を押し付けられる。
最初は戸惑うシゲ子だが、やがてはすべてを受け入れ強くなっていく。
その土着の女の強さがもっと丁寧に描かれていれば、この作品自体が優秀賞を取れたのではないか?
寺島しのぶは女優として完全にお母さんである藤純子を抜いていて、お母さんはシゲ子役をやらなかったし、やれなかったと思う。
「ご褒美をあげる」と服装を紐解く時の表情や、逆に夫を支配していく時の表情の変化などはこの女優特有のものである。
実に貴重な女優さんであり、彼女の演技が有って僕にはこの映画が「これも戦争だ」といった反戦的なイデオロギー作品としてではなく、芋虫状態となっても無くすことのできない食欲と性欲をあらわにする男と、やむを得ずその相手をさせられる女の人間の本性を描いた作品に思えた。

玉音放送が流れ「戦争が終わった」と少し知恵遅れの村人であるクマが嬉しそうにシゲ子に伝えに来て、シゲ子も終戦を喜ぶ。
そして、戦時中は軍神と崇められた久蔵も、それが無益なものになることを悟ったかのような終戦を迎える。
クマ、シゲ子、久蔵それぞれの表情が印象深い。
キャタピラー(芋虫)のごとく生きることを余儀なくされた久蔵が、自らの行った蛮行に苦しみ性欲をなくす。
久蔵が戦地でどのような体験をしたのかを知らない家族。
おそらく自らの体験を語ることが出来ない戦争経験者も大勢いることだろうと想像した。

私は戦後生まれで戦争を知らないが、それでも片足をなくした傷痍軍人(あるいは傷痍軍人を装った不届き者)が町角に立って募金を募っているのを見たことが有る。
お国のためにと駆り出され戦死した多くの人々。
戦死するよりも悲惨な状況を強いたこの映画のような人々を生み出しながらも今日の繁栄を得た日本。
先の戦争の過ちを反省するとともに、先人たちのこの犠牲に対する感謝を忘れてはならないと思う。
この映画の意図するところではないが、A級戦犯は戦争指導者としての責任を問われる立場の人たちであり、あくまでも国内問題であり外国(特に中国、韓国)からとやかく言われる問題ではないと思っているので、大東亜戦争の総括をしっかりと行って靖国神社にはお参りをすべきだと思った。

それにしても重い映画だった。
それにしてもこれも戦争の一面だと知らされた。
それにしても戦争はよくない。