おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

月曜日のユカ

2022-06-26 08:08:07 | 映画
「月曜日のユカ」1964年 日本


監督 中平康
出演 加賀まりこ 北林谷栄 中尾彬
   加藤武 波多野憲 
   ウィリアム・バッソン
   ハロルド・S・コンウェイ

ストーリー
横浜の外国人客が多い上流ナイトクラブ“サンフランシスコ”では、今日もユカ(加賀まりこ)と呼ばれる十八歳の女の子が人気を集めていた。
さまざまな伝説を身のまわりに撒きちらす女で、平気で男と寝て教会にもかよう。
彼女にとっては当り前の生活も、人からみれば異様にうつった。
横浜のユカのアパートでパパと呼んでいる船荷会社の社長(加藤武)は初老の男だが、ユカはパパを幸福にしてあげたいという気持でいっぱいだ。
ある日曜日、ユカはボーイフレンドの修(中尾彬)と街を歩いていた時、元町商店街でパパが奥さんと娘と買い物をしているの見てしまう
ショウウィンドウをのぞいて素晴しい人形を、その娘に買ってやっている嬉しそうなパパをみた時から、ユカもそんな風にパパを喜ばせたいと思った。
ユカの目的は男をよろこばすだけだったから。
だが、日曜はパパが家庭ですごす日だった。
そこでユカはパパに月曜日に人形を買ってほしいとねだり、月曜日がやって来た。
着飾ったユカは母(北林谷栄)とともにパパに会いにホテルのロビーに出た。
今日こそパパに人形を買ってもらおうと幸福に充ちていた。
だが、ユカがパパから聞されたのは、取り引きのため「外人船長と寝て欲しい」という願いだった。
ユカはパパを喜ばすために船長(ウィリアム・バッソン)と寝る決心をし、パパとの約束通り抱かれた。
うつむいて埠頭を歩くユカを追ったパパは誤って海に落ちたが、ユカは、無関心に去って行った。


寸評
ユカは「愛することは男に尽くすことで、尽くすことは男を喜ばせることであり、男を喜ばせることは女にとって最大の生きがいなんだ」と考えている男にとっては申し分のない女である。
その為に男と寝ることを何とも思っていないがキスだけは許さない。
マリア像を映すことで彼女が持っている道徳観は普通の人とは違っていることを強調している。
誰にもキスをさせないところが貞淑のシンボルになっているが、何を考えているのかよく分からない天然娘といった雰囲気もだしている。
ユカは人との正常な関わり方を知らない女性で、男の言いなりになることが愛情だと錯覚している。
彼女は、男と体では繋がることができても心で繋がることが出来ていない。
彼女の錯覚は、修という恋人がいながらパパとの関係を正常と思わせていることだ。
修の寛容と愛情はユカと違って本物だから悲劇が起きた。

パパは娘に人形を買ってやり、喜ぶ娘の姿を見て笑顔を見せる。
その笑顔はユカが見たこともないもので、ユカも同じような笑顔をパパに与えようとして人形が欲しいとねだる。
パパは人形を買ってくるが、ユカが欲しいのは人形ではなくパパの笑顔だ。
本来ならユカの目的を知っている観客はユカの気持ちに同化するのだが、同時に観客はユカの無知さも知っているから素直にユカに同情を寄せることはない。
修が言うようにパパの笑顔は娘だからで、そのことは観客も心得ている。
父親にとって娘への愛は特別なもので、ユカが思い描く愛とはまったく異質なものなのだ。
ここからユカの回りで起きることがドラマチックに展開していき、スピード感をもってラストへなだれ込む描き方はシャープであった。

画面の隅に人物を配したショットも印象的で、ストップモーションや早回しもあり、映像的なお遊びが見られる。
ユカがカメラに向かって語りかけているシーンがあるのだが、実は公然わいせつ物陳列罪で取り調べをしていた警官への懺悔だったというものである。
そして、そこからぐるぐると追いかけっこをするドタバタになり、最終的にはそれが夢だったことが明かされる。
また、タクシーで母親と出かける場面にコミカルな演出が見られるが、作品の中では取調室の演出と共に突拍子もないもので何のための演出かと思ってしまう。
中平の遊び以外の何物でもない。
終盤で船長にキスされて嫌悪感を抱いたユカがパパに抱きかかえられて埠頭迄やってくる場面がある。
そこでユカとパパが踊るのだが、このシーンもなかなか粋なものだが直後に意外な展開が待っている。

加賀まりこのアップが多いが、その度に彼女の大きな瞳が魅力を放ち引き込まれるような表情を見せた。
最初から最後まで加賀まりこが輝いていて、彼女にとってはこれが代表作と言えるのではないか。
精巧な人形のようなルックスと妖精っぽさが共存して彼女の為の映画であると感じさせる。
加賀まりこを得てスタイリッシュに描いているが、ユカを軽薄に描いていることで女という生き物の危うさを浮かび上がらせると同時に、そのような女に翻弄される男の危うさも同時に描き出していた。