おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

源氏物語

2022-06-28 06:28:49 | 映画
「源氏物語」 1951年 日本


監督 吉村公三郎
出演 長谷川一夫 大河内伝次郎 木暮実千代 水戸光子
   京マチ子 乙羽信子 堀雄二 本間謙太郎 菅井一郎
   進藤英太郎 小沢栄 長谷川裕見子 相馬千恵子
   東山千栄子 加東大介 殿山泰司

ストーリー
時の御門(滝沢修)の寵愛を一身にあつめた桐壷更衣(相馬千恵子)は、弘徽殿の女御(東山千栄子)をはじめ、御門を取巻く女性たちの嫉視のなかに、御子を身ごもり玉のような男児を生み「光君」と呼んだ。
しかし、桐壷はそのまま病床にふし、光君五歳のときにみまかった。
光君(長谷川一夫)は美しく成年し、源氏の姓を賜わり、御門の寵愛めでたく立身出世も早かった。
そのまれに見る美貌は、街でも御所内でも、女たちの讃美の的となった。
そして成年の日左大臣(菅井一郎)の娘葵の上(水戸光子)を妻に迎えたが、葵は生来冷たい女であった。
源氏の胸に秘められた女性は、死に別れた母桐壷のおもかげによく似た藤壷の君(木暮実千代)であった。
しかし、藤壷は御門に愛される女性であって、源氏も思うままに近づくことは出来なかった。
その上何かにつけて例の意地の悪い弘徽殿の女御が眼を光らせて邪魔だてすると知ると、彼女の姪で、源氏にはぞっこんの朧月夜の君(長谷川裕見子)を、ちょっとからかって見る気にもなるのだった。
唯一度の逢う瀬のあと、藤壷は罪を重ねることの恐ろしさに源氏を避けて逢おうとはしない。
そのうち源氏は病にかかり山篭りをするが、全快しての帰路、ふと山に隠棲する尼君と共に住む美しい幼女紫の上(乙羽信子)を見て、無理やり我が家へ連れ帰る。
葵の上は源氏の子供夕霧の君を生むが、死んでしまう。
藤壷の懐妊にからんで弘徽殿の悪質の策謀がはげしくなり、頭中将(坂東好太郎)のすすめで源氏は暫く須磨へ隠栖することにして、明石に住む播磨入道(大河内伝次郎)の家に招かれ厄介になる。
入道の娘淡路(京マチ子)には、良成(堀雄二)という恋人がいたが、父は淡路を源氏の君にと思っていた。
折しも京から源氏の家来の惟光(加藤大介)が便りを持参し、藤壷が無事男の御子を生んだあと直ちに尼になったと知らせてきた。


寸評
紫式部の源氏物語の世界を丁寧に描いていると思うが、逆に言えば映画として衝撃的な描き方ではない。
僕のような源氏物語に精通していない者にとっては恰好のダイジェスト版だったような気がする。
描かれているのは源氏物語の中でも前半に当たる部分である。
この作品で源氏に係わる女性として、正妻である葵の上、母の面影を残し源氏の最愛の人である藤壷の君、源氏にぞっこん惚れこんでいる朧月夜の君、後に紫の上となる若紫、不義の子を宿すことになる淡路が登場するが、光源氏にはその他にもまだまだ関係した女性がいたのだから、光源氏は稀代のプレイボーイということになる。
平安時代は通い婚で、男は女性の実家に好きな時に訪ねていき、女性はただ待つだけで自分からは訪ねていけないのだから随分と男勝手な社会だったのだと思う。
葵の上でなくても夫に他に女性が居てそちらに通っていると分かれば文句の一つも言いたくなるというものだ。
しかし源氏にしてみれば、久しぶりに訪ねてみれば嫌味ばかり言われるのなら足が遠のくのも無理はない。

女の嫉妬はいつの時代にもあるもので、御門の寵愛が桐壺に注がれていることに弘徽殿の女御は面白くない。
その為に桐壺の子供である光源氏も気に入らない。
光源氏は曲がりなりにも御門の血を引いているから、出世も早いし宮廷の女性にも人気がある。
源氏は母の面影を思い起こさせる藤壷の君に思いを寄せるが、言ってみれば藤壺は父親の愛人である。
ということは、桐壺も藤壺も御門のタイプだったのだと思う。
源氏は多くの女性と関係しながら、結局母の桐壺、母とよく似た藤壺が脳裏から離れない。
結婚してもずっと初恋の人を想っているようなものだ。
朧月夜の君はプレイガールといった感じの女性で、源氏との現場を押さえられても父を煙に巻く。
平安時代にもそんな女性がいたということだから、源氏物語は面白い。

この映画での劇的な場面の一つは、光源氏が藤壺が産んだ子供と対面するシーンだ。
その子が御門の子ではなく自分の子供であることを感づいている。
おそらく御門もその事を感じていたのだろうが、権威と名誉のために藤壺が産んだ子供は自分の子供として認めないわけにはいかない。
父の御門と子供である光源氏が藤壺が産んだ子供の出自をめぐって対峙するというすごい場面なのだが少々盛り上がりに欠ける。
それ以上に劇的なのが、淡路が身ごもった子供が源氏の子ではなく良成の子供だと判明する場面だ。
源氏は不義密通に激怒するが、紫の上が言うように源氏が藤壺にしたのと同様のことなのだ。
僕は源氏物語の詳細を知らないが、ここは淡路に出産させて良成の子と知りながら、御門と同じ理由で苦渋に満ちながらも新生児を抱く源氏を描いた方が、自分のやったことが回りまわって自分に降りかかってきたと言う悲劇性が出ていたように思う。
それが紫の上のとりなしで「良いことをした」となると、悲劇は何処にいってしまったのだと言いたくなる。
源氏物語は知らないが、僕は映画としてはそう描いた方が良かったのではないかと思う。
どうも僕はドロドロした映画の方が好きなのかもしれない。
カメラワークも衣装やセットもいいのだが、全般的に平板な内容に感じて少々物足りなさを感じた。時代かな?