おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

(ハル)

2021-09-15 06:26:50 | 映画
「(ハル)」 1996年 日本


監督 森田芳光
出演 深津絵里 内野聖陽 山崎直子
   竹下宏太郎 鶴久政治 宮沢和史
   戸田菜穂

ストーリー
(ハル)というハンドル名でパソコン通信を始めたばかりの速見昇は、映画フォーラムで知り合った(ほし)と名乗る男と、メールのやり取りをするようになった。
盛岡に住んでいる(ほし)は、実は自分を男と偽っているOL・藤間美津江だった。
メールを重ねるうち、(ほし)は自分は女だと(ハル)に告白するが、ふたりの関係は崩れることはなかった。
(ハル)は(ローズ)というハンドル名の女性と知り合い、実際に会って何度かデートするようになっていた。
ところが、(ローズ)は恋人というよりも妹という感じで、(ハル)は今ひとつ深い関係まで踏み切れない。
一方の(ほし)は、仕事先で知り合った山上という男に結婚を申し込まれたが断った。
ある日、(ハル)は出張で青森に行くことになり、(ほし)は新幹線の(ハル)に向けてハンカチを振る約束をし、一瞬だけの対面を果たすのだった。
しかし、(ほし)の妹・由花が帰省して部屋を訪ねて来た時に、妹が(ローズ)というハンドル名でパソコン通信をやっていることがわかり、(ほし)はショックを受けた。
(ハル)は、(ローズ)と会ったその日にホテルへ行ったと、(ほし)に嘘を教えていたのだった。
(ローズ)が(ほし)の妹だと知った(ハル)は、あわてて本当のことを伝えるが、妹が自分よりも簡単に(ハル)との時間を共有していたことが、心に引っ掛かってしまった(ほし)は、(ハル)にメールを出すのをやめてしまう。
しかし、メールのやり取りで知らないうちにお互いを支えあっていたことに気づいた(ほし)は、再び(ハル)にメールを送り、ふたりは、もう一度最初から互いの関係をやり直すことにした。
そして、(ほし)は(ハル)に会うため東京へ出かけることを決意した。


寸評
この時代の映画である。
ソーシャルネットワークの世界は種々多様なツールが生まれて進化を遂げている。
ここでのSNSはもっぱらチャットとメールである。
仮想社会だけに語られていることは本当かどうかわからないし、相手が成りすましていることだってありうる。
その為に事件も起きているが、時間と距離を超越した社会として素晴らしい面もある。
(ハル)と(ほし)は映画のフォーラムを通じて知り合う。
会うこともないし、電話番号を交換して話すこともなく、メールでのやりとりを繰り返す。
当初はウソがあったりするが、やがて対面では話せないような心の内を吐露し合うようになる。
それをパソコン通信というツールで行っているために、二人のやり取りはメールの文面通りに画面に打ち出されるという斬新な方法で描かれている。
そのため、日本映画なのに字幕を読むのが忙しい作品となっている。

即興的である会話に比べて、文章は思考する時間が与えられるために会話にはない要素が生まれる。
誇張であったり、作り話であったり、本当の気持ちだったりを盛り込むことが可能だ。
読み手側は言葉以上のものを想像する。
僕の青春時代のある時期までパソコンは当然存在していなかったし、電話ですら限られた家にしか存在していないシロモノだった。
連絡はもっぱら手紙でのやりとりで、特定の人との文通が流行っていた。
一週間に一度のやり取りでも、月にたった2通の手紙を受け取るだけのものだった。
写真を交換していても初めて出会うときはドキドキものである。
だから(ハル)と(ほし)が初めて接触した新幹線のデッキと農道でハンカチを振り合う二人の気持ちも、東京駅で出会った時の気持ちもよくわかる。
僕は「しばらく・・・」だったが、彼らの初めての言葉が「はじめまして・・・」なのは当然の挨拶だ。

内野聖陽もいいが(ほし)の深津絵里がいい。
彼女の見せる愁いを秘めた表情がすばらしい。
(ほし)は高校時代から付き合っていた恋人を自動車事故で亡くしている。
彼女の過去を描いていないが、パン屋に転職した時のお客との会話からそれを匂わせている。
ストーカーの様に付きまとっているのが元カレだと思わせていることと相乗効果をもたらせていて、彼女の表情の裏付けになっている。
母を亡くした父が新しい女性を見つけたことも(ほし)の表情を暗くしたのかもしれない。
プロポーズする男性が現れても(ほし)のこころは晴れない。
だから最後に見せる(ほし)の微笑みに、僕は祝福の笑みを送れたのだと思う。
(ハル)が(ローズ)と肉体関係を結んでいたら修羅場が起きて面白かっただろうが、それではさわやかな青春映画にならない・・・そう、これは時代を反映したさわやかな青春映画なのだ。
森田芳光の脚本と演出は称賛されてよい。

パリは燃えているか

2021-09-14 06:49:18 | 映画
「パリは燃えているか」 1966年 フランス / アメリカ


監督 ルネ・クレマン
出演 ジャン=ポール・ベルモンド
   シャルル・ボワイエ
   グレン・フォード
   アラン・ドロン
   カーク・ダグラス
   ゲルト・フレーベ

ストーリー
1944年8月、第2次世界大戦の連合軍の反撃作戦が始まっていた頃、フランスの装甲師団とアメリカの第4師団がパリ進撃を開始する命令を待っていた。
独軍下のパリでは地下組織に潜ってレジスタンスを指導するドゴール将軍の幕僚デルマと自由フランス軍=FFIの首領ロル大佐が会見、パリ防衛について意見をたたかわしていた。
一方独軍のパリ占領軍司令官コルティッツ将軍は連合軍の進攻と同時に、パリを破壊せよという総統命令を受けていた。
コルティッツ将軍は、すでにドイツ敗戦を予想していて、パリを破壊することは全く無用なことと思っていた。
やがて連合軍の進撃が始まり、米軍のブラドリー将軍は全軍にパリ進攻を命令した。
8月25日、ヒットラーの専用電話はパリにかかっていて“パリは燃えているか"と叫び続けていた。


寸評
僕が初めて見たオールスター・キャストと称される作品で、手元のパンフレットの日付を見ると1966年12月26日となっている。
実際、ちょっとしたエピソードに名だたる俳優が登場していて、今となってはそれを見るだけでも楽しい作品だ。
オールスター映画とあって、パンフレットをめくるとキャスト欄には55名の名前が役名と共に記載されている。
主だった俳優として1ページに2名が写真付きで紹介されていて、そのページ数は8ページ16名に及ぶ。
脚色者にゴア・美ダルと共にライター時代のF・コッポラの名前がある。

物語の主軸は、パリ郊外に迫る連合軍の進撃を阻止するためにヒトラーが立案した、“パリ焦土化計画”と、これを食い止めようとするレジスタンスたちの熾烈な攻防戦。
ドキュメンタリータッチの効果を狙ったと思われるモノクロ映画で、時折ニュース映画からの転用と思われるシーンの違和感をなくしているのは期待通りだ。
2時間49分、20巻の長尺とはいえ、これだけの俳優が登場するとエピソードは散漫にならざるを得ず、戦争の悲惨さは伝わって来ない。
煙草を買いに出かけたままドゴール軍に参加した兵士がアメリカ製の煙草を持ってまもなく我が家というところで爆死してしまう場面では、キャメルの煙草を映して終わる。
あこがれのパリに進撃した兵士は歓喜と共に銃撃にあい、あっけなく死んでしまう。
それらのシーンは「可哀そうに…」という思いだけを抱かせ、そのことを通じた戦争がもたらす悲劇性をあまり訴えてこない。

戦争の悲惨さを感じさせないもう一つの理由に、ウィットに富む会話などが全体に散りばめられていることもあると思う。
だけども、第二次世界大戦においてフランスがどうだったのかを知らない僕にとっては、当時の内情を知り得て興味しんしんではあった。
レジスタンスが派閥に分かれていて主導権争いをしていたことなどが、戦後にドゴールが大統領になったことと重ね合わせると面白く見ることが出来る。
敗戦を知ってまっとうな態度を示すドイツ兵なども結構描かれていて、その筆頭がドイツ軍最後のパリ司令長官だろう。
レジスタンスのアラン・ドロンやジャン=ポール・ベルモンド、戦車隊の軍曹イヴ・モンタンなどの熱演もあるが、役得だったのはパリ司令長官コルティッツ将軍を演じたゲルト・フレーベと、スウェーデン領事のオーソン・ウェルズだ。
二人ともパリ解放に貢献度大の人物として描かれて、作品中で一番の好感度を得れたのではないかと思う。
今では作られることはなくなったタイプの戦争大作の1本ではある。

巴里の屋根の下

2021-09-13 07:49:55 | 映画
「巴里の屋根の下」 1930年 フランス


監督 ルネ・クレール
出演 アルベール・プレジャン
   ポーラ・イルリ
   ガストン・モドー
   エドモン・T・グレヴィル

ストーリー
パリの場末の裏町に二人の若者が住んでいる。
アルベールは歌を歌って歌譜を売るのが商売、ルイは露店商人である。
二人はいつも連立っているので美しいルーマニア娘のポーラに逢った時も一緒だった。
そこで彼等はどちらが彼女に声をかけるかをサイコロころで決めようとする。
しかしその間に界隈の不良の親分フレッドが彼女をカフェに誘い入れてしまう。
フレッドはポーラを好餌と目して口説きにかかると、彼女はフレッドの荒っぽさに心を惹かれ、晩にはダンスへ行くことを承諾する。
その夜、バル・ミュゼットでアルベールとルイは彼女がフレッドと踊っているのを見て失望する。
フレッドは素早くポーラの部屋の鍵を彼女の手提げ袋から抜取ってしまい彼女に無理にキスしようとする。
ポーラは怒ってフレッドの頬を打ってダンス場を飛び出してしまう。
アルベールはルイと別れて帰る途上彼女と出会い、うちに帰るにも鍵を取られて困っているポーラに自分の宿に来いと勧めると彼女は彼の招待を受け、その夜二人は寝台を挟んで床の上に別々に寝た。
これが縁となりポーラはアルベールの愛情にほだされて結婚することになる。
しかし、彼の知合いの泥棒から盗品がはいっていると知らないで鞄を預かっていたために窃盗の嫌疑をうけて投獄されてしまう。
自分の荷物を纏めてアルベールの許へ来ようとしたポーラは彼が曵かれて行く姿を見た。
彼が二週間入牢している間にポーラはルイと親しくなり夢中に惚れてしまう。


寸評
無声映画からトーキーへと移り変わっていく時代を感じさせる映画だが、時代を考えるとよくできている。
起承転結、喜怒哀楽がはっきりしていて、半分以上が無声でありながらストーリーはわかりやすい。
この頃は、字幕と音声を併用したいわゆるパート・トーキーの形式が一般的だったのかもしれない。
音楽が適度に入り楽しませてくれる。
演出、カメラワークは巧みで、当時の人たちは随分と楽しめた作品だろうと思わせるものがある。
ポーラという女性を巡る三角関係、四角関係をユーモアを交えながら描いていながらほろ苦さも併せ持っていて、脚本も担当しているルネ・クレールの腕が光る。
彼のトーキー第1作目だと感じさせるのはアルベールが街頭で歌うシーンがストーリーの割には長い点で、それも当時の人にとっては心地よかったのかもしれない。
無声の部分のやり取りは観客が想像するしかないのだが、おおよその内容は想像がつくという描き方も心得たものだ。

この映画におけるヒロインはポーラ・イルリが演じるポーラなのだが、僕にはこの女性が心多き女性に思えてしかたなかった。
フレッドというヤクザな男に言い寄られているが、迷惑至極と言う風には思えなかった。
心を許しているようにも見えなかったが、完全拒絶と言う風にも見えなかった。
アルベールと親しくなり、最初は衝突しているがやがて結婚に至ると言う展開はよくあるパターンで納得できる。
ところがアルベールが逮捕されている間に、アルベールの友人のルイに気が行ってしまい、彼と結婚するまでの気持ちとなっているが、ルイが他の女性に愛想を振りまくことに嫉妬してフレッドの元へ行ってしまう危なっかしさが残っている。
あっちへフラフラ、こっちへフラフラのような感じで、どうも純情可憐なヒロイン像には程遠いように思う。
最後はホロっとさせる結末だが、ポーラがルイを取るのは納得だ。
アルベールはいい奴だが、冒頭でスリを働く知人の行為を見逃がしているのだから、やはりまともな人間ではないのだ。
全くの悪人として描いていないが、スリの友人がいるという闇の部分がある男だ。
ルイと一緒になることによって、ポーラは幸せになると思う。

「巴里の屋根の下」というタイトルだが、イメージするパリの雰囲気はない。
下町で起きている庶民の一風景を切り取ったと言う感じの作品だ。
今見ると物足りない部分もあるが、時代を考えれば映画史を飾る一遍としての価値ある作品だと思う。
フランソワ・トリュフォーは「巴里の屋根の下」、「ル・ミリオン」、「巴里祭」を「パリ三部作」と呼び、「幸福な映画作家だったと言っていい」と言っているが、映画史をかじった者ならルネ・クレールの名前は脳裏に刻み込まれている人だと思う。
ルネ・クレールは、ジャック・フェデー、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネと並んで、古典フランス映画における「ビッグ5」と称されているのだから当然だ。

パリ、テキサス

2021-09-12 07:19:46 | 映画
「パリ、テキサス」 1984年 西ドイツ / フランス


監督 ヴィム・ヴェンダース
出演 ハリー・ディーン・スタントン
   ナスターシャ・キンスキー
   ハンター・カーソン
   ディーン・ストックウェル
   オーロール・クレマン
   トム・ファレル

ストーリー
テキサスの原野。一人の男が思いつめたように歩いている。
彼はガソリン・スタンドに入り、水を飲むと、そのまま倒れた。
病院にかつぎこまれた彼は、身分証明もなく、医者は一枚の名刺から男の弟ウォルトに電話することができた。
男はトラヴィスといい、4年前に失踪したままになっていたのだ。
病院から逃げ出したトラヴィスをウォルトが追うが、トラヴィスは記憶を喪失している様子だった。
トラヴィスは口をきかず飛行機に乗ることも拒む。
車の中でウォルトは、さりげなく、妻ジェーンのこと、ウォルトと妻のアンヌが預かっている息子ハンターのことを聞くが、何も答えない。
ただ、〈パリ、テキサス〉という、自分がかつて買った地所のことを呟いた。
そこは、砂しかないテキサスの荒地だが、父と母が初めて愛をかわした所だとトラヴィスは説明した。
ロサンゼルスのウォルト家に着いたトラヴィスを、アンヌと7歳に成長したハンターが迎えた。
ハンターとトラヴィスの再会はぎこちなく、お互いのわだかまりが感じられた。
しかし、数日経つうちにうちとけだした二人に複雑な思いを感じるウォルトとアンヌ。
実の息子同然にこれまで育ててきたのだから……。
トラヴィスの記憶が戻るようになりはじめたある日、5年前に撮った8ミリ映画をみなで見た。
幸福そのものだった自分の家庭のフィルムを見て、必死に何かをこらえるトラヴィス。


寸評
哀愁を帯びた音楽と共に描かれる映像は静かなもので、ゆったりとした物語の展開だし、時折イライラした弟のウォルトが声を荒げるのを除いて落ち着いた会話がかわされ言い争いもない。
劇的なドラマを期待する向きには物足りなく感じる内容だが、じわじわとしみ込んでくる深みのある作品だ。
「パリ、テキサス」と聞くと、フランスの首都パリとアメリカのテキサスを結ぶ物語だと思うし、劇中でもそのような会話があるけれど、パリはパリでもテキサスにあるパリという町の事である。
そこにトラヴィスは土地を買っているのだが、トラヴィスの記憶喪失もあってその土地が何なのかは分からない。
記憶喪失のせいかもしれないがトラヴィスはしばらく全く口を利かないのだが、やがて彼は蒸発していてウォルトが預かっているハンターと言う息子がいることが見えてくる。
ミステリーの様相も呈してくるが、決してミステリー作品ではない。

トラヴィスはハンターに対して何とか父親らしく振舞おうとするが、ハンターはなかなか受け入れられない。
ウォルトとアンヌ夫婦には子供がいなかったのでハンターを実の息子として愛情を注いできた。
ハンターはそんな両親に満足していたとも思えるが、やがてトラヴィスに少しずつ心を開いていく。
そうなるとアンヌにはハンターを失うのではないかとの不安が湧いてくる。
そんな状況下でアンヌは息子を置き去りにしたジェーンの消息についてトラヴィスに語って聞かせる。
静かな展開だが、ジェーンは今でもハンターの事を気にかけていることが判り、物語はここから大きく動き出す。
トラヴィスとハンターはジェーンを探しに出かけるが、それを聞いたアンヌの悲しみは描かれない。
実の親子の話に軸足が移り、育ての親の事はその後も描かれることはない。
僕はやはり育ての親の事が気になった。
トラヴィスとジェーンの最初の再会はマジックミラー越しで、この時ハンターは母親には会っていない。
しかし、ハンターはそのことで駄々をこねるようなことはしない。 最後まで静かな映画なのだ。
二度目に会う時には、トラヴィスはハンターと別れることを決意している。
そしてそこでお互いに打ち明け合う内容は感動的なものだ。
マジックミラー越しの事もあって、話は独白のような形で一方的なのだが、お互いの表情も含めた芝居はなかなか見せるものだった。
トラヴィスはジェーンを愛しすぎていたのだ。
愛しすぎたために少しでもジェーンのそばにいたいと思い、そのために仕事をやめ収入的には不安定な生活に入ってしまい結婚生活は破綻をきたす。
ジェーンへの愛はジェーンへの疑いに発展し嫉妬を生んだ。
お互いの告白は切ないものがあったし、本当に愛すとこんな悲劇を生むのかもしれない。

子供にとって母親は特別な存在なのだろうか?
父親の顔を知らないで育った僕は父親に会いたいと思ったこともないし、たった一度の出会いでも何の感情も湧かなかった。
トラヴィスは去っていくが、その時点でも僕はウォルト、アンヌの夫婦の事が気になったし、ハンターとジェーンがウォルト夫妻のもとに帰ればいいなと思った。 ライ・クーダの音楽、ロビー・ミュラーのカメラは本当にいい。

ハリーとトント

2021-09-11 08:37:26 | 映画
「ハリーとトント」 1974年 アメリカ


監督 ポール・マザースキー
出演 アート・カーニー
   エレン・バースティン
   チーフ・ダン・ジョージ
   ラリー・ハグマン
   ジェラルディン・フィッツジェラルド
   メラニー・メイロン

ストーリー
72歳のハリーは、愛猫のトントとニューヨークのマンハッタンに住んでいたが、区画整理のためにアパートから強制的に立ち退きを迫られた。
仕方なくハリーはトントを連れて長男のバートの家に行ったが、バートの妻に気兼ねしなければならず、シカゴにいる娘のシャーリーを頼って旅に出る決心をした。
バートは飛行機で行くことをすすめたが、トントと一緒では飛行機に乗せてもらえず、バスで行くことになった。
しかしそのバスもトントのために途中で降りなければならなくなり、中古車を買って目的地に向かうことにした。
途中、コンミューンへいくという娘ジンジャーに会い、彼女の勧めで初恋の相手のジェシーに会いにいった。
年をとったジェシーは頭がすこしいかれていてハリーを想い出せなかったが昔ダンサーだったことは覚えていて、ハリーと一緒に踊ったりした。
ようやく、本屋を経営するシャーリーの家に辿りつくと、シャーリーはハリーにシカゴで一緒に暮らそうと言ったが、ハリーはそれを断わり翌朝ジンジャーと出発した。
一行がアリゾナにつくと、ジンジャーはハリーに一緒にコンミューンへ行こうと誘ってみたが、ハリーは当分の間一人でいたいと断わった。
ハリーとトントの旅が再び始まり、さまざまな人間に会った。
ハリーが次に訪れたのはロサンゼルスだった。
ここには次男のエディが住んでいた。
翌日、ハリーはトントが病気にかかっているのに気づき、病院へ連れて行き手当をしてもらったが、その甲斐もなくトントは死んだ。


寸評
ハリーは強制立ち退きでアパートを追い出され長男の所へ行くが、家は手狭で口を利かなくなっている長男の息子と相部屋で過ごす。
長男の妻はあからさまな嫌悪感を示すわけではないが、日数が経てばハリーの存在は重荷となってくる。
親が子供の家に後から同居の形で入り込むと起きがちな問題である。
長男は精一杯の気持ちを表すが、妻の手前どうすることもできないのは洋の東西を問わない。
ちょっとしんみりさせる長男の描き方だ。

次にシカゴで本屋を経営している娘を訪ねるが、彼女は4度の離婚を経験していて今は一人で暮らしている。
娘はここで一緒に暮らそうと言ってくれたが、ハリーは旅立っていく。
ハリーの年齢を考えると、ここで暮らすのが一番良かったと思うが、ハリーは娘の幸せを考えると自分が負担にならないほうが良いと考えたのかもしれない。
介護老人をかかえれば娘はそれに拘束されてしまうことは目に見えていることで、ハリーはそのことを思いやったのではないかと思う。

次に次男を訪ねると、見栄を張って強がりを言って見せるが、定職を持たない次男は金欠状態である。
金を貸してほしいとせがまれれば、ある程度まとまった金を援助してやるしかない。
親は子供を見捨てることなどできないのだ。
幸いにも僕は一人娘で、その娘も生活に苦労することはなさそうで、むしろ今の私はそろそろ子どものいう通りにしたほうが良い年齢になって来たし、またそうすることが出来る状況下にいる事に感謝している。

ハリーはニューヨークからシカゴ、さらにラスベガスを経由してロサンゼルスに向かっているからかなりの距離だ。
その間に出会う人々との交流を描いているが、その交流から何かを訴えるというものではなく、ハリーという面白いキャラクターの老人を浮かび上がらせるための存在に思える。
後にも先にもハリーという老人のキャラクターに尽きる作品で、アート・カーニーの役者ぶりに支えられている。
アカデミー賞の主演男優賞に輝いているが、納得の存在感である。
僕は人生でたった一度ヒッチハイクをしたことがあるが、なかなか車が捕まらず苦労した。
ハリーは45分ほど立っていたとも言っているが、うまい具合に車に同乗させてもらっている。
アメリカではヒッチハイクはポピュラーな行為で、同乗させる人が案外と多いのだろうか。
羨ましい社会だ。

若い頃に見た時はほのぼのとしたものを感じた作品だが、歳を取って再見すると老後の生活を意識して自己完結できるだけの準備はしておかなくてはいけないなと、わびしさと淋しさを感じさせる作品に変わっていた。
ハリーはトントによく似た猫と出会うが、場所は違えど再び元と同じ生活を送ることになるのだろう。
猫にエサをあげる一人暮らしのお婆さんが登場してくるが、彼女と同居することになったかもしれない。
僕がロサンゼルスを旅行した時、サンタモニカの海岸を訪れたが、そこでガイドさんから「ここは老人が一杯の老人天国です」と案内されたことを思い出した。

バベル

2021-09-10 07:22:44 | 映画
「バベル」 2006年 バベル


監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演 ブラッド・ピット
   ケイト・ブランシェット
   ガエル・ガルシア・ベルナル
   役所広司 菊地凛子 二階堂智
   アドリアナ・バラーサ
   エル・ファニング

ストーリー
モロッコ。
山羊飼いのアブドゥラは知り合いから一挺のライフルを買い、それを山羊に近づくジャッカルを追い払うためとして息子の兄弟アフメッドとユセフに与えた。
すると、兄弟は遠くの標的めがけて遊び半分で射撃の腕を競い合い、ユセフが険しい山間部を走ってくる一台のバスに引き金を引く。
そのバスには、一組のアメリカ人夫妻リチャードとスーザンが乗り合わせていた。
彼らは、生まれて間もない3人目の子供を亡くしたことがきっかけで壊れかけた絆を取り戻そうと、2人だけで旅行にやってきた。
ところが、どこからか放たれた銃弾が運悪くスーザンの肩を直撃。
リチャードは血まみれの妻を抱え、医者のいる村へと急ぐ。
一方、夫妻がアメリカに残してきた幼い子供たちマイクとデビーの面倒をみるメキシコ人の乳母アメリア。
息子の結婚式に出るため帰郷する予定が、夫妻が戻らず途方に暮れる。
やがて彼女は仕方なく、マイクとデビーも一緒に連れてメキシコへと向かうのだった。
日本では、妻が自殺して以来、父娘関係が冷えきっている東京の会社員ヤスジローと女子高生になる聾唖の娘チエコがいた。
またチエコは満たされない日々に孤独と絶望を募らせていた。
そんな中、モロッコの事件で使用されたライフルの所有者として、ヤスジローの名前が浮かび上がる…。


寸評
タイトルの"バベル"がこの映画のテーマを的確に表している。
バべルの塔は旧約聖書に出てくる話で、キリスト教徒でもない僕ですら知っている有名なエピソードだ。
慢心した人間が神の意志を無視して天にも届くような塔を作り始めたが、そのようなことをするのは同じ言語を話して意思疎通を図っているからだとして、神の怒りは人々に異なる言語を与えたという話である。
世界中の人々は異なった言語を使用しているが、意思疎通を図る手段はコミュニケーションを高めることである。
しかし社会のあちこちで見受けられるのはコミュニケーションの断絶である。
小さくは親子、夫婦から始まり、国家権力を握る政府と民衆、国家権力と国家権力、異国人同士のいがみ合いなど、自分の周りを見渡してもニュースを見てもコミュケーション不足が招く不幸が所せましである。
モロッコ、アメリカ、メキシコ、日本と舞台と登場人物を変えて物語が綴られるが、関係なさそうな人々が殺人凶器である一丁の銃で結びついていくという皮肉な内容である。

当初から気が重くなってくるような事態が展開される。
モロッコに少年兄弟がいて父親から預かった銃の試し撃ちをするが断然弟の方が腕が良い。
その結果として兄弟には確執が生じていて、兄は弟の非行を父親に告げざるを得なくなる。
子供たちにとってみれば悪意のない軽はずみな行為だったのだが、乗り合わせたスーザンに命中してしまう。
関係がおかしかったリチャードとスーザン夫婦だったが、リチャードは必死で妻を救おうとする。
妻を救いたいリチャードと早くこの場を立ち去りたい他の乗客の間に不毛な争いが起きる。
警察は犯行に使用された銃から彼らの父親を割り出し追い詰めたところ、カッときた弟が銃撃を開始してしまい、兄は射殺されてしまう。
ちょっとしたイタズラ心で行った行為から、実に痛ましい結果を引き起こす様子が描かれ胸が苦しくなる。

リチャードが子供たちの世話を依頼していたのがアメリカに住むメキシコ人のアメリアだ。
ひょんなことから子供たちをメキシコにいる息子の結婚式に連れていくことになってしまい悲劇が起きる。
メキシコからの帰りに運転手役の甥が時間稼ぎに近道を選び、国境で二人の子供の関係を質問される。
男はからかい半分で白人の子供たちをアメリアの甥と姪だと言ってしまう。
アメリアが世話をしている子供たちだと言い直しても、不快な思いをさせられた警官の不信感を取り除く事は出来ず悲劇が起きる。
どちらもちょっとした事から生じた出来事だ。
事件の発端となった銃は綿谷安二郎がハンターガイドに贈った銃だと判明する。
綿谷には聾唖の娘がおり、母の事件が起きてから親子関係がしっくりいていない事も描かれる。

暗いままにラストになだれ込むわけではなく、わずかな光明をイニャリトゥ監督は描き込んでいる。
リチャードが世話になったモロッコ人に御礼のお金を渡そうとすると、モロッコ人はそれを断る。
千重子が間宮に渡した手紙には本当のことと気持ちが書かれていたのだろう。
死の淵からの生還ニュースや、再びつながりかける親子の絆を描き、私たちにまだ希望が残っていることを示唆して映画は終わっているのである。

バファロー大隊

2021-09-09 06:00:39 | 映画
「バファロー大隊」 1960年 アメリカ


監督 ジョン・フォード
出演 ジェフリー・ハンター
   コンスタンス・タワーズ
   ウディ・ストロード
   ビリー・バーク
   カールトン・ヤング
   ウィリス・ボーシェイ

ストーリー
合衆国第9騎兵隊のカントレル中尉は、南北戦争終了後、軍法会議に付された黒人兵ラトレッジ軍曹の弁護を志願した。
優秀な軍歴を誇っていたラトレッジは16歳になるルーシイを強姦、絞殺した上、彼女の父であるダブニイ少佐を射殺した嫌疑によって告訴されていた。
最初の証人としてカントレルの恋人メアリーが脱走したラトレッジに命を救われたと証言した。
砦の軍医エックナーの報告によるとルーシイの死体から黄金の十字架がなくなっており、推定によればダブニイ少佐が娘の襲われている現場を見て、助けようとした途端に犯人に射たれたということだった。
カントレルが証言台に立ち、被害者が死んでしまった以上、黒人兵が何を言っても信じないだろうと打ち明けた。
やがて偵察隊はインディアンの手にかかったクリス・ハブルの惨殺体を見つけた。
着ていた服から死体は雑貨店の主人チャンドラ・ハブルの息子と分かったが、仲良くしていた牧場主の女の子の所へ向かう途中で襲われたらしい。
偵察隊はアパッチに奇襲され、手錠をはずしてもらったラトレッジは大活躍し何度も中尉の命を救った。
だが銃を手にしたラトレッジは突然逃げ出したが、インディアンのわなを発見し偵察隊までひき返した。
ラトレッジの急報により騎兵隊はインディアンの襲撃に備え応戦し撃退する。
インディアンの死体からルーシイの首飾りの十字架が発見された。
そのインディアンはまたCHと刻まれているバックスキンをつけていた。
これは前に惨殺されたハルブの頭文字だった。
アパッチはクリスの死体から十字架を奪ったのに違いなかった。
皆の疑いは亡くなったクリス・ハブルに向けられ、新犯人だということになったのだが・・・。


寸評
騎兵隊を題材にしながら回想形式で語られる裁判劇であるが、横たわっているのは人種差別問題である。
黒人兵のラトレッジ軍曹が裁判にかけられ、騎兵隊のカントレル中尉が彼の弁護に立つ。
その時点でラトレッジは無実だと思ってしまうので、楽しみは真犯人は一体誰なのかと、カントレル、メアリー、ラトレッジに起きる出来事の描かれ方となる。
証人によって前後して再現される出来事がつながってくるのはよくある描かれ方である。
まず出来事における疑問が提示されて、その疑問が徐々に解き明かされていくのも常道である。

カントレル中尉は証人申請しているメアリーと愛し合っていたようなのだが、今は犬猿の仲という雰囲気で裁判は始まるが、この時点ではラトレッジの犯した罪が何なのかはあえて示されていない。
メアリーの証言により、中尉とメアリーの馴れ初めとラトレッジとの出会いが語られる。
ラトレッジが傷を負っているが、その傷の本当の理由も後に判明する。
先住民を追う中でラトレッジの優秀さが示され、カントレルとラトレッジの信頼関係も描かれているが、カントレル中尉は立派過ぎるヒーローといった感じだ。
従って裁判劇では弁護側のカントレルの言い分がすべて「ごもっとも」という形で終わっている。

メアリーとラトレッジが駅舎に居る時に、「誰か来たら君は立ち去ってくれ、白人と黒人が一緒いると問題だ」とラトレッジが語る。
検事も被告人を黒人とよんだり、軍事法廷の裁判長を務める大佐の夫人も、ルーシイに黒人のラトレッジと仲良くしない方がいいと忠告したりしている。
中尉は被害者が死んでしまった以上、黒人兵が何を言っても信じないだろうと述べるが、ラトレッジもその事が分かっているから逃亡したのだ。
カントレル中尉が率いる部隊は黒人部隊で、たびたび黒人の人権獲得目標が語られる。
ずっと奴隷だったから自分の年齢は分からないと言う老隊員もいる。
ラトレッジは騎兵隊の兵士としては優秀で仲間の信頼もあるが、被告人となった事件に関しては寡黙である。
彼のかたくなな態度は黒人差別に対する絶望感がもたらしているもので、その絶望感をもっと描き込んでも良かったと思うのだが、そうすれば映画自体が深刻なものになっていただろうなとも思う。
人種差別に批判的な立場を取っているが、先住民に対しては相変わらず悪役を押し付けている。
ジョン・フォードはその贖罪を「シャイアン」で行ったのだと思う。

裁判におけるドンデン返しは少し荒っぽい。
カントレル中尉は真犯人の名前をあげていながら疑問点を持っている。
その疑問点にハッと気付く描き方、真犯人が罪を逃れようとする悪あがきから自供に至る迄の描き方は急ぎ過ぎていてドラマチックな盛り上がりにかけている。
僕は尻切れトンボ感を感じた。
純粋の裁判劇だったら違った描き方をしただろうが、これはあくまでも西部劇なのだ。
ラストシーンはジョン・フォードらしい。

母と暮せば

2021-09-08 06:46:26 | 映画
「母と暮せば」 2015年 日本


監督 山田洋次
出演 吉永小百合 二宮和也 黒木華
   浅野忠信 加藤健一 広岡由里子
   本田望結 小林稔侍 橋爪功

ストーリー
1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。
それからちょうど3年後の1948年8月9日、助産師として働く伸子(吉永小百合)のもとに、3年前に原爆により死んだはずの息子・浩二(二宮和也)が「母さんはあきらめが悪いから、なかなか出てこれんかったとさ」と言ってひょっこりと現れ、伸子は呆然とした。
その日浩二の墓の前で「あの子は一瞬の間に消えてしまったの。もうあきらめるわ」と言ったばかりだったのだ。
「あんたは元気?」そう伸子が尋ねると、浩二は腹を抱えて笑い出した。
「元気なわけなかやろう。僕はもう死んでるんだよ。母さん、相変わらずおとぼけやね」。
それからというもの浩二は度々伸子の前に姿を現すようになった。
二人は楽しかった思い出話から他愛もないことまでたくさんの話をするが、一番の関心事は医学生だった浩二の恋人・町子(黒木華)のことだった。
結婚の約束をしていた浩二を突然亡くして、心の行き場のないまま、この3年ずっと伸子を気にかけてくれている優しい娘だった。
「浩二、もし町子に好きな人が現れたら、あなたは諦めるしかないのよ。だって、あなたはもうこの世の人じゃなかやろ。あの子の幸せも考えなきゃね」と言う伸子の言葉に、浩二は顔色を変えて抗議する。
「嫌だ!そんなの嫌だ。町子には僕しかおらん!」
わかっているけれど、どうしても自分の死を受け入れることが出来ない浩二。
伸子はそんな息子が抱きしめたいほど愛しかった。
二人で過ごす時間は特別なもので、奇妙だったけれど、喜びに満ちていた。
その幸せは永遠に続くように見えたが――。


寸評
もともとは、亡くなった井上ひさしが題名だけ決めていた企画を山田洋次監督が引き継いだという作品である。
姉妹編として故・黒木和雄監督が映画化した2004年の「父と暮せば」がある。
「父と暮せば」は広島が舞台で、宮沢りえ演じる娘のもとに、原田芳雄演じる死んだ父親が娘を心配して幽霊になって現れるという話だった。
そして、本作は舞台が長崎に代わり、吉永小百合演じる母親のもとに、二宮和也演じる原爆で死んだ息子が幽霊になって現れるというものである。
好みにもよるのだろうが、映画としては「父と暮せば」の方が出来が良いと思う。
国民的清廉明朗快活女優の吉永小百合が出てくる映画はこうなるんだろうなと思うところもあるのだが、それでも山田洋次は84歳とも思えぬ才気を見せる。
ラストの処理を見ると、やはりこの役は吉永小百合でなくてはならないのだと思わせる。
悲惨でない、あざとくない、声高な反戦を叫んでいない、気品がある。
浩二役の二宮和也と歩む姿をあのように見せることが出来る女優さんは限られている。
「父と暮せば」とは違った処理で唸らされた。

それにも増して驚かされた山田監督才気と思われたのが原爆の炸裂シーンだ。
目標が小倉から長崎に変更になった経緯を描きながらついに原爆が長崎に投下される。
きのこ雲が上がり猛烈な爆風と灼熱地獄が人々を襲う阿鼻叫喚の世界が描かれるはずのシーンだ。
ところが山田監督は一瞬のうちに何もかも破壊してしまう原爆の威力をものの見事に演出している。
きのこ雲などを登場させない、まさに映画的処理だし、その発想を生み出してくる才気の存在に驚嘆する。
場内からは思わず「アッ!」という声が漏れた。
上手い!
家の1階から2階に上がっていく浩二をクレーンに乗ったカメラで下から上へと移動していく丁寧な撮り方。
セットも市井の人の生活も丁寧に描いていて手抜きをしていないと思われた。
もうすぐ絶滅してしまうのではないかと思われる職人監督を感じさせる。

前作の宮沢りえと同様に黒木華の町子は生き残ってしまったことに対する自責の念を持っている。
なぜあなたが生き残ってうちの子が死んだのかという遺族の思いに対してなのだが、それを慰める浩二の母親も同じことを言ってしまう。
戦争で肉親を亡くした家族のやりきれない思いが伝わってくる。
先に亡くなった兄の亡霊も出てくるが、この世に未練を残したまま死んだ人の無念さも滲みだしていた。
年数も経ったし、残された町子の幸せも考えてやらねばならないので母親は息子を忘れようとする。
すると息子は幽霊となって母の前に現れるのだが、ここに戦後70年となる2015年に作られた意義があったのかもしれない。
忘れられようとしている先の戦争を、長崎の原爆を忘れちゃいけないよと言っているようでもあるのだ。
町子の生き残ったことへの自責の念を描き、再生するための男性として浅野忠信を登場させているのは前作を意識したものだったのかな?

バニー・レークは行方不明

2021-09-07 06:46:08 | 映画
「バニー・レークは行方不明」 1966年 アメリカ


監督 オットー・プレミンジャー
出演 ローレンス・オリヴィエ
   キャロル・リンレー
   ケア・デュリア
   ノエル・カワード
   マーティタ・ハント
   フィンレイ・カリー

ストーリー
ロンドンの昼さがり。アメリカから来たばかりのアン(キャロル・リンレイ)は、ロンドン駐在の記者をしている兄のスティーブン(キア・デュリア)と、この日新しいアパートに入った。
荷物の片付けと買物を終えると、アンは再び4つになる私生児の娘バニーを迎えるために保育園に行ったが、バニーの姿はどこにも見えなかった。
どの先生もバニーという子供など見たこともないという。
どこを探してもいないため、次第にパニックになっていくアン。
埒が明かないと考えたアンはスティーブンに連絡をして来てもらった。
保育士の許可を取り、スティーブンはアンを連れて園内を探索する。
最上階へ行ってみると、そこにはこの保育園の創立者だという老女がひとりで暮らしていた。
バニーのことを聞いてみるが、要領を得ない答えしか返ってこなかった。
アンはヒステリックになり、スコットランド・ヤードのニューハウス警部(ローレンス・オリヴィエ)に捜索を依頼した。
しかし、どこにもバニーはいなかった。
給食係の女性に話を聞こうとするが、彼女は料理のことで文句をつけられたというので姿を消していた。
アンが家へ戻ると、思いがけないことにバニーの服や玩具など、彼女のものがすべてなくなっていた。
ニューハウスは、バニーは最初から存在していなかったのではないかとさえ考え始めた。
その上、アンは子供の頃、バニーという空想上の女の子をつくったこともあったということが判明する。
ニューハウスは船会社を訪ね、アンがアメリカから渡って来た日の乗客名簿を調べたが、アンとバニーの名前は見当らなかった。
バニーの実在を証明するために、アンはバニーの人形が修繕屋に出されている事を思い出し、預かり証をもって深夜ひとりで出かけた。


寸評
ミステリードラマらしいタイトルバックがなかなか洒落ていていい感じだ。
保育園に預けたはずの4歳になるバニーという女の子が行方不明になっている話なのだが、バニーは姿を全く見せない。
そのことで、もしかするとバニーは存在していないのではないかと思わせ、ミステリー度は高まる。
一方でアンの必死さを見るとバニーは本当に居なくなっているのだとも思える。
では一体誰がバニーを連れ去ったのか?
アンは被害妄想という病気に犯されているのか?
観客に疑問を持たせながらストーリーは展開していくのだが、引っ越し時にアンが配送業者から受け取った荷物の中から小物を整理して並べるシーンは余計だったと思う。
バニーがアンの想像の産物だとするならば、自宅からバニーの持ち物が消え去っていることも、最初からそのような物はなかったのだと思わせる演出があっても良かったように思う。
よく出来た脚本だと思うのだが、欠点があるとすればバニーは存在していると言う印象が強いことだ。
バニーはアンの想像上の存在なのだと言う印象をもう少し持たせる演出があってもよかったように思う。

ミステリアスな雰囲気はアンの引っ越し先の大家や、保育園の最上階に住んでいる老婆の存在などによっても生み出されているのだが、子犬を抱いた大家は登場人物として必要だったのだろうか。
存在意義が見いだせないキャラクターだったように思う。
大家に比べると保育園の創立者だと言う最上階に住んでいる老婆は重要な人物である。
要領を得ない人物のように描かれているが、まるで有能な私立探偵のような人物で、彼女から重要な発言がなされてある程度先が読めるようになる。
ただしそのタイミングは早すぎたように思う。
途中で結末の為の伏線が張られているのだが、伏線となるものがうっかりしていると見逃がしてしまうという物ではなく分かりやすいものとなっているので先読みはしやすい。
それを欠点と見るかどうかは観客次第だろう。

スコットランド警部のローレンス・オリヴィエは冷静な警部として存在感がある。
粋がることも力むこともなく、誘拐事件としてと、バニーの存在への疑問という面の両面をにらみながら部下に対して的確に指示していく。
彼の目線は観客そのものの目線でもある。
犯罪に主眼を置きながらも、バニーの存在に疑問を持っている存在である。
僕にとって、結末は予想通りではあるのだがその描き方は予想を超えるものである。
描き方に違和感を持つかどうかもこれまた観客次第だろう。
僕はチョット違和感を感じた。
スコットランド警部の最後の一言はタイトルを引き締める粋な一言となっている。
子供を巡るミステリアスな作品は時々見られるが、制作年度を考えるとよくできている方に思える作品だ。

はなれ瞽女おりん

2021-09-06 07:04:58 | 映画
「はなれ瞽女おりん」 1977年 日本


監督 篠田正浩
出演 岩下志麻 原田芳雄 奈良岡朋子 神保共子
   横山リエ 宮沢亜古 中村恵子 殿山泰司
   樹木希林 西田敏行 安部徹 小林薫
   原泉 不破万作 浜村純 加藤嘉

ストーリー
大正七年、春まだ浅い山間の薄暮、おりん(岩下志麻)は、阿弥陀堂で一人の大男(原田芳雄)と出会った。
翌日から、廃寺の縁の下や地蔵堂を泊り歩く二人の奇妙な旅が始まる。
ある日、木賃宿の広間で、漂客や酔客相手におりんが「八百屋お七」を語っている時、大男はその客に酒を注いだり、投げ銭を拾い集めていた。
またある夜には、料理屋の宴席で「口説き節」を唄うおりんの声を聞きながら、大男は勝手口で、下駄の鼻緒のすげかえをすることもあった。
それからも大男は、大八車を買入れ、おりんと二人の所帯道具を積み込んで、旅を続ける。
そんな時、柏崎の薬師寺で縁日が開かれ、露店が立ち並ぶ境内の一隅に、下駄を作る大男と、できあがった下駄をフクサで磨きあげるおりんの姿があった。
しかし、ショバ代を払わずに店をはったという理由で、大男は土地のヤクザに呼び出される。
大男が店を留守にした間に、香具師仲間の別所彦三郎(安部徹)に、おりんは松林で帯をとかれていた。
松林の中で、すべてを見てしまった大男は逆上し、道具箱からノミを取り出すと、松原を走り去った。
やがて、渚に座りこんだままのおりんの前に大男が現れ、「また一緒になるから、当分別れてくらそう。俺は若狭の方へ行く」と言い残すと姿を消した。
季節は秋に変り、おりんは黒川の六地蔵で出会ったはなれ瞽女のおたま(樹木希林)と共に、南の若狭方面へと向っていた。
そんな時、大男は別所殺しの殺人犯として、また福井県鯖江隊の脱走兵としても追われていた。
若狭の片手観音堂に来ていたおりんは、ある日、参詣人でにぎわう境内で、大男に呼びとめられた。
その夜、うれしさにうちふるえながら、おりんは初めて、大男に抱かれた。


寸評
瞽女(ごぜ)という女性の盲人芸能者の存在を僕は知らなかった。
北陸地方などを転々としながら三味線などを弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人との事である。
時にやむなく売春をおこなうこともあったらしく、この映画の中でもそれらしい場面が描かれている。
僕が子供の頃には門付の芸人さんではなかったが、巡礼のような方が門付にきてご詠歌を唱えると、少しばかりのお米を胸に下げた袋に入れてあげていた。
少女のおりんは薬行商の斎藤さんに連れられて、瞽女の親方であるテルヨの所へやって来る。
僕の家にも斎藤さんのような富山の薬売りが定期的に訪ねて来ていた。
家には引き出しのついた赤い小箱が置かれていて、その中に入っていた常備薬の使用分だけを追加していくという商法である。
子供には紙風船をサービスしてくれて、僕はそれが楽しみだった。

知らなかった瞽女の生活がかなり克明に描かれる。
盲目だが針に糸を通す事も出来、その技術に感心する。
仲間の中でのイジワルも描かれているし、余興に呼ばれて男たちの慰み者になる姿も描かれている。
盲目というハンデを背負った彼女たちの悲しい生き様だ。
おりんはテルヨのもとで修行して大人になるが、瞽女は神様の嫁であり男と寝てはいけないという親方の教えに背き、ある晩流されるまま男と寝てしまったおりんは仲間から別れてはなれ瞽女となる。
彼女たちは男どもの好奇の対象でもあるのだが、その事を悲しんでいる風でもない。
生きていくためには仕方のないことだと割り切っているようにも見える。
それだからこそ生きていくということへの切なさをなお一層感じる。

おりんは同じく天涯孤独だという平太郎という大男と出会う。
下駄屋に住み込みで働いている母は主人と関係を持っているが、それも生きるためだったのだろう。
さらに主人の息子の身代わりとなって徴兵されていたことが明らかになる。
金持ちの身勝手と貧乏人の屈辱、国家のいい加減さが平太郎の叫びとなって響く。
おりんは盲目であること逆手にとって取調官を煙に巻き平太郎をかばう。
平太郎はそんなおりんの気持ちを知って彼女を救う決心をする。
淋しい人生を送ってきた二人の純愛物語である。
岩下志麻の瞽女も、奈良岡朋子の瞽女もいいけれど、もっといいのが登場シーンの少ない樹木希林の瞽女だ。
二人は瞽女を演じている風だが、樹木希林は瞽女になり切っていた。
おりんに幸せになってほしいと去っていくシーンには胸が熱くなる。
映画はおりんの少女時代からの一生を描いているが、その一生は決して恵まれたものとは言えない。
かろうじて平太郎という本当に愛し愛される男と出会えたことが救いだが、盲目というハンデを背負った女性への理解と支援が与えられるべきだと思わされる。
差別に対する啓蒙と身障者への支援が不十分だった時代の作品を感じさせる。
今も十分だとは思わないが・・・。

花筐/HANAGATAMI

2021-09-05 07:37:56 | 映画
「花筐/HANAGATAMI」 2017年 日本


監督 大林宣彦
出演 窪塚俊介 満島真之介 長塚圭史 柄本時生
   矢作穂香 山崎紘菜 門脇麦 常盤貴子
   江馬圭子 村田雄浩 武田鉄矢 入江若葉
   南原清隆 根岸季衣 池畑慎之介 片岡鶴太郎
   高嶋政宏 原雄次郎 品川徹 伊藤孝雄

ストーリー
1941年の春、アムステルダムに住む両親の元を離れ、佐賀県唐津に暮らす叔母(常盤貴子)の元に身を寄せることになった17歳の榊山俊彦(窪塚俊介)の新学期は、アポロ神のように雄々しい鵜飼(満島真之介)、虚無僧のような吉良(長塚圭史)、お調子者の阿蘇(柄本時生)ら学友を得て“勇気を試す冒険”に興じる日々。
ある日、鵜飼は熱湯の中にコインを落とし、素手でとった者にはあげると言った。
阿蘇が挑戦するが熱くて手を入れられないのに、吉良はやけどをしながらも拾い上げる。
吉良が鵜飼が可愛がっていた子犬を殺した。
そのような事を通じて鵜飼は吉良にライバル心を抱く。
榊山は肺病を患う従妹の美那(矢作穂香)に恋心を抱きながらも、女友達のあきね(山崎紘菜)や千歳(門脇麦)と“不良”なる青春を謳歌している。
しかし、我が「生」を自分の意志で生きようとする彼らの純粋で自由な荒ぶる青春のときははかなく、いつしか戦争の渦に飲み込まれてゆく。
「殺されないぞ、戦争なんかに!」・・・
俊彦はひとり、仲間たちの間を浮き草のように漂いながら自らの魂に火をつけようとするが、やがて日米開戦となる真珠湾攻撃が行われ、そして終戦を迎える前に原爆が投下されることになった。


寸評
冒頭で原作の同名短編集が紹介され、昭和12年(1937年)は、檀一雄が日中戦争の勃発により召集を受け、詩人の中原中也が30歳の若さで死去し、映画監督の山中貞雄が「人情紙風船」の封切り当日に召集令状が届き中国に出征したひどい年だったと語られる。
時は真珠湾攻撃の直前で、武田鉄矢扮する医者ももうすぐ英国製の自転車も敵国制ということで乗れなくなるだろうと言ってる差し迫った状況下である。
そんな時期にもかかわらず、男子学生も女学生も大人たちも、論じ合い、傷つけ合い、時に失望し、あるいは恋をし、酒を飲み、ピクニックにも出かけ、ダンスをして生を謳歌している。
それを極めて短い時間のカット割り、フレーム・イン、フレーム・アウトの繰り返し、画面合成などを駆使することで映画性を高め、芝居じみたセリフ回しである種の狂言を描き出している。
映像は赤や青のフィルターをかけた色彩で描かれ、時に原色で強調されたりもする現実離れしたものだ。
人工的な桜の花びらが舞い、雨が打ち付けるシーンもあり、老体大林の衰えぬ映画的表現に感心する。

彼等は死ぬのはいいが、殺されるのは嫌だという思いを抱いている。
相手は母国であれ、敵国であれ、殺されるのは嫌だという思いで、それはとりもなおさず戦争による死を拒否しているのだ。
唐津の若者は「唐津くんち」の祭りこそ命を懸ける対象ととらえているのだろう。
若者たちの恋は三角関係、四角関係と不謹慎でふしだらなもののように見えるが、それは自由であることの表現であり社会の強制から放たれようとする意思の表現でもある。
軍用馬として供出された馬は彼等の身代わりでもあり、その馬は自由を得て解き放たれている。
鵜飼と俊彦が全裸でその馬にまたがり疾走するシーンは幻想的で映画らしい。
いつの時代も学生時代は純粋だ。
自分自身を振り返っても、恥ずかしいくらいにそうだったように思う。
つまらぬことでも真面目に議論した。
自分たちの微力でも世の中を変えることが出来ると信じたものだ。
恋もそうだし、何かに熱中したのもあの頃が一番だったかもしれない。
リアル感のない若者たちの言葉と行動に、僕は自分の学生時代をダブらせていた。

俊彦の美しい叔母は、死期の迫った美那を看病し続けている。
そして、俊彦や彼の友人たちを大いにもてなす天使のような女性のように見えるが、その実、貞淑を装う顔の裏に情欲を秘めたきわめて人間的な女である。
狂気は生のエネルギーでもある。
戦争はそんな人間性を拒絶してしまう。
12月8日、若き憲兵を含め、彼等は消え去っていく。
子供じみていた俊彦が唯一語り部となって生きているのは、戦争の悲劇を語り継いでいかねばならないということだろう。
癌を宣告されている大林宣彦の生への賛歌が感じ取れる一遍となっている。

バッテリー

2021-09-04 08:56:48 | 映画
「バッテリー」 2006年 日本


監督 滝田洋二郎
出演 林遣都 山田健太 鎗田晟裕 蓮佛美沙子
   天海祐希 岸谷五朗 萩原聖人 上原美佐
   濱田マリ 渡辺大 山田辰夫 塩見三省
   岸部一徳 菅原文太 

ストーリー
長男の巧(林遺都)が中学へ入学するタイミングで岡山県に引っ越してきた原田一家を迎えたのは、祖父の洋三(菅原文太)だった。
甲子園出場校の監督と知られた洋三の血を受け継ぐ巧は少年野球大会でも活躍する剛腕のピッチャーだが、弟の青波(鎗田晟裕)は持病を抱えている。
そんな巧の投球に惚れ込んだのは、医者の息子の永倉豪(山田健太)だった。
野球は小学校の卒業で辞めるという親との約束も反故にして、豪は巧とバッテリーを組むことを決意する。
母の真紀子(天海祐希)から野球を止められている青波も、兄に女房役ができたことが嬉しくて堪らない。
中学校の野球部には、鬼監督の戸村(萩原聖人)がいた。
マイペースの姿勢を崩そうとしない巧の態度が反発を買い、他の野球部員からリンチを受ける。
事態は明るみに出て、校長は野球部の活動停止を言い渡した。
巧の同級生である矢島繭(蓮佛美沙子)には、ライバル校の野球部の従兄弟がいた。
その縁から非公式な試合が行われる。
しかし、その試合中、巧と豪の力量の違いが明らかになり、二人の信頼関係は崩れてしまう。
仲違いした巧と豪の間を取り持ったのは青波だったが、その疲労から青波は急性肺炎を起してしまう。
巧を叱責する真紀子だが、夫の広(岸谷五朗)から諌められる。
そして、巧と豪のように、青波と巧や豪の間にもバッテリーが存在することを思い知らされた。 
「勝ってな、お兄ちゃん」の声に励まされ、巧は再試合の球場へと向かった。
ピッチャーマウンドに立った巧は、キャッチャーの豪に向かって剛球を投げ続ける。
二人の黄金のバッテリーが復活した。


寸評
非常にわかりやすい映画で、観客が予想したとおりに物語は展開していくが、それでも少年の表に出さないナイーブな気持ちと成長物語が清涼をもたらす青春映画だ。
原田一家がドライブしているところで、母親の真紀子が巧に青波のために窓を開けてくれるように頼むが、巧はその申し出を無視する。
観客の多くはこの時点で、母親が病気の弟にかかりきりになっていて、巧は母親の愛情に飢えているのだなと思うに違いない。
冒頭での三塁にランナーを置いて巧が投げ込んだ一球の行方はやがて大きな意味を持ってくるのだが、この時点でその一球の結末を描いてしまったほうが良いのか悪いのかはわからないけれど、ここで描かなかったことが大きく寄与したとは言い難い後半の描き方ではあった。

青波の病気療養のために空気のいい真紀子の生まれ故郷の実家に引っ越してきたのだが、真紀子の父でもあるじいちゃんは甲子園経験者で元高校野球の監督でもある。
巧の屈折した精神はじいちゃんへの挨拶にも表れていて、「カーブの投げ方を教えてほしい」というのが彼なりの挨拶なのだが、それが巧なのだとじいちゃんは理解を示す。
ここではじいちゃんはスパルタコーチではなく巧のよき理解者なのだということが示されている。
巧もじいちゃんを認めるところがあって、指示に従ってランニングを開始するが、そこで豪に出合う。
豪との出会いのシーンで巧と豪の性格の違いが示され、青波を含めた三人の関係が出来上がる。
暗の巧と明の豪の関係だ。
最初は巧の剛速球を捕れなかった豪が、何球か後には捕れるようになるのも予想を裏切らない。

巧は豪から「お前は連打を浴びたことがないだろう。ノーアウト満塁のピンチにあったこともないだろう。お前はピンチに弱いで」と言われる。
この言葉は劇中で上手く処理されていなかった。
最大のライバルが登場するのも予想通りと言えば予想通り。
そこで投げた剛速球を巧が捕れなかったことで巧が急に態度を変える。
観客にはその豹変ぶりの原因がわからない。
勘の悪い僕が分からなかったのかもしれない。
たった一球でどうしたのかという変調の表現が弱いところだったと思う。
クラスメイトの矢島繭ともいい関係になるのだが、青春の恋物語は全くと言っていいほど描かれない。
それを描いた方が良かったのか、野球物語に専念したほうが良かったのかは判断に悩む。
兎に角、矢島繭の存在意義はライバルの従妹という以外にはない。
母の愛を受ける病弱の青波と巧の関係も予想の範囲で、巧が試合に駆けつけるのも、巧の気持ちを感じた母親の行動も予想通りのもので、ストレスを感じさせない。
クラブ活動は内申書のためだったと言っていた元野球部の連中も試合を見に来ているが、彼らの心情は描かれていたと言い難い。
粗削りなところもある映画だとは思うが、少年のスポーツ物としては十分に水準を保った作品だったとは思う。

八甲田山

2021-09-03 06:55:16 | 映画
「八甲田山」 1977年 日本


監督 森谷司郎
出演 高倉健 北大路欣也 三國連太郎 加山雄三
   島田正吾 大滝秀治 丹波哲郎 藤岡琢也
   前田吟 小林桂樹 神山繁 森田健作
   緒形拳 栗原小巻 加賀まりこ 秋吉久美子
   加藤嘉 花澤徳衛 菅井きん 田崎潤 浜村純

ストーリー
日露戦争開戦を目前にした明治34年末。
「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長から声をかけられた二人の大尉、青森第5連隊の神田と弘前第31連隊の徳島は全身を硬直させた。
第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれたのだが、二人の大尉は責任の重さに慄然とした。
雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。
年が明けて1月20日。
徳島隊は、わずか27名の編成部隊で弘前を出発。
行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。
出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。
それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものであった。
一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐に拒否され210名という大部隊で青森を出発。
神田の用意した案内人を山田がことわり、いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。
神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。
一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた。
体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊と、耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。
しかし八甲田山はそのどちらも拒否するかのように思われた・・・。


寸評
権力の二重構造による悲劇を描いているとはいえ、一言でいえば雪中行軍で兵隊が死んでいくだけの話である。
その単純な話を一大ドラマにしているのは芥川也寸志の音楽と木村大作のカメラだ。
撮影機材の整備が困難であったことを示すように、スクリーン上に映される人物の表情などは不鮮明で、場合によってはそれが誰なのか不明な時もある。
吹雪の中ではライティングもままならなかったであろうと思われるが、反面作り物でない本物のすごさを感じさせて、この映画の主人公は高倉健でも北大路欣也でもなく雪そのものだった。
スクリーン上で多くの時間を占めて描かれたのは、雪原あるいは吹雪の中を進む青森第5連隊と弘前第31連隊の姿である。
ただそれだけを捉えているだけなのに異様な緊張感を持続させたのは、まさしく自然の脅威である雪の存在だ。
連隊が縦列で進んでくる。
雪をかき分け進んでくるのだから、当然彼らの前は踏み荒らされていない雪原だ。
それを正面から捉えているのだから撮影班は足跡がつかないように回り込んで撮影したに違いない。
撮影の苦労をしのばせるシーンが随所にある。
そこでは会話もいらない、人のアップもいらない。
雪をかき分け進んでくる連隊の姿さえあればいいという状況で、それを角度を変え、遠景を取り込みながら表現していった木村大作に代表される撮影の功績は計り知れないものがある。
ましてや吹雪のシーンとなると、天候待ちもあっただろうにと思うと出演陣の苦労も想像するに難くない。
その前人未踏ともいえる撮影敢行がこの映画の持つ最大の力だ。

描かれている人物はストレート一本やりと言ったような単純図式だ。
特に青森第5連隊において指揮官の神田大尉を差し置いて上位下達の命令を出し部隊を窮地に陥れる、本来随行員であるはずの大隊長の山田少佐が一人悪役を背負っている。
大隊長の山田は道案内を独断で拒否するし、神田大尉の方針を全く無視する横暴ぶりを見せる。
上官に逆らえない神田大尉の苦悩は部下の言葉でもって示される。
相対するのが弘前第31連隊の徳島大尉で、彼は案内人の女性にも敬意を払う良い人と言う立場だ。
村に到着した時に、案内人を最後尾に下げようと進言する部下を制してかまわず先頭を歩かせ、彼の部隊は彼女の後をついていく。
彼女が去るとき、その功績に感謝し整列して号令一過の敬礼で送るシーンは感動的だ。
大隊長が案内人を拒否するのと対照的に描いて、徳島大尉をヒーローとしている。
神田隊の緒形拳演じる村山伍長は冬山を甘く見る大隊長との対比者として登場し、最後には軍律を無視して自らの意思で離脱し田代温泉にたどり着く。
上層部は、隊は全滅ではなかった、しかも一人は田代にたどり着いているとメンツを重んじる発言をする。
権力の二重構造による悲劇と共に、人命よりもメンツを重んじる上層部の権威主義が批判されてはいた。
ここで生き延びた徳島大尉たちは、後の奉天会戦で極寒に耐えながらも日本軍を勝利に導き戦死した旨のテロップが示されるが、それはこの寒中訓練が役立ったと言っているのか、ここで生き延びたのにかの地で死んでいったはかなさを示していたものなのか、僕には不明であった。

初恋・地獄篇

2021-09-02 06:53:19 | 映画
「初恋・地獄篇」 1968年 日本


監督 羽仁進
出演 高橋章夫 石井くに子 満井幸治
   福田知子 宮戸美佐子 湯浅実
   額村喜美子 木村一郎 支那虎

ストーリー
シュンが七歳の時、父が死に、母は再婚した。
教護院に入ったシュンは間もなく、彫金師の家にひき取られ、仕事の手伝いをしながら成長した。
孤独なシュンはある日、ひとりの少女ナナミと知り合った。
ナナミは、集団就職で上京した後、いまヌードモデルをやっている。
二人は一軒の安ホテルで抱きあったが、初めての経験でシュンは当惑するばかりであった。
ナナミはそんなシュンに優しかったが、二人は不成功のままホテルを出た。
ある日、シュンは公園で幼ない女の子に会った。
シュンはその少女の柔かい皮膚の感覚に、幼ない日の郷愁を誘われたが、物蔭で二人を見ていた男に変態扱いされてしまった。
精神病院へ連れていかれたシュンは、医師の暗示によって過去を想い出したが、それは嫌な記憶ばかりだった。
シュンはナナミのいるヌードスタジオを訪ね、そしてナナミにはもう一つの生活があるのを知った。
女と女が互いに肢体をからませ、闘い合う女闘美がそれだった。
窓から覗き見たシュンは驚いたが、見張りにつまみ出されてしまった。
あくる日、シュンはナナミが中年男と連れ立っているのを見て、男を殴ろうとしたが、ナナミヘの歪んだ愛について語る男をシュンは殴れなかった。
海辺での撮影会の日、ナナミはその男と、妻と小さな子供たちがピクニック二興じる姿を見て、顔が青ざめていくのを覚えた。
一方、そのころシュンは自室で孤独な夢を結び、妄想を描いていた・・・。


寸評
主人公の少年シュンと、少女のナナミは、共に十九歳の少年少女によって演じられている。
隠し撮りも含めて当時の風俗産業を採り入れることでドキュメンタリー風になっていて、幼いシュンとナナミの性的な危うい結びつきにリアリティを感じさせる。
シュンの出自を考えると彼が若者の最大公約数的存在とは思えない。
シュンは母親が再婚した為に施設に入れられて、今は彫金師夫婦の養子になっている。
養父は男色の気がありシュンを可愛がってはいるが、シュンは養父の性的対象でもある。
ナナミは田舎から東京に出てきた少女だが、風俗産業に身を置いている。
存在している世界のせいか、ナナミがリードするような形で二人は開放的な風潮によって性急な性的結びつきを求めるようになる。
シュンは精神的には幼さを残しており、幼児体験も加わって幼い女の子と親しくなる。
大人から見れば異様な関係に見えて、シュンは変態扱いを受けてしまう。
風俗で痴態をさらす大人の男も一歩家庭に帰れば良い父親であったりする。
欺瞞に満ちた大人たちに比べれば、シュンとナナミは純粋である。
しかしその純粋さは報われるわけではない。
シュンの心は母に捨てられた少年時代に向かい、記憶に蘇るのは絶望的な淋しさだ。
ナナミはヌードモデルと称しているが、実態はヌードスタジオで好色な男たちから一層の猥雑なポーズを要求されていて、二人は共にナイーブな少年少女である。
羽仁進は二人の姿を誇張するわけでもなく、卑下するわけでもなく、又青春を賛歌するわけでもなく、優しく包んでいるのだが、僕たちはわずかな光明さえ見出すことができない結末となっている。

寺山修司が脚本に参加しているからなのか、僕の理解を超えるシーンが数多くある。
やたらと登場する女性の裸は理解できても、ラーメン屋の男性店員の路上での全裸シーンは一体何を表していたのだろうと思うし、笑う宗教は何だったのか。
この映画をリアルタイムで見た当時、アングラと呼ばれた商業性を否定した文化・芸術運動が幅を利かせていた。
アングラ演劇では寺山修司らの天井桟敷などが代表だった。
随所にアングラ演劇を思わせるシーンがあるのは、その寺山修司の意図したものなのかもしれない。
僕も阪神百貨店裏にあったビルの地下で、ビールを飲みながらアングラ劇を見た経験がある。
やはり理解不能であった。

シュンは初めての経験の時、「未成年とわかれば・・・」と心配するうぶなところを見せ、自分は初めての経験なのだと打ち明ける。
しかし上手くいかずホテルを後にしている。
最後ではシュンは生きるための自信を取り戻し、「今度は上手くいく」とナナミに告げて、同じホテルでの約束をするが悲劇的な事態を迎える。
その原因はナナミが行っている仕事にあったのだから、何だか救われない二人に思えた。
いいのかなあ・・・この結末で。

馬鹿まるだし

2021-09-01 06:45:28 | 映画
「馬鹿まるだし」 1964年 日本


監督 山田洋次
出演 ハナ肇 桑野みゆき 清水まゆみ
   水科慶子 藤山寛美 小沢栄太郎
   犬塚弘 長門勇 三井弘次 渥美清

ストーリー
シベリヤ帰りの安五郎(ハナ肇)は、外地に抑留される息子がいる和尚(花澤徳衛)の浄念寺にころがりこんだ。
若くて美しい住職の妻の夏子(桑野みゆき)に安五郎は秘かに恋慕していた。
堂々たる風貌と腕っぷしの強さで安五郎は、早くも町の人気者となった。
そのきっかけは、町の劇場に出演中の怪力スーパーマンを負かした事件が、町中に広まったからだ。
以来、安五郎には八郎(犬塚弘)という子分も出来、又一軒の家を構えて町のボスとなった。
やがてインフレの波がこの瀬戸内海の小さな町にも押しよせて来た。
そして町の工場にも労働争議が起きた。
おだてられた安五郎は、赤木会長(小沢栄太郎)に面談し、工員の要求を貫撤させた。
ただ夏子に一言ほめてもらいたい、それが安五郎の行動の全ての動機なのだ。
英雄となった安五郎の日々も、町の勢力を革新派が握ったことから急変した。
何となく冷くなった町の人達の眼、そして夏子との間が噂となり浄念寺への出入りは禁止となって、痛手は大きかった。
ある日ダイナマイトを持った脱獄囚の三人組が辰巳屋の静子(清水まゆみ)を誘拐して裏山に逃げ込んだ。
この時人の口にのぼったのが、大力をもつ安五郎だ。
人の好い安五郎は名誉挽回と裏山に行って静子を救ったのだが、その際足元でダイナマイトが爆発して両眼を失ってしまう。
それから二年後、唯一筋に愛しぬいた夏子の、再婚の花嫁姿を見守る、杖にすがった盲目の老人。
あの気風のいい、安五郎の変り果てた姿が白木蓮の匂う浄念寺にあった。
夏子の涙にぬれた眼が安五郎に優しくそそがれているのも知らぬまま……。


寸評
クレイジー・キャッツが総出演しているが、東宝の「無責任シリーズ」とは一線を画している。
作品自体は完全に「無法松の一生」へのオマージュとなっている。
無教養だが腕っぷしが強く人の良いしがない男が未亡人に秘かな思いを寄せるのは同じ設定となっている。
片や人力車夫の富島松五郎がお世話になった陸軍大尉吉岡小太郎の未亡人吉岡良子に思いを寄せるのに対し、こちらは風来坊の安五郎が若くて美しい戦地で生死不明となっている住職の妻の夏子に思いを寄せる。
「無法松の一生」の松五郎は本当に腕っぷしが強いが、こちらは喜劇なだけに安五郎は運が強くて強い男と勘違いされてしまっているという描き方である。
オマージュとして劇中の旅役者の一座が演じる演目も「無法松の一生」となっている。
そして愛を打ち明ける時のセリフとして安五郎に「あっしは汚れている」と語らせている。
松五郎が吉岡夫人一家に何かと世話を焼くのに対し、こちらの安五郎は寺男の時は何かと便利使いされて役に立っているが、寺を出てからは皆からおだてられて利用されるだけで、夏子にいつも注意されるようになっている。
マドンナの桑野みゆきは、戦前に当時のベスト・ドレッサー女優と称された桑野通子の娘で、僕は彼女の笑顔が好きで結構ご贔屓にしていた女優さんだったのだが1967年に結婚と同時に引退してしまった。

安五郎は和尚の奥さんが言うように「ちょっと頭の足りんようなとこはあるけど悪い人ではないらしい」という男で、おだてられるとブタも木に登るようなところがある。
物語に起承転結はなく、安五郎の性格を生かしたちょっとしたエピソードが積み重ねられていく。
それが不自然にならないように大人になった清十郎(植木等)の声で語られる。
喜劇なので喜劇役者の渥美清や藤山寛美が特別出演しているが、やはりエピソードの一つに過ぎない。

安五郎が労働争議の場面で言うように、自分が世話になったと認識している村の衆の為なら身体を張って役に立とうという意識があり、時々その気持ちを悪用されることがあるのだ。
安五郎にはそれ以外に、村人の一人でもあるご新造さんにもほめられるに違いないと勝手な思い込みがあり、そしてその期待は一瞬にして裏切られる。
積み重ねのエピソードは常にそのパターンの繰り返しである。
作品として決定的になるのは最後の裏山での騒動の場面だ。
村のみんなに煽てられて安五郎は心ならずも決死隊的な殴り込みに向かう。
安五郎が夏子に思いを寄せていることを知っている村人が、夏子が助けに行くようにと言っていると言い含められた結果の行動である。
八郎によってそれが嘘だったと知るが、もう後に引けなくなっている。
あこがれのご新造さん夏子に「馬鹿ね」と、低くつぶやくように言われると、その瞬間に呆然とした安五郎のアップが示され、皆に利用されるだけの安五郎の馬鹿さ加減が強調されるのである。

安五郎のキャラクターは車寅次郎に引き継がれて結実するのだが、テレビ版の「男はつらいよ」では寅さんがマムシに咬まれてあっけなく死んでしまう。
ここでも安五郎はあっけなく死んでしまった事になっている。