「ハリーとトント」 1974年 アメリカ
監督 ポール・マザースキー
出演 アート・カーニー
エレン・バースティン
チーフ・ダン・ジョージ
ラリー・ハグマン
ジェラルディン・フィッツジェラルド
メラニー・メイロン
ストーリー
72歳のハリーは、愛猫のトントとニューヨークのマンハッタンに住んでいたが、区画整理のためにアパートから強制的に立ち退きを迫られた。
仕方なくハリーはトントを連れて長男のバートの家に行ったが、バートの妻に気兼ねしなければならず、シカゴにいる娘のシャーリーを頼って旅に出る決心をした。
バートは飛行機で行くことをすすめたが、トントと一緒では飛行機に乗せてもらえず、バスで行くことになった。
しかしそのバスもトントのために途中で降りなければならなくなり、中古車を買って目的地に向かうことにした。
途中、コンミューンへいくという娘ジンジャーに会い、彼女の勧めで初恋の相手のジェシーに会いにいった。
年をとったジェシーは頭がすこしいかれていてハリーを想い出せなかったが昔ダンサーだったことは覚えていて、ハリーと一緒に踊ったりした。
ようやく、本屋を経営するシャーリーの家に辿りつくと、シャーリーはハリーにシカゴで一緒に暮らそうと言ったが、ハリーはそれを断わり翌朝ジンジャーと出発した。
一行がアリゾナにつくと、ジンジャーはハリーに一緒にコンミューンへ行こうと誘ってみたが、ハリーは当分の間一人でいたいと断わった。
ハリーとトントの旅が再び始まり、さまざまな人間に会った。
ハリーが次に訪れたのはロサンゼルスだった。
ここには次男のエディが住んでいた。
翌日、ハリーはトントが病気にかかっているのに気づき、病院へ連れて行き手当をしてもらったが、その甲斐もなくトントは死んだ。
寸評
ハリーは強制立ち退きでアパートを追い出され長男の所へ行くが、家は手狭で口を利かなくなっている長男の息子と相部屋で過ごす。
長男の妻はあからさまな嫌悪感を示すわけではないが、日数が経てばハリーの存在は重荷となってくる。
親が子供の家に後から同居の形で入り込むと起きがちな問題である。
長男は精一杯の気持ちを表すが、妻の手前どうすることもできないのは洋の東西を問わない。
ちょっとしんみりさせる長男の描き方だ。
次にシカゴで本屋を経営している娘を訪ねるが、彼女は4度の離婚を経験していて今は一人で暮らしている。
娘はここで一緒に暮らそうと言ってくれたが、ハリーは旅立っていく。
ハリーの年齢を考えると、ここで暮らすのが一番良かったと思うが、ハリーは娘の幸せを考えると自分が負担にならないほうが良いと考えたのかもしれない。
介護老人をかかえれば娘はそれに拘束されてしまうことは目に見えていることで、ハリーはそのことを思いやったのではないかと思う。
次に次男を訪ねると、見栄を張って強がりを言って見せるが、定職を持たない次男は金欠状態である。
金を貸してほしいとせがまれれば、ある程度まとまった金を援助してやるしかない。
親は子供を見捨てることなどできないのだ。
幸いにも僕は一人娘で、その娘も生活に苦労することはなさそうで、むしろ今の私はそろそろ子どものいう通りにしたほうが良い年齢になって来たし、またそうすることが出来る状況下にいる事に感謝している。
ハリーはニューヨークからシカゴ、さらにラスベガスを経由してロサンゼルスに向かっているからかなりの距離だ。
その間に出会う人々との交流を描いているが、その交流から何かを訴えるというものではなく、ハリーという面白いキャラクターの老人を浮かび上がらせるための存在に思える。
後にも先にもハリーという老人のキャラクターに尽きる作品で、アート・カーニーの役者ぶりに支えられている。
アカデミー賞の主演男優賞に輝いているが、納得の存在感である。
僕は人生でたった一度ヒッチハイクをしたことがあるが、なかなか車が捕まらず苦労した。
ハリーは45分ほど立っていたとも言っているが、うまい具合に車に同乗させてもらっている。
アメリカではヒッチハイクはポピュラーな行為で、同乗させる人が案外と多いのだろうか。
羨ましい社会だ。
若い頃に見た時はほのぼのとしたものを感じた作品だが、歳を取って再見すると老後の生活を意識して自己完結できるだけの準備はしておかなくてはいけないなと、わびしさと淋しさを感じさせる作品に変わっていた。
ハリーはトントによく似た猫と出会うが、場所は違えど再び元と同じ生活を送ることになるのだろう。
猫にエサをあげる一人暮らしのお婆さんが登場してくるが、彼女と同居することになったかもしれない。
僕がロサンゼルスを旅行した時、サンタモニカの海岸を訪れたが、そこでガイドさんから「ここは老人が一杯の老人天国です」と案内されたことを思い出した。
監督 ポール・マザースキー
出演 アート・カーニー
エレン・バースティン
チーフ・ダン・ジョージ
ラリー・ハグマン
ジェラルディン・フィッツジェラルド
メラニー・メイロン
ストーリー
72歳のハリーは、愛猫のトントとニューヨークのマンハッタンに住んでいたが、区画整理のためにアパートから強制的に立ち退きを迫られた。
仕方なくハリーはトントを連れて長男のバートの家に行ったが、バートの妻に気兼ねしなければならず、シカゴにいる娘のシャーリーを頼って旅に出る決心をした。
バートは飛行機で行くことをすすめたが、トントと一緒では飛行機に乗せてもらえず、バスで行くことになった。
しかしそのバスもトントのために途中で降りなければならなくなり、中古車を買って目的地に向かうことにした。
途中、コンミューンへいくという娘ジンジャーに会い、彼女の勧めで初恋の相手のジェシーに会いにいった。
年をとったジェシーは頭がすこしいかれていてハリーを想い出せなかったが昔ダンサーだったことは覚えていて、ハリーと一緒に踊ったりした。
ようやく、本屋を経営するシャーリーの家に辿りつくと、シャーリーはハリーにシカゴで一緒に暮らそうと言ったが、ハリーはそれを断わり翌朝ジンジャーと出発した。
一行がアリゾナにつくと、ジンジャーはハリーに一緒にコンミューンへ行こうと誘ってみたが、ハリーは当分の間一人でいたいと断わった。
ハリーとトントの旅が再び始まり、さまざまな人間に会った。
ハリーが次に訪れたのはロサンゼルスだった。
ここには次男のエディが住んでいた。
翌日、ハリーはトントが病気にかかっているのに気づき、病院へ連れて行き手当をしてもらったが、その甲斐もなくトントは死んだ。
寸評
ハリーは強制立ち退きでアパートを追い出され長男の所へ行くが、家は手狭で口を利かなくなっている長男の息子と相部屋で過ごす。
長男の妻はあからさまな嫌悪感を示すわけではないが、日数が経てばハリーの存在は重荷となってくる。
親が子供の家に後から同居の形で入り込むと起きがちな問題である。
長男は精一杯の気持ちを表すが、妻の手前どうすることもできないのは洋の東西を問わない。
ちょっとしんみりさせる長男の描き方だ。
次にシカゴで本屋を経営している娘を訪ねるが、彼女は4度の離婚を経験していて今は一人で暮らしている。
娘はここで一緒に暮らそうと言ってくれたが、ハリーは旅立っていく。
ハリーの年齢を考えると、ここで暮らすのが一番良かったと思うが、ハリーは娘の幸せを考えると自分が負担にならないほうが良いと考えたのかもしれない。
介護老人をかかえれば娘はそれに拘束されてしまうことは目に見えていることで、ハリーはそのことを思いやったのではないかと思う。
次に次男を訪ねると、見栄を張って強がりを言って見せるが、定職を持たない次男は金欠状態である。
金を貸してほしいとせがまれれば、ある程度まとまった金を援助してやるしかない。
親は子供を見捨てることなどできないのだ。
幸いにも僕は一人娘で、その娘も生活に苦労することはなさそうで、むしろ今の私はそろそろ子どものいう通りにしたほうが良い年齢になって来たし、またそうすることが出来る状況下にいる事に感謝している。
ハリーはニューヨークからシカゴ、さらにラスベガスを経由してロサンゼルスに向かっているからかなりの距離だ。
その間に出会う人々との交流を描いているが、その交流から何かを訴えるというものではなく、ハリーという面白いキャラクターの老人を浮かび上がらせるための存在に思える。
後にも先にもハリーという老人のキャラクターに尽きる作品で、アート・カーニーの役者ぶりに支えられている。
アカデミー賞の主演男優賞に輝いているが、納得の存在感である。
僕は人生でたった一度ヒッチハイクをしたことがあるが、なかなか車が捕まらず苦労した。
ハリーは45分ほど立っていたとも言っているが、うまい具合に車に同乗させてもらっている。
アメリカではヒッチハイクはポピュラーな行為で、同乗させる人が案外と多いのだろうか。
羨ましい社会だ。
若い頃に見た時はほのぼのとしたものを感じた作品だが、歳を取って再見すると老後の生活を意識して自己完結できるだけの準備はしておかなくてはいけないなと、わびしさと淋しさを感じさせる作品に変わっていた。
ハリーはトントによく似た猫と出会うが、場所は違えど再び元と同じ生活を送ることになるのだろう。
猫にエサをあげる一人暮らしのお婆さんが登場してくるが、彼女と同居することになったかもしれない。
僕がロサンゼルスを旅行した時、サンタモニカの海岸を訪れたが、そこでガイドさんから「ここは老人が一杯の老人天国です」と案内されたことを思い出した。
この映画は、アメリカ映画が得意とする、ある人間の旅を描いた物語ですが、これはアメリカン・ニューシネマのような若者の旅ではなく、72歳の老人の物語です。
長年住み慣れたニューヨークのマンハッタンのアパートのビルの取り壊しにより、市から立ち退きを強いられた主人公の元教師のハリー(アート・カーニー)は、ニューヨークの郊外に住む長男の家に居候するのがいたたまれなくなり、愛猫のトントを連れて、長女のシャーリー(エレン・バースティン)の住むシカゴへ、更に次男のいる西海岸のロスへと旅をして行きます。
このように、妻に先立たれた一人の老人が、既に自立した二人の息子と一人の娘の家に立ち寄りながらも、孤独だが自由な生き方を選んで、愛猫トントと共にニューヨークからロスまでの大陸横断の旅を続けて行く物語ですが、このドラマの底に流れているものは厳しいものがあります。
しかし、ポール・マザースキー監督は、この映画の製作意図を、当時の社会的な世相をもとに、「この映画は、悲観的な社会に関する楽観的な意見とでも言うべきものだ。世の中は確かに悪くなっている。だがユーモアや笑いの要素を除いて僕の作品は成立しない」と語っていて、精神も肉体も若いハリーという老人と、彼が触れ合う人々を優しく温かい眼差しで見つめ、しみじみとしたタッチで描いていると思います。
若いヒッピーの女の子、ボケてしまった昔の恋人、魅力的な若い娼婦、留置場で一緒になった老インディアンといった人々との出会い、そしてシネマ・モビルという画期的な方式で即物的に撮影した、アメリカの田舎の風物のあれこれが、このハリーという精神的に若く、しかも毅然とした老人の目を通して、そして猫への語りかけという斬新な手法で、コミカルに明るくスケッチ風に描いていて、ポール・マザースキー監督の演出テクニックの冴えに酔いしれてしまいます。
本来この映画の持つ、ある意味,深刻な老人問題は、ハリウッドのエンターテインメント映画としては、この映画が描くような喜劇調でしか映画化し得ないのかも知れません。
しかし、この映画は喜劇調と言っても、"人間の孤独と自由という人生の深淵"を、客観視した鋭さを秘めていると思います。
この映画の公開当時、日本の小津安二郎監督の、いわゆる"心境映画"との共通性を指摘されたそうですが、しかし、小津映画の"諦観"とは違って、老齢にもかかわらず、精神は青年の持つ若々しい生命力を失わない、小市民の突き抜けた明るさを、この映画は持っていると強く感じます。
そして、ポール・マザースキー監督が、「この映画には別に深い意味はないが、もし何かが描かれているとすれば、それはあらゆる年齢層の人々に受け入れられる人生の姿というものを描きたかった」と語っている裏には、老人問題についての鋭い社会批判を秘めているように思います。
この映画で主人公のハリーを演じたアート・カーニーは、この映画の撮影時、57歳とこの役よりずっと若かった訳ですが、孤独だが生き生きとヴァイタリティに溢れた老人を淡々と演じていて、実に見事でした。
彼は舞台やTVショーに出演した事があり、この映画の前にも端役で映画に出演したりしていましたが、初めての主演でいきなり1974年度の第47回アカデミー賞の最優秀主演男優賞の受賞という快挙を成し遂げたのです。
併せて、同年のゴールデン・グローブ賞の最優秀主演男優賞(コメディ/ミュージカル部門)も受賞しています。
この第47回アカデミー賞の主演男優賞の候補の顔ぶれがとにかく凄くて、「チャイナタウン」のジャック・ニコルソン、「ゴッドファーザーPARTⅡ」のアル・パチーノ、「レニー・ブルース」のダスティン・ホフマン、「オリエント急行殺人事件」のアルバート・フィニーという錚々たる演技派俳優を抑えて、最優秀主演男優賞を受賞したのですから、いかに、この「ハリーとトント」でのアート・カーニーの演技が素晴らしく、絶賛されていたのかがわかります。
映画には自分を投影する要素が含まれているんですね。