おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

巴里の屋根の下

2021-09-13 07:49:55 | 映画
「巴里の屋根の下」 1930年 フランス


監督 ルネ・クレール
出演 アルベール・プレジャン
   ポーラ・イルリ
   ガストン・モドー
   エドモン・T・グレヴィル

ストーリー
パリの場末の裏町に二人の若者が住んでいる。
アルベールは歌を歌って歌譜を売るのが商売、ルイは露店商人である。
二人はいつも連立っているので美しいルーマニア娘のポーラに逢った時も一緒だった。
そこで彼等はどちらが彼女に声をかけるかをサイコロころで決めようとする。
しかしその間に界隈の不良の親分フレッドが彼女をカフェに誘い入れてしまう。
フレッドはポーラを好餌と目して口説きにかかると、彼女はフレッドの荒っぽさに心を惹かれ、晩にはダンスへ行くことを承諾する。
その夜、バル・ミュゼットでアルベールとルイは彼女がフレッドと踊っているのを見て失望する。
フレッドは素早くポーラの部屋の鍵を彼女の手提げ袋から抜取ってしまい彼女に無理にキスしようとする。
ポーラは怒ってフレッドの頬を打ってダンス場を飛び出してしまう。
アルベールはルイと別れて帰る途上彼女と出会い、うちに帰るにも鍵を取られて困っているポーラに自分の宿に来いと勧めると彼女は彼の招待を受け、その夜二人は寝台を挟んで床の上に別々に寝た。
これが縁となりポーラはアルベールの愛情にほだされて結婚することになる。
しかし、彼の知合いの泥棒から盗品がはいっていると知らないで鞄を預かっていたために窃盗の嫌疑をうけて投獄されてしまう。
自分の荷物を纏めてアルベールの許へ来ようとしたポーラは彼が曵かれて行く姿を見た。
彼が二週間入牢している間にポーラはルイと親しくなり夢中に惚れてしまう。


寸評
無声映画からトーキーへと移り変わっていく時代を感じさせる映画だが、時代を考えるとよくできている。
起承転結、喜怒哀楽がはっきりしていて、半分以上が無声でありながらストーリーはわかりやすい。
この頃は、字幕と音声を併用したいわゆるパート・トーキーの形式が一般的だったのかもしれない。
音楽が適度に入り楽しませてくれる。
演出、カメラワークは巧みで、当時の人たちは随分と楽しめた作品だろうと思わせるものがある。
ポーラという女性を巡る三角関係、四角関係をユーモアを交えながら描いていながらほろ苦さも併せ持っていて、脚本も担当しているルネ・クレールの腕が光る。
彼のトーキー第1作目だと感じさせるのはアルベールが街頭で歌うシーンがストーリーの割には長い点で、それも当時の人にとっては心地よかったのかもしれない。
無声の部分のやり取りは観客が想像するしかないのだが、おおよその内容は想像がつくという描き方も心得たものだ。

この映画におけるヒロインはポーラ・イルリが演じるポーラなのだが、僕にはこの女性が心多き女性に思えてしかたなかった。
フレッドというヤクザな男に言い寄られているが、迷惑至極と言う風には思えなかった。
心を許しているようにも見えなかったが、完全拒絶と言う風にも見えなかった。
アルベールと親しくなり、最初は衝突しているがやがて結婚に至ると言う展開はよくあるパターンで納得できる。
ところがアルベールが逮捕されている間に、アルベールの友人のルイに気が行ってしまい、彼と結婚するまでの気持ちとなっているが、ルイが他の女性に愛想を振りまくことに嫉妬してフレッドの元へ行ってしまう危なっかしさが残っている。
あっちへフラフラ、こっちへフラフラのような感じで、どうも純情可憐なヒロイン像には程遠いように思う。
最後はホロっとさせる結末だが、ポーラがルイを取るのは納得だ。
アルベールはいい奴だが、冒頭でスリを働く知人の行為を見逃がしているのだから、やはりまともな人間ではないのだ。
全くの悪人として描いていないが、スリの友人がいるという闇の部分がある男だ。
ルイと一緒になることによって、ポーラは幸せになると思う。

「巴里の屋根の下」というタイトルだが、イメージするパリの雰囲気はない。
下町で起きている庶民の一風景を切り取ったと言う感じの作品だ。
今見ると物足りない部分もあるが、時代を考えれば映画史を飾る一遍としての価値ある作品だと思う。
フランソワ・トリュフォーは「巴里の屋根の下」、「ル・ミリオン」、「巴里祭」を「パリ三部作」と呼び、「幸福な映画作家だったと言っていい」と言っているが、映画史をかじった者ならルネ・クレールの名前は脳裏に刻み込まれている人だと思う。
ルネ・クレールは、ジャック・フェデー、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネと並んで、古典フランス映画における「ビッグ5」と称されているのだから当然だ。