おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

初恋・地獄篇

2021-09-02 06:53:19 | 映画
「初恋・地獄篇」 1968年 日本


監督 羽仁進
出演 高橋章夫 石井くに子 満井幸治
   福田知子 宮戸美佐子 湯浅実
   額村喜美子 木村一郎 支那虎

ストーリー
シュンが七歳の時、父が死に、母は再婚した。
教護院に入ったシュンは間もなく、彫金師の家にひき取られ、仕事の手伝いをしながら成長した。
孤独なシュンはある日、ひとりの少女ナナミと知り合った。
ナナミは、集団就職で上京した後、いまヌードモデルをやっている。
二人は一軒の安ホテルで抱きあったが、初めての経験でシュンは当惑するばかりであった。
ナナミはそんなシュンに優しかったが、二人は不成功のままホテルを出た。
ある日、シュンは公園で幼ない女の子に会った。
シュンはその少女の柔かい皮膚の感覚に、幼ない日の郷愁を誘われたが、物蔭で二人を見ていた男に変態扱いされてしまった。
精神病院へ連れていかれたシュンは、医師の暗示によって過去を想い出したが、それは嫌な記憶ばかりだった。
シュンはナナミのいるヌードスタジオを訪ね、そしてナナミにはもう一つの生活があるのを知った。
女と女が互いに肢体をからませ、闘い合う女闘美がそれだった。
窓から覗き見たシュンは驚いたが、見張りにつまみ出されてしまった。
あくる日、シュンはナナミが中年男と連れ立っているのを見て、男を殴ろうとしたが、ナナミヘの歪んだ愛について語る男をシュンは殴れなかった。
海辺での撮影会の日、ナナミはその男と、妻と小さな子供たちがピクニック二興じる姿を見て、顔が青ざめていくのを覚えた。
一方、そのころシュンは自室で孤独な夢を結び、妄想を描いていた・・・。


寸評
主人公の少年シュンと、少女のナナミは、共に十九歳の少年少女によって演じられている。
隠し撮りも含めて当時の風俗産業を採り入れることでドキュメンタリー風になっていて、幼いシュンとナナミの性的な危うい結びつきにリアリティを感じさせる。
シュンの出自を考えると彼が若者の最大公約数的存在とは思えない。
シュンは母親が再婚した為に施設に入れられて、今は彫金師夫婦の養子になっている。
養父は男色の気がありシュンを可愛がってはいるが、シュンは養父の性的対象でもある。
ナナミは田舎から東京に出てきた少女だが、風俗産業に身を置いている。
存在している世界のせいか、ナナミがリードするような形で二人は開放的な風潮によって性急な性的結びつきを求めるようになる。
シュンは精神的には幼さを残しており、幼児体験も加わって幼い女の子と親しくなる。
大人から見れば異様な関係に見えて、シュンは変態扱いを受けてしまう。
風俗で痴態をさらす大人の男も一歩家庭に帰れば良い父親であったりする。
欺瞞に満ちた大人たちに比べれば、シュンとナナミは純粋である。
しかしその純粋さは報われるわけではない。
シュンの心は母に捨てられた少年時代に向かい、記憶に蘇るのは絶望的な淋しさだ。
ナナミはヌードモデルと称しているが、実態はヌードスタジオで好色な男たちから一層の猥雑なポーズを要求されていて、二人は共にナイーブな少年少女である。
羽仁進は二人の姿を誇張するわけでもなく、卑下するわけでもなく、又青春を賛歌するわけでもなく、優しく包んでいるのだが、僕たちはわずかな光明さえ見出すことができない結末となっている。

寺山修司が脚本に参加しているからなのか、僕の理解を超えるシーンが数多くある。
やたらと登場する女性の裸は理解できても、ラーメン屋の男性店員の路上での全裸シーンは一体何を表していたのだろうと思うし、笑う宗教は何だったのか。
この映画をリアルタイムで見た当時、アングラと呼ばれた商業性を否定した文化・芸術運動が幅を利かせていた。
アングラ演劇では寺山修司らの天井桟敷などが代表だった。
随所にアングラ演劇を思わせるシーンがあるのは、その寺山修司の意図したものなのかもしれない。
僕も阪神百貨店裏にあったビルの地下で、ビールを飲みながらアングラ劇を見た経験がある。
やはり理解不能であった。

シュンは初めての経験の時、「未成年とわかれば・・・」と心配するうぶなところを見せ、自分は初めての経験なのだと打ち明ける。
しかし上手くいかずホテルを後にしている。
最後ではシュンは生きるための自信を取り戻し、「今度は上手くいく」とナナミに告げて、同じホテルでの約束をするが悲劇的な事態を迎える。
その原因はナナミが行っている仕事にあったのだから、何だか救われない二人に思えた。
いいのかなあ・・・この結末で。