おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

真昼の決闘

2020-04-15 08:56:35 | 映画
「真昼の決闘」 1952年 アメリカ


監督 フレッド・ジンネマン
出演 ゲイリー・クーパー
   グレイス・ケリー
   トーマス・ミッチェル
   ロイド・ブリッジス
   ケティ・フラド
   アイアン・マクドナルド
   ロン・チェイニー・Jr

ストーリー
1870年、西部のハドリーヴィルの町、ある日曜日の午前のことである。
この町の保安官ウィル・ケインは、事務所でモルモン教徒のエミイと結婚式を挙げていた。
彼は結婚と同時に保安官の職を辞し、他の町へ向かうことになっていた。
突然、そこへ電報が届き、ウィルが5年前に逮捕して送獄した無頼漢フランク・ミラーが、保釈されて正午到着の汽車でこの町に着くという知らせだった。
有罪にしたウィルや判事に復讐すべく、駅ではミラーの弟ベンが仲間の2人と、ミラーの到着を待っていた。
時計は10時40分、引き返してきたウィルは再び保安官のバッジを胸につけた。
エミイはウィルに責任はないと言って、共に町を去ろうと主張したが、彼は聞き入れなかった。
エミイはひとり正午の汽車で発つ決心をし、ホテルで汽車を待つ間にウィルのもとの恋人のメキシコ女ヘレン・ラミレスと会い、彼女も同じ汽車で町を去ることを知った。
一方、ウィルは無法者たちと戦うため、助勢を求めて、酒場や教会を訪れ、最後に2人の親友に頼み込むが、みんな尻ごみして力になってくれない。
彼は1人で立ち向かう決心をして遺言状を書きつづった。
時計が12時を指すと共に汽笛がきこえ、到着した列車からミラーが降り立ち、エミイとヘレンが乗った。
エミイは一発の銃声を聞くといたたまれず汽車から降り、町へ走った。
ウィルは2人を倒し、エミイの機転であとの2人も射殺した。
戦いが終わって町の人々が集まってくる中をウィルとエミイは黙ったまま馬車を駆って去って行った。


寸評
傑作西部劇の1本である。
ゲイリー・クーパーはヒーローに違いないが、西部劇によくある圧倒的強さを見せるヒーローではない。
むしろ恐怖におびえる側面も見せる普通の男である。
使いから戻った少年が目にしたのは孤立無援となって泣き崩れているケインの姿だ。
かれは必至で仲間を集めに回るが、皆は卑怯うりょく的だ。
法律だ、正義だと叫んでも、本当は何も考えていないのだという大衆の姿は、面倒なことにはかかわりたくないという現代人への皮肉でもある。
それでも次の保安官が着任するまではその責務を果たそうとするゲイリー・クーパーの姿はアメリカ人が好みそうなヒーロー像だ。

ケインを取り巻く色んな人々が登場するが、登場人物それぞれの思惑が入り乱れるのは、西部劇を超えた人間ドラマの様相を呈していてこの作品を面白くしている。
有罪判決を下した判事は殺されては判事を続けられないと逃げ出してしまう。
正義感にとんだ協力者が現れるが、協力するのが自分一人と知ってしり込みしてしまう。
ケインに協力しようという者も居れば、これはケインとミラーの個人の問題で我々は関係ないと主張する者もいる。
ケインの理解者であった者も、ケインがこの町を出ていってくれれば問題は起きないと言い出す。
牧師は教会で結婚式をあげなかったケインを批判し、意見を求められると「人を殺しに行けとも言えないし、殺されに行けとも言えない」と宗教家らしいどっちつかずの意見を述べる。
悪人ミラーがいた時の方が儲かっていて、ケインをよく思っていない人だっているんだと言う店主もいる。
酒場ではここにはミラーの友人もいるんだと言われたりする。
主人公が助けを求めながら孤立無縁となる筋立ては、ヒーロー像を否定しているようだが、かえって普通の男がヒーローになる構図を際立たせている。

劇中時間と実上映時間をシンクロさせた事は、作品を貫くリアリズムに貢献している。
公開時においては、その実験的発想が勝利を得たと思われるが、この手法はこれ以後の作品でも時々見受けられるようになって珍しいものではなくなった。
フレッド・ジンネマンの世界が西部劇を西部劇以上に昇華させている。
「ハイ・ヌーン」のメロディと歌声がしょっちゅう流れるが、ケインのエミィへの気持ちと切羽詰まった気持ちを表す歌詞もいいが、何といってもそのメロディは耳に焼き付くもので哀愁がある。
だんだんと高まってくる緊迫感は、何も起こっているわけではないのに手に汗握らせる。
決闘と言ってもケインは身を隠しながら応戦するというものなのもリアル感がある。
その中で、モルモン教徒で極度に殺人を嫌うグレース・ケリーが相手の一人を射殺するシーンが衝撃的で、この映画の見どころの一つだ。
グレース・ケリーはその後、モナコ王妃となって映画界を引退するが、優雅さをもった古典的美人で、今は存在しないと思われるタイプの雰囲気を持ったスターである。
ゲイリー・クーパーとっても代表作の一本になっていると思う。

マネーボール

2020-04-14 09:38:28 | 映画
「マネーボール」 2011年 アメリカ


監督 ベネット・ミラー
出演 ブラッド・ピット
   ジョナ・ヒル
   フィリップ・シーモア・ホフマン
   ロビン・ライト
   クリス・プラット
   ケリス・ドーシー
   スティーヴン・ビショップ

ストーリー
高校時代は花形選手だったものの、プロでは大成することなく引退し、球団のフロントに転身するという珍しいキャリアを持つビリー・ビーン。
風変わりで短気なその性格は、若くしてアスレチックスのゼネラルマネージャーになってからも変わらなかった。
自分のチームの試合も観なければ、腹が立つと人や物に当り散らすという、癖のあるマネジメントを強行。
そんな変わりダネが経営するアスレチックスは弱かった。
しかも、貧乏球団のため、優秀で年俸の高い選手は雇えない。
チームの低迷は永遠かと思われ、ワールド・チャンピオンの夢はほど遠かった。
だが、野球経験はないものの、データ分析が得意なピーター・ブランドという球界の異分子と出会ったことで、風向きが変わり始める。
ビリーは後に“マネーボール理論”と呼ばれる“低予算でいかに強いチームを作り上げるか”という独自の理論を実践。
だがそれは同時に、野球界の伝統を重んじる古株のスカウトマンだけでなく、選手やアート・ハウ監督らの反発を生み、チーム状況が悪化。
それでも強引に独自のマネジメントを進めてゆく。
その揺るぎない信念は、徐々にチームに勝利をもたらし、誰も想像しなかった奇跡が……。
球界はビリーの手腕を認め、周囲からの信頼も次第に回復し、そしてある日とんでもないオファーがレッド・ソックスから飛び込んでくる。
しかし、そこで重大なことに気づいたビリーは、意外な行動に出る……。


寸評
実話を基にしているとはいえ、このようなベースボール映画を生み出すアメリカ映画の奥深さを感じさせる。
と同時にこのようなGMが存在しているメジャー・リーグの懐の深さも感じさせる。
日本でも「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という書物がヒットしたが、どちらもドラッカーの経営学を無理やり当てはめたれっきとした野球論がベースになっている。

日本映画でも野球を題材にした映画は存在しているが、その臨場感においてはとてもアメリカ映画の足元に及ばないものがあり、この作品でも実写フィルムを交えながら球場の臨場感を高めていく。
ベースは選手やペナントレース争いではなく、フロントの話なので試合場面は多くはない。
それでも登場する選手はまるで本物のメジャーリーガーのように見える。
主人公のビリー・ビーンが、高校時代にその才能を評価されながらも大成しなかった元大リーガーなので、体もそれらしくたくましい。
その為か、配置される選手の体はブラッド・ピットに比べると小ぶりな役者が配置されていて、実戦を見ることのない彼がロッカールームで行うトレーニングの方が迫力がある。
選手にトレードを言い渡したり、クビを宣告するシーンや、監督とのやり取りにGMの辛さがにじみ出ていて、内幕物の面白さも出ていた。

見るからに運動はダメそうなオタク然としてはいるが、超一流大卒で斬新なデータ分析を行っていた青年ピーター(ジョナ・ヒル)の風貌と態度が映画をサポートしている。
ピーターは打率や本塁打ではなく出塁率を重視する野球を提唱し、打率は低くても四球の多い選手を評価したりするのだが、GMのビリー・ビーンもその提案を支持し、盗塁はしない、送りバントはしない、逆に送りバントをされたら1塁で確実にアウトを取るといった野球を推し進めていく。
監督はそれが理解できず従来の選手を使い続けるが、GMの権限でそれらの選手をトレードに出してしまう。
監督とGMの権限が明確に描かれていて、越権行為は断じて取らない様子を面白く見ることができる。
四球での出塁を期待された代打がサヨナラホームランを打ったりする野球のロマンも描いていてスカッとする。
それでも、ピーターの分析がチームの勝利に反映されていく過程であるとか、優勝決定戦の大事な試合の迫力とかをもう少し描いても良かったのではという思いは残る。
どうしても手に汗握る試合のシーンを期待してしまうのだ。
前半戦で全然だめだったチームが20連勝などという大リーグ記録を打ち立てながら最下位から首位へと勝ち上がっていくのだが、そのあたりの経過が案外とあっさり描かれて肩透かし感がある。

2年後に彼等の理論を実践してレッド・ソックスがワールドシーリーズを制したことがテロップで流れ余韻を持たせるのだが、それよりもビリー・ビーンの幼い娘が歌う歌詞が胸を打つ。
変化をもたらすものは叩かれるが、それでも改革がなければ発展もないのだ。
この映画は、変化を恐れず新理論にすべてを委ねたおかげで旧勢力に勝ち上がる下剋上の話なのだが、この作品の公開はそのような変革を待ち望んでいる庶民の願いを代弁していたともいえる。
既得権者が変化を阻んでいるのだ。

マディソン郡の橋

2020-04-13 10:07:55 | 映画
「マディソン郡の橋」 1995 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド
   メリル・ストリープ
   アニー・コーレイ
   ヴィクター・スレザック
   ジム・ヘイニー
   サラ・キャスリン・シュミット
   クリストファー・クルーン
   ミシェル・ベネス

ストーリー
1989年の冬、アイオワ州マディソン郡でフランチェスカ・ジョンソンの葬儀を出すために集まった長男のマイケルと妹のキャロリンは、彼らに当てた母の手紙と日記を読み始める……。
1965年秋。フランチェスカは結婚15年目で単調な生活を送っていた。
夫のリチャードと2人の子供が農産物品評会に出掛け、彼女は4日間、一人で家にいることになった。
新鮮で開放的な気分になった彼女の前に、プロ・カメラマンのロバート・キンケイドが現れ、道を尋ねた。
彼は、珍しい屋根付きのローズマン橋の写真を撮りに来ていた。
フランチェスカは彼の魅力に引かれ、その晩、夕食に誘う。
彼が宿に帰った後、「明日の晩、もう一度いかが?」とのメモを、明朝の撮影で彼が訪れる橋の上に残した。
翌日、2人はホリウェル橋の上で落ち合った。
自然の成り行きで一晩中愛し合った2人は、次の日、郊外でピクニックを楽しんだ。
最後の朝はぎごちなさと不安の中で迎えたが、彼は「一緒に来てくれ」と言う。
悩み苦しんだ末に、荷物をまとめた彼女だったが、家族のことを思うその顔を見て、キンケイドは去った。


寸評
不満はないが満足感もない中年女性の不倫物語と言ってしまえばそれまでなのだが、これがクリント・イーストウッドとメリル・ストリープで演じられてしまうと思わず唸ってしまうのだ。
ラブストーリーにしては主人公たちが年をとりすぎているし、ロマンチックさにも欠けているが、カップルの年齢差が少ないことで不自然さがなく、メリル・ストリープが年齢にふさわしい苦悩を見事に表現している。
若者のラブロマンスならアウトドアでの幸せそうな姿を描かれるところだが、ほとんどはフランチェスカの家での会話劇となっている。
その為にロマチックなシーンの欠如となっているのだが、逆に大人の恋をじわじわと感じさせていく。
それを支えているのがルーシーという女性の存在だ。
アイオワ州のマディソン郡は閉鎖的な町で、人々は極めて保守的だ。
ロバートはよそ者として町の人々の注目の的だし、この町に住む男の不倫相手のルーシーは人々の冷たい視線を浴び、町の人々から拒絶されている女性だ。
自分たちも、特にフランチェスカがそのような目に合わないために慎重な行動をとらざるを得ず、二人がフランチェスカの自宅に閉じこもっていることを納得させる。

フランチェスカは学校の先生をしていたが夫の希望もあり専業主婦となっている。
彼女にはキャリアを捨てた不満が潜在的にあり、退屈な生活に埋没している。
親しんだ詩集を手にすることも、文学を語ることもなく、毎日ひたすらに家族のために働いてきた。
祭りから帰ってきた家族との生活に彼女の不満が表現されている。
夫は優しくて真面目な人物らしいが、彼女が料理したものを黙って食べるだけで夫婦間に会話はない。
夫はビールを飲みながら子供たちとテレビを見、横で編み物をしながら時間を過ごし家族間の会話はない。
彼女の不幸な結婚生活を強調するシーンとなっている。
ところがロバートとの時間ではフランチェスカの表情は輝きを増しており、対照的に会話も弾んでいることでフランチェスカが禁断の一線を越えてしまうことが自然な流れと感じさせる。
この映画はほとんどが二人の会話で構成され、まるで舞台劇のような雰囲気が中年の恋を醸し出している。

この年齢の観客なら、男はクリント・イーストウッドに自分をダブらせ、女性はメリル・ストリープに自分を重ね合わせることだろう。
どちらも不満が溜まってきた生活からの脱却希望を夢見るに違いない。
子育てと言う共同事業が終わりを迎える頃になってくると、夫婦関係の維持のために我慢していたことへの疑問が生じてくる。
映画は「お前の人生は本当にこれで良かったのか?」と問いかけてくるが、ほとんどの人はそれでも離婚に踏み切れない。
彼女は「夫と子供たちへの責任」を語り、キンケイドの誘いを拒絶して元の平凡な日々に戻ることを選択する。
この映画は甘いセリフをささやくシーンより、二人が無言でいるシーンの方が美しく感じる。
ヒロインであるフランチェスカの心の内を表現するためには、単に美貌だけがウリの女優ではない、メリル・ストリープの存在が大きい作品だ。

祭りの準備

2020-04-12 10:14:26 | 映画
「祭りの準備」 1975年 日本


監督 黒木和雄
出演 江藤潤 / 馬渕晴子 / ハナ肇
   浜村純 / 竹下景子 / 原田芳雄
   石山雄大 / 杉本美樹 / 桂木梨江

ストーリー
昭和30年代初め、高知県中村市。
沖楯男(20歳)は、この町の信用金庫の外勤係であるが、毎日、東京へ出てシナリオ作家として身を立てることを夢みている。
だが、母のときよは女狂いの夫・清馬と別居していて、一人息子の楯男を溺愛するあまり離そうとしない。
楯男には心の恋人涼子がいるが、彼女は政治運動に熱を上げており、シナリオを書く楯男にとっては常に片思いの存在であった。
楯男の隣の中島一家は、暴れ者の利広と、兄の貞一・美代子夫婦との奇妙な三角関係で成立している。
利広が家にいる時は、貞一が刑務所に、貞一が家にいる時は利広が刑務所に、という次第の泥棒一家である。
ある日、中島家の末娘タマミが発狂して大阪から帰って来た。
若い衆のセックスの対象となるタマミ。
楯男は涼子のかなわぬ恋の失意の中でタマミと寝てしまう。
数カ月後、タマミが妊娠した。
彼女と同棲していた楯男の祖父茂義が子供の父であると名乗り出た。
タマミは無事に子供を生んだが、その途端に正気に返った。
だがその時からタマミは茂義を激しく嫌悪し、老人は首を吊った。
オルグの男に捨てられた涼子が楯男をセックスに誘った。
涼子への夢が破れた楯男は、一人、東京へ旅立つことを決心した。
駅の待合室で楯男は、殺人容疑で追われている利広に出会った。
「バンザイ!バンザイ!」利広一人の歓声に送られて、楯男は故郷を旅立っていった。


寸評
原始社会でもあるまいに、昭和30年代の初めとは言え、こんな村が本当にあるのかと言いたくなるような無秩序な村が舞台になっている。
主人公楯男(江藤潤)の父親清馬(ハナ肇)は妻ときよ(馬渕晴子)を置いて、同じ村の別の女ノシ子(真山知子)のところに住み着いている。
ちょっと前には同じ村の別の女市枝(絵沢萠子)とできていたようで、その女同士の大喧嘩も起きるが、全てを知り尽くしている村人たちはその喧嘩を見守るだけ。
楯男の家の前には貞一(石山雄大)と利広(原田芳雄)という兄弟が住んでいる家があるが、この兄弟は泥棒稼業でどちらかが刑務所に入っている一家だ。
本来は貞一の妻であるはずの美代子(杉本美樹)は、貞一が刑務所に入っている間は弟の利広とできてしまうが、貞一が刑務所から出てくるとまた寄りを戻す。
その家にはヒロポンで頭がおかしくなったタマミ(桂木梨江)という妹が居るが、大阪で売春をやらされていたこともあって、村中の男と関係を持っているようである。
そんなタマミに楯男の爺ちゃん(浜村純)まで手を出している。
タマミが妊娠して、誰の子供か分からないが、とりあえず爺ちゃんの子というこで皆が認め、タマミの母やす(三戸部スエ)もそれで納得している。
ノシ子が急死して行き場のなくなった清馬は自分の家に帰ってくるが、ときよは清馬を受け入れず、市枝にお願いまでして押し付ける。
性を介在して関係が無茶苦茶な村で、これでよく社会が維持できているものだと感心してしまう。
わが村でも、誰それと誰それができて、男が入り浸っているという噂話は聞かぬでもないが、ここまでひどいのは聞いたことがない。

振り返ってみると、この映画はこんなひどい場所から逃げ出したいと皆が思っていた脱出物語だったのではないかと思えてくる。
ときよ、ノシ子、市枝、やすなどの中年女たちは逃げ出すに逃げられず、お互いの存在を許し合いながらこの村にいついている。
美代子は泥棒兄弟の家だと知りながら結婚した女で、ふたりの男の間を行き来しながら生きるしかない。
唯一のマドンナ役と思われた涼子(竹下景子)も、男に捨てられ楯男にすがりつくしかない女だ。
利広兄弟を含めて、みんな自分の置かれた環境から逃げ出したいと思っていたに違いない。
しかし、現実にはいろいろな事情でそれができない。
脱出願望の象徴はメジロを巣箱から自由にしてやるシーンであり、最後で楯男のとる行動だ。
利広が最後に「バンザイ、バンザイ」と叫ぶのは、それをやり遂げようとしている者への祝福だったに違いない。
華やかな祭りの前には、それを彩るための細やかな準備が要るように、楯男が村で見聞き体験したことは自らが成長するための準備期間だったのだと思う。
祭りの準備とはそういうことだったのではないかというのが僕の解釈。
お嫁さん候補No1だった竹下景子が脱いでいるのも話題の一つ。

マッドマックス 怒りのデス・ロード

2020-04-11 11:29:05 | 映画
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」 2015年 オーストラリア


監督 ジョージ・ミラー
出演 トム・ハーディ
   シャーリーズ・セロン
   ニコラス・ホルト
   ヒュー・キース=バーン
   ロージー・ハンティントン=ホワイトリー
   ライリー・キーオ
   ゾーイ・クラヴィッツ

ストーリー
核兵器による大量殺戮戦争勃発後、石油も水も尽きかけ生活環境が汚染された世界。
生存者達は物資と資源を武力で奪い合い、文明社会が壊滅していた。
流浪の途上で暴徒らの襲撃に遭い捕縛され、シタデルという砦に連行されたマックスは身体を拘束され、環境汚染からの疾病を患う住人に供血利用される。
そこではイモータン・ジョーを首領とした独自教義を持つ好戦的な集団の支配のもと、潤沢な地下水と農作物栽培を牛耳ることで成り立っている独裁社会が築かれていた。
ガスタウンへと向かう取引当日、ジョーの部隊を統率するフュリオサ・ジョ・バッサ大隊長は、ジョー一族が受胎出産させることを目的として監禁していた5人の妻であるスプレンディド、トースト、ケイパブル、ダグ、フラジールの身柄を秘密裏にウォー・リグに搭乗させ、フュリオサの出生地である「緑の地」に匿う逃亡計画を、3000ガロンのガソリン取引を隠れ蓑に東へと進路を変えて実行に移す。
部下の背任行為と、妻たちと、その胎内の我が子を奪われたと知ったジョーは配下の戦闘集団ウォーボーイズを引き連れ、友好関係にある人食い男爵と武器将軍の勢力を援軍に追走を開始する。
マックスはウォーボーイのニュークスの常備用「血液袋」として追尾車両に鎖で繋がれワイブス追走の争いに巻き込まれることになった。


寸評
ストーリーは有って無いようなもの。
全編を通じて描かれているのはすさまじいまでのカー・チェイスとバトル・アクションである。
ノンストップアクションは留まることがなく、フュリオサが乗る巨大な石油積載車「ウォー・タンク」をはじめ、ユニークな車や武器がテンコ盛りで楽しませてくれる。
長いさおの先につかまった戦士が、車から車に跳び移ったり、和太鼓や火を噴くエレキギターを演奏する人々が登場したりして、見ている僕は思わず「何じゃこりゃ?」と叫びたくなった。
何でもありのやりたい放題で、ここまで徹底してやられたら、それはそれで面白いのだから仕方がないと思わざるを得ない。
この手のアクション映画の最高峰かもしれない。
弱き者たちが無法な権力・暴力に対して一撃をくらわすという背景があるものの、最初から最後まで、トラックで荒野を爆走して逃げる、追いかけるだけというシンプルさが良い。
たったそれだけでドラマを作り、感動的な見せ場を撮りあげているのだが、これこそ娯楽映画の醍醐味というものであろう。

登場する人物たちの設定は滅茶苦茶である。
車の前にくくりつけられてギターを演奏する男などは一体何の意味があるのかと思わせるし、死ぬことが名誉と思っているような白塗りの軍団などは宗教団体を髣髴させる。
そのくせ、植物の種を大事に保管しているオバサン軍団なども登場してくるのである。
美人揃いの女性たちを「緑の地」へ脱出させようとしているフュリオサのシャーリーズ・セロンがその中でも群を抜く魅力を放っている。
古びたオイルを顔面に塗りたくって戦いを挑んでいるのだが、彼女は片腕を失っている。
180㎝近い長身の格闘戦には、女ながらに説得力があるのだ。
彼女の存在はマックスのトム・ハーディをしのいでいる。
トム・ハーディのアクション場面もいいけれど、シャーリーズ・セロンのアクション・シーンには及ばない。

イモータン・ジョーを首領とした集団は彼の独裁下にある。
彼が世界を支配しているのは水と石油を独占しているからである。
水を支配していることで農作物も独占している。
水の重要性を際立たせるために、バトル戦が繰り広げられるのは砂漠地帯の荒野である。
疾走するバイクや車にはガソリンが必要ということで、マックス達が運転しているのは3000ガロンのガソリンを積んだタンクローリーなのだが、未来の架空の車でないのがかえって迫力を増している。
水と石油を支配すれば世界を牛耳ることが出来るということで、水源を買いあさられている日本は大丈夫かと思ってしまう。
この作品はキネマ旬報のベストテンで1位に選出されて評価は高いのだが、僕はこの手の映画はあまり好きではない。
ただし思いっきり楽しめる映画であることは確かだ。

マッチポイント

2020-04-10 10:32:36 | 映画
「マッチポイント」 2005年 イギリス / アメリカ / ルクセンブルク


監督 ウディ・アレン
出演 ジョナサン・リス・マイヤーズ
   スカーレット・ヨハンソン
   エミリー・モーティマー
   マシュー・グード
   ブライアン・コックス
   ペネロープ・ウィルトン

ストーリー
イギリス、ロンドン。
アイルランド人のクリスは英国の上流階級に憧れる野心家。
特別会員制テニスクラブでコーチの職に就くと、すぐさま大金持ちのトムと親しくなる。
クリスに一目惚れしたトムの妹・クロエは、親族のパーティに彼を招待。
クリスはそこでアメリカ人のノラと出会い、その挑発的な態度と魅惑的な容姿に惹かれるクリス。
しばらくしてクリスとクロエは交際を開始。
人生を賭ける仕事がしたいという彼の思いをクロエは企業家の父・アレックに伝え、アレックは自分の会社の管理職を与え、クリスは絶好のチャンスを手に入れた。
しかし、どんな時もノラのことが頭を離れない。
ある日クリスは偶然街でノラと出会い、酔った勢いで関係を持つ。
心はノラに奪われていたクリスだが、クロエの両親に薦められてクロエとの結婚を決意する。
その一方で官能的なノラとの情事におぼれていくクリス。
そんな中、ノラはクリスに自分が妊娠したと告げ、堕ろすか、産むか、激しく言い争う二人。
ノラは子供を産んで二人で育てると言って譲らず、妻との離婚話を毎日先送りにするクリスに怒り狂う。
追い詰められたクリスは強盗を装いノラのアパートに潜入し、隣のおばあさんとノラを殺害する。
そして殺害現場の状況から、事件は麻薬がらみの殺人でノラは巻き添えを食ったと報道される。
危機を脱したクリスは、おばあさんから奪った指輪を川に投げ捨て、安堵し立ち去る。
しかしその指輪は手前の柵に当たり、川に落ちることなく道路へと転がる。


寸評
一種のサスペンス物だが、クリスが犯行を起こすのはずっと後半になってからで、それまではクリスを取り巻く人間関係が濃密に描かれ、それがラストに導かれていくストーリー立てがよくできている。
ウディ・アレンがロンドンで撮影したこともあって、その先入観も影響したのかすごくイギリス映画的だった。
随所に流れるオペラの歌声が映画的高揚感を高めていくが、こういう音楽の使い方は僕は好きだ。

ヒューイット家の人々は成金上がりのような嫌みな人種ではないが、それでも平民である僕には母親にも、二人の子供にもなじめないものを感じる。
母親は息子のトムには血縁の娘を嫁にと考えていて、アメリカ人であり役者志望のノラを気に入っていない。
役者としての才能がないのだから早く違う道を見つけるべきだとズバリと言うが、ノラはその的確な指摘を受け入れることが出来ず母親との溝は深まるばかりである。
息子のトムはノラにぞっこんだが、結局母親の圧力に屈して母が進める縁談を受け入れてノラと別れてしまう。
門閥主義に浸る母親には同調できないものがあるが、トムの結婚後の生活を見るとそれも一理あるのかなと思ってしまう。
育った環境が違い過ぎると結婚生活も上手くいかないものかもしれないし、その溝を埋める作業もこれまた結婚生活の一部なのかもしれない。

娘のクロエは悪い人間ではないが、父親の庇護を当然のように思っているのが鼻につく。
困れば父親が助けてくれるし、父親は資産を娘の幸せのために使うのは当然だと思っている。
クロエははやく子思が欲しいと思っていて、そのための行為を強要する。
子孫を残すための生殖行為を要求しているように思え、その言動は動物的だ。
それに比べると、クリスとノラの関係は人間的である。
クリスはクロエを嫌っているわけではないし、何よりもクロエといることで生活は満たされるし、彼が望んでいた上流社会にとどまれるのだ。
クリスは愛と愛欲の狭間でもがき苦しむのだが、しかしそれは身勝手な苦しみだ。
妻を捨てきれずにいながら、魅力的な女性におぼれてしまうのは極めて人間的だ。
人間の持つ、さらに男の持つ弱さでもある。
クリスはその弱さに負けて殺人事件を引き起こしてしまうが、ここからは人生の機微とも思える偶然を描いていくことで、サスペンス劇に深みを加えていく。
クリスは強盗を装った殺人を犯すが、関係のない普通の市民と思われる被害者が麻薬関係の薬を服用していて、麻薬をめぐるヤクザのもめ事とみなされ疑いの目から逃れる。
再びクリスに目が向いたときに思わぬことが起きるのだが、冒頭のテニスボールとリンクしてくる上手い仕組みだ。
ネットにかかったボールが相手側に落ちるか、ネットを超えずにこちら側に落ちるかで勝敗の行方が決まる。
それが人生を決めるマッチポイントのセットだったとしたらという結末なのだが、運に左右される人間は弱いし、更に恐ろしい動物でもある。
上流社会に溶け込んだクリスは、やがて自らの罪を忘れて生まれた子供と幸せな生活を満喫するのだろうかと想像すると、その事の方がずっと恐ろしい。

マッシュ M★A★S★H

2020-04-09 10:39:24 | 映画
「マッシュ M★A★S★H」 1970年 アメリカ


監督 ロバート・アルトマン
出演 ドナルド・サザーランド
   エリオット・グールド
   トム・スケリット
   ロバート・デュヴァル
   サリー・ケラーマン
   ジョー・アン・フラッグ
   ゲイリー・バーゴフ

ストーリー
朝鮮戦争たけなわのころ。ここ第4077M★A★S★H(米陸軍移動野戦病院)に、ある日、ホークアイ、デューク、トラッパーたち3人の軍医が着任。
彼らは3人とも名医だったが、揃いも揃って、常軌を逸した型破りの曲者たちであった。
M★A★S★Hには、隊長のブレイク大佐のほかに、歯科医ワルドウスキー大尉、美人婦長ディッシュ、“レーダー”と呼ばれるオリーリー伍長がいた。
デュークはさっそくディッシュ婦長の尻を追いかけ始めたが、亭主もちの彼女は、彼をたくみにいなしていた。
セックスの猛者と評判のワルドウスキー大尉は、ある日、自分は潜在性のホモだと3人組に告げ、自殺したいと言い出したので、3人は、彼のために最後の晩餐会を開き、自殺できる薬といつわり、睡眠薬をのませた。
そしてディッシュ中尉に彼を看病させるのだった。
翌朝、転任地に向かう彼女の頬には、満足気な微笑が浮かび、ワルドウスキーは憂うつから開放されていた。
ディッシュの後任には、グラマーなホーリハン少佐が着任。
そうしたある日、トラッパーはバーンズ少佐の卑劣な行為に怒り、彼を殴ってしまったが、居合わせたホーリハンは、バーンズを助け、自分のテントにつれて行った。
そこで2人の仲は急速に深まり、かたぶつを装っていた2人は濃厚な抱擁をくりかえしたが、この様子は“レーダー”の隠しマイクを通じ部隊中に公開され、その日以来、ホーリハンは“熱い唇”とあだ名されてしまった。
ホークアイ、トラッパー、デュークの3人組は、“熱い唇”が生粋のブロンドか否かの賭けを催し、彼女がシャワーを浴びている最中にテントを捲きあげた・・・。


寸評
朝鮮戦争を舞台にしているが、制作された年度から考えるとベトナム戦争が頭にあることは明白だ。
僕はリアルタイムでこの作品を見ているのだが、実際この頃はベトナム戦争に対する批判映画や、戦争後遺症ともいえる作品が数多く撮られていた。
戦争に皮肉を込めたブラック・コメディ作品としては、僕の中では「まぼろしの市街戦」と双璧だ。
戦場を舞台としているが爆撃シーンや戦闘シーンは出てこない。
わずかに負傷した兵士をヘリコプターが運んでくるシーンがあるくらいで、大半は移動野戦病院での手術シーンと、腕は確かだがおバカなことばかりやってる軍医の行動が描かれている。
可愛そうなくらいに三人の攻撃対象になるのが看護婦長のホットリップス(熱い唇)である。
彼女の本名はホーリーハンと言うのだが、バーンズ少佐との情事の様子をスピーカーで流され、その時叫んだ言葉から半ばバカにしてホットリップスとしか呼ばれなくなったのである。
そのように呼ばれ、からかわれるのは彼女がオツにすましているからである。
そう、ここでは気取っている者や、権力を振りかざしている者が徹底的にからかわれているのだ。
彼女が本当に金髪かどうかを確かめるシーンは包括絶倒である。
犬までが鎮座して見学していて、すごく印象に残るシーンとなっている。
ここまでコケにされると、ホットリップスもさすがに泣き叫び三人の非道を訴えるが取り合ってもらえない。
金髪かどうかの賭け事や、フットボールの対抗試合などはいい加減無茶苦茶に描いておきながら、負傷兵の手術シーンとなると急にリアルになる。
しかもおバカなノリと、テントでしつらえられた手術室の緊迫感が同じウエイトで描かれている。
この対比のコントラストが、主人公たちが直面している過酷な戦場の現実をあぶりだしている。
手術シーンは、医療ドラマのような臓器を映し出して医療技術のトリビアを見せるのでなく、大量出血をしている傷口を見せるだけであとは手術器具だけが写り込むだけのものである。
それだからこそ、戦場における移動野戦病院としての緊迫感がなお一層出ていた。

歯医者のワルドウスキーが自殺願望をもち皆に見送られながらも、美人のディッシュ看護中尉に看病(?)してもらっただけで何もなかったように現場復帰を果たしているのは、主題歌の「自殺のすすめ」を具現化していたエピソードで、「自殺のすすめ」はテーマそのものでもある。
移動野戦病院は攻撃を受けるような場所にはないので、彼等はパーティに興じ、映画に興じることが出来るのだが、同じように攻撃を受けないアメリカ本土の人々も安全な中でパーティや映画に興じていただろうと想像する。
しかしその一方で、戦場に赴いた人間は次から次へと負傷し死亡しているのだというコントラストが強烈だ。

朝鮮戦争なんだけれど、やたらと日本が出てくる。
東京放送の変な歌だとか、主人公が小倉へ手術に出かけ芸者遊びのようなことをやるとか。
確かに朝鮮戦争には日本も物資供給でかかわっていたと思うが、日本をこれほど出した意図が僕には理解不能だった。
自由奔放に振舞ったホークアイだが、それでも戦場は楽しいところだとはならなくて帰国の喜びを出させたことで、やはり戦争はむなしいものなのだとの訴えが感じ取れた。

幕が上がる

2020-04-08 08:16:39 | 映画
「幕が上がる」 2015年 日本


監督 本広克行
出演 百田夏菜子 玉井詩織 高城れに
   有安杏果 佐々木彩夏 ムロツヨシ
   清水ミチコ 志賀廣太郎 黒木華

ストーリー
今年もあっさりと地区予選で敗退した富士ヶ丘高校の演劇部。
最後の大会を終えた先輩たちに代わって、部長として富士ヶ丘高校の演劇部をまとめることになった高橋さおり(百田夏菜子)。
新部長となったものの、みんなをどう引っ張っていけばいいのか分からず苦悩の日々が続く。
どうやったら演技が上手くなるのか……?
演目はどうすればいいのか……?
そんな時、元学生演劇の女王だったという新任の吉岡先生(黒木華)が学校にやって来た。
美人だが少々変わったその先生は、地区大会すら勝ったことのない弱小演劇部員たちに告げる。
“私は行きたいです。君たちと、全国に。行こうよ、全国!”
気迫に充ちたその一言で、彼女たちの目標は決まる。
演目は『銀河鉄道の夜』。
演出を担当するのは部長のさおり。
演じるのは、看板女優でお姫様キャラの“ユッコ”(玉井詩織)、黙っていれば可愛い“がるる”(高城れに)、一年後輩でしっかり者の“明美ちゃん”(佐々木彩夏)、そして演劇強豪校からのスーパー転校生“中西さん”(有安杏果)といった演劇部員たち。
吉岡先生と、頼りない顧問の溝口(ムロツヨシ)と共に、富士ヶ丘高校演劇部は、見たことも行ったこともない無限の可能性に挑む……。


寸評
ニューヨーク・ヤンキースに入団した田中将大が大ファンという「ももいろクローバーZ」、通称ももクロ主演の作品となると、な~んだ、アイドル映画かとなるのだが、あにはからんや正統の青春映画となっている。
僕はももクロに興味もなかったので全く知識がない。
メンバーの人数も知らなかったし、ましてやメンバーの名前も顔も知らないできた。
5人のメンバーが出そろったところで、ももクロは5人グループだったのだと判ったし、この子たちがそのメンバーなのだということも知った。
さおりの百田夏菜子、ユッコの玉井詩織はアイドルと言われればそんな気がしないでもないが、グループ自体はごく普通の女の子たちの集団に見える。
だから彼女たちが演じた女子高生は等身大に見えて、その姿はみずみずしさがあり、キラキラと輝いている。
彼女たちの演技的にも言える若さを、まだまだ若手と言える黒木華がぐっと引き締めて作品を昇華させている。

舞台は共学の高校なのだが男子高校生は登場しない。
したがって付き物のほのかな恋模様も登場しない。
これなら舞台を女子高に置き換えてもいいのではないかと思うし、演劇部にどうして男子部員がいないのだとも思ってしまう。
それでも、様々な悩みや葛藤を抱えつつ、ひたむきに前に進む女子部員たちの心情が伝わって来て、感じる不自然さを吹き飛ばしている。
ちょっと演説をぶたせすぎではないかと思うシーンもあるが、さおりと転校生の中西、さおりとユッコがそれぞれ語り合うシーンなどは心にしみる。
反面、演劇に打ち込む姿は分かるのだが、一方の問題である受験勉強はどうなっているのかは全く描かれてなくて、わずかにさおりと母親の会話の中で描かれているだけだ。
それを補うように語られる滝田先生の国語の授業と、演じる志賀廣太郎の声音が心に響く。

主役はあくまでも女子高生なのだが、それにリンクする形で指導する吉岡先生が変わっていくのがいいし、それを表現した黒木華の存在が作品を引き立てている。
学生演劇の女王だった吉岡先生は演劇を諦めていたはずだったが、彼女たちとの合宿の時に昔の仲間と会って「元気もらったわ」と帰ってくる。
彼女はもっと大きなことに出合っているのだが、彼女たちの影響で吉岡先生も変わってきていることを伺わせる。
この二重構造が何とも言えない。

ラストシークエンスは感動的だ。
変に吉岡先生が女子高生の前に現れないのもいい。
大会の結果が分からにのもいい。
何よりも成長した彼女たちがここにいて、その姿がいまから見られるぞというラストシーンに身震いする。
う~ん、ここでタイトルを出すか!
本広監督の最高傑作といってもいいだろうが、ももクロの持つ勢いやパワーのせいだったのかも知れない。

毎日が夏休み

2020-04-07 09:33:11 | 映画
「毎日が夏休み」 1994年 日本


監督 金子修介
出演 佐野史郎 佐伯日菜子 高橋ひとみ
   益岡徹 黒田福美 上田耕一
   石井トミコ 小野寺昭 風吹ジュン

ストーリー
東京郊外の新興住宅地に住む林海寺家は義父・成雪(佐野史郎)、母・良子(風吹ジュン)、中学2年の娘・スギナ(佐伯日菜子)の3人家族。
母も父も再婚同士の言わばスクラップ家族なのだが、父は一流企業のエリート・サラリーマン、娘は名門女子中学の優等生と近所でも評判。
だが、実はスギナはいじめにあって登校拒否、成雪も出社拒否をしていたことが分かり大騒動になる。
母の心配をよそに、成雪は娘の教育に目覚め、いつも一緒にいるためにも自宅で「何でも屋・林海寺社」という会社を開業する。
掃除や料理の仕方もロクに知らない義父に新鮮さと親近感を覚えるスギナに対し、良子は実父・江島(小野寺昭)や成雪の前妻・紅子(高橋ひとみ)にまでDMを送る成雪の無神経さにショックを受ける。
彼女は自分が働こうとクラブのホステスになるが、過労で倒れてしまった。
紅子とも知り合い、江島とも再会したスギナは、義父から学校では得られないような素晴らしい個人授業を受け、忙しくも充実した日々を過ごす。
スギナは義父から自分が家族にとって必要な人間であることを告げられ自信を取り戻す。
一方の成雪も、スギナとの生活や紅子のマンションの火事騒ぎをきっかけにエリート生活の中で失っていた人間らしさを取り戻す。
母も徐々に自活生活に馴れていっているようだったが、過労と成雪の事故のショックで倒れてしまう。
そんな中でスギナは義父とのまるで夏休みそのもののような自由と喜びの日々を経て大人になっていった・・・。


寸評
定年を迎えると毎日が日曜日というような生活なのだが、これが結構忙しい。
趣味の世界もあるし、町内のボランティア活動もあるし、毎日が日曜日の昔仲間との交流も盛んになり、会社勤めの時とは違った充実感がある。
私は会社での生活は満たされていたし、好きなこともやらせてもらえたように思っているので不満はない。
従って会社を辞めたいと思ったことがないのだが、林海寺成雪は若くして立派な会社の次長までなっていたが、会社の方針と会わないと辞めてしまっている。
会社の方針というより、周りの人間がくだらなく思えて辞めたようだ。
しかし世の中の大抵の人間は家庭を守る必要からそれぐらいのことでは辞めたりしない。
成雪は離婚しているから人間関係の構築は不得手だったのかもしれない。

娘のスギナはイジメられている子をかばったばかりに自分がイジメられることになり登校拒否となっている。
親には内緒で、登校したフリをして公園で弁当を食べているのだが、登校拒否をしている暗さもつらさも感じさせない明るい女の子である。
母親も離婚していて、いわゆる連れ子なのだが義父の成雪とは上手くいっている。
この家族は両親が離婚経験者だから、スギナを含めそれぞれにキズがあり、スギナに言わせればスクラップ家族ということになる。
この映画は家族の再生物語であり、スギナの成長物語でもあるのだが、滑稽なコメディタッチの作品でもある。
これが映画デビュー作となる佐伯日菜子の話し方、佐野史郎の現実離れした会話がそれに拍車をかける。

「お前が必要だ」と言われ、佐伯日菜子のスギナがスキップするシーンは、こちらまで嬉しくなってくる。
成雪は会社でそんなことを言ったことがないのだろう。
会社だけではなくて、私生活でもそのような気持ちを表したことがない。
離婚原因もその気持ちを妻に伝えられなかったからだ。
それでも別れた人との楽しかった時の思い出だけは残っている。
今の生活が満たされていなければいないほど、あの時は良かったの気持ちが拭い去れないのだろう。
紅子は成雪との思い出の品を後生大事に持っているから、多分、紅子は新しい生活も上手くいかなかったのだと思われる。

良子は夫の勝手な行動にあきれて自活しようとするが、専業主婦が向いていると思われる女性だ。
女性活躍が叫ばれているが、専業主婦に能力を発揮する女性もいるということだろう。
成雪は前妻に案内状を出しているし、良子は前夫に借金を申し込んでいるなど滅茶苦茶な人間関係なのだが、作風からそれも特段に違和感を感じさせていない。
ロマンポルノ出身の金子修介は平成ガメラシリーズを除いた通常ドラマにおいて、ぼくが食指を動かしたくなるような作品を撮っていないのだが、その中では本作が僕の感性に合う作品となっている。
しかし、毎日が日曜日より、毎日が夏休みの方が何だか充実感が感じられる。
学校に行かなくてもいいと言う事ではないがネ・・・。

麻雀放浪記

2020-04-06 09:02:17 | 映画
いよいよ「ま」です。

「麻雀放浪記」 1984年 日本


監督 和田誠
出演 真田広之 大竹しのぶ 加賀まりこ
   鹿賀丈史 高品格 加藤健一
   加藤健一 内藤陳 篠原勝之
   名古屋章 城春樹 天本英世

ストーリー
敗戦直後の上野。哲(真田広之)は終戦後も学校へは戻らずブラブラしていたが、ある日、勤労動員の工場で働いていた時にバクチを教えてくれた上州虎(名古屋章)と偶然会った。
そして、虎に連れられてチンチロ集落に足を踏み入れる。
なけなしの金しかない哲は、プロのバクチ打ちであるドサ健(鹿賀丈史)の張りにノッた。
ドサ健のおかげで相当な勝金を得ることができた哲だか、その大半をコーチ料としてドサ健にとられてしまったが、そんなドサ健に哲は強烈な対抗心と同時に奇妙な友情を抱く。
数日後、二人はアメリカ兵相手の秘密カジノ「オックス・クラブ」へ乗り込んだ。
しかし、ドサ健は勝つだけ勝つと、哲が金を持っていないのを承知で帰ってしまい、哲は負け金が払えずアメリカ兵に打ちのめされてしまう。
哲を介抱してくれたのはカジノのママ(加賀まりこ)だったが、その夜、哲はママに抱かれ、初めて女を知った。
翌日からママのもとで本格的な麻雀修業が始まり、それにつれてママへの思慕も深くなっていった。
ある日、哲は魔術師的なプロの出目徳(高品格)に出会う。
この徳から哲は“二の二の天和”というコンビ技を仕込まれ、いよいよドサ健と対決することになる。
その頃ドサ健は、情婦のまゆみ(大竹しのぶ)の家を雀荘にして大層な羽振りだった。
哲と出目徳、そしてドサ健一派との対決は、哲たちの圧勝に終わった。
ドサ健は持ち金全部では足りず、まゆみの家の権利書まで手離すほどだった。
ドサ健は再度の対決を期し、タネ銭を得るため、まゆみを吉原に売ることにするが、ゼゲンの達(加藤健一)のおかげでまゆみは女郎にならずにすみ、そして再び対決の日が来た・・・。


寸評
僕の身近にギャンブルで財産を失くした人がいる。
権利証が行ったり来たりせず、一方通行で何億もの資産を失くしてしまった。
ギャンブルで身を持ち崩すのは馬鹿げているのだが、映画世界で描かれるギャンブラーが持つ生死の境目を渡り歩く姿の緊張感は絶好の題材である。
「麻雀放浪記」は麻雀映画の最高峰で、イラストレータの和田誠が驚くほどの完成度で撮りあげている。

僕の学生時代には、大学の周囲に何軒もの雀荘があった。
雀荘はいつも学生であふれかえっていたが、当時麻雀はそれほど身近な娯楽だった。
最近は文教地区指定などもあって学生街で雀荘はあまり見かけない。
それどころか、街中に数多くあった雀荘も少なくなってきた。
4人集まらないと遊べないゲームが煩わしくなってきたのだろうか。
一人で遊べるパソコンの麻雀ゲームは結構人気があるとのことだから、たぶんそうなんだろう。

麻雀自体に懐かしさを覚えることもあるが、モノトーンの画面がそれ以上の郷愁を感じさせる。
戦後の荒れ果てた風景も、彼等の淋しい心の内を表しているようだった。
有り金すべてをかけて戦う姿、イカサマを仕込んでも勝ちにかかる様子なども面白いが、男と女のいびつな愛情表現も見るものを引き付けるのである。
「死んだお袋とこの女には迷惑かけたってかまわねえんだ」というドサ健の言葉は、スゴイ愛情表現だ。
ドサ健は借金のために女を売り飛ばしてしまうような男なのだが、大勝負で勝ったところで「まゆみ!身請けしてやったぞ!」と叫ぶ時の痛快さがたまらない。
結局、ドサ健は取られていた家の権利証も取り返す。
このドサ健を始め、絶対的なヒーローがいないのがいい。
ドサ健の鹿賀丈史もいいが、もっといいのが出目徳の高品格だ。
出目徳は注射を打ちながら勝負を続け、最後に九蓮宝燈(チューレンポウトウ)を完成したところで死んでしまうのだが、九蓮宝燈は上がれば死ぬと言われる幻の役である。
普通の人ではない彼等は、死んだ出目徳の現金はもとより、金目のものを身ぐるみ剥いでしまい、ゴロゴロところがして水たまりに放り込んでしまうのだが、彼等にしてみれば、それが出目徳への供養なのだ。
彼等の中にある狂気というか、麻雀に憑かれた人たちの地獄を見事に描いていたシーンだ。

ギャンブラーたちは魅力的だったが、登場する女たちも添え物ではなく光り輝いていた。
女はまゆみとママなのだが、バクチで生きる男の物語の中で彼女達がちゃんと命を与えられていた。
大竹しのぶのまゆみは男から見れば理想的な女なのだが、彼女は売られてしまう。
それでもドサ健から離れられないのだが、まゆみによれば「アンタが私に惚れているから」だと言う。
加賀まりこのママは真田広之の哲に思われるが、男の囲い者で若すぎる哲の前から突如姿を消してしまう。
それぞれの女が見せる男への愛情表現が、男の観客である僕の心をくすぐる。
上州虎を引き入れて再び勝負に向かうラストは、ギャンブルで身を持ち崩してしまう悲劇を感じさせたなあ。

炎のランナー

2020-04-05 09:22:35 | 映画
「炎のランナー」 1981 イギリス


監督 ヒュー・ハドソン
出演 ベン・クロス
   イアン・チャールソン
   イアン・ホルム
   ナイジェル・ヘイヴァース
   ナイジェル・ダヴェンポート
   シェリル・キャンベル
   アリス・クリーグ

ストーリー
1919年、ケンブリッジ大に入学したハロルド(ベン・クロス)は、自分がユダヤ人であることを強く意識していた。
アングロ・サクソンの有形無形の差別に反発し、その鬱憤を発散するため走った。
同じ頃、スコットランドではエリック(イアン・チャールソン)が駿足を謳われていた。
彼は宣教師の家庭に生まれ、彼も父の後を継ぐつもりだった。
彼にとって、走ることは神の思寵をたたえることだったが、妹のジェニー(シェリル・キャンベル)は彼が一日も早く宣教の仕事を始めることを望んでいた。
ケンブリッジでは、ハロルドを中心に、障害物のアンドリュー、中距離のオーブリーとヘンリーが活躍をし、24年のパリ・オリンピックを目指して練習を続けた。
ハロルドはスコットランドまで行き、エリックが走るのを見学。
ある夜、オペラ見物に出かけたハロルドは、歌手のシビルに一目惚れし、早速デートに誘い出す。
23年、ロンドンでの競技会で、エリックとハロルドは対決。
わずかの差でエリックが勝つ。
ハロルドはサム(イアン・ホルム)のコーチを受けることになった。
そのためトリニティの学寮長とキースの学寮長に、アマチュア精神にもとると批難されたが、彼は昂然と反論した。
オリンピック出場が決定したケンブリッジ四人組とエリックは、パリに向かう。
百メートルの予選が日曜日と知ってエリックは出場を辞退する。
日曜は神が定めた安息日だから、走れないというのだ。
選手団長のバーケンヘッド卿、皇太子、サザーランド公の説得も効はなかった。
アンドリューが四百メートルに出る権利をエリックに譲ると申し出る・・・。


寸評
この映画の第一印象は、感心したというか、素敵だなと思ったのは、他の国が逆立ちしても叶わない英国トラッドのテイストだった。
センス抜群というか、これが長年培って染みついたものなのか、衣装担当者に敬意を表したい。
Vネックにラインの入ったアラン模様のクリケットセーターや、ダスターコートやオーバーコート。
オリンピックのディナーでの正装なんて、とても日本人には着こなせないものだ。
これはもう、見ているだけで垂涎ものである。

そして、リデルやエイブラハムズがトレーニングするのはフィールドでなくってイングランドの美しい自然の中で、そんな映像の美しさもこの作品の雰囲気を醸し出している。
リンゼイ卿が自邸の広大な庭でハードルのトレーニングをし、ハードルの端にシャンペンをなみなみと注いだシャンペングラスを置いて「シャンペンがこぼれたら教えてくれ」そう召使に命じる。
貴族趣味の嫌味な設定と思うのだが、当時の英国社会なら不自然じゃないと受け入れてしまう。

単なるスポーツ映画ではなく、一人は神の喜びを、もう一人は怒りをエネルギーにして走った二人のランナーの内面の葛藤を通して当時の社会状況を丁寧に描いていて好感が持てる。
当時の反ユダや主義や権威主義、階級社会が映し出される。
そして、イングランドとスコットラッドの関係も興味深い。
日本人にはなじみの薄い英国教会とスコットランド教会の宗教対立といった問題でもじっくりと描きこまれている。
そして何よりもエイブラハムズとリデルという2人のランナーの人格が丁寧に語られている。

冒頭で描かれた裸足のランナーたちの一団が海岸を走るシーンが、エンディングでも映し出される。
そこにはただ走ること、そのことに無心の喜びを感じ輝く彼らの笑顔も映し出される。
ただ、ひたすら海岸線を走り続ける彼らの美しい映像がいつまでも続く。
「走る」というスポーツの中で一番原始的な行為を通して人間の尊厳が描かれた作品だが、なぜか英国の気品さえも感じさせた。

ほとりの朔子

2020-04-04 14:08:43 | 映画
「ほとりの朔子」 2013年 日本


監督 深田晃司
出演 二階堂ふみ 鶴田真由 太賀
   古舘寛治 杉野希妃 大竹直
   小篠恵奈

ストーリー
大学受験に失敗し、現実逃避中の朔子(二階堂ふみ)。
叔母・海希江(鶴田真由)の誘いで、旅行で留守にするというもうひとりの伯母・水帆(渡辺真起子)の家で、夏の終わりの2週間を過ごすことになった。
朔子は、美しく知的でやりがいのある仕事を持つ海希江を慕い尊敬していたし、小言ばかりの両親から開放された海辺の街のスローライフは、快適なものになりそうだった。
朔子は海希江の古馴染みの兎吉(古舘寛治)や娘の辰子(杉野希妃)、そして甥の孝史(太賀)と知り合う。
小さな街の川辺や海や帰り道で会い、語り合ううち朔子と孝史の距離が縮まっていく。
そんな朔子の小さなときめきをよそに、海希江、兎吉、辰子、後から現れた海希江の恋人・西田(大竹直)ら大人たちは、微妙にもつれた人間模様を繰り広げる。
朔子は孝史をランチに誘う。
しかしその最中、彼に急接近中する同級生・知佳(小篠恵奈)から連絡が入る。
浮足立つ孝史の表情を見て、朔子の心が揺れる…。
兎吉の家で辰子の誕生日パーティが開かれ、海希江と朔子、それに西田も参加することになるが、西田は途中で気分を害し途中で帰ってしまう。
孝史が福島の原発事故で疎開していることを利用して、知佳は反原発のリーダーの男のために孝史をだまして反原発集会で経験談を話させようと企てる。
しかし孝史はマイクの前に立ったものの反原発の話は出来ない。
ネット中継されていた集会の様子を朔子が見ていた。
そして孝史と朔子は家出を決行することになるが・・・。


寸評
浪人生の女の子が、叔母に誘われて夏休みの2週間を海辺の家で過ごすという話を日記風に描いている。
朔子と叔母の海希江が海辺を散歩するシーンや、朔子と孝史が歩きながら話すシーンなどではカメラが二人を捉え続けることによって、交わされる会話が非常にリアルなものになっている。
俳優が演技しているというよりも、普通の人が普通に話しているような感じがする。
その感じはあらゆる場面で用いられており、ドキュメンタリー風な撮り方である。
その徹底した演出ぶりが新鮮だった。

「ほとりの朔子」とはよく付けた題名だ。
朔子が湖に素足で入り、波間が輪状にどんどん広がって行くシーンは美しい。
波紋が広がっていき、それを孝史が眺める印象的なシーンだ。
物語も静かで何もないはずなのに、日常性の中の反世界を波紋が広がるように描いていく。
この湖に通じる道が二つあって、兎吉、海希江のペアと孝史、朔子のペアの自転車が、どちらが早く着くか競争するが孝史ペアが断然早く到着する。
たんなるエピソードの一つなのだが、ずっと後で朔子がそのことを話題にする。
見事に張られた伏線なのだが、しかしその話題もなんとなく終わってしまう。
この自然さがたまらなくいい。

この作品は何気ない日常を映しながら、その実人間世界の悪意が見え隠れしてるような仕掛けを施しているのだが、本当にチラチラと見え隠れすると言う表現がぴったりとくる演出で貫かれている。
朔子の二人の叔母と自分の母親との関係、海希江と兎吉、海希江と西田の関係などもストレートに押し切っていない。
孝史が好意を寄せる知佳も小悪魔的で孝史をだまして原発反対運動へ参加させる。
そのことを通じて、疎開高校生がみんな同じ考えを持っているなんて言う単純なものでないことを、僕たち観客に鋭くぶつける。
女子大教授の西田は紳士面をしているが、教え子を金で買うような所があり、家庭的な面を見せながらも海希江に近づいているし、独善的でもある。
兎吉はビジネスホテルを装うラブホテルの支配人で、いかがわしい交際を目にしても見て見ぬふりをする。
そんな父を娘の辰子は嫌っているのだが、案外と仲がいい面を見せる。
大人の社会、あるいは人間社会と言ってもいいが、そこは臭気漂う汚らしい世界なのだ。
そんな世界を垣間見せて、最後には朔子の成長をさりげなく描いてエンディングを迎えるのだが、観終わって温かな気持ちになれた。

それにしても恐ろしいのが主演の二階堂ふみだ。
今までの作品とはまったく違う演技を披露している。
この子ったら、どれだけ振り幅があるんだろうと思わせるものだった。

鉄道員(ぽっぽや)

2020-04-03 13:47:45 | 映画
「鉄道員(ぽっぽや)」 1999年 日本


監督 降旗康男
出演 高倉健 大竹しのぶ 広末涼子
   吉岡秀隆 安藤政信 志村けん
   奈良岡朋子 田中好子 小林稔侍
   石橋蓮司 平田満 中原理恵
   板東英二 きたろう 

ストーリー
北海道の幌舞線の終着駅幌舞の駅長・佐藤乙松(高倉健)は、鉄道員一筋に人生を送ってきた男だ。
幼い一人娘を亡くした日も、愛する妻の静枝(大竹しのぶ)を亡くした日も、彼はずっと駅に立ち続けてきた。
だが、その幌舞線も今度の春で廃線になることが決まっていた。
さてその最後の正月、かつて乙松と共に機関車を走らせていた同僚で、今は美寄駅の駅長の杉浦(小林稔侍)が乙松を訪ねて幌舞駅へやってきた。
彼は、今年で定年になる乙松に一緒にリゾートホテルへの再就職を勧めにやってきたのだ。
しかし、鉄道員一筋の乙松はその申し出を受け入れようとしない。
やがて、終電が終わるとふたりは酒を酌み交わし、懐かしい想い出話に花を咲かせた。
数々の出来事が、乙松の脳裡に蘇っていく----。
一人娘の雪子の誕生と死、炭坑の町幌舞が賑わっていた頃のこと、機関士時代の苦労、愛妻・静枝の死。
そんな乙松の前に、ひとりの少女(山田さくや)が現れる。
どうやら、正月の帰省で都会からやってきた子供らしい。
乙松は、あどけない少女に優しく話しかけながら、その少女に雪子の面影を重ねていた。
その夜、昼間の少女が忘れていった人形を取りに来たと言って中学生の姉(谷口紗耶香)が駅舎を訪れた。
乙松は、彼女を歓待してやるが、彼女もまた人形を忘れて帰ってしまう。
その翌日、杉浦が美寄に帰った後に、またしてもふたりの少女の姉と名乗る高校生(広末涼子)がやってきた。
17歳の彼女は鉄道が好きらしく、乙松の話を聞いたりして楽しい時間を過ごした。
だが、実は彼女は17年前に死んだ乙松の子供・雪子だったのである。
彼女は、自分が成長する姿を乙松に見せに現れてくれたのだ。


寸評
木村大作のカメラがいいのか、冬の北海道の大自然が素晴らしいのか、スクリーンに映し出される映像は美しい。
雪の中をD51が走り、乙松夫婦の若かりし頃の写真が写り、「テネシーワルツ」が流れてくる。
僕はこのオープニングのシーンに「あれれ・・」と思った。
「テネシーワルツ」と言えば、歌声が僕の耳に残る江利チエミの代表曲ではないか。
江利チエミは紛れもなく主演である高倉健の元奥さんで、高倉健は江利チエミの命日には必ずお墓に線香をあげに行っていたというし、この作品のテーマ曲選定に高倉健の希望があったということ聞き及んで、尚更この作品への思い入れが高まった。
両人の間で授かった子供は病気のため中絶していた事実を知って再見すると、また違った思いが湧いてくる。

終着駅である幌舞駅から降り立った運転士から乙松の娘だった雪子へのお供えが届けられ、雪子が以前に当年才で亡くなっていることが観客に知らされる。
物語はそのことも含め、過去の出来事や思い出と現在とが交差する形で進んでいく。
前半は鉄道員として苦楽を共にしてきた杉浦仙次との思い出話に過去の出来事がかぶさってくるのだが、僕は乙さん、仙次と呼び合うふたりの関係を羨ましく思った。
ふたりは機関士としても共に働いた同僚であり、家族ぐるみの付き合いをし、お互いに信頼を寄せ、親身になり相手を本当に心配している。
そんな関係を築いた彼らの関係は微笑ましく、実に羨ましいものだった。
職場を通じてそんな関係の人を得れたということに対する、自分が成し得なかった無い物ねだりである。

回想シーンはセピア調の色彩で描かれるが、赤い色だけは鮮明に描かれ続ける。
それは亡き妻の象徴でもあり、やがて彼らの子供に引き継がれていることに気づかされる。
雪の白さと、駅長の黒いコートと共に、この赤は強烈な印象を残す。
乙松は「D51やC62が戦争に負けた日本を立ち上がらせ引っぱるんだって、それでおじちゃん、機関車乗りになった。そして、ぽっぽやを全うしようとしている、悔いはねぇ」と語るが、描かれた過去の時代は彼らの滅私奉公によって支えられていたのだ。
「死んだ子まで旗振って迎えるんだね」と妻に言われるほどの滅私奉公が日本の成長をもたらした時代でもあったのだと思う。
しかし、集団就職する若者への励ましの汽笛とか、落盤事故で孤児となった子供を育てるなどの人情も多分に残っていた時代でもあったのだろう。
小さなエピソードが涙を誘う。

幌舞線の廃線という厳しい現実が伝えられると、物語は逆にファンタジー性を高めていく。
登場する広末涼子が奇跡的なかわいさを見せるのだ。
しかし乙松は自分でも言うように、仕事に打ち込むあまり妻も娘も失って孤独に生きた男だ。
それでも娘の霊は「親孝行できなくてごめん」と深い愛情で父親を包み込む。
男の身勝手な願望だと言われてもしょうがないが、それでも男の僕はラストシーンに涙を誘われた。

火垂るの墓

2020-04-02 13:42:44 | 映画
「火垂るの墓」 1988年 日本


監督   高畑勲
声の出演 辰己努 白石綾乃 志乃原良子
     山口朱美 酒井雅代

ストーリー
終戦近い神戸は連日、B29の空襲に見舞われていた。
幼い兄妹・清太と節子は混乱のさなか、母と別れ別れになった。
清太が非常時の集合場所である国民学校へ駆けつけると、母はすでに危篤状態で間もなく息絶えた。
家を焼け出された兄妹は遠縁に当たる未亡人宅に身を寄せた。
うまくいっていた共同生活も、生活が苦しくなると未亡人は不満をぶつけるようになった。
清太は息苦しい毎日の生活が嫌になり、ある日節子を連れて未亡人の家を出た。
そして、二人はわずかの家財道具をリヤカーに積み、川辺の横穴豪へ住みついた。
兄妹は水入らずで、貧しくとも楽しい生活を送ることになった。
しかし、楽しい生活も束の間、やがて食糧も尽き、清太は畑泥棒までやるようになった。
ある晩、清太は畑に忍び込んだところを見つかり、警察につき出されてしまった。
すぐに釈放されたものの、幼い節子の体は栄養失調のため日に日に弱っていった。
ある日、川辺でぐったりしていた節子を清太は医者に診せたが、「薬では治らない。滋養をつけなさい」と言われただけだった。
昭和20年の夏、日本はようやく終戦を迎えたが、清太らの父が生還する望みは薄かった。
清太は節子におかゆとスイカを食べさせるが、もはや力を失くしていた節子は静かに息をひき取った。
清太は一人になったが、彼もまた駅で浮浪者とともにやがてくる死を待つだけだった。


寸評
「火垂るの墓」は焼け跡闇市派と呼ばれた野坂昭如氏が「アメリカひじき」と共に直木賞を受賞した作品で、僕は2作品を収録した単行本を学生時代に読んだ。
読みながら泣いた数少ない作品の一つであるが、アニメ化された本作は見事に映像化している。
親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、二人とも栄養失調で悲劇的な死を迎えていくというアニメとしては珍しい非常に暗い話である。
映画の冒頭から結末は予告されている。
独りぼっちになった兄の清太は三宮駅で餓死してしまう。
清掃員が所持品から見つけたのはドロップ缶に入った少量の骨のかけらで、清掃員がその缶を近くの野原に投げ捨てると、空に向かった清太の魂は4歳の妹、節子の魂と再開し、二人がたどった短い一生が語られていく。

第2次世界大戦末期に激しさを増した米軍による空襲は、主人公たちが住む神戸を襲い、病弱な母は焼夷弾によるやけどで死んでしまう。
清太は母の死を節子に隠し親戚の家に身を寄せるが、やがて冷たい仕打ちを受けるようになる。
それでもけなげに生きる二人の兄妹愛が心にしみる。
特に節子の可愛い姿と声を担当した白石綾乃ちゃんの話し方がいじらしい。
この時、白石綾乃ちゃんは6歳に満たない少女だったと言うから、この表現力には驚くばかりである。
映画の成功は彼女の声の力が大きい。
親戚の家での争いが絶えなくなってきたので清太は、節子を連れ家を出て防空壕の中で暮らし始めるのだが、最初の内はままごと遊びの様で楽かったのに、やがてひもじい生活が始まる。
食料に困った清太は畑から野菜を盗んだり、米軍による空襲で逃げ出した家から火事場泥棒をして必死に飢えをしのぐが、このような生活がヤクザ組織を誕生させたのかもしれない。
しかし彼らは非行に走る前に息切れてしまう。
なんとも救いようのない作品である。

戦争で命を落としたのは兵士ばかりではない。
市井の人々も数多く亡くなった。
その結果として彼らのような戦争孤児が大量に発生した。
戦争は清太や節子のような子供たちに苦難を与え、幼い命を奪っていくのだ。
僕は戦争がもたらす悲惨さを実体験として持ち合わせていないが、この映画を見ると可哀そうんだなあという感情以上のものが湧いてきて涙が流れてしようがない。
ものすごく仲の良かった兄と妹なのに寄り添うように死んでいかねばならなかった悲惨さはアニメの世界だけではないのだと思わせるに十分な高畑勲の演出である。
清太と節子の亡骸が戦後発展した神戸の街を見つめて映画は終わるが、彼らのような子供を生み出しながら日本は発展し、僕たちは今の平和を享受している。
その事への思いを忘れてはならないのだ。

ポセイドン・アドベンチャー

2020-04-01 10:11:19 | 映画
「ポセイドン・アドベンチャー」 1972年 アメリカ


監督 ロナルド・ニーム
出演 ジーン・ハックマン
   アーネスト・ボーグナイン
   レッド・バトンズ
   キャロル・リンレー
   ロディ・マクドウォール
   シェリー・ウィンタース
   パメラ・スー・マーティン

ストーリー
81000トンの豪華客船ポセイドン号が、ギリシャに向かうためにニューヨーク港をでたのは12月末だった。
ポセイドン号が地中海に入ったとき、地震観測所から、クレタ島南西130マイル沖合いで海底地震があったという電報が入り、それから間もなく大津波がおしよせポセイドン号は一瞬にして転覆した。
折から新年を祝うパーティが大食堂で催されており、集まった船客たちのほとんどが生命を失うという大惨事だったが、乗客の1人であるフランク・スコット牧師は、大混乱が鎮まると奇跡的に助かった人々と共に脱出を試みた。
ニューヨークの刑事であるマイク・ロゴ、その妻でもと売春婦だったリンダ、雑貨商のジェームズ・マーティン、中年夫婦マニー・ローゼンとベル、歌手のノニー・バリー、17歳のスーザン・シェルビーと10歳になるその弟のロビンそして船のボーイ、エーカーズの9人がスコットに従うことになり、あとの生存者は、救急隊がくるまでじっとしていた方がいいという事務長の意見をとった。
スコット牧師は、かすかながら船内にともる電気があるうちに、船の竜骨、つまり海面に1番近い所にたどりつき、そこで待機していれば助かるかもしれないと判断したのだ。
一行はスコット牧師の指示に従い、ブロードウェイと呼ばれる通路を通り、エンジンルームにたどりついた。
その間、船内では爆発がたびたび起こり、船体は徐々に沈下していく。
海水が下から次第にせり上がってきて、皆をあせらせた。
最初の不幸は、ギャレーから次のエンジンルームに向かうときに興り、惨事は次々と彼等を襲った。
やがて一行は最後の困難にさしかかっていく・・・。


寸評
この映画のヒットでその後多くのパニック映画が作られたが、やはりこの作品が本家本元と言える。
脱出を試みるメンバーも絞られていて、それぞれにキャラクターを割り振っていて見せ場を作っている。
主人公はジーン・ハックマンの牧師なのだが、この牧師は神は助けてくれるものではなく、自らの運命は自分で切り開くものだという行動派である。
彼はその異端な考え方のため資格をはく奪されていそうで、元牧師と言ったほうがいいかもしれない。
対抗するのがアーネスト・ボーグナインの刑事で、二人は似通った性格からことごとく対立する。
行動を共にする仲間に対立する二人がいることは映画の常道で、そのこと自体は驚かないが刑事の奥さんが元娼婦などというふくらみを持たせている。
若い船員がかつて自分が相手した男だといって船長と同席する食事にためらいを見せるなどの余談も描かれる。

船は老朽化していて、航海を終えるとすぐさまドッグ入りをしなければならない。
航海の遅れが修理費に響いてくるので船主の代理人の男は船長の反対を押し切って全速力での航海を命じる。
てっきりそのことが事故の大きな原因になると思っていたら、あまり関係なかったから、何のために船長との対立を描いたのかわからない。
ちょっと余計な演出だったと思うが、その後は人間的なトラブルや、立ちはだかる困難への挑戦などお手本となるような演出が続き手に汗を握る。
船は常に揺れていて、これだけ大きな船が航海中にあんなに揺れるのかと思ったが、船を意識させる演出だったのかもしれない。
転覆してからは逆さになっているセットが凝っていて、その制作に対する苦労が伝わって来る出来になっている。

主人公のジーン・ハックマンが活躍するのは当然だが、負けず劣らず活躍する少年の存在が面白い。
船オタクの様なのだが、それまでにも船員たちと交流して知識を得ていることが役立ってくるという設定だ。
それ以上にユニークな存在がローゼン夫人。
かなり太っている初老の女性で、潜水の名手でかつては大会で優勝したこともあるのだがそれは17歳でのこと。
彼女の言動は緊張をやわらげ、そして大活躍場面には拍手を送りたくなる。
ロビン少年が夫人を引き上げるのを手伝ったときに「僕はパパと237キロの魚を釣り上げたことがる」と言ったことを、後刻に悪気がなかったと謝るのだが、夫人は「いいのよ、そんなことを気にしてたの」と慰めるシーンがあるのだが、緊張の中でホット一息つけるシーンになっていた。
「誰かが助かるとしたら、あの姉弟を助けたいわ、あの子たちには未来があるもの」と話す心の優しさも持ち合わせている淑女だ。
もちろん一番しんみりともさせられる人でもある。
ジーン・ハックマンのスコット牧師がスーパーヒーロ過ぎるのは仕方のないところだけれど、スーパーヒーローらしく「助けてくれとは言わないが、邪魔をしないでくれ」と神に対して叫んで最後に挑むのもなかなかいい。

助かるのがたった6人というのは少なすぎるような気もするし、彼らを助けた救助隊が全部去ってしまうのもどうかと思うのだが、巨大客船の転覆事故を臨場感たっぷりに描いた超娯楽作であることは確かだ。