「マディソン郡の橋」 1995 アメリカ
監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド
メリル・ストリープ
アニー・コーレイ
ヴィクター・スレザック
ジム・ヘイニー
サラ・キャスリン・シュミット
クリストファー・クルーン
ミシェル・ベネス
ストーリー
1989年の冬、アイオワ州マディソン郡でフランチェスカ・ジョンソンの葬儀を出すために集まった長男のマイケルと妹のキャロリンは、彼らに当てた母の手紙と日記を読み始める……。
1965年秋。フランチェスカは結婚15年目で単調な生活を送っていた。
夫のリチャードと2人の子供が農産物品評会に出掛け、彼女は4日間、一人で家にいることになった。
新鮮で開放的な気分になった彼女の前に、プロ・カメラマンのロバート・キンケイドが現れ、道を尋ねた。
彼は、珍しい屋根付きのローズマン橋の写真を撮りに来ていた。
フランチェスカは彼の魅力に引かれ、その晩、夕食に誘う。
彼が宿に帰った後、「明日の晩、もう一度いかが?」とのメモを、明朝の撮影で彼が訪れる橋の上に残した。
翌日、2人はホリウェル橋の上で落ち合った。
自然の成り行きで一晩中愛し合った2人は、次の日、郊外でピクニックを楽しんだ。
最後の朝はぎごちなさと不安の中で迎えたが、彼は「一緒に来てくれ」と言う。
悩み苦しんだ末に、荷物をまとめた彼女だったが、家族のことを思うその顔を見て、キンケイドは去った。
寸評
不満はないが満足感もない中年女性の不倫物語と言ってしまえばそれまでなのだが、これがクリント・イーストウッドとメリル・ストリープで演じられてしまうと思わず唸ってしまうのだ。
ラブストーリーにしては主人公たちが年をとりすぎているし、ロマンチックさにも欠けているが、カップルの年齢差が少ないことで不自然さがなく、メリル・ストリープが年齢にふさわしい苦悩を見事に表現している。
若者のラブロマンスならアウトドアでの幸せそうな姿を描かれるところだが、ほとんどはフランチェスカの家での会話劇となっている。
その為にロマチックなシーンの欠如となっているのだが、逆に大人の恋をじわじわと感じさせていく。
それを支えているのがルーシーという女性の存在だ。
アイオワ州のマディソン郡は閉鎖的な町で、人々は極めて保守的だ。
ロバートはよそ者として町の人々の注目の的だし、この町に住む男の不倫相手のルーシーは人々の冷たい視線を浴び、町の人々から拒絶されている女性だ。
自分たちも、特にフランチェスカがそのような目に合わないために慎重な行動をとらざるを得ず、二人がフランチェスカの自宅に閉じこもっていることを納得させる。
フランチェスカは学校の先生をしていたが夫の希望もあり専業主婦となっている。
彼女にはキャリアを捨てた不満が潜在的にあり、退屈な生活に埋没している。
親しんだ詩集を手にすることも、文学を語ることもなく、毎日ひたすらに家族のために働いてきた。
祭りから帰ってきた家族との生活に彼女の不満が表現されている。
夫は優しくて真面目な人物らしいが、彼女が料理したものを黙って食べるだけで夫婦間に会話はない。
夫はビールを飲みながら子供たちとテレビを見、横で編み物をしながら時間を過ごし家族間の会話はない。
彼女の不幸な結婚生活を強調するシーンとなっている。
ところがロバートとの時間ではフランチェスカの表情は輝きを増しており、対照的に会話も弾んでいることでフランチェスカが禁断の一線を越えてしまうことが自然な流れと感じさせる。
この映画はほとんどが二人の会話で構成され、まるで舞台劇のような雰囲気が中年の恋を醸し出している。
この年齢の観客なら、男はクリント・イーストウッドに自分をダブらせ、女性はメリル・ストリープに自分を重ね合わせることだろう。
どちらも不満が溜まってきた生活からの脱却希望を夢見るに違いない。
子育てと言う共同事業が終わりを迎える頃になってくると、夫婦関係の維持のために我慢していたことへの疑問が生じてくる。
映画は「お前の人生は本当にこれで良かったのか?」と問いかけてくるが、ほとんどの人はそれでも離婚に踏み切れない。
彼女は「夫と子供たちへの責任」を語り、キンケイドの誘いを拒絶して元の平凡な日々に戻ることを選択する。
この映画は甘いセリフをささやくシーンより、二人が無言でいるシーンの方が美しく感じる。
ヒロインであるフランチェスカの心の内を表現するためには、単に美貌だけがウリの女優ではない、メリル・ストリープの存在が大きい作品だ。
監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド
メリル・ストリープ
アニー・コーレイ
ヴィクター・スレザック
ジム・ヘイニー
サラ・キャスリン・シュミット
クリストファー・クルーン
ミシェル・ベネス
ストーリー
1989年の冬、アイオワ州マディソン郡でフランチェスカ・ジョンソンの葬儀を出すために集まった長男のマイケルと妹のキャロリンは、彼らに当てた母の手紙と日記を読み始める……。
1965年秋。フランチェスカは結婚15年目で単調な生活を送っていた。
夫のリチャードと2人の子供が農産物品評会に出掛け、彼女は4日間、一人で家にいることになった。
新鮮で開放的な気分になった彼女の前に、プロ・カメラマンのロバート・キンケイドが現れ、道を尋ねた。
彼は、珍しい屋根付きのローズマン橋の写真を撮りに来ていた。
フランチェスカは彼の魅力に引かれ、その晩、夕食に誘う。
彼が宿に帰った後、「明日の晩、もう一度いかが?」とのメモを、明朝の撮影で彼が訪れる橋の上に残した。
翌日、2人はホリウェル橋の上で落ち合った。
自然の成り行きで一晩中愛し合った2人は、次の日、郊外でピクニックを楽しんだ。
最後の朝はぎごちなさと不安の中で迎えたが、彼は「一緒に来てくれ」と言う。
悩み苦しんだ末に、荷物をまとめた彼女だったが、家族のことを思うその顔を見て、キンケイドは去った。
寸評
不満はないが満足感もない中年女性の不倫物語と言ってしまえばそれまでなのだが、これがクリント・イーストウッドとメリル・ストリープで演じられてしまうと思わず唸ってしまうのだ。
ラブストーリーにしては主人公たちが年をとりすぎているし、ロマンチックさにも欠けているが、カップルの年齢差が少ないことで不自然さがなく、メリル・ストリープが年齢にふさわしい苦悩を見事に表現している。
若者のラブロマンスならアウトドアでの幸せそうな姿を描かれるところだが、ほとんどはフランチェスカの家での会話劇となっている。
その為にロマチックなシーンの欠如となっているのだが、逆に大人の恋をじわじわと感じさせていく。
それを支えているのがルーシーという女性の存在だ。
アイオワ州のマディソン郡は閉鎖的な町で、人々は極めて保守的だ。
ロバートはよそ者として町の人々の注目の的だし、この町に住む男の不倫相手のルーシーは人々の冷たい視線を浴び、町の人々から拒絶されている女性だ。
自分たちも、特にフランチェスカがそのような目に合わないために慎重な行動をとらざるを得ず、二人がフランチェスカの自宅に閉じこもっていることを納得させる。
フランチェスカは学校の先生をしていたが夫の希望もあり専業主婦となっている。
彼女にはキャリアを捨てた不満が潜在的にあり、退屈な生活に埋没している。
親しんだ詩集を手にすることも、文学を語ることもなく、毎日ひたすらに家族のために働いてきた。
祭りから帰ってきた家族との生活に彼女の不満が表現されている。
夫は優しくて真面目な人物らしいが、彼女が料理したものを黙って食べるだけで夫婦間に会話はない。
夫はビールを飲みながら子供たちとテレビを見、横で編み物をしながら時間を過ごし家族間の会話はない。
彼女の不幸な結婚生活を強調するシーンとなっている。
ところがロバートとの時間ではフランチェスカの表情は輝きを増しており、対照的に会話も弾んでいることでフランチェスカが禁断の一線を越えてしまうことが自然な流れと感じさせる。
この映画はほとんどが二人の会話で構成され、まるで舞台劇のような雰囲気が中年の恋を醸し出している。
この年齢の観客なら、男はクリント・イーストウッドに自分をダブらせ、女性はメリル・ストリープに自分を重ね合わせることだろう。
どちらも不満が溜まってきた生活からの脱却希望を夢見るに違いない。
子育てと言う共同事業が終わりを迎える頃になってくると、夫婦関係の維持のために我慢していたことへの疑問が生じてくる。
映画は「お前の人生は本当にこれで良かったのか?」と問いかけてくるが、ほとんどの人はそれでも離婚に踏み切れない。
彼女は「夫と子供たちへの責任」を語り、キンケイドの誘いを拒絶して元の平凡な日々に戻ることを選択する。
この映画は甘いセリフをささやくシーンより、二人が無言でいるシーンの方が美しく感じる。
ヒロインであるフランチェスカの心の内を表現するためには、単に美貌だけがウリの女優ではない、メリル・ストリープの存在が大きい作品だ。
二十歳そこそこで原作の本を読み、のちに映画化され当時大好きだった人と初めてのデートで観た記憶がよみがえりました。
初デートでこの映画はないだろうと友人に言われましたが面白かったし楽しかった記憶があります。
アラフィフの今、もう一度観返したいと思いました。
今、再見するとなぜこの映画を面白く感じたのかと思うこともあるのですが、それは隣にそのような人が居たからだったと思い返します。
いい映画を初デートでご覧になられましたね。
でも確かに内容が・・・。