おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

真夜中のカーボーイ

2020-04-20 08:47:47 | 映画
「真夜中のカーボーイ」 1969年 アメリカ


監督 ジョン・シュレシンジャー
出演 ジョン・ヴォイト
   ダスティン・ホフマン
   シルヴィア・マイルズ
   ジョン・マッギーヴァー
   ブレンダ・ヴァッカロ
   ギル・ランキン

ストーリー
ジョー・バックは、カウボーイのいでたちでテキサスからニューヨークに出て来た。
彼は自分の肉体と美貌を武器に孤独なニューヨークの夫人達を慰め、富と栄光を得ようと考えていた。
彼の商売の皮切りの女性キャスは街娼上がりのパトロン持で、逆に金を巻きあげられてしまった。
そんな時、彼は足の不自由なペテン師ラッツオと知り合った。
彼の紹介でジョーはオダニエルにひき会わされたが、彼は狂言者であった。
ラッツオにだまされたと知ったジョーは、必死に彼を探し歩いた。
しかし、無一文で街の酒場にしけこんでいた彼を見て、ジョーは何も言えなかった。
逆に、ホテルを追い出されたジョーに、ラッツオは自分の室へ来るようにすすめた。
それはとり壊し寸前のビルの一室で、そこでラッツオは彼の夢、フロリダ行きの夢を語るのだった。
必死に、泥沼をはい上がろうと2人は力を合わせた。
ラッツオがマネージャーとなり、ジョーは再び男娼を始めたがうまくゆかなかった。
ジョーを買った最初の客は、ヘンゼルとグレーテルのパーティで出会ったシャーリーだった。
一方、ラッツオの体はその頃から急激に衰弱していた。


寸評
1960年代後半から1970年代中頃にアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品群があったのだが、「真夜中のカーボーイ」はその初期の傑作である。
それまでのハリウッド映画が正義の味方による勧善懲悪の物語や、ウットリするような恋物語を主流としていて、結末はハッピー・エンドというのが多くを占めていたのに対し、ニューシネマと言われる作品は悲劇的な結末で幕を閉じるものが多い。
つまり映画の内容はアンチ・ヒーローでありアンチ・ハッピーエンドとなっていると思う。
ニューシネマが登場した背景は、おそらく当時の世相であったアメリカ市民がベトナム戦争の実態を目の当たりにしたことで政治への不信感とアメリカ政府の矛盾点に目を向け始めたことによるものだろう。

「真夜中のカーボーイ」は喜劇的な面を持ちながらも実に淋しい映画である。
ジョーが自分の精力を武器にニューヨークで一旗揚げようとするのがそもそも滑稽だ。
田舎者が精一杯背伸びして都会へ出てきたが、雑踏の中で人が倒れていても見向きもしないような街で夢破れていく様も滑稽である。
金をせしめようとした女に逆に金を巻き上げられたり、夢見た女性との関係ではなくホモを相手にしなければならなくなったり、ジョーの身に起きることは滑稽としか言いようがない。
ジョーのニューヨークへの思いは時代錯誤というよりも、あまりにも現実離れしたものであきれてしまう。

ラッツオは大都会のニューヨークに住み着いているが最下層の生活をしている。
足が不自由だし、利用してはいけないビルの一室を住居にしているが、生活の糧はスリと万引きという生活だ。
おまけに環境からきたのか肺を患っていて常に咳きこんでいる。
金がなくなった二人が一緒に寝起きするが、画面に映るのは惨めな二人の姿である。
モノクロシーンを挿入させながら過去の悪夢と未来の夢が交差する瞬間がシャープに描かれる。
ジョーの目指した方法でやっと金にありつけたときには、ラッツオの体は限界に来ていて、温かいフロリダへ旅立つことになる。
ジョーは再び長距離バスに乗ることになるが、希望に満ちたニューヨーク行と違い、マイアミ行はいわばニューヨークからの逃避行だ。
バスに中のラッツオの姿は痛々しい。
痛々しいが、このバスのシーンはこの映画そのものである。

主人公はジョーのジョン・ヴォイトだと思うが、ラッツオのダスティン・ホフマンが際立っている。
決してハンサムではないが個性が際立つ男優で、「卒業」で見せた以上の表現力でラッツオを演じている。
足の悪いラッツオが全速力で海岸を走り、マイアミではご馳走を美女たちに振る舞い豪勢な生活をしているなど、彼らが夢見た世界が絵空事として楽し気に描かれるが、結果は正反対である。
我々が夢見ていた世の中など存在せず、現実は惨めな生活が待っていたのだと言っているようでもある。
描かれていたのは当時の若者の心情の代弁だったと思うが、英国人のジョン・シュレシンジャーが見たニューヨークだったのかもしれない。