「水の中のナイフ」 1962年 ポーランド
監督 ロマン・ポランスキー
出演 レオン・ニェムチック
ヨランタ・ウメッカ
ジグムント・マラノヴィチ
ストーリー
アンドジェイは36歳でワルシャワのスポーツ記者として美しい妻クリスチナと安定した生活をおくっていた。
彼らは週末を郊外で過すのが常で、その日もヨットの上で週末を過すため湖に向って車を走らせ、途中ヒッチ・ハイクの青年を乗せた。
三人は出帆するが、青年の「若さ」とアンドジェイの「中年」が眼に見えない火花を散らすことになる。
アンドジェイは青年が妻に親切なのを見ると、彼に過酷な仕事をいいつけた。
ヨットが帰途についた時、青年のナイフをアンドジェイがかくした。
青年は彼に喰ってかかり、もみあううちにナイフは湖中に落ち、青年も足をすべらせ浮いてこない。
若者はブイの蔭に隠れており、アンジェイは殺してしまったとおびえる。
意外な成行きに、アンドジェイとクリスチナはののしりあい互いに幻滅と憎悪でいっぱいになる。
アンドジェイが警察に知らせに泳ぎ去った後に青年が姿を現わした。
クリスチナは最初は腹を立てたが、次第に青年の世話をやき、そして彼の接吻を受けた。
やがて湖畔に着くと、青年は走り去ってしまい、船着場にはアンドジェイが待っていて、二人は帰途につく。
妻は若者が生きていて自分と浮気をしたと告げるが、アンジェイは嘘だと言い、警察署へ行く道のところまで来て止まる。
やがて何事もなかったように、またもとの生活にもどるだろう……。
寸評
アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」がかぶる作品である。
1960年代は心象として水面と陽射しの変化というコントラストの強い素材がうってつけだったのかもしれない。
心象風景を表すショットや印象的なシーンもあるのだが、再見するまで僕の記憶の残っていたのは、青年が人差し指をかざして右目と左目を交互につむるシーンだった。
指が帆柱の右と左に行ったり来たりする。
やってみれば実際そうなのだが、そんなシーンに場内で失笑が起き、僕もニコリとしてしまったことを思い出す。
なぜそんな意味のないシーンを覚えていたのだろう。
特別に重要な場面でもないし、何かを暗示していたわけでもないと思うが、カメラのお遊びとして印象深かったのかもしれない。
登場人物は3人しかいない。
彼等はヨットに乗り込み週末を過ごすことになるが、アンドジェイは出会った時から青年への対抗心がありありだ。
妻の前で青年の若さに負けない自分を見せたかったのだろう。
ヨットではアンドジェイが船長としてふるまい高圧的な態度をとる。
妻に対しても青年に対しても命令口調である。
中年であるアンドジェイと青年が火花を散らせるのは安易なサスペンスを思わせるが、クシシュトフ・コメダの音楽とイェジー・リップマンのカメラはヌーヴェルバーグ的な深い描写を醸し出していく。
モノクロ作品であることも効果的だ。
アンドジェイと青年の対立はブルジョアとプロレタリアートの対立という側面もあったと思う。
アンドジェイが青年を溺死させたかもしれないと思う出来事が関係を一変させる。
夫と妻の関係も逆転したかのようである。
それまでの不満が噴出したかのように妻は夫を責める。
青年には若さがあるが、夫婦には経験を積んできた老獪さがあり大人の対応を見せる。
妻は青年と一線を越えた後、夫が戻る前に青年を去らせて何もなかったように夫を迎える。
夫は妻に聞かれてガラスの破片に裸足で立った水夫の話の続きを語るのだが、この話をする事で自らの過ちを認めるという大人の対応をとる。
妻は青年が生きていたことを告げ、青年と関係を持ったことがその証だと言う。
夫は自分を救うためにそんなウソをつかないでくれと言う。
アンドジェイは妻の不貞を信じたくないのだろうし、妻は夫の言葉で不貞に対する罪悪感を払拭したのだろう。
罪の意識の下で自分たちの保身のために皆が嘘をつき、その嘘を解っていながらも平和を維持するためにはあえて追求しないという大人のずる賢さである。
警察の方向を示す道路標識の前で車は止まったままで終わるが、おそらく何事もなかったように元の生活に戻るのだろう。
ラストシーンは思わせぶりである。
監督 ロマン・ポランスキー
出演 レオン・ニェムチック
ヨランタ・ウメッカ
ジグムント・マラノヴィチ
ストーリー
アンドジェイは36歳でワルシャワのスポーツ記者として美しい妻クリスチナと安定した生活をおくっていた。
彼らは週末を郊外で過すのが常で、その日もヨットの上で週末を過すため湖に向って車を走らせ、途中ヒッチ・ハイクの青年を乗せた。
三人は出帆するが、青年の「若さ」とアンドジェイの「中年」が眼に見えない火花を散らすことになる。
アンドジェイは青年が妻に親切なのを見ると、彼に過酷な仕事をいいつけた。
ヨットが帰途についた時、青年のナイフをアンドジェイがかくした。
青年は彼に喰ってかかり、もみあううちにナイフは湖中に落ち、青年も足をすべらせ浮いてこない。
若者はブイの蔭に隠れており、アンジェイは殺してしまったとおびえる。
意外な成行きに、アンドジェイとクリスチナはののしりあい互いに幻滅と憎悪でいっぱいになる。
アンドジェイが警察に知らせに泳ぎ去った後に青年が姿を現わした。
クリスチナは最初は腹を立てたが、次第に青年の世話をやき、そして彼の接吻を受けた。
やがて湖畔に着くと、青年は走り去ってしまい、船着場にはアンドジェイが待っていて、二人は帰途につく。
妻は若者が生きていて自分と浮気をしたと告げるが、アンジェイは嘘だと言い、警察署へ行く道のところまで来て止まる。
やがて何事もなかったように、またもとの生活にもどるだろう……。
寸評
アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」がかぶる作品である。
1960年代は心象として水面と陽射しの変化というコントラストの強い素材がうってつけだったのかもしれない。
心象風景を表すショットや印象的なシーンもあるのだが、再見するまで僕の記憶の残っていたのは、青年が人差し指をかざして右目と左目を交互につむるシーンだった。
指が帆柱の右と左に行ったり来たりする。
やってみれば実際そうなのだが、そんなシーンに場内で失笑が起き、僕もニコリとしてしまったことを思い出す。
なぜそんな意味のないシーンを覚えていたのだろう。
特別に重要な場面でもないし、何かを暗示していたわけでもないと思うが、カメラのお遊びとして印象深かったのかもしれない。
登場人物は3人しかいない。
彼等はヨットに乗り込み週末を過ごすことになるが、アンドジェイは出会った時から青年への対抗心がありありだ。
妻の前で青年の若さに負けない自分を見せたかったのだろう。
ヨットではアンドジェイが船長としてふるまい高圧的な態度をとる。
妻に対しても青年に対しても命令口調である。
中年であるアンドジェイと青年が火花を散らせるのは安易なサスペンスを思わせるが、クシシュトフ・コメダの音楽とイェジー・リップマンのカメラはヌーヴェルバーグ的な深い描写を醸し出していく。
モノクロ作品であることも効果的だ。
アンドジェイと青年の対立はブルジョアとプロレタリアートの対立という側面もあったと思う。
アンドジェイが青年を溺死させたかもしれないと思う出来事が関係を一変させる。
夫と妻の関係も逆転したかのようである。
それまでの不満が噴出したかのように妻は夫を責める。
青年には若さがあるが、夫婦には経験を積んできた老獪さがあり大人の対応を見せる。
妻は青年と一線を越えた後、夫が戻る前に青年を去らせて何もなかったように夫を迎える。
夫は妻に聞かれてガラスの破片に裸足で立った水夫の話の続きを語るのだが、この話をする事で自らの過ちを認めるという大人の対応をとる。
妻は青年が生きていたことを告げ、青年と関係を持ったことがその証だと言う。
夫は自分を救うためにそんなウソをつかないでくれと言う。
アンドジェイは妻の不貞を信じたくないのだろうし、妻は夫の言葉で不貞に対する罪悪感を払拭したのだろう。
罪の意識の下で自分たちの保身のために皆が嘘をつき、その嘘を解っていながらも平和を維持するためにはあえて追求しないという大人のずる賢さである。
警察の方向を示す道路標識の前で車は止まったままで終わるが、おそらく何事もなかったように元の生活に戻るのだろう。
ラストシーンは思わせぶりである。
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