蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

命の誕生

2016年07月01日 | 季節の便り・虫篇

 4時50分、浅い眠りから覚めて、薄明の中にヒグラシの初鳴きを聴いた。6月晦日前の29日、昨年の30日の初鳴きとほぼ同じタイミングである。小さ身体に潜む命の時計、3年から17年といわれる地下での幼虫時代を過ごすのに、羽化する時を決して違えない。だから、毎年の誕生に新鮮な驚きがある。

 いろいろ事が続いて、昨秋以来途絶えていた温泉三昧に久し振りに出掛けることにした。梅雨真っ盛りの豪雨が南九州に居座り、天気予報に一喜一憂しながら、結局雨を衝いて強行、筑紫野ICから九州道に乗って、久留米を過ぎる辺りから激しい雨となった。ワイパーをフルに廻しても拭いきれない雨脚に路面が霞む。制限速度が80キロから50キロに落ちる。さすがに、こんな雨の中の運転は怖い。
 菊水ICで降りた。思い返せば、大震災以来初めての熊本入りである。同じ熊本でも、此処は福岡県との県境に近い北の外れ、時折路肩ののり面にブルーシートを見るのが、僅かな地震の名残だった。山鹿に向かう途中から左に折れ、菊池川添いに走って山手にはいり、お気に入りの平山温泉の部屋付き露天風呂の宿に着いた。1時間半足らずの走りで、木立に包まれた隠れ宿の静寂に包まれるのは、なんという恵まれた環境だろう。
 我が家一番のお気に入りの「隠れ宿」は、震災の渦中の南阿蘇にある。橋脚が落ち、道路やトンネルが破壊され、残念ながら年内はアクセスが難しいという。

 降りしぶく雨に外の大きな露天風呂は諦め、部屋付きの露天風呂でゆったりと寛ぐ。39度ほどのぬるめの湯が始めのうちは物足りないが、やがて20分も浸かってあがると、全身がホコホコに温まってくる。夕飯までのひと時を横になって本を読んでるうちに、いつの間にか転寝していた。
 夜半、心地よい眠りの底で、激しい雨音が離れの部屋を叩き続けていた。

 ヒグラシの初鳴きを聴いたのは、帰り着いた翌朝だった。20分ほど裏山の石穴稲荷の杜で朝の気を震わせたあと、明るくなるにつれて鳴き声がやんだ。
 その夜、ふと予感があって9時過ぎの庭に降り立った。時折小さな雨粒が落ち、夜風が木の葉を揺らす。いつもの八朔の梢に懐中電灯の光を展ばすと、いた!目線の少し上で1頭のセミの幼虫が、今まさに背中を割ろうとしていた。数えはじめた一昨年128匹、昨年75匹のニイニイゼミ、ヒグラシ、アブラゼミ、クマゼミが誕生した檜舞台である。昨年の第1号は7月8日だった。
 もう連続写真は何度も撮ったのに、やっぱりカメラを引っ張り出し、懐中電灯を手に、梢の下に佇む自分がいた。全てを撮るには、2時間以上藪蚊に苛まれながら佇むことになる。三脚が届かない高さだから、脚の位置を固定しアングルを定めて、自分自身を三脚代わりに酷使することになる。それでも、そんな苦役が楽しいのは、命誕生の瞬間に立ち会う感動があるからなのだ。

 背中が割れ、上半身を乗り出し、尻尾だけを殻に残して前足4本を空に足掻かせながらゆっくりと逆さまにぶら下がる。この時間がしばらく続く。風に揺られ、雨粒に叩かれると、落下してしまうこともある一番危険なプロセスである。やがて上半身を一気に持ち上げてしっかりと前足で殻に掴まり、下半身を抜き出す。らせん状に巻き込まれた翅が目を瞠る速さで伸びていく。美しい翅脈が拡がる。生まれたばかりのセミの姿は、ストロボの光を浴びて神々しいまでに美しかった。幼虫の背中が割れて、およそ2時間後だった。
 油断大敵、ここでカメラの電池が切れた!

 翌朝、5時に起きて庭に急いだ。すっかり翅が乾き切った見事な成虫の姿がそこにあった。ヒグラシの雄だった。
 やがて6時過ぎ、ホトトギスが鳴く鉛色の空の下を、仲間たちが待つ石穴稲荷の杜に向かって飛び立っていった。
 命誕生の、競演の季節の始まりだった。
                (2016年6月:写真:羽化間もないヒグラシ)

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