蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

旅立ち

2019年11月08日 | 季節の便り・花篇

 その朝、ピンクのイトラッキョウが鉢から溢れるように咲いた。昨年、猛暑の夏に水管理を誤ったのか、ピンクは殆ど壊滅し僅かに白い花が数本貧しく咲くだけだった。今年、もう白一色だろうと諦めていたのに、溢れ咲いたのはピンクの花だった。

 花が大好きで、中でもピンクと紫の花をこよなく愛していた妹が、この日彼岸に渡った。77歳だった。
 早朝6時過ぎに、妹の長女から電話が入った。胸がざわっと鳴った。
 「おじちゃん、母が危ないみたいなの。すぐ来て!」
 朝の通勤渋滞に焦りながら、病院に駆け付けた。HCUの前で、長女の婿が待っていた。
 「急いで下さい!」
 妹は待っていてくれた。姉同然に懐いていたカミさんと私がベッドの脇に立ったらすぐに、医師が来て臨終を告げた。8時8分だった。まだ温かい頬や額を撫でながら、掛ける言葉は一つしかなかった。
 「よく頑張ったね。」

 49歳の時に、55歳の夫を癌で失って以来、28年間次男と二人で病院通いの歳月を送った。週3回5時間の人工透析は、既に30年を超えていた。歳と共に骨が脆くなり、近年は転んで骨折入院を繰り返していた。しかし、弱音を吐いたことは殆どなく、そんな日常を当たり前のように重ねてきた。殆ど寝たきりとなった妹に、次男が常に側にいて、買い物や炊事など家事の全てを担って尽くしていた。
 お盆前にも転んで大腿部を骨折し、手術とリハビリに堪えて、そろそろ転院の話も出ていた矢先に、感染症を発症しICUに入った。家族以外は面会謝絶、時間も30分までと告げられた。駆けつけて見舞ったときには意外に元気そうで、声も交わし笑顔を見せていたのに……。
 「この分だと、明日にでも一般病棟に移れそうですね」という看護婦の言葉に励まされて帰ってきたが、その日が最後の元気な姿となった。

 弔いの時は、悲しむいとまもなく慌ただしく過ぎていく。斎場との打ち合わせに入ったところで、私たちは一旦家に戻ることにした。
 帰り着いた庭に、妹の好きなピンクのイトラッキョウが復活していた。まるで、妹が咲かせたように、そして妹の彼岸への旅の餞のように、溢れ咲いていた。

 何だろう、この喪失感は?
 3人兄弟の末っ子で、母にとっては目に入れても痛くないほどの掌中の珠だった。まだ婚約中だったカミさんに姉のように懐き、母も妹のことで言いにくいことなどは全てカミさんに委ねていた。だから、私以上に、カミさんの悲しみは強かった。

 頼んでいた年賀状をキャンセルし、代わりに「喪中欠礼」の葉書印刷を郵便局にネットで注文した。「印刷代20%早期割引は今日まで」とある。こんなことにまで早期割引?と違和感がある。そして、事務的にそれをこなしている自分にもおぞましさがある。しかし、そうでもしていないと気が紛れないのだ。
 「人間て、哀しいな」という、山本周五郎の言葉が蘇る。

 一日置いて、家族とごく親しかった友人だけの通夜、そして翌日の葬儀。長女と仲良かった我が家の長女も、仕事を休んで横浜から駆け付けた。夜間の運転を自らに禁じている私にとって、そして、身近な肉親に逝かれて戸惑いにも似た気落ちに沈む私たちにとってはありがたいことだった。
 骨上げの切ない時間も過ぎて、立冬の朝、娘は横浜に帰って行った。空港に送り届けて、一気に落ち込みが来た。喉や頭まで痛みだし……これは気落ち風邪でもあろう。
 
 悲しく切なく、冬が立った。
          (2019年11月写真:弔いのイトラッキョウ)

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