蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

Mist Trail・霧の小径<夏旅・その2>

2006年07月24日 | 季節の便り・旅篇

 爽やかな鳥の声に目覚め、寝袋の快適な温もりに一瞬自身の所在を見失った。ひんやりした大気、テントの薄明かり、川の瀬音、かすかな煙の臭い……そうだ、ヨセミテ2日目の朝だった。テントの傍のベンチでパンとサラダの朝食を摂り、おにぎりと水をリュックに詰めて、ストックを手にMist Trailに向かう。茨城県の半分という公園の広さは、この深い木立の中にいると実感出来ない。聳え立つハーフ・ドームの上は今日も雲一つない青空だった。
 キャンプ・サイトから橋を渡り、小一時間メルセド川沿いに遡行する。2,000メートル級の岩峰に囲まれた渓谷は風もなく、昼間の気温は想像以上に高くなるが、朝早い木立の下はまだひんやりと涼しかった。やがて奔流渦巻くHappy Islesの橋の上に出た。ここがトレイルの起点である。
 川沿いに次第に傾斜を深める山道を辿る。時折ブルー・ジェイが美しい光となって木漏れ日の下を飛ぶ。やがて再びメルセド川をまたぐ小さな橋の上に立ったとき、遙か上流にVernal Fallが姿を現した。橋の袂には給水場がある。美しい渓流なのに、何故かヨセミテの水は飲むに適しない。皆ここで憩い、ボトルに水を補給する。完全装備のトレッカーは私達ぐらいで殆どは軽装であり、ビキニのトップにホット・パンツという悩ましい女性トレッカーも多い。むしろ私達の姿が珍しいのか「Oh、Pretty!」とカメラを向けられたりする。「67years old!」と聞いて目を見張ってもくれる。優しいリップ・サービスを楽しみながら、いよいよ急坂と階段の滝登りにかかった。登るにつれて次第に瀧のしぶきが霧となって降り始める。Mist Trail(霧の小径)の名前の由来である。しぶきの中に虹が輝く頃、濡れた急な階段の下りを気遣って、少し膝の悪い家内を娘に託して下らせ、一人最後の急坂に挑んだ。ここまで来ると、しぶきというより土砂降りの雨である。あっという間に濡れ鼠になってしまった。
 13時、ようやく滝の上に出た。標高1,350メートル。3時間のトレイルだった。雪解け水を集め、怒濤となって落ちるヴァーナル・フォールは圧巻だった。岩盤の上から見下ろすと、遙か下の急坂を上り下りする人影が豆粒のように見える。もうひとつ上にはNevada Fallがある。「下で待ってるから行っておいでよ」と娘に勧められていたが、日本から風邪を引きずってきていた身体は予想以上に重く、滝の上の淀みに足を冷やして憩い、日差しに身体を暖めて束の間の休息をとったあと、下ることにした。雪解け水は身を切るように冷たく、1分も足を漬けていることは出来ない。目を閉じると滝音に混じって聞こえてくるざわめきは総て英語。日本語が全く聞こえない空間の快感を知ったのは何度目の海外旅行からだったろう。脱・日常の真髄はこんなところにあるのかも知れない。
 折角日差しに暖まった身体も、下りのしぶきであっと云う間に再び濡れてしまう。橋の袂で待っていた二人と、流れの傍らでリスと戯れながら飯盒飯のおにぎりを食べた。異郷の大自然の中で、何にも勝るご馳走だった。
 ハッピー・アイルズからシャトル・バスに乗り、渓谷を一巡して土産物を物色、アイスクリームで渇きを癒して6時前にテントに帰り着いた。バーベキュー・グリルで飯盒飯を炊き,北海道産の帆立入りカレーとサラダで夕食。肉厚のステーキを肴に飲んだワインとビールと甘酒が、疲れに火照った身体にしみ通った。2日目の夜も、満天の星空にくるまれて眠りについた。
 家内が頻りに心配し続けていた熊は、とうとうふた晩とも現れることはなかった。
     (2006年夏:写真:ヴァーナル・フォールを背に娘と)

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