蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

威嚇

2016年07月03日 | 季節の便り・虫篇

 生きなければならない。生きたい。生きて行こう……そんな意志を持っているわけではない。ただ本能の赴くままに生まれ、蚕食し、脱皮を繰り返し、淡々と彼らは生きて行く。その身構えない、さりげない生きざまを擬人化し、人は感動する。
 しかし、生き延びることがどれほど厳しく、稀な現象であるかを知ると、一頭でも育て上げたいと思ってしまうのだ。
 2頭のキアゲハの幼虫は、幸いその後に生まれる卵もなく、しっかり繁った4株のパセリを存分に蚕食し、脱皮を繰り返して、美しい終齢幼虫になった。激しい雨が奔る連日、33度を超える猛暑が続く中を、軒下のプランターで無事に育った。
 そっと指で触れるとオレンジ色のつのを出し、強烈な匂いで威嚇してくる。指先に付いたら、この匂いはなかなか取れない。生きるための唯一の武器である。鳥、狩人蜂、トカゲ、カナヘビ、時にはガマガエル……幾つもの天敵から誰も守ってはくれない。こんなささやかな武器で、僅かな生き残りに賭けるしかないのだ。

 妹の病院を家内と見舞った。家の階段を踏み外し、腕と足の骨を折った。特に足は粉砕骨折で、金属を入れて固定しなければならないほどの重傷だった。腎臓をいためて三十数年、週3度の人工透析を続けた骨は脆く、72歳の今日まで何度骨折を繰り返したことだろう。術後見舞ったときは見かねるほど弱り、4か月かかるかもしれないと言われた入院に、気力まで失っていた。
 幸い予想以上の回復で元気になり、杖や歩行器で自力歩行が出来るようになり……そうなると、退屈な入院生活をぼやくことになる。
 「病院食が美味しくない。土日はリハビリがないから退屈~ッ!」とメールが来る。
 「何か食べたいものがあるなら、持って行こうか?鰻はどう?」という家内の問いかけに、こんな返事が返ってきた。
 「鰻は、つい先日持ってきてもらって食べた。お鮨が食べたい!」
 たまたま、「市長と語る会」に出席する予定があったのを急遽取りやめ、行きつけの鮨屋で「上にぎり」2人前と名物の「筑紫巻き」、それに「おしんこ巻き」を作ってもらって、病院に走った。サービスに、「河童巻き」を添えてくれた。
 4人部屋のカーテンを巻いて、お鮨を食べさせ、病院食を私がこっそり平らげて……家内や私の入院の時に、よくやったパターンである。昔は人口透析を始めると、ひと財産無くすと言われ、10年が限度といわれたた難病だったが、医学の進歩と難病指定の補助が此処まで妹を生かしてきた。
 夫にも先立たれ、末っ子の次男と二人で、「生きたい、生きよう、生きなければ…」という意志で命を繋いできた。意志・意欲を持って生きることが出来るのは、おそらく人間だけだろう。
 2時間ほど退屈しのぎの雑談をして、「予想より1ヶ月ほど早く、来週退院する」という言葉を土産に帰途に着いた。午前中、時折日差しが降っていたのに、都市高に上がったころから激しい雨が奔り始めた。

 帰り着いた家の軒下のパセリで、蚕食をやめて、じっと葉先にとまる2頭がいた。「そろそろ蛹になる頃かな?」と思いながら、33.3度、湿度80%の気怠さに、ついうとうとと微睡んでいた。
 夕刻庭に立ったら、既に2頭は蛹化の旅に出た後だった。どこで蛹になるのか、この木立や草花の繁った中で探すのは至難である。時には5メートル以上モコモコと移動して、裏口の軒下で蛹になったこともある。
何かの折に偶然発見することを期待しながら、ほぼ食い尽くされたパセリのプランターを眺めていた。
 「無事に生きろよ。綺麗なキアゲハになって、真夏の日差しの下で、いい伴侶を見付けろよ」

 その夜、八朔の葉裏で、3匹目のセミの幼虫が背中を割った。
               (2016年7月:写真:威嚇するキアゲハの幼虫)