蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

変身

2016年07月18日 | 季節の便り・虫篇

 石穴稲荷の杜に昇った月明かりを、ヒグラシが「カナカナカナ♪」と今宵最後の鳴き声で震わせた。

 九州市民大学に出掛けた。今月は、仲代達矢の芸談「役者を生きる」。12か月の講師の中で、楽しみに待っていた一人だった。1月の片岡仁左衛門の「芸とその心」は、わが家からの坂道が豪雪のために凍結して歩けず、涙を呑んで欠席した。先月の薩摩焼十五代沈壽官の「朝鮮陶工400年の命脈」は感動的だった。そして今日の仲代達矢。

 「市民大学」というより「老人大学」の様相を呈するこの講座は、違和感を覚える参加者も多く、また会場の「アクロス福岡シンフォニーホール」はアクセスと音響効果こそ優れているものの、トイレなどの付帯設備は時代遅れで、しかも階段だらけ。入場するにも階段、トイレに至っては延々と階段を下りて行かなければならない。しかも、男子トイレにシャワー無しの昔のままの洋便気が残っていたりする。トイレが少ないから、休憩時間は長蛇の列ができ、トイレに並ぶだけで終わってしまう。
 ごく一部にエレベーターによる案内もあるようだが、世の中はすでに高齢化社会、高齢者や障害者のためのバリアフリーの配慮なしには、公的な施設は存在する価値はない。この日も、杖にすがり手すりを掴みながら恐る恐るトイレに通うお年寄りの姿が気にあった。
 大都市福岡としてはまことに恥ずかしい限りだが、それでも出掛けるのは他に然るべき施設がないからに過ぎない……が、それはこの際措いておこう。

 待ち望んでいるのは11月、写真家・映像作家・栗林 慧さん(この講師にだけは「さん」を付けないと気が済まない)の「昆虫映像と我が人生」である。
 チラシにある彼の紹介……昆虫を撮り続けて50年。「アリの目で見たい」と、内視鏡やビデオ用レンズを取り付けた世界で唯一の特殊カメラを開発。虫の目で見える風景が再現され、昆虫たちの未知の生態に光が当てられた。2006年には科学写真のノーベル賞といわれるレナート・ニルソン賞をアジアで初めて受賞。詩情豊かな映像美にもご注目を!……。
 長崎県平戸市の田平町に住む、虫キチにとっては憧れの人である。二度お目に掛かり、サインをいただいた写真集も私の本棚に納まっている。遥か彼方の景色を眺めるバッタの後姿など、全焦点で捉えた映像は見飽きることがない。初めてカメラを手にして65年以上、今も私が拙い昆虫写真を撮り続けているのは、憧れの彼の存在が最大の動機づけになっているからなのだろう。

 見失っていた3頭目のキアゲハの蛹を、ようやく見付けることが出来た!パセリのプランターから家の壁伝いにおよそ10メートル、雨のかからない縁側の壁でひっそりと蛹になっていた。僅か3センチの幼虫がモコモコと辿ったこの距離、人間に置き換えれば500メートル以上を這い進んだ計算になる。
 美しい黄緑に変身した姿には、既に蝶となったときの頭の形がうかがえる。残念ながら、まだ羽化する瞬間を目にしたことはない。毎日折に触れ見上げ続けているが、また隙を見付けてひっそりと美しい蝶に変身するのだろうか?……しばらく、根気比べが続くことになる。

 スミレを集めた鉢に、ようやくツマグロヒョウモンの棘とげの幼虫が3頭誕生した。

 セミの羽化は早くも競演を閉じようとするのか、此処ふた晩は1頭ずつの羽化にとどまっている。昨夜までで102匹、既に昨年を30匹ほど上回った。ニイニイゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、クマゼミが揃い踏みして、石穴稲荷の杜で賑やかな合唱が続いている。

 懐中電灯で幼虫を探す光の中に、八朔の葉に這う1頭のアゲハチョウの若齢幼虫がいた。まだ鳥糞状態の地味な姿である。

 昼間の庭に華麗なハンミョウが姿を現した。ここ数年、我が家の庭で世代交代を続けている一族である。秋風が立つまで、この庭でアリを狩って飛び回ってくれることだろう。

 小松 貴著、「虫のすみか」という本を買った。「私たちが気づかないだけで,庭先や道ばた、土の中は、虫たちの不思議な巣であふれている」という惹句に少しワクワクしながら、今夜も庭先でセミの羽化を探す。

 「海の日」……待ち焦がれていた梅雨明け宣言が出た。さあ、夏が燃える!
                     (2016年7月:写真:キアゲハの蛹)