蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

また一夜……

2016年07月08日 | 季節の便り・虫篇

 遅れ馳せの台風1号が石垣島の西を掠めて台湾に去り、その余波で次々に発生した積乱雲が、南九州に激しい雨を降らせた。太宰府も終日雨に降りこめられ、昨日まで35度、34度が続いたのが嘘のように26.6度まで急降下、吹く風に肌寒さを感じさせるような一日だった。

 降りしきる雨の中を、夕暮れになると雨足をくぐってヒグラシの鳴き声が届く。1週間ほどの短い命、限られた時間の中で子孫を残す為には、雨を避けて休んでいる余裕はないのだ。伴侶を求めて懸命に鳴き募る声を聴きながら夕飯を済ませ、やがて濡れそぼった夜が落ちてきた。
 10時過ぎにカーポートのアコーデオン・ドアを閉めに庭に出て、「まさか、こんな雨の夜の誕生はないだろう」と思いながら八朔の下に立って、思わず目を瞠った。なんと12匹ものセミが、思い思いに羽化のいろいろなステージを見せていた。雨に濡れながら、地面から這い上がり足場を探して葉裏を歩いているもの、背中が割れ始めて頭が覗いているもの、反り返ってぶらさがっているもの、既に脱皮を終えて美しい翅をのばしているもの……2時間余の羽化のプロセスのさまざまな姿を、すべて同時に見ることが出来る!地面の下で雨を知ることが出来ないのか、それとも雨もを厭わず本能が羽化を促しているのか……観察し始めて数年、乾いた夜に10匹を超えることは少なくないが、雨の中のこれほどの集団羽化を見たのは初めてだった。
 6月29日に始まったセミの羽化は、途切れることなく既に10日、誕生したセミはこれで36匹になる。

 昨日7月7日、クマゼミの初鳴きを聴いた。この辺りでは、クマゼミのことを「ワシワシ」という。「ワーシ、ワシ、ワシ、ワシ、ワシ!」と鳴き募る声が、そのまま名前となった。稀に、「シワシワ」と言い張る人もいて、笑ったこともある。
 ヒグラシが6月29日、ニイニイゼミが7月4日……暑さの代名詞になるのは「ジリジリジリ!」と鳴くアブラゼミか「ワ~シワシワシ!」のクマゼミか?それぞれ油照りの暑熱を煽る鳴き声だが、梅雨が明けないこの時期の鳴き声には、まだ暑さを煽る勢いはない。石穴稲荷の杜から届く鳴き声はそれなりに季節の風情があるが、これが梅雨明けと同時に次第に住宅地近づき、やがて庭先の木立で傍若無人にけたたましく鳴きたてる頃になると、紛れもない「真夏」である。部屋の中の会話もテレビの音も、ひと目盛り上げないと聞き取れなくなるほど姦しい。ツクツクボウシが去りゆく夏への哀愁を込めて空気を転がし始める晩夏まで、アブラゼミとクマゼミの君臨が続く。
 あの小さな身体でこれほどの音量を響かせるメカニズムに呆れたり感じ入ったり、……いつもの夏の風物詩のひとつである。

 最近、地虫の声を聴かなくなった。地の底から「ジ~~~~!」と引き摺るように響く鳴き声は、何故か妙に哀しい。「悲しい」ではない、この鳴き声に当てるのは「哀しい」という字が似つかわしい。聴く人の心を深々と沈みこませるようなその鳴き声に、子供の頃から心惹かれていた。
 地虫……学術的に言えばコガネムシ科の昆虫の幼虫の総称だが、ここでいうのはケラ(螻蛄)という直翅(ちょくし)目ケラ科の3センチほどの昆虫のことである。熊手のような頑丈な前足は、一見モグラを小さくしたような姿で可愛い。地中に穴を掘って住み、昆虫などを捕食したり、植物の根なども食べる。後ろ翅(ばね)が長く、夜飛んで灯火にも集まる。昆虫少年だった中学生の頃、灯りに飛んできたケラを捕まえて、箱に土を入れて飼っていたこともあった。
 このケラの雄が春や秋に土中で「ジ~~~~~~!」と息長く鳴き、俗に「ミミズが鳴く」といわれることもある。夏の季語である。
 一文無しになることを、俗に「おけらになる」というが、その有力な語源にケラが登場する。ケラを前から見ると万歳をしているように見えるため、一文無しでお手上げ状態になった姿に見立てたという。昆虫ではなく、植物の「おけら(朮)」のことで、この植物は根の皮を剥いで薬用とされるため、身の皮を剥がれる意味に掛けたという説もあるが、やっぱりケラの姿に見立てた方がユーモラスで楽しい。

 また雨が奔る。葉裏にしがみついて誕生しつつあるセミが、頻りに気になる夜である。
                (2016年7月:写真;セミの集団羽化)

<追記>翌早朝、薄明の中にヒグラシの声に目覚め、庭に出て数えてみたら、抜け殻が18匹に増えていた。都合、42匹。
 八朔や南天の枝先には、まだ翅が乾き切らずに飛び立っていない蝉が5匹。1匹のクマゼミを除き、ほとんどがヒグラシだった。これから、次第にクマゼミの割合が増えていく。
 小さな虫の生態に感じる、緩やかな季節の移ろいである。